オーナーインタビュー

ドイツのHナンバー登録済み!1982年式メルセデス・ベンツ240D(W123)の魅力をオーナーに聞く
オーナーインタビュー 2023.09.26

ドイツのHナンバー登録済み!1982年式メルセデス・ベンツ240D(W123)の魅力をオーナーに聞く

今回、オールドタイマーを所有する、とあるドイツ人の男性にインタビューをお願いしたところ、個人的にも大変興味深いお話を聞くことができました。 また、インタビューのみならず、実際に運転するという貴重な体験まで! 筆者の拙い運転体験記にも目を通していただけると幸いです。 今回インタビューを受けていただいたのは、ドイツ・ホルツミンデンにお住いで、1982年式メルセデス・ベンツ240D(W123)をお持ちのヴィルヘルムさん。 とても親切、気さくな方で、何をリクエストしてもすべて快く引き受けてくださいました。 ■人生初のオールドタイマー運転体験 クルマの第一印象は、昔の本や(ドイツの)映画・ドラマでよく見るような典型的なヘッドライトを持つ、良い意味で「古いメルセデス!」といったものでした。 しかし間近で見てみると、外観だけでなく、エンジンルームやシートまで全体的に綺麗な状態が保たれており、とても大切に乗られていることがよく伝わってきます。 ヴィルヘルムさんとクルマの話で盛り上がっていると、思いがけないことに240Dを運転してみないか、とのお話が。 もう10年以上はマニュアル車を運転していないため、若干の不安はありましたが、それよりもオールドタイマーを運転できる大変貴重なチャンスだと思い、運転させていただくことになりました。 筆者が過去に運転したことがある一番古いクルマを思い出してみても、もちろん自分より年上のクルマを運転した経験などありません。 マニュアル操作もすっかりぎこちなかったのですが、いざ運転してみるとエンストすることもなく、とても素直に動いてくれました。 ハンドルが重いということをいわれていましたが、そこまで気にならず、シフトチェンジも軽快。 途中からまるで、クルマに運転を教えてもらっているような感覚になっていて、運転にある程度慣れてくると、古さなどはまったく感じず、違和感なく運転することができました。 乗り心地は、一言で言うと快適そのもの。 シートは柔らかすぎず、しかしクッション性はしっかりしています。 一般道を走る速度帯では不快な揺れや振動もありません。 今のクルマに比べると遮音性は高くないので、ディーゼルエンジンの大きな音はそれなりに車内にも響き渡りますが、個人的にはそれも味があって良いなといった感想です。 ルートは主に山道でしたが、けっこうな勾配も2速あたりで力強く登って行ってくれました。 一般道での走行では3速でじゅうぶんといった印象。 とても優雅に走ってくれて、ギアチェンジの動作も自然とゆっくりやりたくなるような、時間を忘れてゆったり運転するのが似合うクルマだなと思いました。 ■取材車輌スペック いただいた資料を基に、ヴィルヘルムさんが所有する240Dのスペックについても紹介しておきます。 最高速度:138km/h加速性能(0~100km/h):22秒燃費:9,3L/100kmホイールベース:2795mm全長:4725mm全幅:1786mm全高:1438mm最小回転半径:11.25m車輌重量:1395kg最大積載量:520kg最大牽引能力(ブレーキあり):1500kg最大牽引能力(ブレーキなし):740kgエンジン:4ストロークディーゼルエンジン4気筒最高出力:72PS(4400/min)最大トルク:137Nm(2400/min)タンク容量:65L ■ヴィルヘルムさんにインタビュー ●いまお乗りのオールドタイマーのモデルについて教えてください メルセデス・ベンツ 240Dという1982年式のモデルです。 ●オールドタイマーに乗り始めたきっかけを教えてください 元々クルマは好きなのですが、このクルマに乗り始めたのは、義理の父から相続したことがきっかけです。 ●オールドタイマーの良さとは、どのようなところですか? 何かが故障しても、すべて自分で直せてしまうところですね。複雑な電装部品などが多くないので、何をするにしても自分で対処できてしまいます。そこがまた良いところだと思います。ただし、Hナンバー登録をしているので、リペアに使用する部品などには注意を払わなければなりません。(※Hナンバー登録、または維持するためには、修理もすべてオリジナルの部品でおこなわなければなりません) ●どのくらいの頻度で乗っているのですか? 基本的には、天気の良いときだけ乗るようにしています。スタッドレスタイヤは持っていないので、冬は乗りません。だいたい、5月から10月のシーズンですね。また、夜に乗ることも少ないです。ヘッドライトが頼りないので(笑)。 ●故障はありますか? 故障はまったくないです。一度だけ燃料メーターの不具合がありましたが、それ以外に走行に支障をきたすような故障はなく、燃料メーターの交換以外で修理を施したことは一度もありません。 ●年間の維持費について教えてください Hナンバー登録なので、税金が190ユーロ、保険が206ユーロです。保険は年間6000キロまでという走行距離の制限がありますが、先ほどいったように、基本的には天気の良い日にしか乗らないので、じゅうぶんです。日常的に使う人は、保険料はもう少し高くなるのではないでしょうか。 ●ドイツではたくさんのオールドタイマーが走っていますが、専門の修理工場やサービスが充実しているのですか? 専門工場はあるにはあるのですが、そこまで多くはないと思います。私が知っている限りでは、シュトゥットガルトにメルセデス・ベンツのオールドタイマー専門の修理工場があります。もし何か必要であれば、そこに相談をして部品の調達などを任せることになるかと思います。(後述するような)オールドタイマー乗りが集まるクラブで修理工場などを紹介してもらうことも可能かと思います。一般的なディーラーや工場では、修理や部品の調達はできません。 ●オールドタイマー乗りのためのクラブ・愛好会などはありますか? あります。場合によっては登録手続きなどが必要になるかと思います。私は特に入っていません。 ●オールドタイマー乗りにとって、もっと改善してほしいことはありますか? 特にありませんが、強いていうなら、周囲のドライバーにはもう少し思いやりを持っていただけるとうれしいですね(笑)。 ●オールドタイマーに乗るメリットについて教えてください とにかく運転が楽しいことです。天気の良い日にこのクルマを運転していると、本当にすべてのストレスが吹き飛びますよ。 ●逆に、オールドタイマーに乗るデメリットがあれば教えてください まったくありません。あえて挙げるならば、パワステがないということと、新しい世代のクルマに比べると、動作が重かったり鈍かったりすることくらいでしょうか。 ●オールドタイマーを維持するうえで、一番大変だと感じることはなんですか? これは間違いなく、万が一故障したときの部品の調達ではないでしょうか。 ●ドイツでオールドタイマーに乗っていて、肩身が狭いと感じることはありますか?あるとすれば、どのようなところですか? オールドタイマー全般という観点からすれば、排気ガスの関係から、環境保護エリアやディーゼル車乗り入れ禁止エリアでは走行できないということでしょうか。ただし、オールドタイマーであってもHナンバーさえ取得していれば、そのようなエリアでも走行することが許されています。ですので、Hナンバーを取得したオールドタイマーにとって肩身が狭いと感じることやデメリットは、まったくと言って良いほどありませんよ。 ●今乗っているオールドタイマーの一番のお気に入りポイントはなんですか? ずばり、運転が楽しいことです!それに尽きます。 ●今乗っているオールドタイマーを一言で表すと? 一言で表現するのは少し難しいですが、「清楚」でしょうか。しっかり自分で手入れをして、愛情を注いできれいに保ち続けると、クルマもそれに応えるかのように素晴らしい性能を保ち続けてくれるのです。 ■おわりに お話を聞くなかで、ヴィルヘルムさんが240Dをいかに大切に、そしていかに楽しく乗り続けているかということがよく伝わってきました。 以前記事に書いた、ドイツにおけるオールドタイマー事情の情報に加え、実際にオーナーの声を聞くことで、ドイツではオールドタイマーが文化遺産としてしっかり守られていると確信することができました。 ●果たしてドイツは旧車の楽園なのか?この国の旧車の定義とはhttps://www.qsha-oh.com/historia/article/auto-old-timer-germany/ それは特に、インタビュー中の話にもあった「Hナンバー登録であれば環境保護エリアでも走って良い」という場面にも顕著に表れているのではないでしょうか。 というのも、とりわけ厳しいエリアでは環境汚染物質クラスがユーロ5以下のクルマは走行禁止とされているなど、場合によっては比較的新しい世代のクルマであっても走行できないことがあるにもかかわらず、Hナンバーのオールドタイマーはそのようなエリアでも走れてしまうのです。 すなわち、そのような地域に暮らす人でも、オールドタイマーに乗り続けることができるということでもあります。 「古いクルマだから環境に悪い」「環境に悪いから排除するべき」と淘汰するのではなく、クルマを一つの歴史として、一つの遺産として大切にする、そして後世に残そうとする動きが国や自治体レベルでも行われていることに、羨ましささえ感じられました。 しかも、それが個人単位ででき、多くの人がオールドタイマーを大切に維持し続けていることからも、ドイツの自動車大国としての強さを改めて認識することができました。 さいごに、今回インタビューを受けていただいたのみならず、マニュアル車の運転をすっかり忘れてしまっていた筆者に、大切なクルマを快く運転させていただいたヴィルヘルムさんに、心から感謝を申し上げます。 [ライター・画像 / Shima]

初の愛車は、高校時代に手にした“R32 スカイラインGT-R”
オーナーインタビュー 2023.09.15

初の愛車は、高校時代に手にした“R32 スカイラインGT-R”

