エディターズノート

解雇された人の苦悩や不安は解雇された人にしか分からないという話
エディターズノート 22.11.20

解雇された人の苦悩や不安は解雇された人にしか分からないという話

最近、TwitterやAmazonの社員に対して人員削減の報道を目にした人も多いだろう。 Twitterにいたっては、新たに同社のオーナーとなったイーロン・マスク氏が社員に向けて「激務か退職か」の選択を迫るメールを送信したとして話題となった。 額面通りに受け取れば、会社に残れば激務が待っているし、退職をすれば(3ヶ月分の給与を受け取れるとはいえ無職だ。 企業のトップとしてはしごく真っ当な判断なんだろう・・・ということは、頭では理解できる。 しかし、これぞまさに現代における踏み絵に思えてならないのだ。 解雇された人の苦悩や不安は解雇された人にしか分からない。 解雇された本人はもちろんのこと、その家族も路頭に迷うことになりかねない。 恥を忍んで告白すると、何を隠そう、私自身、リストラされた経験がある。 だから「身に染みて分かる」のだ。この辛さや絶望が。 それは忘れもしないリーマンショックが日本経済を直撃し、その余波が色濃く残る2009年の春だった。 当時、勤めていた会社にいつものように出社した。 その日は4月下旬に差し掛かった、ゴールデンウィークも間近の金曜日だった。 社内でとくに親しく、そしていまでも付き合いのある上司が昼食に誘ってくれた。 これまで何度も一緒にランチに出掛けたし、それは日常の一コマにすぎないと思っていた。 少なくともこのときまでは・・・。 上司オススメの日替わりランチを食べ終えたころ、不意に「このあと、おそらくリストラされるから」といわれた。 この日の朝、社長を含めた上長会議の際に伝えられたのだという。 いきなりではしんどいだろうから、いまのうちに心の準備だけはしておいてねという、上司なりの配慮だったんだと思う(実際、心の準備ができて良かった)。 事実、前日の木曜日にも解雇予告をされ、この会社を去って行った同僚が数人いた。 それから一日経ち、まさか自分もターゲットになろうとは・・・。 この日も自分を含め、中途採用組の何人かがリストラされるという。 そしてランチから自席に戻り、ほどなくして社長室に呼ばれた。 案の定、解雇予告の通知が差し出され、いますぐサインしろというのだ。 いまとなれば、(ストレートにいうと)刺し違えるだけの度胸も、徹底抗戦する悪知恵も働くのだが、覚悟していたとはいえ、やはり動揺した。 まぁ、もともとこの会社には長くいるつもりはなかったし、遅かれ早かれかなと思い、あっさりとサインをした。 いきなり退職が決まったこともあり、また新規プロジェクトだったため、会社も後任あてがう時間がなかったのだろう。 大した仕事の引き継ぎもできないまま、デスクまわりの片付けをはじめた。 すると件の上司が話し掛けてきて、階段の踊り場で少し雑談をした。 上司のいうとおりにリストラされたこと、新規プロジェクトはいったん凍結されたことを知った。 退職しても付き合いが続くことを約束し、ふたたび自席に戻った(この上司とはいまでも付き合いがあり、数年前にNDロードスターを手に入れたのも完全に自分のせいだといわれた)。 そして定時になり、もうここへも来ることもないだろうし、「短い間でしたがお世話になりました」と挨拶するまでもなく(そこまでお人好しになる必要はもはやないだろうということで)、静かに退社した。 なにしろいきなりのリストラだったこともあり、無理やり押し込められた荷物で、通勤用の鞄はまるで腹を膨らませたフグのようにパンパンに膨らんでいた。 会社都合で退職したのですぐに失業手当が出るとはいえ、30才をすぎていきなりの無職。 しかも、奇しくもこの日は他界した母親の誕生日だった。 そんなわけで、母親の誕生日=リストラ記念日(?)となってしまったのだ。 あー、また転職活動しなきゃだなぁ(このときはまだ独立しようなんて考えはまったくなかった)、リーマンショックで仕事が見つかるかなぁ。 世間は花金で、さらにゴールデンウィーク間近で浮き足立っているなか、不安と絶望に苛まれつつ、電車に揺られて帰宅した。 この年のゴールデンウィークをどう過ごしたのかはまったく覚えていない。 ひとつ、強烈な印象として残っているのは、失業手当を申請するべく、ハローワークに向かったときのことだ。 自分のように失業者が殺到するかもしれない・・・。 そう考えて、早めに自宅を出た。 そしてハローワークに到着すると、失業手当申請待ちの行列ができていた。 すでに15人くらいは並んでいたように思う。 自分が列に並んだあとも続々と失業者が集まりはじめ、最終的には50人を超えたんじゃないかと思う。 無事、失業手当の申請は受理されたのだが、手続きを終えてふとあたりを見回してみると、自分を含めたその場にいる誰もが俯き、そして苛立っていた。 好んでこの場にいる人は誰ひとりとしていない。 誰もが早くこの場から立ち去りたいと思っていることは明白だった。 後にも先にもこれほど負のオーラが蔓延した場に遭遇したことはない。 自分も、早くこの場から逃げだしたかった。 と同時に、このときの光景を目に焼き付けておこうと努めた。 この先、どれほど仕事で嫌なことがあっても、これほどしんどい経験はそうはないだろうと感じたからだ。 リストラされてからわずか半月後、父が病で体調を崩し、入院することとなった。 結果論ではあるが、失業中ということもあって、頻繁に見舞うことができた。 就職活動も並行して行っていたが、思うような結果が出ず、悶々とする日々を過ごしたことを覚えている。 しかし、同じ年の秋に、父が退院して自宅に戻ることはぼほ不可能だと担当医師から告げられた。 その宣告を受けているとき、たまたま電話してきたのが、かつてお世話になった会社の社長だった。 久しぶりの会話だったが、こちらの事情を伝えるとかなり驚いていた。 「とにかく1度会おう」。 こうして久しぶりに社長と再会することとなった。 リストラされ、失業中であることを伝えると、別会社を立ち上げたからそっちを手伝ってくれないかという。 こうしてあれよあれよという間に仕事が決まり、そして父は天国へと旅立っていった。 奇しくも、明日が父の命日だ。 ここから数年間、ラジオ番組制作という、未知の世界に足を踏み入れることとなる。 そして、この数年後に別会社を閉じることになり、勢いだけで独立することになるのだから、人生何が起こるか分からない。 今年の秋、フリーランスから法人成りし、一企業の代表となった(一人親方だけど)。 日本の制度では社員のクビを簡単に切れないことになっているが、仮に切れるようになったとしても、従業員をリストラできるだけの冷酷さが自分にはないような気がする。 繰り返そう。 解雇された人の苦悩や不安は解雇された人にしか分からない・・・。 [余談] 後で知ったのだが、自分がリストラされ、ハローワークで絶望の淵をさまよっていたそのとき、通りを隔てたわずか数百メートル先の建物で妻は仕事をしていたのだという(ハローワークとはまったく別の仕事だ)。 知り合う10年近く前のことだから、お互いの存在など知るよしもない頃だ。 美空ひばりの愛燦燦の歌詞を引用するならば、人生って不思議なものですね。 [画像/Adobe Stock ライター/松村透]        