2023年現在、100年に一度の転換期といわれている。 自動運転に関する技術革新が日々行われ、新型車には電気自動車も多くなってきた。 そんな環境のなか、旧車と呼ばれる年代のクルマを、新たな愛車として選ぶ方も多くいる。 今回は“ちょっとした”一言がきっかけで「R32 スカイライン GT-R」が初の愛車となったオーナーにお話をうかがった。 1.出会いは突然 最初の愛車がGT-Rに!?しかし本音は・・・ 前回、新たに日産N15パルサー VZ-Rを愛車にした、お父様の話を紹介した。 ●教えて旧車オーナーさん!今"N15 パルサー VZ-R"を買ったワケhttps://www.qsha-oh.com/historia/article/nissan-family-pulsar-vzr-n15/ 今回の主役は、R32 スカイラインGT-Rにお乗りになられている息子さんだ。 手に入れた経緯は、なかなかに興味深いものだった。 「このGT-Rは元々、父の知人が所有していたクルマだったんです。3年半程、寝かせていたクルマを手放すということで、紹介されました」 最初の愛車がGT-Rとは、とても羨ましい話ではあるが、実は本音は違ったようで・・・ 「実は、当初欲しかったクルマはS15シルビア オーテックバージョンでした。中学生の頃、近所の中古車屋さんに置いてあった売り物を見に行ったりしていました(笑)」 「当時ガラケーに、シルビア オーテックバージョンの中古車情報の程度や金額をメモするほど憧れて、恋枯れていました」 S15シルビア、そのなかでもメーカーがチューニングを施した、NAエンジン(SR20DE)を搭載するオーテックバージョン。 中学生のころに、S15シルビア オーテックバージョンへ憧れを抱くとは、なかなかに通な選択だ。 これも、日産フリークなお父様の影響を受けた結果なのかもしれない(笑)。 2.GT-Rの縁談に乗り気になれない、クルマ好きならではの“理由” その当時を振り返り、お父様から意外な言葉が出てきた。 「息子に最初この話をしたとき、そんなに乗り気ではなかったのは、すぐにわかりました」 「私がすでに同型のGT-Rに乗っているので、同じクルマに乗るのが嫌なのかな?と思っていました」 予想外の反応をされた息子さん。 ではその当時、実際にはどう思っていたのだろうか? 「たしかに、父親がすでに同じGT-Rに乗っていることも意識としてはありました。ただそれよりも、当時はGT-Rって『最終地点』なイメージを持っていたんです」 この『最終地点』が意味することは、クルマ好きならすぐに理解できることだろう。 世界に目をやれば、超ド級なスーパーカーは多くある。 ただ、日産フリークな家庭で育ったオーナーにとって『GT-R』は、日産のスポーツカーのなかでも特別な存在であることはよく分かる。 「GT-Rに乗っている人は、段階を経て到達するイメージがありました。それこそ、シルビアなどに乗って練習して、父親のようにステップアップしていってGT-Rと考えていました」 お父様がDR30スカイラインで腕を磨き、R32スカイラインGT-Rにステップアップされたのを間近で見て育っただけに、その思いが強くなったのだと想像に容易い。 「いきなりGT-Rに乗っていいのか?という思いがあるのと、“シルビアが好きだから”という理由で断りました」 ずっとモータースポーツを観戦していただけに、GT-Rの凄さを理解していたことと、シルビアへの思いからの考えだったようだ。 3.父親からの思いがけないアドバイスがきっかけに 息子さんの思いを聞いたうえで、お父様から現実的なアドバイスがあったそうだ。 「シルビアからステップアップしてGT-Rにいきたくても、いざGT-Rに乗りたくなったときに買える保証はないんだぞ」 それは、なかなかにストレートなアドバイスだった。 お話をうかがっているとき、筆者は思わず笑ってしまった。 ただ、この言葉がきっかけとなり、現実的に自分の状況を踏まえ、改めて考えたそうだ。 当時でもS15シルビアは人気車であり、生産終了から日が浅く、程度の良いものは新車同等、もしくはそれ以上の価格だった。 対するR32スカイラインは、すでに生産終了から年数が経過した“旧車”となっていた。 年式を考えると流通量の減少、流通しているなかから良い程度を求めた場合、状況は厳しくなる一方と考えたそうだ。 そこからGT-Rを初の愛車として迎え入れることを決意したのをきっかけに、一気にモチベーションが上がることとなった。 教習所に通いながらアルバイトに励み、修理代を捻出していったとのこと。 このお話を聞いて、どこかの誰かと同じような境遇だと、思ってしまった。 「以前、初の愛車を手に入れた経緯をお聞きして、うちの息子と境遇が似ていると思いました(笑)」 と、筆者を見るお父様の表情は、満面の笑みであった(笑)。 4.初の愛車は課題が豊富 実際に手に入れたGT-Rはどうだったのだろうか? 「やはり3年半寝かしていたクルマということもあり、最初、エンジンをかける前に燃料系統を確認しました。案の定、ガソリンが腐っていました。さらにその腐り方が想像以上だったため、燃料ポンプを新品に、燃料タンクを中古の物に交換したんです」 ガソリンも食品と同じく、古くなると腐ってしまうのだ。 長期間動かしていない場合、注意が必要な点でもある。 「エンジンをかけられる段階まできて、いざエンジンをかけたものの、アイドリング不調で、まだまともに走れる状態ではありませんでした。そこで、点火系など順を追ってチェックしました。幸いなことに父親のGT-Rと同じ年式だったので、部品を入れ替えてチェックすることで、ダメな部品のトラブルシューティングができました」 修理と併せ、予防整備もおこなったとのこと。 交換した際、元々の部品は、お互いのクルマに使えるストックとなっているそうだ。 外観からも、チューニングを施しているのが見て分かった。 修理をする際に、併せておこなったのだろうか? 「今ついている社外のチューニングパーツは、前オーナー時代に交換されたものがほとんどです。ワンオーナーだったため、弄っている個所も分かっていました。あとからカスタムする必要が無い状態だったのは、結果的に良かった点ですね」 今回購入されたのは、ワンオーナーかつ、ご本人から直接譲り受けたので、詳細が分かっていたのは大きなアドバンテージだ。 5.素性を見極めて選んでもらいたい! これから旧車を手に入れようと思っている方へのアドバイスをうかがった。 「この年代のクルマを手にするなら、可能な限り素性の分かる車輌を選ぶことをお勧めしますね」 それは、お乗りのGT-Rで得た経験も背景にあるのかもしれない。 「私自身もそうだったのですが、やはり若い時って『エアロが付いていてカッコイイな!』『エンジン周りも弄ってあって良いな!!』と思ってしまうんですよね(笑)」 その気持ちは非常によく分かる。 どうしても“ノーマルとは違う”ことに憧れを抱いてしまうものだ。 「わからない弄り方をされていると、何か不具合が起きた時に原因が掴みづらくなってしまうんですよね」 実は筆者にも経験がある。 自身の愛車を手にしたときも、アイドリング不調が出ていた。 原因は、過去のオーナーが取り付けた社外部品の不調であった。 すでにカスタムされていることは魅力的に映るだろう。 しかし、長い目で見た際には、ノーマルの方が心配は減るものだ。 「特にスポーツカーは、ノーマルを探すのが難しいと思います。なので、ある程度詳しい人と一緒に現車を見に行くのが一番かと思いますね」 欲しいクルマを目の前にすると、誰もが正常な判断はできなくなる。 中立な、落ち着いた判断と目利きができる人に同行してもらうのは、大事なことだろう。 6.総括  いつかより今!時には踏み出す勢いが必要! 今回、お話をうかがい感じたことは、踏み出す勢いが大切だということ。 “いつか、あのクルマに乗りたい” そう思うことは、クルマ好きにとっては、日常的なことと思う。 今回お話をうかがっオーナーのように、キャリアアップして乗ることを目標にするクルマもあると思う。 ただ、タイミングが許すならば、一気に目標へ到達してしまうのも、旧車に乗るには必要な判断要素かもしれない。 今しか乗れない、今だから乗れる。 このことを考えて、旧車に乗るのもアリと感じた。 [ライター・画像 / お杉]

教えて旧車オーナーさん!今"N15 パルサー VZ-R"を買ったワケ
オーナーインタビュー 2023.08.11

教えて旧車オーナーさん!今"N15 パルサー VZ-R"を買ったワケ

2023年現在、100年に一度の転換期といわれている。 自動運転が開発され、新型車には電気自動車も多くなってきた。 そんな環境のなか、旧車と呼ばれる年代のクルマを、新たな愛車として選ぶ方も多くいる。 なぜ新たな愛車として迎え入れたのか? 新たにオーナーとなられた方にお話を伺った。 ■根っからの日産フリークなファミリー 今回、お話を伺ったのは、親子で旧車を愛車としているご家族だ。 お父さまは日産スカイラインGT-R(R32型)を所有しつつ、最近日産パルサー VZ-R(N15型)を通勤メインのクルマとして購入したのだとか。 長男である息子さんは、お父さまと同じ型のスカイライン GT-Rを所有されている。 今回お話を伺うことはできなかったが、次男の息子さんは、日産フェアレディZ(Z33型)にお乗りとのことだ。 おわかりの通り、大の日産フリークなご家族なのだ(笑)。 今回、パルサーVZ-Rを購入されたお父さまの内容となる。 今所有されているクルマについて伺った。 「R32スカイラインGT-Rは2008年頃、知人が手放す車両を購入しました。それまで、DR30 スカイラインRSターボに乗っていたのですが、やはりGT-Rには一度は乗っておきたいという思いを持っていたため、意を決して乗り換えました」 やはり、多くのクルマ好きが一度は憧れる、GT-R。 日産フリークであり、憧れを持っていた方にとって、そんな縁談の話は願ったり叶ったりに違いないだろう。 最近購入された、パルサーについて伺った。 「パルサーは半年ほど前、中古車店で購入しました。通勤で使っていたK12マーチからの買い替えになります」 なぜ、今まで乗られていたマーチより古い、パルサーに乗り換えられたのか? 「パルサーVZ-Rも、いつか乗りたいと思っていました。今回の購入時には、VZ-Rしか考えていませんでした」 そこまでの熱い思いを持たれているには理由があるはず。 さらに詳しく伺ってみた。 「昔、耐久レースに日産のワークスとしてVZ-Rが出てました。その時にびっくりするほど速かったんです。」 筆者も、当時VZ-Rがレースに出ていたのは知っていた。 しかし、残念ながらまだ幼かった筆者は、実際にレースシーンを見る機会がなかった。 レースでの活躍を、生で見た感想も聞くことができた。 「そのレースでは、当時の愛車と同じDR30のRSターボも出走していたのですが、VZ-Rが立ち上がりの加速で離れていっちゃうんですよ。テンロク(1.6L)なのに。それが衝撃でしたね」 「まだ幼かった、息子二人も観戦していたのですが『お父さんのクルマを抜いてった!』と驚いていましたよ!」 幼い息子さんにとっても、父親が乗っている身近な存在である同型のスカイラインが抜かれてしまったことは、記憶に残っているそうだ。 「特に次男がカルチャーショックだったようでして、のちに免許を取って最初に買ったクルマがVZ-Rでした(笑)」 現在、Z33にお乗りの息子さん。 幼心に受けた衝撃がきっかけとなったのか、最初の愛車として3ドアのパルサーVZ-Rを選び、腕を磨いていたそうだ。 VZ-R購入時、他に候補のクルマはあったのか? 「なかったですね。VZ-Rだけでした。最近のスポーツモデルの中古車も同価格帯でありましたが、候補には入っていませんでした」 なぜ、指名買いだったのか? 「この年代(90年代)のクルマって、個性があるじゃないですか。そこに惹かれてました。この頃って、各社ライバルメーカーのクルマに勝ってやろう!とかラリーで優勝してやろう!とか、攻めの姿勢だったのが良いですよね。VZ-RにもN1という仕様もありましたし」 ■心がけているのは予防整備 ここからは、購入後のエピソードについて。 すでにR32 スカイラインGT-Rもお持ちなので、経験は豊富だ。 今までの経験を踏まえ、納車後におこなった整備があるとのこと。 「GT-Rでも同じことを心掛けているのですが、出先で不動にならないよう、予防整備をしています。今回、納車後にオルタネータや点火系などの交換をしました。燃料系はまだなのですが、ここもやっておけば心配は減りますね」 予防整備としては、かなり手厚い部類と思う。 中古車である為、今までの扱われ方が分からないことは多い。 “無事に帰宅する”これは事故に限ったことではなく、忘れがちではあるが整備についても、重要なことと思う。 マイナーな不具合に見舞われたこともあるそうだ。 「タコメーターが動かなくなってしまう症状が出てしまいました。メーター交換をしようと思ったものの、VZ-R専用メーターはすでに製造廃止。標準グレードの物はまだ手に入ったので、メーター修理専門のお店に修理を依頼しました。新しいメーターから故障した部品を移植して、専用メーターを直してもらいました」 「他にも調べると在庫が残り1個の物が多く、気になるところは交換しました」 その行動力と決断に恐れ入ってしまう。 90年代車は多くの「グレード専用部品」がある。 その部品自体の新品はなくとも、流用や移植で修理が可能であり、専門店もあることには驚いた。 ■カスタムも長期の目で見た安心感を 次にこだわりの部分について伺った。 「本当は3ドアが欲しかったのですが、タマ数も減っており、値段も息子が購入したときの1.5倍になっていました。そのなかで見つけたのが今の愛車です」 パルサーVZ-Rにはボディ形状は3タイプある。 4ドアセダン、3ドアハッチバック、5ドアハッチバック。 程度と金額から5ドアハッチバックを購入されたとのことだが、最初拝見した時に違和感があった。 「5ドアはRVブームもあって、フロントバンパーがRVっぽいデザインになっています。それが、ちょっと好みと合わなかったため、3ドアVZ-Rのバンパーに交換しました」 話を伺って、違和感の理由がわかったのだった。 VZ-Rが新車で販売されていたころ、世間はRVブームであった。 そのため、パルサーの5ドアにはRVテイストを与えていた。 そのデザインのまま、VZ-R専用エンジンを載せて販売していたのだ。 他にも、リアのスポイラーをオーテックバージョンの物に変更されている。 交換する際、標準装備のスポイラーと取付穴の位置が合わなかった。 バックゲートを別途中古で購入、穴を開け直してから交換されたそうだ。 従来の穴を埋めることによる、トラブルを避ける為のこだわりが表れていた。 また、マフラーも購入時は社外の物が装着されていたが、純正採用の実績があるフジツボ製に交換されたとのこと。 ■ぜひ、そのクルマのことを理解して乗って欲しい! これから、90年代のクルマに乗ろうと思っている方へ、何かアドバイスがあるか伺ってみた。 「せっかく乗るなら、そのクルマのことを理解して、少しでもいいので勉強して乗ってもらいたいですね。もし、ネームバリューだけで乗りたいと思っているのでしたら、良い結果とならないことが多いので、やめた方がよいと思います」 90年代のクルマは、まだまだ現役で走っている個体も多く、街中でも目にするだろう。 映画やアニメなどでフューチャーされることや、過去の映像作品も動画サイトで目にするだろう。 そこでクルマの名前を知り、同じクルマに乗りたい!と思う人は多くいる。 いつまでも現役で、人気で居続けることは嬉しいことだ。 ただ、そのクルマのことを理解せずに乗った時、旧いが故に現代の感覚と違うことはもちろん、トラブルも発生する。 理想と違うことが起きた時、大きく落胆するだろう。 しかし、ほんの少しでも、そのクルマについて知る努力をしたことで、感じ方は変わってくる。 「せっかく憧れのクルマを愛車としたのに、残念な思い出となってもらいたくない」 そんな思いのこもった言葉だった。 ■ 総括 メーカー同士、意地の張り合いに熱くなっていた時代 今回お話を伺ってわかった、現代にあえて旧車を選ぶ理由。 そこには、デビュー当時の活躍を目の当たりにしてきた方ならではの理由があった。 各メーカーのスポーツモデルには、明確な意識をしているライバルがいた。 そのクルマたちは、ワークスとして戦うレースに留まらず、そのクルマを選んだオーナー同士もお互いを意識し合い、サーキットなどで性能をぶつけ合っていたのだ。 ユーザーも含め、ライバルに秀でるよう切磋琢磨していた時代を見てきたオーナーならではの、熱さを感じるための選択であったと知ることができた取材となった。 [撮影&ライター・お杉]

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~ マツダ RX-7を完全制覇したご夫婦 ~
オーナーインタビュー 2023.08.01