夜型になったのは「テレホーダイ」のせいかもしれないという話
エディターズノート 22.11.17

夜型になったのは「テレホーダイ」のせいかもしれないという話

もはや公私ともにインターネットがないと生活できないようになって早20年以上が経った。 たしか1995年頃、当時よく聴いていたラジオ番組で、パーソナリティがしばしば「インターネット」という聞き慣れないキーワードを発していた。 憶えている限りでは、これがインターネットとの出逢いだったように思う。 このときは「何のことやらサッパリ」だった。 それからしばらくして、はじめてインターネットに触れたのは1996年頃だったと思う。 小学生の頃から付き合いのある親友が自力で自宅にインターネット回線を引くというので、配線工事を手伝った。 屋根裏に潜って配線を引き、無事、インターネットが繋がった。 いまやすっかり懐かしいモデムによるダイヤルアップ。 「ピー、プププププププププププププププ」の呼び出し音とともに、ブラウザ上にホームページが表示された。 確かブラウザはいまでは完全に死語となった「Netscape Navigator(略して「ネスケ」)」だった。懐かしい! モニターの画面に映し出されたれたページはYahoo!JAPANだったと思う。 こちらがぽかんとしているうちに文字ばかりのページが表示された。 ここで調べたいキーワードを入力して検索すると、探している情報を調べて表示してくれるのだという。 インターネットのことはよく分からないけれど、調べ物をするには便利だとその親友から教わった。 親友は慣れた手つきでキーボードをたたき、何だか忘れたがクルマのページを検索していた。 ずっと接続していると通話料がかかるとかで、探していた情報を確認すると、すぐにブラウザを閉じた。 おそらくは初の定額プランであろう「テレホーダイ」というサービスを知るのはここから1年以上あとの話だ。 翌年・・・だから1997年だったと思う。 社会人になって、勤め先にもインターネットに接続できるパソコンが1台だけ置かれていた。 いまでもハッキリと憶えているのは、モノは試しと、はじめて検索したのはJ-WAVE(FM局だ)のホームページに番組で流れたオンエアリストを羅列したページを見るためだった。 それまでは、探している曲を調べる方法は皆無に近く、テレビやラジオなどで偶然流れた時間帯を記憶し、局に電話で問い合わせて教えてもらうという、超アナログなやり方だった。 こうして手間ひまを掛けて、ようやくお目当ての曲が収録されたCDを手に入れることができた時代だった。 それがJ-WAVEのホームページには曲名やアーティスト名が表示されており、そのメモを元にCDショップで探すか、分からなければ店員さんに声を掛ければ、喜んで探してくれた。 あまりのお手軽さに感激した記憶がある。 その一方で、1990年代半ばといえば、一時期、各FM局がFM文字多重放送を実施していた。 オンエア中に流れる曲名とアーティスト名が分かるサービスが行われていた。 これぞ求めていた機能に思えた。 しかし、FM文字多重放送に対応した専用ラジオ端末を購入しなければならず、それが1万円を優に超す金額だったので断念したのだった。 FM文字多重放送とは比較にならないくらいインターネットは便利そうだ。 自宅にも回線を引こう。 こうして自宅にインターネットが導入されたのはたしか1997年末頃だったと思う。 当時、PCはデスクトップが主流で、モニターも分厚いブラウン管しかなかった。 液晶モニターもちらほらではじめてはいたが、まだまだ高価だったし、ブラウン管に比べると発色も今ひとつだった。 新品のPCは高くて買えないので、秋葉原のPC専門店で売られていたアウトレット品を購入した。 どのPCを買えばよいか分からなかったので、先述の親友に見立ててもらった。 彼が選んだPCは、当時としては珍しい、CD-Rドライブ付きの富士通FM-Vだった。 何だかんだで20万円を優に超えていた気がする。 痛い出費となったが、インターネットだけでなく、これからはついに自分好みのCDを作ることができると狂喜乱舞したのを憶えている。 その後、専門の業者が自宅に来て配線工事を行い、ついにインターネットが使えるようになった。 またもや親友のアドバイスにより、当時としては主流だったモデムによるダイヤルアップを使わず、奮発してISDN回線を導入した記憶がある。 当時を知る人であれば憶えていると思うが、当時はいまのように常時接続はあたりまえではなかった。 もちろん無線LANなんてありえない。 PCに有線ケーブルを接続しないとインターネットが観られなかった。 さらに、利用料金を気にせずインターネットを使うには、23時から「テレホーダイ(23時〜翌日8時まで)」まで待たなければならなかった。 それまで時間帯は、使用時間に応じて料金が加算される仕組み(通常の電話と同じ)だったからだ。 自宅にインターネットが導入されてからというもの、23時までに用事を済ませてPCの前に陣取るようになった。 おそらく、他の人たちもそうだったのだろう。 日本中のユーザーが23時になった瞬間に同時接続をするものだから、とにかく回線が遅い。 1997年当時のインターネット人口普及率はわずか9.2%だったというが、それでも回線の奪い合いだったことは確かだ。 まともに使えるようになるころには深夜1時を過ぎ・・・なんてことが日常茶飯事だった。 オンライン飲み会とか、YouTubeの動画をガンガン流したり、1GBものファイルを何の躊躇もなくアップロードできるなんて、夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢のまた夢くらい別次元のことだった。 そんなわけで、当時のネットサーファー(死語)だった人たちは、必然的に夜型にならざるを得なかったように思う。 もちろん、自分も例外ではない。 それから数年経ち、ようやく常時接続が可能となった。 最初のうちは真っ昼間にインターネットを使っても料金が加算されないことに違和感があったのだが、そんなことはすぐに忘れた。 今や、自宅のインターネット環境はWi-Fi接続があたりまえとなり、YouTubeでISSのライブ配信の動画を作業用BGM代わりに流しっぱなしにして作業している。 ●Earth Views: Earth From Space Seen From The ISShttps://www.youtube.com/watch?v=Y1qQZbTF8iQ いつも利用しているファイルのストレージサービスも300GBまでokとのことだ。 ・・・もしかしたら、いま「テレホーダイ」の時代に戻ったらまともに仕事ができないかもしれない。 余談:調べてみたら、テレホーダイのサービスはいまも存在していた。2024年1月にサービスの提供を終了とのことだ。https://web116.jp/shop/waribiki/th/th_00.html [画像/Adobe Stock ライター/松村透]

取材時や原稿を書く際に気をつけている話[その2]
エディターズノート 22.11.15

取材時や原稿を書く際に気をつけている話[その2]

思うところがあったので前回のつづきを。 取材時や原稿を書く際に気をつけていることといえば・・・そう「コメント対策」だ。 メディアのFacebookページやヤ○コメなど、想定外な書き込みは日常茶飯事。 こればっかりはメディアの記事として世に配信する以上、洗礼というか、避けてとおれない道だと思う。 コラム記事ならフルボッコにされるのは自分だけで済むことが多いのでまだいいのだが、これがオーナーインタビューやイベント、ショップなどの取材記事だと本当に気を遣う。 取材を受けてようやく記事となり、世に出たことが逆効果になってしまってはあまりにも申し訳ないからだ。 ある日気づいたのだが、好意的なコメントが多いときはネガティブなものは書き込まれにくい。 不思議なもので、仮に書き込まれたとしても見知らぬ誰かがフォローしてくれたり・・・と、大事にならず沈静化する。 やっかいなのはネガティブコメントが蔓延したときだ。 これまた不思議なもので、後から後からネガティブなコメントが書き込まれていく。 好意的なコメントはかき消され、罵詈雑言の嵐と化す。 まさに負の連鎖だ。 これを世の中では「炎上」というのかもしれない。 こうなると、経験上はスルーに徹し、沈静化するのを待つのが得策だと思う。 仮に執筆者が出て行って申し開きをしたとしても、対応を誤ると火に油を注ぎかねない。 この記事はコメント欄が荒れるだろうなということは、記事のタイトルなどで概ね察しがつく(当然ながら、自分の意に反して依頼された原稿を書かなければならないこともあるわけで)。 最近公開されたある記事も、オーナーがやむを得ない事情で愛車を手放さなければならないというケースを取材した内容だった。 「結局、そこまで愛情がなかったんでしょ」といった類いのコメントが書き込まれることを予想して、文中に迎撃態勢をとっておいた。 それでもというか、やはりというか、予想していたネガティブコメントが書き込まれた。 この種の書き込みをする人は「オーナーがこのコメントを読むかもしれない」ということが慮れないのだろうか・・・。 なかには「よく読めば分かるだろうよ・・・」とツッコミたくなるようなコメントも少なくないのだが、もちろん静観する。 ライターによって考え方はさまざまだろうが、個人的には自分が書いた記事のコメントは読まない方が精神衛生上は健全でいられるような気がしている。 たしかに、コメントを読むことで思わぬ発見や気づきがあることも事実だが、それ以上の返り血を浴びることもしばしばだ。 ヤ○コメなんてこの世から消えてしまえ!といいたいところだけど、これがガス抜きになっている人もいるだろうし・・・。 なくてはならない、文字どおりの必要悪(あ、いっちゃった)なのかもしれない。 [画像/Adobe Stock ライター/松村透]      

取材時や原稿を書く際に気をつけている話[その1]
エディターズノート 22.11.06

取材時や原稿を書く際に気をつけている話[その1]

多少前後するが、月に20本前後の原稿を書いている。 多いのか少ないのかは正直いって分からない。 メディアに載せるための原稿なので、いろいろと気をつけなければならないことが多い。 自身のブログ(やってないけど)やnoteなどに公開するのとはワケが違う。 このご時世、ちょっと油断すると「車検非対応のクルマの記事をメーカーが載せるんですね」というコメントやダイレクトメッセージが届きかねない。 ホンの些細なところを突いてくる人がゴマンといるからだ。 例えば、メーカー系の案件であれば取材対象車が「車検対応であるかどうか」が非常に重要視される。 実は取材当日になって「ここ、アウト(車検非対応)じゃん」なんてことはしょっちゅうではないけれど、それなりの頻度で起こっていることも事実だ。 ステアリングにホーンボタンがないとか、MT車であればシフトパターン示す情報が見当たらないとか・・・。 実は挙げたらキリがない。 もちろん、その状態では車検には通らないことは事実だが、オーナーもそこまでは知らないということも少なくないのだ。 ・・・車検非対応となると、掲載不可なのでその場でお帰りいただく・・・なんてことはありえないので、こちらでどうにか知恵を絞ってリカバリーするしかない。 苦労した甲斐あって、このあたりの経験値はこの5,6年でかなり鍛えられたと思う。 これもノウハウのひとつ・・・なのかもしれない。 そして、原稿を書く際にも気をつけることがいろいろとある。 そのポイントは誰も教えてくれないし、自分で勘所を押さえるしかない。 ひとつ、例を挙げると、タイトルに「女性オーナーであること」を強調しないようにしている。 事実「女性オーナー」の文言が入るだけで、より多くのPVが獲得できる。 20代前半の女性オーナーなんて入れたら(PV獲得には)さらに効果的だ。 「ジェンダーフリー」というキーワードを目にしてからずいぶんと時間が経ったように思うが、たとえば「女性がMT車のスポーツカーに乗る」ことを強調するのは現代の風潮にはあわないかな・・・という気がしているだからだ。 車検対応、ジェンダーフリー、ちょっとした言い回し・・・などなど。 1つの記事の裏にはさまざまな配慮や自主規制など、読者の方のほとんどが気がつかない、目に見えない微調整が密かに行われている。 そういった視点で公開されている記事を読んでみると新たな発見があるかもしれない。 [ライター・撮影/松村透]  