ニュージーランド・インタビュー「2Degrees」~ マツダ RX-7を完全制覇したご夫婦 ~

「六次の隔たり(6 Degrees of Separation)」をご存知だろうか。 この地球上では、相手が誰であろうが、最大でも、たった5人の「知り合い」をたどれば、「つながる」ことができるという定説だ。 人口が僅か500万人ほどの島国ニュージーランドは、六次ではなく二次(2 Degrees)の国であるというのが一般的な理解で、国内にはその名を冠した携帯キャリアが存在するほどだ。 実際、「小学校が同じ」、「兄弟と知り合い」などといったことは、日常茶飯事だから面白い。 そんな「みんなが知り合い」という特色を利用して、旧車オーナーや業界人を次々とご紹介いただき、筆者が楽をしようというシリーズ。 それがこのインタビュー「2 Degrees」だ。 記念すべき「第1弾」となる今回は、筆者tomatoの知り合いである、オークランド在住のKendall(ケンダル)夫妻をご紹介したい。 ご夫妻との出会いは、2018年12月にさかのぼる。 場所はAuckland CBD(Central Business Districtの略で、要は中心部という意味)から、70㎞ほど南下した先にあるHampton Downs(ハンプトンダウンズ)サーキットだ。 その日は、ドリフトレーサー「Mad Mike(マッドマイク)」主催のイベントが行われており、日本から星野仙治氏が持ち込んだ「Mazda 767B (202号車)」が、誰もが酔いしれる「4ローターサウンド」を奏でて周回し、大盛況だった。 そこで、お互いが話す日本語が聞こえたのが出会いのきっかけだ。 旦那さまのStephen(スティーブン)さんは、キーウィ(ニュージーランド人の通称)だが、実は奥さまのMichikoさんは日本人なのだ。 ニュージーランド生まれのお嬢さまも、日本語が堪能なバイリンガルで驚かされたのを記憶している。 今回、「インタビュー」を快く受けてくださったので、ご自宅に話を伺いにいった。 ちなみに、ふたりの会話は、ミチコさんが日本語で、スティーブンが英語で話すという不思議なもので毎回新鮮だ。 正直、筆者は、ふたりと話すと少し混乱するのだが… (笑)。 ■TODAY 2023年7月執筆時点で、ケンダルご夫妻は、なんと3世代全てのRX-7を所有(完全制覇)している。 ・SA22C(マッハグリーン・メタリック)・FC3S(トルネードシルバー・メタリック)・FD3S(ヴィンテージ・レッド) ナンバーなしの車両2台(下記)も含めれば5台のRX-7だ。 ・サーキット走行用のFD3S(シルバーストーン・メタリック)・保管中のSA22Cターボ(ドーバー・ホワイト) さらに、RX-7以外の自家用車も含めれば、計8台も所有されている。 特にマッハグリーンのSAは、自らが「フルレストア」した作品。 その出来は、工場のラインを出たばかりの新車レベルで、まさに正真正銘の「ヘンタイ(もちろん良い意味で)」だ。 なお、これは最上級の誉め言葉であるので、誤解のないようにしていただきたい。 ▲StephenさんとMichikoさん ■YESTERDAY まずは、そんな「現在」に至るまでの道のり、「過去」をお聞きしよう。 「Kendall」というファミリーネームをネットで調べると、イングランドが起源の名のようだが、スティーブンさんによると、このケンダル家は、むしろアイルランドの血が濃く、ニュージーランドには約150年ほど前に先祖が渡ったそうだ。 スティーブンさんは、4人兄妹の次男として1968年に生まれた。 小学生になる頃までは、タウランガやプケコーヒにあった近郊のサーキットで、父のBrian(ブライアン)氏が草レースをやっていた影響から、ガソリンやオイルの匂いがする家で育った。 レースといっても、Datsun 1600 Deluxe(510 ブルーバード)やDatsun 180B(610 ブルーバード)など、ケンダル家にある自家用車にレース用のシートベルト、ヘルメット、消火器を装備しただけというから、本当に羨ましい時代だ。 ▲スティーブンさんの父親であるブライアン氏と、Datsun 180B(610 ブルーバード) その後、より家族との時間を優先することになっても、家族でレース観戦に行くこと、クルマ雑誌が家に置いてあることが日常の風景だった。 ちなみにブライアン氏は、当時人気が高く、入手が困難であったイギリス車をあきらめ、Datsunに手を出したわけだが、その信頼性に感銘を受け、R30からR35まで渡り歩くなど、無類のNissanスカイライン党になっていく。 そんな環境で育ったスティーブンさんは、新聞/広告配達やスーパーマーケットでアルバイトし、1985年(16歳)に自動車運転免許を取得するやいなや、1972年式のDatsun 1600SSSを、当時の2,000 NZドルで購入した。 その1,600 ccのエンジンをリビルドするなどし、自動車知識をさらに養っていく。 ▲若かりし頃のスティーブンさんとDatsun 1600SSS(510 ブルーバード) 彼は技術系大学の夜間コースに通いつつ、自動車の板金工としてのキャリアをスタートさせた。 社会人生活も5年ほど経ったころ、彼は仕事を辞め、友人達と半年間のヨーロッパ旅行に出るのだった。 ●そのヨーロッパ旅行は、価値観などに何か影響を与えましたか? (スティーブン)「うん、そうだね。海外で、『その日暮らし』という形ではなくて、『地に足のついた暮らし』をしてみたいと思うようになったんだ。この経験のおかげで、日本に行くことになるんだ」 ニュージーランドに戻ったスティーブンさんは板金工に復職し、その2年後に広島の自動車整備会社からの仕事のオファーを掴んだ。 (スティーブン)「不安はなかったよ。仕事は1年契約(ワーキングホリデー)だったし、往復の航空券と住む場所が与えられたから、『最悪でもタダで日本旅行できる』と思ったよ(笑)」 1993年、スティーブンさんは広島で暮らし始める。 勤務先は、Hertzレンタカーも運営するなど、広島の業界内では名の知れた大きな会社だったようだ。 会社には、同じように採用された3人のニュージーランド人も一緒だったので、ご両親も安心だっただろう。 ●日本の第一印象はどうでしたか? (スティーブン)「もっと近代的なだけの国だと思っていたけど、歴史の浅いニュージーランドでは見ることのない、歴史的なものと、モダンなものが両方あることにとても驚いたよ」 ■人生の伴侶、Michikoさんとの出会い ミチコさんとの出会いは、ニュージーランドではなく、彼女の故郷、日本の広島だ。 具体的には、彼女が当時通学していた英会話学校の先生に連れて行かれた、市内中心部の流川町にある「外国人(Expats)が通うバー」だったそうだ。 当時の彼女にとって、英語は単なる「海外旅行の手段」であり、クルマはホンダ グランドシビックを所有はしていたが「移動の手段」でしかなかった。 なのに、翌年の94年にはゴールインしてしまうのだから、「愛の力」は本当に偉大だ。 ■ロータリースポーツ「MAZDA RX-7」との出会い 当時、傘下のHertzレンタカー店には、ブリリアント・ブラックのFD3S型のRX-7があった。 しかも、マニュアルトランスミッションだ。 同じ傘下なのだから、お客さまがぶつけるたびに、板金工のスティーブンさんに回ってくるというサイクルだったのだ。 そして、修理が済むと、試運転(?)も兼ねて、山陽自動車道の広島東ICと広島ICの間にある「安芸トンネル」を爆走するのが、楽しみで仕方がなかったそうだ。 社用車のマツダ・ボンゴを「普段の足」としているなかで、入庫するほとんどは、普通のクルマなわけだから、そんな若者がRX-7とロータリーエンジンの虜にならないはずはなかった。 この時点で「人生詰んでいた」のかもしれない。 ■母国「ニュージーランド」へ 21世紀の足音が近づくつれ、スティーブンさんは母国ニュージーランドへの帰国を望むようになった。 日本の(特に自動車整備の)労働環境が苦痛になってきたのだ。 また、板金工というスペシャリストとしても、外国人としてもキャリアアップがまだまだ難しい時代でもあったのだろう。 そんな彼の望みを受け、ミチコさんはニュージーランドへの永住を決意する。 簡単なことではなかっただろう。 そして西暦2000年に、ふたりは、冒頭のヴィンテージレッドとシルバーストーンの2台のFD3S型 RX-7、そして奥さまのマツダ ランティスとともに移住する。 板金工をする傍ら、シルバーストーンのFDで草レースを楽しむという生活が始まったそうだ。 ▲スティーブンさんのサーキット走行 ●全世代のRX-7を揃える計画を立てたのは、いつごろですか? (スティーブン)「2015年頃かな。年齢的なこともあって、プライベートプロジェクトとして、レストアをしてみたいと思ったんだ。本当はRX-2とかRX-3が欲しかったんだけど、少し遅かったみたいで、すでに価格が高騰し始めていて、手が出せないと判断したよ。すでにFDは持っていた訳だから、SAとFCを入手して、RX-7を全世代揃えることに方針転換したんだ」 その後、ふたりは日本在住のオーストラリア人の仲介により、日本のオークションで、予算内のSA22型(フルノーマル)を2年程探すのだが、SAもまたどんどん高価になっていった。 狙いをより安価なFC3S型に切り替え始めた2017年、オートマということもあり、程度極上の個体を日本のオークションで落札することに成功した。 が、そのわずか1週間後に、手頃なSA22型もオークションに出品されたのだ。 (スティーブン)「そのSA22型は、ボディの所々にサビがあるなど保存状態に問題はあったけど、腐食で穴があいているなどということはなく、各コンポーネントもオリジナルを保っていたから、『買い』だと思ったよ。きっと日本人なら手を出さないだろうけどね」 そう、その2台が、現在のSA22型(マッハグリーン)とFC3S型(トルネードシルバー)だ。 (ミチコ)「SAは、最初は、少しずつキレイにしながら使って、いろいろガタが出始めたら、一気に修復すれば良いと思っていたんだけど、『どうせ、何年後かにそうなるなら』って、スティーブンが2019年に、2年プロジェクトの“フル”レストアを決意したんです」 ●自分にフルレストアができると思った? 不安はなかった?  (スティーブン)「スキルはあったからね。あとは、行動に移すだけだったよ。幸い、レストアを本格的にやっている親子とも知り合いになれたから、『やってやろう』と思った」 ■写真で見るフルレストア(Full Restoration) ▲レストア開始時のSA22型 ▲車体のサビ ▲エグゾーストパイプのサビ ▲サビ除去の「どぶ漬け」工程 ▲分解 → 研磨 → 加工 → 保管 ▲レストア前の12Aロータリーエンジン ▲レストア後の12Aロータリーエンジン ▲本格的な塗装(スティーブンの職場の塗装ブース) ▲下回りの完成 ▲内装トリムの塗装と乾燥 ▲シート生地の修復 ▲シート組付け後 ▲(レストア前)「Limited」と「マツダオート茨城」 ▲(レストア後)「Limited」と「マツダオート茨城」 ●何が一番大変でしたか? (スティーブン)「ワンオーナーだったから、モノは揃っていたんだ。交換したのは、テールライト、ウェザーストリップとかのラバー類、ホース類、サスペンションのブッシュ類とか、どうしても経年劣化する部分がほとんどだった。あとは、ラジエーターとか、1つ1つのコンポーネントを『外して』→『分解して』→『ポリッシュして』→『脇に置いておく』というプロセスの繰り返しでしかなかったから、その数は凄いけど、大変ということは…」 レストア作業の写真を数枚見せてもらっただけでも、筆者には「途方に暮れる作業」に思え…改めて、「知識と経験は、人間をどんなところへも、連れて行っていけるのだ」と心底感じた。 (スティーブン)「あっ、一番大変だったのは、エンジンルーム内とかに貼るステッカーの修復/複製かな。それだけは、やったことなかったからね(笑)」 (ミチコ)「私が全部やりました!」 ▲複製した各ステッカー(ほんの一部) ■通称『ケロちゃん』 ●ずばり、レストアの魅力は? (スティーブン)「2021年2月のEllerslie Car Show(エラズリー カーショー)*に展示できたんだ。そういったイベントに行く度に、人だかりになったりするんだけど、それが最高のご褒美であり、『Rewarding(やりがい)』だよ」 (ミチコ)「この『ケロちゃん』(緑色のカエル)が行くところ行くところ、すぐに人が集まって来て、いろいろな人に声をかけられるんですよ。本当は、その翌年のエラズリー カーショー*では、コンクール(競技会)への参加を予定していたんですけどね。コロナ禍で中止になってしまって、スティーブンは『もう待てない』って、『普段使い』し始めちゃったんです(笑)」 ▲2021 エラズリー カーショー* (*)「Ellerslie Car Show」に関しては、すでに記事を公開しているので、そちらをご覧いただきたい。https://www.qsha-oh.com/historia/article/ellerslie-car-show-2023/ ●やっぱり、レストアはイギリスの「バックヤードビルド」文化の影響なのでしょうか? (スティーブン)「それもあるだろうけど、過去の閉鎖的な経済政策も影響していると思う。そもそも多くの国から物理的に離れているから、品物が少なかったし、90年代まで、クルマなどさまざまな外国製品に対して高い関税を課していたからね。『まずは自分たちで直す、DIYする』という社会だったんだ」 ■TOMORROW ふたりの「明日」、今後の計画について尋ねてみたところ、別途所有されている「SA22C型 12Aターボ」のフルレストアを2年以内に開始したいそうだ。 (スティーブン)「本当は、レストア自体を生業にして、培った知識を若い世代に遺せたら、最高なんだけどね。あくまでも、自由に使えるお金がある裕福な人が、思い立ったそのタイミングで発生する業務だからね。ビジネスとしては成立しにくいんだよね」 残念なことに、その若い世代の筆頭と成り得るケンダル家の「お嬢さま」は、クルマへの興味がまったくなく、今はファッションとK-POPに夢中だそうだ。 でもしかし、筆者は「まだ分からない」と思う。 だって、ミチコさんがそうだったじゃないか。 なにかのタイミングで、クルマ愛が化学反応的に表面化する日もあるはずだ。 クルマのイベントに、いつも仲良く夫婦2人で参加される姿は、「微笑ましく」、そして「羨ましい」。 ぜひ、いつまでもお幸せに! [画像提供/Kendallご夫妻、 ライター・撮影/tomato]