ライター志望の相談を受けてある回答をすると驚かれる話
エディターズノート 22.10.31

ライター志望の相談を受けてある回答をすると驚かれる話

この仕事をしていると「ライターになりたいんですれど・・・」という相談をしばしば受ける。 たしかに資格はいらないし、パソコンか、人によってはスマホさえあればライターデビューは可能だ。 では本題。 「ライターになりたいんですれど・・・」 この相談に対してどのように答えるかというと「締め切りをひたすら守っていると仕事がきますよー」と伝えている。 文章力とか、そういうセンスを問う回答を想定(期待)している人が多いので、たいていポカーンとなる。 事実「そんな簡単なことでいいんですか?」といわれたことも何度かあった。 じゃあ、教えてくれよ。 なんでこうも締め切りが守ってもらえないのか。 ・・・と質問してきた方に問い詰めたくなったがやめておいた。 会社員時代の上司がとにかく納期にうるさかった。 徹夜だろうと休日出勤だろうと納期を守ることが最優先だと叩き込まれた。 そのスパルタ教育のおかげで、締め切りは極力(意地でも)守る感覚が身に染みついている(とはいえ、たまに遅れます。すみません)。 勤め先の会社の取締役兼営業部長だった上司は、根っからの営業マンだった。 とにかく押しが強い。 今でいうところのパワハラまがいなこともさんざんされたし、人としてもソリがあわかなった。 根っからの営業マンタイプが苦手になったのは、たぶんこの上司の存在がトラウマとなっている可能性が高い。 しかし、納期を守る大切さをはじめとする仕事のイロハは懇切丁寧に教えてくれたし、生意気だった自分に対しても寛容だった。 20代半ばの頃「まずは謙虚になって耳を傾けないと、将来うだつの上がらない人生が待ってるよ」と真顔でいわれたことも覚えている。 これはかなりグサリときたし(図星だ)、嫌が応でも腹落ちできた。 そういう意味では、感謝してもしきれないほどお世話になった恩人のひとりでもあるのかもしれない。 話がそれたが、それくらい依頼している原稿は締め切りどおりに届かない。 仮に、10人に依頼したら締め切りどおりに届くのは3人。 残りの3〜5人は数日遅れて原稿が届き、残りの2人はこちらから催促しないといつまで経っても原稿が届かない。 ようやく届いた原稿がものすごく精度が高いかというとそうでもない。 不思議なもので、むしろ、締め切りを守ってくれるライターさんの方が精度が高い。 これが現実だ。 締め切りを守れる人は毎回(よほどの事情がない限り)締め切りを守ってくれるし、守れない人は99%遅れてくる。 締め切りをきっちり守って原稿の精度が高くてさらには企画力まであって、ついでに撮影もできてwordpressの編集もできてジャンルを問わずに原稿が書けて、人としても付き合いやすい、おまけにバズる記事が書けるなんて人がいないとは限らないが、まぁ、奇跡だ。 当然ながらこの手の人には依頼が集中するので、他の仕事を受ける余裕がないほど猛烈に忙しいし、当然ながらギャラも高い。 目の前のライター志望の方がうつむき加減で悩んでいるところへ 「とにかく締め切りだけは意地でも守って、あとはライバルたちが勝手に脱落するまでコツコツ実績を積み上げていけば意外となんとかなりますよ!」 と念押しすると、たいていは「やっぱりやめておきます」となる。 こちらとしても「またやっちまった・・・」となって、その日の夜は仕事が手につかないほど落ち込むことになる。 デビュー前に脱落させてどうすんだ。 もしかしたら、ライターデビューする前段階で、生き残れる人とそうでない人との勝負はすでについているのかもしれない・・・。 [画像/Adobe Stock ライター/松村透]

愛車にまつわる「3年半のジンクス」という話
エディターズノート 22.10.09

愛車にまつわる「3年半のジンクス」という話

いま、とある媒体で自分の愛車を紹介する原稿をまとめているのだけれど、一向にまとまらない。 書きたいことが多すぎるのだ。 編集担当さんの「まとまり次第で結構ですよ〜」のお言葉を額面通りに受け止めて(本心は違うと思うが・・・)、他の仕事の合間に少しずつ進めている。 連休明けには納品したいと思っている次第だ。 いわゆる「ナローポルシェ」といわれる古いポルシェ911を手に入れて早10年・・・。 歴代の愛車遍歴(12台)のなかでも「ダントツに長い」所有期間となった。 10年でダントツに長いなんて・・・。 新車から25年!ワンオーナー車ですよ!といった方を取材していると、尊敬の念を抱くとともに、何だか自分の飽きっぽい性格が恥ずかしく、同時に情けなくなることもしばしばだ。 これまでの愛車遍歴には「3年半のジンクス」という、なぜか見えない壁が存在した。 なぜか分からないけれど、この時期になるとクルマを買い替えるようなイリュージョン(?)が起こるのだ。 その壁を初めて突破したのがナローポルシェだった。 もっとも、所有していたとはいえ、それは名義上の話であり、実際にはレストア中の状態が長く続き、手元に来たのはホンの数年前だ。 いわゆる遠距離恋愛の状況が長く続き(・・・といっても直線距離で10km程度だけど)、主治医のところに足を運んでは、リフトアップされているドンガラ状態の愛車を眺めて「いつ完成するのか・・・」と、思う日々だった。 ・・・いまにして思えば、むしろこれがよかったのかもしれない。 すぐにレストアが完成したら、ここまで手元にある「ありがたみ」を実感できなかったはずだ。 待ちに待って苦労したすえに手に入れた分、ありがたみを実感している日々だ。 それはそれとして、実はいま・・・「3年半のジンクス」が忍び寄っている。 中古で手に入れた、家族用のフォルクスワーゲンのミニバンがそろそろ「3年半のジンクス」を迎えるのだ。 幸い、今すぐに欲しいクルマはないし(一応、GOOやカーセンサーでチェックしているモデルはあるけれど)、現在の愛車に不満もない。 そう。毎回そうなのだ。 しかし、ある日突然、自分でもよく分からないけれど「乗り替えてもいい大義名分(口実?)」や「ホントかよ」と思うようなスペシャルオファーが舞い込むのだ。 なぜだか分からないけれど、それがきっちり「手に入れてから3年半後」だったりする。 そのXデーは来月に迫っている。 今のところは平穏だ。 いまから怖いような、楽しみなような・・・。 [ライター・撮影/松村透]  