クルマとは「ライフワーク」そのもの。トヨタ・カリーナ Gリミテッド(1992)
オーナーインタビュー 2023.05.26

クルマとは「ライフワーク」そのもの。トヨタ・カリーナ Gリミテッド(1992)

年式が古くなるにつれ、90年代車にもスポットが当たるようになってきたと感じる昨今だが、もう何年も前からそのカッコよさの虜になり続けている人たちも少なくない。 そのなかでも特に"極まっている"……と思う人物に今まで何度か出会うことがあった。 今回紹介するTetsuGTさんはアラサー世代のなかでも、特に90年代のトヨタ車への造詣が深い人物だと感じる。 そのエピソードは枚挙にいとまがないのだが、個人的に感心させられるのは、氏が20代の頃から続けている東南アジア各地へと旅をし、日本から輸出された中古車のカリーナやコロナ、カローラにカムリ他、現地仕様車などの姿をも追い求めて歩き続けていることだ。 そのひたむきな愛情と興味は自身で所有する車両にも色濃く現れている。 なんと、現在所有する台数はなんと14台(ナンバープレートがついていない車両や部品取り車含め)、歴代車歴を併せると20台以上! その事実だけを伺うと、一瞬、映画スターのようなガレージを想像してしまったが、その多くはトヨタの、しかも平成に作られたモデルで多くが占められている。 並々ならぬその原動力、そしてそのなかでも特にお気に入りのクルマについて今回はスポットをあてていくことにした。 ■クルマはライフワーク。当たり前のようにクルマが側にいる毎日 TetsuGTさんは御年34歳。 生まれてから現在に至るまで、徹底した自動車への愛と興味を注ぎ続けているそうだが、そのルーツには2台のトヨタ車の存在があるという。 「1台は母方の祖父が所有していたカローラワゴン(90系)です。祖父は自動車部品の配達をしており、幼少期の自分はよくその仕事についていっていてその姿を目の当たりにしておりました。もう1台は父親が新車で購入したカリーナ(17系)のスーパーロードで実家で所有していたクルマです。こちらも強い原初の体験になっているものです」 2台との出会いはごく自然にTetsuGTさんの生活に浸透していったことだろうが、それらが30年以上の時を経ても一貫して「好き」であり続けられることは純粋にすごいことだ。 しかし、さらにすごいのはその行動力にあるといえる。 「現在所有している17系カリーナはストック含め、全部で6台あります。自分にとってクルマといえばコレ!といえるほどの存在で、本当に好きなクルマですね。恐らく、すでに一生のなかでカリーナを維持するために必要なだけの部品、およびストックを手に入れているのではないかと思っています」 今回紹介するカリーナは自身のなかで3台目のカリーナ。 26歳のころに購入し、現在8年の月日が経過した「Gリミテッド」。 現存する個体がそもそも少ないカリーナのなかでも珍しい部類といわれるグレードだ。 エンジンはトヨタの1.6リッターエンジンの名機4A-G、出会いは業者オークションで発見し、その後中古車サイトを経由して購入したという。 「元々4A-G搭載のカリーナGT(21系)を所有していたこともあり、そのエンジン特性やフィーリングそのもののファンでした。そのエンジンが大好きな17系に搭載されているというのですから迷わず買ってしまいますよね」 世界を放浪して海外に輸出されていった数々の中古車を眺めてきたTetsuGTさん。 そんななか、8年前の中古車市場でもGリミテッドの出物は皆無だったそう。 購入後、九州から船便で送られてきたカリーナの状態を見て非常に驚いたとか。 「色んな個体を見たなかでも非常に奇麗なクルマだったんですよね。パッと見てわかるくらい手入れが行き届いているクルマで、元オーナーさんがこの個体に対して並々ならぬ愛情を注いでいるたのがよくわかったんです」 購入時ですでに23年経過、しかしワンオーナーで距離は48000km。 レコードブックなどの情報を頼りに歴代オーナーを辿って連絡をとると、そのカリーナの生きてきた痕跡を辿ることができてきたという。 「元オーナーさまはご高齢だったのですが、非常に丁寧な方でした。実はこのカリーナを手離すときは当初、廃車にする予定で解体屋に持って行ったそうなんです。ところが、その解体屋からは引き取るなら逆にお金を貰うという提示をされ、中古車買取店にもって行ったとのことでした」 クルマの運命は不思議なものだ。乗り手によってコンディションの維持が左右されるのは当然であるが、その個体の行き先が決まるのは偶然やさまざまな出会いからなるからだ。 このカリーナは幸運にも解体の運命を逃れ、九州から関東へ。 それも熱狂的なまでの青年の元に収まるのだから、その軌跡を聞くだけで見えない縁のようなものを感じざるを得ない。 TetsuGTさんのもとに嫁いでから走行距離は現在92000km。 すでに初代オーナーと歩んだ距離を上回っている。 「これまで2回ほど、関東から自走で九州の初代オーナーさんの家に"里帰り"しています。オーナーさんはこのカリーナがすでに廃車になっているものだと思っており、その再会には涙を流して喜んでくれたのが嬉しかったです。現在では年賀状のやり取りをするほどの仲になりました」 クルマと通じた出会いが、遠く見ず知らずの誰かとの繋がりを生む。 それも人生単位で関わる様な深い繋がり。 これもまたライフワークといえるのではないだろうか。 ■「クルマを維持していく」ということ 複数台を所有しているTetsuGTさんだが、日々、車両のコンディションを維持していくにはどんな心がけをしてるのか伺ってみた。 「週一回エンジンをかける、ボディカバーをかける、汚したらすぐ掃除……と、基本的なことをやっていると思っています。もちろん古いクルマなので修理する箇所は出たりするのですが、このGリミテッドに関しては本当に修理をしたことが一度もないんです。時々、仕事に行く際にも使用していますが、頑丈なクルマであることを実感しますね」 "トヨタは壊れない"と都市伝説的にいわれるが、これも眉唾でもないことを思わせる。 現在までこのGリミテッドはオイル交換など、日常の整備程度でここまでやってきたそうだが、生活をともにするなかで最も気を使っていることは「安全運転」であるという。 「自分がどんなに気を使っていてももらい事故などはありますが、そもそも自分がスピードを出し過ぎない、など基本的なことを守るようにしています。この個体に関してはガーニッシュやリアスポイラーなど、樹脂で出来た部品は二度と同じコンディションのものは手に入らないと思っています。とはいえ、そんな気遣いをしながらも楽しくドライブができるカリーナのことがやはり大好きですね」 最後にこのカリーナとTetsuGTさんの今後についての目標を伺ってみることにした。 「自分が運転できなくなるまで添い遂げたいですね。しかも手離すときはどこかに寄贈できるような、そんなカタチを迎えられれば本望だと思っています。そんな目標を目指すためにも、そろそろガレージハウスみたいなものを建てられればいいな、なんて想像している最中ですよ」 原風景のなかにあったクルマ達を心ゆくまで堪能する。人生のなかでそんな経験はなんて素晴らしい時間だろうか。 そんな経験のなかでまた新たな繋がりが生まれ、拡がっていくエピソードたち。 クルマたちが運んできたかのようなワクワクするようなできごとが、TetsuGTさんの行く先にまだまだあることだろう。 カリーナとともに進んでいく未来を、この先も楽しみにしていきたい。 [ライター・撮影/TUNA]

祖父から孫へ受け継ぐクルマ。日産・ブルーバードSSS(1991)
オーナーインタビュー 2023.05.19

祖父から孫へ受け継ぐクルマ。日産・ブルーバードSSS(1991)