これまでの愛車遍歴で唯一、卒業できたクルマの話(その1)
エディターズノート 22.10.02

これまでの愛車遍歴で唯一、卒業できたクルマの話(その1)

これまで所有してきたなかで、唯一といってもいいかもしれない「自分なりに卒業できたクルマ」がある。 それはマツダ ユーノスロードスターだ。 長くなりそうなので、何回かに分けようと思う。 デビュー当時から、ユーノスロードスターというオープンカーが人気だということは何となく知っていた。 けれど、その頃の筆者はフェアレディZ(Z32型)に夢中だった。 当時はまだ高校生。 運転免許がないので「走りの楽しさ」といわれてもピンとこない。 速くて、パワーがあって、カッコ良くて・・・。 そういった分かりやすいクルマが好きだった。 そんなわけで、ハタチになったら・・・シルバーのZ32 2by2 ツインターボ 5速MTを60回ローンで手に入れ、メーカーオプションの本革シートとBOSEサウンドは必須だな、マフラーはここ、エアロはこれ、ホイールは・・・なんてことを、授業中にこっそりカーセンサーを読みながら夢想していた。 今考えれば脳天気もいいところだ。 ユーノスロードスターの虜になったのは、19才の夏。 運転免許を取得してからわずか半年後のことだった。 まだ初心者マークが取れるか取れないかという当時の筆者に、クルマ好きの恩師が、このとき所有していた純白のユーノスロードスターを1泊2日で貸してくれたのだ。 ユーノスロードスター借りたのは8月のお盆明け、つまり残暑も厳しい(この年、初めて猛暑日を記録したように思う)夏の日だった。 恩師が所有していたユーノスロードスターは、1.6Lエンジンのほぼ最終型、色はシャストホワイト、スペシャルパッケージ。 恩師の好みでシフトノブがウッドに交換されて以外、ホイールやマフラーもノーマルだった。 こっちとしては「MT車を運転できるだけでも幸せ〜」な時期だったし、まさかのFRのオープンカーを自由に運転できる機会に恵まれたのだ。 有頂天にならないわけがない。 恩師からユーノスロードスターを借りたのは夜遅く、23時頃だったと記憶している。 走り出した瞬間、軽い、そして交差点を曲がるだけで楽しい! 走っても走っても走っても足りない・・・。 熱帯夜で周りの空気が暑いとか、もう何時間も水を一滴も飲んでいないとか・・・そんなことを忘れるほど夢中になっていた。 気がついたら夜が明け始めているではないか。 さすがに疲れて仕方なく家路についた。 そして仮眠してふたたび走り出した。 まだカーナビが高級品で、とにかく知っている道を走るしかなかった。 自宅周辺や市街地、山道を含めて・・・気づけば2日で400kmくらい走ったように思う。 あのときの屋根を開けて走る爽快感と、草木の匂い、エンジン音が近くに感じられた記憶はいまでも鮮明に憶えている。 洗車してガソリンを満タンにして恩師にユーノスロードスターを返すのが辛かった。 よし!自分もユーノスロードスターを買おう! そう決意するまで時間は掛からなかった。 しかし、当時自分が貧乏学生であること、ユーノスロードスターが人気車であり、新車はもちろんのこと、中古車でもかなり割高であることを知り、愕然とするのであった・・・。 (つづく) [ライター・撮影/松村透]  

雨で取材が延期になるたび「雨男晴れ男メーター」で計測したくなる話
エディターズノート 22.09.25

雨で取材が延期になるたび「雨男晴れ男メーター」で計測したくなる話

先日、群馬県邑楽郡で開催された「OURA86 meets 2022」の模様を取材してきた。 現在、鋭意原稿をまとめているところだ。 当日の予報は雨。 しかも、台風14号が接近しているという、開催するかどうか難しい判断が迫られるイベントだったように思う。 イベントの案内には「雨天決行(荒天の場合は途中で中止)」とあったので、主催者は「基本的には開催しまっせ」という心づもりなんだろうなと思っていた。 事実、前日夜に公式Twitterにアップされた内容に目を通す限り「中止」するつもりは毛頭ないらしい。 文字どおり「雨天決行」になりそうだ。 果たしてイベント当日、開演の30分前、午前9時30分に会場に到着。 奇跡的に現地は曇り。 雨は降っていなかった。 千載一遇のチャンスとばかりに、大急ぎで参加車両を撮りまくった。 それは他のギャラリーや取材者の方たちも同じようで、夢中で展示されているハチロクを撮影していた。 つまり、みんなもうすぐ雨が降ってくることを想定していたわけだ。 最近はスマホを片手にじっくりと動画を撮影する人(おそらく自身のYouTubeチャンネルに公開するのだろう)が増えてきたので、うっかりすると自分が見切れてしまったり、お互いによそ見をしていてぶつかってしまうこともある。 気をつけなければ。 だがしかし・・・あるていど覚悟はしていたが、撮影開始から1時間も経たないうちに本降りの雨が降ってきた。 当日の靴はレインブーツ、カメラにレインカバーを被せ、自分自身もレインコートを着て撮影続行。 傘片手に撮影なんてできっこないのは分かっていたので、あらかじめ用意しておいて正解だった。 とはいえ、周囲を見回しても、こんな格好で撮影している人なんて1人もいない。 端から見れば、雨ガッパにカメラカバーの重装備で寝そべって撮影しているなんて自分くらいなものだ(笑)。 重度のハチロクマニアに思われるだろうが、そんなことはもはやどうでもいい。 大事なのは撮れ高だ。 こうして3〜4時間、ぶっ続けで撮影して一息入れたころには、レインコートやレインブーツも用をなさない。 カメラ以外、何もかもずぶ濡れだった。 まぁ、どうにか撮れ高を確保できたので良しとしよう。 受付の方に挨拶を済ませて帰路についた。 ひとつ気になったのは、手塩に掛けて面倒をみてきた愛車がずぶ濡れになってしまったことをオーナーさんがどう思っているか、なのだが・・・(それを承知でエントリーしてきたのだと思うが)。 前にもどこかで書いたかもしれないが、オーナーインタビュー当日、雨の予報だった場合は基本的に延期としている。 たとえ晴れていても、路面がウェットの状態で愛車を走らせるのを嫌うオーナーさんもいるので、相談のうえ、延期にする場合もある。 さらに古いクルマだと、冬場だと残雪があったりして、塩カルを嫌うオーナーさんもいるし、海沿いでの撮影を避けて欲しいという方もいる。 錆を気にしているからだ。 「えー!そこまで気にするのかよ!?」と思うかもしれないが、自分の感覚では珍しいことではない。 それくらい気にしてやっと取材がスムーズに進むイメージがある。 もちろん、なかには旧車だろうが、日本に1台しか存在しないような貴重なクルマのオーナーさんであろうが「雨や台風なんてそもそも気にしない」という人もいる。 クルマなんだから走ってナンボ、汚れても気にしないというわけだ。 クルマ本来の正しい使い方だし、その潔さに敬服する。 とはいえ、春先、梅雨時、そして秋雨と、年間をとおして雨が多い時期は意外と多い。 そうなると、取材延期になることもしばしば。 1、2回延期というのはザラにあるのだが、数年に1度、あるかないかの頻度ではあるけれど「何度も何度も雨天延期になる」ケースがある。 4回とか、5回とか・・・。 そうなると最初の予定日からようやく取材ができるまで数ヶ月後、ということになってしまう。 なかにはオーナーさんがしびれを切らして音信不通になってしまうこともある。 できるだけオーナーさんに嫌な想いをさせないよう努力しているつもりだが、どうにもならないこともあるわけで・・・。 雨で取材が延期になるたび(割と確率が高い気がする)、ドラえもん34巻に登場する「雨男晴れ男メーター」で具体的な数値を計測してもらって真実を明かしてほしいと思ってしまう。 ちなみに、各キャラクターの計測結果は(プラスが晴れ/マイナスが雨)・ドラえもん:プラス1.5・のび太:マイナス2.0・のび太のパパ:マイナス8.5・しずかちゃん:プラス9・スネ夫:マイナス7・ジャイアン:プラス10 ・・・とのことだ。 ジャイアンプラス10!!おそるべし!究極の晴れ男だ。 しずかちゃんもプラス9なのでかなりの晴れ女! ジャイアンだと面倒くさそうだから、毎回しずかちゃんに取材同行をお願いしようかなと思ったり。 余談: 旧車オーナーが雨を嫌う理由は錆以外にもある。 それはエアコンだ。 エアコンレスのクルマだと、雨の日は窓の内側が曇ってしまう。 雨に濡れるわ、窓ガラスは曇るわ、錆は進行するわ・・・のまさに「三重苦」。 信号待ちのたびにタオルで拭き取ることになるのだが、これがけっこうな「苦行」なのだ。 [ライター・撮影/松村透]