先日、旧型車の集まるイベントに出展されていた「愛車の終活・相続」のサービスが目に留まった。 生きとし生けるものすべてに訪れる最期。 愛車家にとってもそれは平等にあり、想いが大きなほど残していく物事へ馳せる気持ちは小さくないだろう。 ふと振り返り、自分のクルマを眺める。 あと何年ハンドルを握ることができるだろうか。 最後にはどんなクルマを所有しているだろうか。 もし、そのときクルマを誰かに託せたら心残りはできるだけ少なく旅立てるだろうか。 そんな想いが堂々巡りになっていくなか、知人と、その愛車のことを思い出しインタビューを申し込むことにした。 春の陽気のなか、県道の向こうから白いセダンがやってくる。 そのクルマのノーズは昨今の公道ではかなり低くコンパクト。 それは妙に懐かしく、でも脳裏にひっかかるあの感覚は、かつて筆者の実家で所有していたクルマと同型だからだろうか。 日産・ブルーバードの歴代8代目となるU12型は1987年にデビュー。 セダンとハードトップ、コンフォートなアーバンサルーンシリーズとスポーティなSSSシリーズ、エンジン展開もワイドに用意され、かつての街なかではさほど珍しいとは感じない車種だった。 国内での生産終了から30年以上の月日が経ち、こうして眺めてみるとハッとするほどに新鮮だ。 白いボディ、リアドアには誇らしげな"TWIN CAM"の文字。 スポーティーな装いのセダンを新車で購入したのは現オーナーの祖父にあたる人物だ。 祖父から孫へと受け継いだ日産・ブルーバード。 一体どんなエピソードが宿るのか、すこしだけ覗いてみることにしよう。 ■祖父から受け継ぎし白いセダン オーナーのひらくえさんは29歳。 以前、初代RAV4の記事でインタビューさせていただいたオーナー様だ。 RAV4は家族で所有するクルマだったが、今回のブルーバードは正真正銘ひらくえさんご自身のクルマだ。 今でもこうして元気に走っている個体だが、実は元々おじい様が手放そうといい出した際には捨てられそうになっていたという。 10年前にはすでに希少車であっただろうこの個体。 何故運よくひらくえさんの元に受け継がれたのだろう。 「高齢になった祖父母にはブルーバードはすでに大きな車体でした。当時、新車のマーチなどへ買い替えも検討していたそうなのですが、クルマを買わずに免許の返納を選択したそうです。当然、祖父母にとって古くなって乗らないクルマは必要ないとのこととなったのですが、丁度自分の免許取得の時期が重なりブルーバードを引き継ぐことができました」 1993年生まれのひらくえさんはブルーバードの購入時19歳。 自身より年上となる91年生まれのブルーバードはあまりにも思い入れのあるクルマだったそう。 譲渡される際、祖母からは「こんなの乗るの?」といわれてしまったそうだが、幼少期からクルマ好きだったひらくえさんにとってブルーバード、もといセダンという存在は特に大きな存在だったのだ。 ■自我が芽生えるより先にクルマが好き。DNAレベルで愛してる 両親ともにクルマには興味のない家に育ったというひらくえさん。 しかし、幼少期のひらくえさんを見た両親は「この子、ヤバいくらいクルマ好きなんじゃないかしら」と気づき始めることとなる。 「1歳になるかどうかの頃に、父方の祖母がトミカのセドリックの赤いミニカーを買ってくれたんです。数ある玩具のなかでもそれが特にお気に入りで、肌身離さず持ち歩き続けていたらしいです。また、ベビーカーに乗っていた頃から街行くクルマに関心を持ち続けていたらしいんです。今とほとんど変わりませんね(笑)」 強くクルマに惹かれていく我が子を見過ごせないひらくえさんのご両親。 その興味の眼差しに徐々に理解を示してくれたという。 「両親はクルマには興味のない人でしたが、小さな頃の僕のクルマ趣味に理解を示してくれたことに感謝しています。例えば、2歳のときに東京モーターショーに連れて行ってくれたり、そのなかでも古いクルマが好きらしいということを汲み取り、関東からわざわざ日本海クラシックカーレビューに連れて行ってくれたりしたこともありました」 ご両親の協力もあり、DNAレベルでクルマが刻み込まれていったひらくえさん。 とはいえ30歳を目前に一切ブレずにクルマ趣味を続けてこれたのは自分でも不思議なことだそう。 小、中、高等学校と己の道を進み続けたひらくえさん。 18歳の頃に免許を取得し、専門学校に進学した後はこのクルマで通学もしていたそうだ。 「整備士などを養成する自動車系の専門学校に通っていたのですが、当時すでに古い型のブルーバードで通学することは珍しい存在でした。大がかりな作業はプロに依頼していますが、スピーカーを取り付けたり最低限のメンテナンスは自分で行うようにしています」 車体から異音がしたりすると、故障個所の予測を立て予防整備をすることも少なくないとか。 ひらくえ家で28年もの間所有しているRAV4とともに物持ちが良いのは、日頃の付き合い方やエピソードからも垣間見ることができる。 ■「ブルーバードが好きだ」シンプルなクルマの素性に惚れる 「気に入っているところはクルマ自体がシンプルなところですね。華美なところはなく、走る・曲がる・止まるに難なく応えてくれることがすごく気に入っているんです。CMのキャッチコピーのとおりで、"ブルーバードが好きだ"なんですよね」 そう話すとおり、ブルーバードは当時のバブル真っただなかのミドルクラスセダンを思い返しても豪華すぎる装備は奢られていない。 しかしながらカーステレオにエアコン、パワーウインドウなど、令和の世にあっても最低限欲しいものが装備されていることも不満が生まれないことのファクターであろう。 それにデザインにおいてもシンプルでありつつ、ナチュラルな凛々しさを感じる。 エンジンはSR18DE、1.8リッターの名機だ。 ミッションは5MTで日常生活に何ら不満はないという。 この10年間のなかでブルーバードとはどんな思い出が詰まっているのだろうか。 「このクルマと過ごした思い出はいろいろありますね。自分はSNSをやっていないのでインターネットを通じた出会いは数少ないのですが、リアルのイベントでブルーバードを見て声を掛けてくれた人と交友が拡がり、今では会えば何時間でも話せる深い仲になっています」 20代のクルマを取り巻く環境といえばSNSがありきになりつつある昨今、リアルでの出会いから始まる仲はかけがえのないものとなるだろう。 「クルマってコミュニケーションのツールだなあとつくづく感じています。例えばクルマで4人で移動するとき、走行しながら生まれる会話や眺めた景色から生まれるアイデアがあると思っています。このブルーバードにはかなり沢山の人が乗ってくれて、その分生まれたエピソードが10年分の記憶が詰まっているといっても過言ではないですね」 きっとこれからも長い間の付き合いが続いていくんでしょうね、と筆者が投げかけると「頼むから部品の供給だけはつづいてください!」と切実な言葉を貰った。 「最近ではエンジンマウントにダメージがあり、メーカーからは4つあるうちの2つしか出ませんでした。その2つの交換で症状は良くなったので現状は快調そのものですが、これからは創意工夫で走ることもあるだろうな、と思いつつなるべく延命していきたいなと思いますね」 旧車属性に足を踏み入れつつある個体のオーナーとしてはその声がメーカーへと届いてくれると嬉しいものだ。 最近ではメーカーも部品の再生産に力を入れ始めているが、すべての車種でそれらが行われるのは生産上難しいことであろう。 「それでも、なんだかんだで乗っていくんだと思っています」 ひらくえさんからさらりと出た言葉はあまりに力強い。 祖父から受け継ぎしブルーバードは生産されてから32年目。 もうとっくの前から公道ですれ違う機会はほとんどない。 別れ際、懐かしい日産車のセルとエンジン音が響く。 去っていく後ろ姿にはまだまだいけるぞ、という気配が漂っているように思えた。 ひらくえさんとこの先もカタチあるかぎり、新たなエピソードを生み続けながらこの先も羽ばたくことを予感させながら。 [ライター・撮影/TUNA]  

商用バンの中ってどうなってるの? カーディテイラーが乗る日産・ADバンを覗く!
オーナーインタビュー 2023.04.24

商用バンの中ってどうなってるの? カーディテイラーが乗る日産・ADバンを覗く!