思いつきで深夜のドライブができるってすごく贅沢なこと・・・という話
エディターズノート 22.09.14

思いつきで深夜のドライブができるってすごく贅沢なこと・・・という話

昨夜は中秋の名月だったそうだ。 お月見を楽しまれた方も多いと思う。 ここ最近、熱帯夜からも開放されつつあるし、せっかくだから月を眺めつつあてもなくドライブ・・・。 用賀インターから首都高3号線で都心へ。 渋谷を過ぎ、青山トンネルを通過すると右手に六本木ヒルズが見えてくる。 土曜日の夜だ。 オフィスと思われる部屋の照明が落とされ、六本木ヒルズの照明はまばらだ。 どことなく寂しさすら感じさせる。 流れに乗り、谷町ジャンクションまできた。 右に曲がれば東京タワーを左手に眺めながら都心環状線内回りコース。 左に曲がれば高低差の多いコーナーが続く都心環状線外回りコース。 今回は右折して都心環状線内回りコースにしよう。 都心環状線に合流したらすぐ右手に見えるのがロッソスクーデリアのディーラーだ。 どんなフェラーリが置いてあるか素早くチェック。 向かいはミツワ六本木営業所だったが・・・いまやAPAホテルだ。 時代の流れとともにここはかつてポルシェのディーラーだったと知る人も減ってくるに違いない・・・。 ちょっとセンチメンタルな気分になったので気持ちを切り替えていこう。 東京タワーの付近に住んでいる人は間近で観られるのだろうが、移動する車内からチラッと眺めるそれもまた、オツなもの。 その後、右手に見えるコーンズサービス工場のターンテーブルに鎮座するマシンをチェックしてコーナーをクリアすれば、まもなく浜崎橋ジャンクションが見えてくる。 右折すれば横羽線コースか、レインボーブリッジコースかを選ぶことができる。 いまの気分でレインボーブリッジコースをチョイス。 視界の先にはレインボーブリッジ。 お月様もよく見える。 ものすごい勢いでR35GT-Rがカッ飛んでいったが、それ以外のクルマの流れは淡々としたもの。 レインボーブリッジをわたりそのまま首都高9号線を走っていると、右手にはお台場周辺の景色が、左手には晴海方面を一望できる。 有明ジャンクションで右折。 そのまま湾岸線に合流して東京港トンネルに入り、横浜方面へ・・・。 ただただ流れに乗り、ガソリンと、気力と、時間が許す限り、ここから先はどこへ向かおうと自由だ。 いっそ横横経由で鎌倉あたりまで行ってみようか・・・。 ・・・・・・・・・・・・実はこれ、妄想だ。ごめんなさい。 そもそも目の前に片付けなければならない仕事があり、家族があるいまの自分には、こんなアテのない深夜のドライブ自体がかなりハードルが高い、同時にとても優雅な過ごし方となった。 そしてそもそも「なんでわざわざ深夜に目的もなくドライブしなきゃならんのよ」と考えている自分がいる。 おそらく、仕事に余裕があり、独身で自由に使える時間があったとしても出掛けていないと思う。 それよりは、ウイスキー片手にようやく配信がスタートしたトップガン マーヴェリックでも観ながらのんびりと過ごしたい・・・。 要は億劫になってしまったのだ。 そう思えてしまう自分が悲しい。 高校生の頃、夜のドライブは未知の世界であり、憧れの時間だった。 そして運転免許を取得し、ある程度運転に慣れてくると、夜の都内を走り回った。 首都高は怖かったし、当時は700円だったけれど、馬鹿にならない出費だったから下道を走るしかなかったのだ。 カーナビなんて一部のクルマにオプション設定されているか、カー用品店で売られているモデルも安くて20万円以上、発売されたばかりのDVDナビなんて40万円近くもザラ。 ガソリン代で手いっぱいの貧乏学生にはとても手が出ない。 カロッツェリアからカーナビが発売されたばかりの頃、元F1ドライバーのジャン・アレジがフェラーリテスタロッサをドライブさせながら「道は星に聞け」なんてCMがあったっけ・・・。 「星(要はGPS受信)に道を聞く」こと自体がえらくコストが掛かった時代だ。 だから、道は昭文社の地図と身体で憶えた。 努力の甲斐あって少しずつ点と線がつながり、未知の世界だった都内の道を憶えていったときの手応えは感動モノだった。 あれから20数年。 目的地はGoogle mapが最短コースを案内してくれる。 Google先生はときどきとんでもないルートを平然と案内することがあるので、Yahoo!カーナビと併用だ。 渋滞していれば瞬時に迂回ルートも案内してくれる。 新しく造られた道路の情報も反映してくれる。 もう気張って道を憶える必要もなくなった。 聞くかどうか分からないけれど、とにかくたくさんのCDやカセットテープを車内に持ち込んだこともあったが、いまやスマホ1台あれば音楽も聴き放題だ。 夜景が撮りたくなったら、最新のiPhoneで撮影すればびっくりするほどきれいに撮れる。 ドライブに必要な道具や情報の多くがスマホ1台でカバーできるようになってしまった。 首都高の道の整備され、さまざまなルートを選べるようになり、ドライブ自体も格段に便利になったはずなのに・・・。 わざわざ深夜にドライブに行こうなんて思わなくなったし、そもそも思えなくなった。 家族がいる、仕事が忙しい・・・なんていうのは口実に過ぎない。 繰り返しになるが要は億劫になってしまったのだ。 あてもなく夜のドライブができるってすごく優雅で贅沢な時間だったんだな・・・と思うようになったのはつい最近のことだ。 自由な時間、体力と気力、無性に運転したくなる愛車、どれかひとつ欠けるだけで成立しなくなる。 ありがたいことに、当時は喉から手が出るほど欲しかった「無性に運転したくなる愛車」は手元にある。 しかし、この愛車を走らせるべく、自由な時間とちょっとひとっ走りしようと思えるタイミングはさまざまな偶然が重ならないと起こらない。 それこそ、まさに奇跡のようなできことになってしまった。 行くあてもなく深夜の都内や首都高をクルージングしていたのあの頃・・・。 それがあたりまえのことであり、特別なことではなかったあの頃・・・。 当時の自分にガツンといってやりたい。 「意外と楽しめる時間は短いよ」と。 しかし、過ぎ去った時間は2度と戻らない。 気づいたときにはいつも遅すぎるのだ。 [画像/Adobe Stock ライター/松村透]

ラジオ番組に携わったときに出会った「お手本と反面教師」にまつわる話
エディターズノート 22.09.06

ラジオ番組に携わったときに出会った「お手本と反面教師」にまつわる話

独立する前に勤めていた会社でラジオ番組の制作をしていた。 ・・・といってもTOKYO FMやTBSラジオのような「キー局」ではなく、「コミュニティFM」という、いわばミニFMの番組の制作だ。 あまり知られていないことかもしれないが、個人や企業で「コミュニティFMの番組枠」を買えば、誰でも自分のラジオ番組を持つことができる。 1枠で30分とか、1時間とか・・・。 このあたりの区切り方は、コミュニティFM局によって異なるかもしれない。 さらに番組枠の金額についても、1時間で数万円〜(1ヶ月/毎週)など・・・。 雑誌やフリーペーパーの広告枠と同じで、相場はあってないようなものだ。 ラジオ局によってルールが異なるかもしれないが、お世話になったコミュニティFM局は3ヶ月ごとの更新と決められていた。 つまり3ヶ月限定で、自分のラジオ番組を持てるわけだ(短期間すぎて局の人は困るだろうが)。 毎週、気になるゲストを呼んでトークしてもよし。 トークはそこそこに、好きな音楽を流してもいい。 カネの目処さえつければ、クルマを増車する感覚で自分のラジオ番組を持つことも夢ではないのだ。 しかし、いまではYouTubeチャンネルのように、もっと手軽に、自由に自分自身で考えたコンテンツを発信できるようになった。 その結果、個人のチャンネルの地位や存在価値が飛躍的に向上したように思う。 公共の電波に自分の声や考えを乗せるか、YouTubeで自由に動画コンテンツを配信するか。 このあたりの価値観は人それぞれだろう。 筆者がラジオ番組を制作していた10数年前は「自分の声を公共の電波に乗せる」ことの価値や意義は今以上に大きかった。 自分自身(・・・の勤めている会社)がスポンサーなのだから、「常識の範囲内であれば」番組構成も自由だ。 筆者はその企画制作をすべて任されていた(社員が少ないので)、というのがコトの真相だ。 担当していたのは2時間と1時間の生放送を週に1本ずつ。 生放送の番組の企画構成から取材、出演交渉、音源の編集まで・・・番組パーソナリティ以外の仕事をほぼ1人で行っていた。 もともとラジオを聴くのは好きだったけれど、ラジオ番組の制作なんてそれまでまったくの未経験であり素人だ。 当然のことながらすべてが手探りだった。 最初に携わったとき、番組の構成が完成したのはオンエア当日の朝だった。 さらに、生放送の最中は番組ディレクターとしてパーソナリティの皆さんと一緒にスタジオに入らなければならない。 音源の再生はラジオ局の人が担当してくれたが、番組の進行役はディレクターである自分が行う必要がある。 しかも生放送なので、やり直しや編集ができない。 慣れないうちはこれが憂鬱で仕方なかった(生放送の雰囲気に慣れてくると収録では物足らなくなるのだが)。 ゲストの方があまりに饒舌でトークの時間を「割愛」したり、企業広報の人が原稿を棒読みして時間が余ってしまい、フリートークでどうにか間を持たせたり・・・(企業の看板を背負っているので迂闊なことがいえないのだ)。 そんなこんなで常にハプニングの連続だった。 さらに生放送なので、盆暮れ正月も関係ない。 いつだったか、元旦だか、2日にオンエア日がぶつかってしまい、年末休み返上で番組の構成を考えたこともあった。 お正月のオンエアは特番を組み、有名な噺家さんをゲストに呼んでそれなりに盛りあがったし、リスナーからの反響もあったので良しとしよう。 筆者は2本のラジオ番組の制作を担当していたので、それぞれのパーソナリティの人たちと必然的に密に連絡を取り合うことになる。 何を隠そう、番組のパーソナリティをしてくだったなかのお一人が「おぎやはぎの愛車遍歴」でお馴染みのモータージャーナリスト、竹岡圭さんだった。 別の番組の中継コーナーで竹岡圭さんにご出演いただく機会があり、2本目の番組を立ち上げるときに「ダメもと」でパーソナリティをお願いしたら引き受けてくださったのだ。 竹岡圭さん、自分たちは「圭さん」と呼んでいたけれど、とにかく一緒に仕事していて楽しいし、よい意味で「ラク」なのだ。 こちらが1いうことを10理解してくれる(逆にガチガチに決められた原稿読みは苦手らしい)。 勘が良くて、頼みやすくて、話しやすい、そして誰に対してもフェア。 業界の有名人だろうと、自分のようないち会社員だろうと平等に接してくれる。 そして、こちらがダメなところはダメときちんと指摘してくれる。 圭さんに次々と仕事が舞い込むのも当然だ。 (実際にはなかなかうまくいかないけれど)独立してからというもの、圭さんの人との接し方をお手本にさせてもらっている。 今振り返っても竹岡圭さんと男性ミュージシャンと3人で創り上げた番組は、毎週の生放送の時間が本当に楽しかった。 その雰囲気が電波に乗って、良い雰囲気で番組をお届けできたと思う。 