オフタイムはクルマ趣味を満喫している人で、オンタイムもクルマにまつわる仕事についているケースも少なくない。だが、お仕事中も興味のあるクルマに乗れるかというと、そうでもないだろう。 平日の高速道路、走行車線をのんびり流していると右側から目を三角にしてカッ飛ばしていくライトバンの姿を何度も見たことがある。 素直に「お仕事、お疲れ様です」と心の中で唱えつつ、あのドライバーとライトバンはどんな関係で、どんな心持ちで仕事をこなしているのだろうと考えてしまう。 筆者がかつてエンジニア業に携わっていたころ、社用車のプロボックス・ハイブリッドで街を駆け巡っていたことがある。 まだ、街中でプロボックス・ハイブリッドの商用車とすれ違う機会が少なかった事もあり、新車おろしたてのピカピカプロボックスのステアリングを握り、業務そっちのけで会社と目的地の間を楽しくドライブしていた。 そんなエピソードを会社の食堂でクルマ好きの同僚に話すと「お前、よく商用車なんかに興味を持てるなァ……」と半ば呆れ気味に返された。 彼にとってライトバンの車内で過ごす時間は、あくまで仕事中の”苦痛な時間”で、筆者のように”移動ご褒美タイム”などではなかったことを知り、少し寂しい気持ちになった。 それからというもの、渋滞の首都高のなか追い抜き追い越されする商用バンたちの様子とドライバーの表情をときどき伺っていたものだ。 実は今回の取材は別件のテーマで依頼する予定だったのだが、取材先に乗ってきて頂いたADバンを見てふと首都高で眺めていたときの「ライトバンの中身はどうなっているのだろう」という純粋な疑問が思い返された。 取材対象のジュンさんに事情を説明するとインタビューを快諾してくださった。 クルマの取材記事では珍しいかもしれない、仕事終わりの“ありのままの”姿をひとつのケースサンプルとして眺めてみることにする。 ■生粋のクルマ好きはカーディテイラーに ジュンさんは33歳、学生耐久レースでは92レビンのステアリングを握り、卒業後はディーラーメカニックとして働きながら日産の初代ウイングロードを所有するなど、平成生まれとしては少しディープなクルマ体験をしてきた。 クルマの書籍やビデオカタログにも造詣が深く、骨董品を見つけては手に入れることをライフワークとして続けているそうだ。 20代後半はアパレル業などでも活躍していたジュンさんだったが、根っからのクルマ青年だったことと、クルマの造形美に改めて魅せられはじめ、車体を際立たせるカーコーティングの道に惹かれていったそう。 あれよあれよという間にカーコーティングショップに転職し、今ではプロのディテイラーとして働いているそうだ。 「カーディーラーや中古車店などで磨きをさせていただいてます。元々クルマのカタチやデザインに興味を持っていたのですが、実際にその表面や塗装に触れてみるとクルマやコンディションごとに表情があり一つ一つ課題を立てて磨くのが凄く面白いんです。弊社は磨きを行うブースも完備していますが、販売店で展示されているものを洗車することもあるので道具などを常に載せられるクルマは業務に欠かせない相棒ですね」 ジュンさんの相棒は日産ADバン。 まだ現行車である為街中でもよくみかけるが、実は登場は2006年と古く取材次点で17年の歴史がある。 今回ジュンさんが乗ってきてくれたADバンも2008年式と生産からはそれなりの経過年数が経っているが、業務用途で使っている割には痛みがちな無塗装バンパーやヘッドライトもビシっと奇麗な印象を受ける。 「業務上、あまり汚いクルマでお伺いするのは良くないので外装の印象やメンテナンスには気を使っています。ただ、元々中古車を導入しているので頑張っても消せないダメージがあり、そういった部分は磨いてごまかしたりもしていますね(笑)」 スチールホイールやサイドシルの一部はDIYでブラックに塗られており、ADバンを知る人なら違いがわかるかもしれない。 こういった小さな差異が道具としての満足感を高めるものでもあるだろう。 ■意外と良い走り味、侮れぬライトバンの実力 走行距離は11万キロ台、商用車にしては距離が浅いがその乗りごこちはいかがだろう? エンジンは1.5LのHR15DE。最大積載量は450kg、一般的な使用には不足を感じさせないスペックだ。 「ADバン、商用車としていいクルマだと思います!走りに安っぽい……というネガはあまり感じません。前職で90年代のライトバンに乗っていたことがありましたが、リーフリジットサスペンションのころのクルマとは比べものにならないですね」 そう伺うと運転してみたくなってしまい、少しの距離を走らせてもらうことにした。 4速ATのギアを入れる感覚はまさに日産車、といった印象。走り出しにダルな感じはなくトルクは充分。乗用車の3代目ウイングロードとインパネを一部共有しながらバン向けの専用設計としているだけあり、内装にもさほど安っぽさを感じない。走り始めてからも遮音性で悲しい気持ちになるかと思えばそんなこともないのだ。 逆に、乗用車ベースのデザインでありながら、ペン立てやグレードによってはマジックボードの機能や助手席のシートバックテーブルが出現することなどなど……痒いところに手が届くこのツール感覚は、長距離を走る車中泊にももってこいなのではなかろうか。 「実際このクルマのなかで食事をしたり休憩をすることもありますね。日々、関東の北側はどこへでも行く体勢としているので、室内は雑然としつつも今の状態は自分が使いやすいように配置しています。ちょっと恥ずかしいですが……」 トランクスペースはカーコーティング用の道具でいっぱいだ。 掃除機に薬剤、バケツなどなど……いつでも洗車が開始できる状態が整っている。 「本当はもう少し荷物を少なくして移動することも可能なのですが、いつどんな内容でも磨きが始められるようにしていますね。もっと荷物をまとめられるならば、セダン系の車種を営業車にして走り回ってみたいです。今はJ31のティアナなんかがすごく気になっているので、ピカピカにした状態でお客様のところへ訪問してみたいなぁ……なんて妄想してますね(笑)」 もし、カーコーティングを依頼して初代ティアナで訪問して頂いたらそれはビックリだが、そんなサービスだってきっとアリだ。 最後にADバンと一緒にあちこち動くジュンさんに今後の意気込みを伺ってみる。 「自分のクルマではないから愛着が無いか問われればそんなことはないですね!すでに2年、それも平日は毎日一緒にいるクルマなので、なかなかかわいいと思ってますよ。今はドアのサッシュがバンらしく塗装色になっているのが気になっていて、カッティングステッカーで黒くしようかな?と画策中です。今のところ故障もなく、よく働いてくれていますが、会社の都合で急にお別れの日が来るかもしれません。でも、一緒に働く限りは手をかけてあげるのが道具として、相棒としてのクルマだとおもっています!」 偶然に取材させていただいたジュンさんとADバン。 クルマ好きが就いた職場のバンという関係性ではあるものの、とある営業車にはこんな風な眼差しを向けられているのかと少し嬉しくなった。 オドメーターが刻んだ数だけ、ビジネスの痕跡を感じさせる商用車。 もしこの記事を読んでいる貴方が会社で商用車をお乗りになるならば……少し思い出してあげてほしい。 同僚や家族の誰も知らない……。 でもあなたが仕事で挑戦した喜びも悔しさも、ひょっとしたらこっそり知ってくれているかもしれない商用車たち。 そんな存在をときどき労ってみるのはいかがだろうか。 [ライター・撮影/TUNA]    