そういえば、最終回では圭さんが生放送中に泣いてたっけ・・・(いつも明るい圭さんが・・・と、男性ミュージシャンと2人でびっくりした記憶がある)。 もう1度ラジオ番組を作ってみたい・・・と思えるのはこのお二人のおかげだ。 毎週2本のラジオ番組の企画構成を考えていたので、楽しいことがあれば、当然ながら辛いこともあった。 もう1本の番組は辛いことの方が多かった気がする。 こちらの番組には「主」がいた。 仮にAさんとしておこう。 当時は60歳前後だったように思う。 あらゆる分野に精通し、話題も豊富。 一見すると親しみやすい方だ。 たまに顔を合わせる知り合い程度の距離感なら「博識で親しみやすいおじさん」という印象で済んだかもしれない。 しかし、仕事で関わるとなると状況がまったく異なる。 仕事で関わるありとあらゆるメンバーとトラブルを起こす人だったのだ。 同じチームとして加わっていただいた女性ライターさんが「長年仕事をしてきたけど、はじめて一緒に仕事ができない人に会った」とギブアップ宣言をしてきたほどだ。 その結果、人間関係が壊れる。 それも修復不可能なレベルで。 当然、自分もターゲットになった。 そして人間関係も修復不能になった(それでもいいと思っている)。 この「主」が自分にとっての反面教師でもある。 どれほど博識で、ラジオパーソナリティとして有能であったとしても、関わる人たちの人間関係を破壊するような人は仕事を失うのだということをこのとき学んだ気がする。 それはさておき、ラジオ番組に関わるありとあらゆる人たちと衝突した結果、とうとう勤め先の社長ともトラブルになった。 誰もがAさんを避けるようになり、その怒りの矛先を向ける相手が当時の勤め先の社長だけになってしまったのだ。 社長は温厚な人だったが、Aさんの度重なる理不尽な要求についに堪忍袋の緒が切れた。 大鉈を振るい、改変時期(3ヶ月ごとに更新時期)に合わせて番組を強制終了させてしまったのだ。 それでも、最終回のときはセレモニー的なことも行い、花束も用意した。 そして翌週、この「主」が仕切る(スポンサーとして)形で新たな番組がスタートした。 しかも同じ番組名で、ペアを組んでいた女性パーソナリティとともに。 これには自分も社長もずっこけた。 リスナーからすれば、最終回を迎えたはずの番組とパーソナリティが、まったく同じカタチで翌週から新番組としてスタートしたのだから混乱したに違いない。 いきなりラジオ番組を始められるわけがないから、水面下で交渉していたことを知らせてくれてもいいものだ。 ラジオ局のスタッフも人が悪い。 ラジオ番組、ひいては生放送だとスタッフとパーソナリティがギクシャクしていると、なんとなく電波を通じて伝わってしまう。 友だちではないから仲良しグループでいる必要はないけれど、いい雰囲気で番組作りをするのは極めて重要だとこのとき学んだ気がする。 そのいい例が笑点だと思う。 いまとなっては懐かしい、歌丸師匠と円楽師匠の不毛な掛け合い(?)も、揺るぎない信頼関係があってこそできる(と断言できる)。 本当に不仲だったらこうはいかない。 二代目林家三平がわずか5年で自ら番組を降板したのも、他のメンバーや番組スタッフとの溝ができてしまったのではないかと推察している。 笑点の例はいうにおよばず、仕事のプロジェクトメンバーや、クルマ好き同士のグループなど、良好な関係を維持するのは個人的にはとても重要だと思う。 そのお手本となりうる竹岡圭さんと、反面教師のAさん。 同時期、それも独立する数年前にこのお二人と出会えたのは、後々、良い経験となったことは確かだ。 「この人と一緒に仕事がしたい」と思ってもらえるように努めたいと思う反面「この人と関わりたくない」と思われたらおしまいだ。 もちろん、自分自身への戒めを込めて・・・。 余談だが、この「主」であるAさんのラジオ番組はいまでも続いている。 オンエア開始からもう10年以上経つから、いまや立派な長寿番組だ。 ふと思い出して仕事のあいまにたまに聴いてみると、主であるAさん主導でやりたい放題やってるなあ(それはつまり、リスナーを置いてきぼりにしているなぁという意味だ)と思う。 そうそう、ひとつ思い出した。 自分のお金でラジオの番組枠を買っているのだから、(常識の範囲内であれば)何をやっても自由なのはたしかだ。 しかし、リスナーが置いてきぼりになってしまっては本末転倒だ。 リスナーを楽しませるサービス精神を忘れずにラジオ番組を作ろうと、あるとき心に誓ったことをふと、思い出した。 ラジオからクルマ関連のコンテンツ配信へと形態は変化したが、その想いは変わらない。 現在の仕事は「サービス業」だと思えるようになったのも、このときのラジオの仕事がきっかけとなっていることは間違いない。 [画像/Adobe Stock ライター/松村透]

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