“伝説の軽トラ”ホンダ T360(AK250)復活記【前編】
オーナーインタビュー 2023.04.14

“伝説の軽トラ”ホンダ T360(AK250)復活記【前編】

ホンダ初の4輪自動車「T360(さんびゃくろくじゅう)」を修理すると聞き、復活するまでの密着取材の機会に恵まれた。 聞けば1台の部品取り車の部品を2台で共有しながら、不具合を解決していくのだという。 T360の存在は把握していたものの、筆者が実車にふれたのは初めて。 見た目の愛らしさに魅了され、注ぎ込まれた技術に圧倒された。 今回の修理の過程を前編と後編に分け、T360の魅力とともにお伝えしていく。 ■ホンダが初めて市販した4輪自動車 T360 T360は、2輪メーカーだったホンダが4輪業界へ進出した際、初めて市販された4輪自動車。 1963年から1967年という4年間で生産されたセミキャブオーバーの軽トラックだ。 エンジンを15度に寝かせて座席下に搭載するミッドシップとなっている。 もともとオートバイレースやF1(第1期)に携わって経験を積んだ技術者たちがその技術力を注ぎ込んでいるため、当時の商用車としてはありえないメカニズムで高性能を誇った。 ●開発の背景 高度経済成長期の1961年、当時の通産省から「特定産業振興臨時措置法案(特振法案)」が提出された。 国際競争力の弱い産業の強化を図るべく、「自動車」「特殊鋼」「石油化学」を特定産業に指定し、各自動車メーカーを統合して3社に絞ることにした(結果的には廃案となった)。 当時ホンダは2輪車業界で成功をおさめていた。 マン島TTレースを制覇。 小型オートバイのスーパーカブが大ヒットしていたが、4輪車の実績がなかったため特振法案によって新規参入が認められない恐れがあった。 すでに4輪車の開発には着手していたが、法案成立までに4輪車の生産販売実績をあげなければならなくなった。 開発されたのは軽自動車のスポーツカー「S360」と「S500」。そして軽トラックの「T360」。 市場では産業の発展によって商用車の需要が高まっていたことから、T360が「ホンダ初の4輪車」として市販されることとなり、1963年8月に発売された(S500は同年10月発売)。 ▲一見ピックアップトラックにも見えるがキャビンと荷台が分かれており、セミキャブオーバー型の軽トラックに分類される。マットなブルーのボディカラーは「メイブルー」と呼ばれる純正色 ●レーシングカーの発想でできあがった、日本初のDOHC直列4気筒エンジン 当時の国産車のエンジンは4ストロークOHVが主流で、軽自動車においては2ストローク2気筒が主流だったなか、T360は水冷直列4気筒DOHCエンジンを国産車で初めて搭載した。 同時期の軽自動車が20〜25馬力程度の時代に、最高出力30馬力を8500回転で発生する高回転高出力型エンジンで、ホンダがF1と2輪レースで培ったテクノロジーが活かされていた。 ▲初期型はCV型キャブレターを4連で装備[写真提供/吉備旧車倶楽部] ●なぜ残っている個体が少ないのか 1963年から1967年の4年間しか生産されなかったT360だが、現存する台数は約10万台といわれる生産台数に対して極端に少ない。 理由のひとつに、設計変更を繰り返したがゆえの「部品探しの難しさ」があるようだ。 生産当時、現場の声に素早く対応するため、生産中はまとめて改良することをせず、その都度設計変更・改修が加えられた。 そのため同じ部品・仕様で生産された現代のクルマのように、明確なマイナーチェンジモデルがないのだ。 よって、同じ年式の部品取り車があったとしても、部品が合わないことが多々あった。 これがT360の維持・再生を困難なものとしている。 また、現役当時もレーシングカー譲りの高性能で高度な設計であったため、ホンダSF(サービスファクトリー)以外の整備士が修理するには、難度が高かったという問題もあったようだ。 壊れてもすぐに直せて復帰できる実用性がもとめられる商用車、軽トラックだったからこそ残らなかったのだろう。 これがもし生産されなかったS360なら、名車として今も多くの個体が残っていたのかもしれない。 現代のクルマにはあり得ない、別格の生まれをもつT360。 その後、シビックなどのレースでの活躍もホンダのスポーツイメージをさらに高め、T360も「伝説の軽トラ」「スポーツトラック」と呼ばれるようになっていったと思われる。 ●純正から「タコ足」!  今回修理した1965年式のT360。エキゾーストパイプの形状は、ご覧の通り純正で「タコ足」であり、F1由来の思想を感じる。 高性能を売りにしたためコスト度外視。市販レベルでここまで作り込んでいるホンダは“ぶっ飛んだ”メーカーだ。 また、わずかな年式の違いでも「HONDA」の字体が異なっているプラグカバーにも注目したい。このようなわずかな違いが、愛好家にとってはこだわりの部分である。 ■T360のオーナー紹介 そんなT360を所有する、淵本芳浩さんと整備士の西栄一さん。 旧車イベントを通じて知り合った淵本さんと西さん。 淵本さんが部品取り用の個体を手に入れ、西さんが2台の修理を手がけた。 前編では、淵本さんのT360の修復を詳しく紹介していく。 ▲2010年頃、淵本さんのT360(右)納車当時の1枚。西さんのT360(左)と一緒に[写真提供/吉備旧車倶楽部] 淵本芳浩さん(62歳) 淵本さんはホンダが好きで、ホンダの2輪をはじめN360、ステップバン、Z、ライフ、バモスなどのさまざまなモデルを乗り継いできた。 愛車の1965年式T360(AK250)は、淵本さんが2011年に前オーナーのご家族から譲り受ける形で購入した個体だ。 公道復帰に向けてコツコツと整備をしてきたが、T360は他のホンダ車に比べて整備が難しく、幾度も壁にぶつかる。 そんななか、T360に長く乗り続ける整備士の西栄一さんと知り合う。 西栄一さん(68歳) 今回のレストアを手がけた西さんは、レースメカニックなどの経歴を持つベテラン整備士。 専門学校時代にツインカムエンジンの教材としてT360を使って整備技術も学んでいる。 1966年式のT360(AK250)を50年近く所有している。 ■部品取りの個体を手に入れるまで 2011年、地元の漁港近辺で部品取り用の個体を発見して購入。 部品取り用個体の年式は、淵本さんのT360と同じ1965年式だが、冒頭でふれた「設計変更・改修」がこの2台の間にも行われているため、淵本さんのT360とは共通の部分と異なる部分がある。 いっぽうで、1966年式の西さんのT360に使える部品もあった。 このことが2台の再生にあたり、良い方向に動いたといえる。 部品取り用の個体は、長い間潮風にさらされて外装はほとんど朽ちていたが、エンジンパーツや内装パーツ、ワイヤーハーネス、ガラス類など再利用可能な部品を選別し、摘出した。 ▲左は2014年、部品を摘出する直前の1枚。右は発見したそのときに撮影したもの。樹木に覆われて朽ちかけていた[写真提供/吉備旧車倶楽部] ■淵本さんのT360を修復!トラブルと対策 ▲キャブレターを脱着しての整備中[写真提供/吉備旧車倶楽部] まずは淵本さんのT360に取り掛かった西さん。 エンジンが始動するかどうかの確認から始まった。 そして、部品取り個体から摘出した部品や他車種からの流用部品、汎用品を用いて修復を進めたという。 前オーナー時代の整備状況が不明なうえ、オリジナルとは異なる部品も多かった。 一つひとつ検証を重ねながら作業が進められた。 西さん:「T360の場合、S500、S600、S800の部品が一部流用できます。オールドSの専門店から復刻される部品も増えてきましたし、以前よりもずいぶん直しやすくなったと思います。 ただ、現代車用の部品を流用する場合は、注意が必要です。とくに現代の部品を追加・交換する場合は、オーバースペックでトラブルを招く可能性もあります。 例えばインジェクション用の電磁ポンプを使う場合は、そのまま使うと燃圧が高すぎてキャブレターのオーバーフローが起こります。圧送力が大きすぎるものもあります。もし使用する場合は燃料圧力調整器を使用しなくてはなりません。 旧車の整備は『当時の状態』『修理はどうしていたのか』を紐解き、それを踏まえた“現代の修理”を行うことが重要です」 今回行った修復内容を解説しつつ紹介していこう。 ●エンジン始動不良 コンタクトポイントの異常摩耗によって点火不良を起こし、エンジンが掛からなくなっていたため、西さんのストック品を使い交換した。 コンタクトポイントを含めた電装品は日本電装製と日立製があり、双方の互換性がない。 T360には同じ時期に生産された個体であっても生産の段階から2社別々の部品が使われているという特殊な部品事情がある。 2工場で同時に生産していたことが大きな理由で、それぞれの工場に納品される部品が異なっていたと思われる。 ▲コンタクトポイントは日立製。焼け溶けてガタガタになっているのが確認できる ▲日立製(左)と日本電装製(右)のコンタクトポイント。見分ける大きな特徴は中央の凸部の形状が異なる点。互換性はない ●フューエルメーターの作動不良 フューエルメーターが正しく作動せず、燃料の残量がわかりにくくなっていた。 メーターはバイメタルを使用していて、熱変動で動いている。 そのため、メーター内の電球の熱で誤動作を起こしていた。 おそらく前に整備した人物が知らずに12ボルトを流してしまったと思われる。 現行車の考えでは修理できない例のひとつだ。 ▲6ボルトであるべき電流を12ボルトで流してしまったためバイメタルの部分が焼けてしまっている 対策として、タンクの脱着とユニットの清掃、配線の修理を行った。 確認の際、電流計は直列につなぎ6ボルトで行った(当時の2輪車の方法に準じた)。 このような部分に2輪メーカーのホンダを感じる。 ●オーバーヒート発生 試走でオーバーヒートを起こした。 水温は108度。 最初はサーモスタットの異常を疑い、サーモスタットを取り外したが変化はなかった。 さらに確認したところ、T360のラジエーターが正規品でないことがわかった。 前オーナーが特注でラジエーターを作っていたようだ。ラジエーターのアッパータンク、コアチューブが小さく、アッパータンクがチョークワイヤーに干渉していた。 サービスマニュアルと照合すると本来5リットル指定のはずだが、4リットルしか入らなかった。 ▲左が特注品のラジエーター。おそらくデータを確認せず正規品を模したため4リットルになってしまったのだろう そこで、大型車用のラジエーターをベースに、専門業者に依頼して水量5リットルのものを製作。 その際、部品取り用個体からアッパータンクとロアタンクを使用した。 サーモスタットも劣化していたので大型車用に交換。 82度で開くものを使用した。 ●フューエルタンクの詰まりと錆の発生 キャブレター清掃時、燃料に錆が混入していたのを確認。燃料タンクを取り外して清掃を行った。 ●クラッチがときどき切れなくなる トランスミッションが熱をもつことで油圧式のクラッチ系統に熱が伝わり、ペーパーロック現象を引き起こし、クラッチが切れなくなっていると推察。 熱を遮断するスレーブシリンダーインシュレーター(ガスケット)を確認したところ、取り付けられていなかった。そのため、シャフトの作動にも異常をきたしていた。 急きょ、西さんのT360に装着しているものを見本に、ベークライトを切り出して製作した。 ▲本来は○部分にスレーブシリンダーインシュレーターが取り付けられている ●チャージランプの不良 チャージランプが頻繁に切れるので確認したところ、ヒューズホルダーの接点に錆が発生。 熱をもつことで正常に作動しなくなっていることが判明した。 高回転でフルチャージになったときに不良を起こす。 ヒューズホルダーASSY交換(汎用品)で対応した。 ●燃料漏れ発生 純正の機械式フューエルポンプのアウト側のキャップが外れて燃料が漏れ出した。 淵本さんが保有していたホンダ ライフ(初代)用の電磁ポンプを加工・取付。 ガスケットは製作した。 ●キャブレターのオーバーフロー(燃料漏れ) フロート(浮き)に堆積した汚れが原因だったため、清掃を行った。 ●キャブレターの調整 4連キャブレターのため、調律・調整をとるのが難しい。 エンジンが座席の下にあることで脱着の回数も多く、時間を要した。 セッティングはまだ納得できるレベルではないので、今後さらに煮詰めて絶好調へ持っていく予定だ。 ▲左からサクション・ニードルの調整。フロート(浮き)のレベル(高さ)の調整。プライマリーエアージェット、セカンダリーエアージェットを分離しての点検・調整[写真提供/吉備旧車倶楽部] ●サービスマニュアル ▲販売開始当初のサービスマニュアル 今回使用したサービスマニュアルは極初期型用だった。 淵本さんのT360が生産されるまでの間にも繰り返された設計変更・改修により、このマニュアルと現車では、情報と異なる部分も多数あった。 しかし、サービスマニュアルがあるとないとでは、修理するうえでは大違いだ。 ■よみがえった淵本さんのT360 修復作業が一段落し、淵本さんのもとに戻ったT360。 ひさびさの愛車の乗り心地と、T360とのこれからについて伺ってみた。 淵本さん:「西さんに預ける前は、エンジンの回転が上がりにくい状態でしたが、今は吹け上がりもスムーズで走らせていて気持ち良いです。ですが、まだ完璧な状態ではないので、引き続きセッティングを行いながら長く付き合っていけたらと思います」 ■取材後記 自動車会社としての運営体制を整えながら造りあげた、ホンダ初の4輪自動車T360。 当時の時代背景や社内事情もあったにしても、これだけの高回転高出力型エンジンを軽トラックに採用したアンバランスさは、さながら軽トラック(T)の皮をかぶったスポーツカー(S)だ。 そして当時の技術者たちの「今より良いものを作るんだ」という情熱で繰り返されたであろう設計変更・改修の歴史は、軽トラックとしてあるべき姿になっていく過程のようであり、今となっては大きな魅力となっている。 まさに“伝説の軽トラ”だ。 続く後編では走行の様子もレポート。西さんのT360の修復と、T360のさらなる魅力を掘り下げてお届けする。 [取材協力/吉備旧車倶楽部] [ライター・撮影/野鶴美和] 

ニュータウンよりの使者 トヨタ・マークII 2.5GTツインターボ
オーナーインタビュー 2023.03.24

ニュータウンよりの使者 トヨタ・マークII 2.5GTツインターボ

好景気に沸いたバブル景気。 当時を生きた世代にその頃の様子を伺うと「ウチはそんなに恩恵に与ってないわよ〜」なんて聞くのだが、実際のところの消費者行動は2023年よりリッチに感じる。 ちなみに筆者は1990年生まれで、80年代後半に造成された新興住宅地で育った。 最近になって地元を歩くと、公園や住宅地の入口の看板近くのコミュニティ施設などを含めてお金がかかっているなあ、というのが正直な印象だ。 今では多くの日本の都市と同じように高齢化が進み、子どもたちの声は昔より少なくなったと思う。 あまりにテンプレート的な情景だが、ひび割れたままの住宅街の道路と取り外されたままの公園の遊具はどこか物悲しさを感じる。 往時の北海道の住宅街でよく見かけたクルマといえば、ハイラックスサーフやライトエース、パジェロなど4WDとディーゼルの車種が多く、それもグレードはどれも低くなかった。 そのなかでもやはりセダン系の存在感は幼心に影響を与えていたと思う。 ところ変わって90年代の前半、西東京の街に一人のクルマ好き少年がいた。 街は古い団地にメタボリズムを与えながら煌びやかなニュータウンが完成していく。 変化していく街並みを、父親が運転する白いハードトップから覗いた少年時代。 その記憶に触れてみたいと思う。 ■ハードトップの車窓から オーナー氏は今年35歳。 ものづくりの現場に携わるいわば“職人”といって良い職業だ。 東京で生を受け、現在は地方都市に在住している。 「クルマが好きだった兄や父の影響もあって、自然とクルマ好きになっていました。特に歳の離れた兄がミニカーやカタログを集めていたりしたので、興味を惹かれるのは90年代の乗用車が多かったんです」 そんなオーナー氏の心に突き刺さっていたのが、父親が乗っていた7代目のスカイライン“GTターボ”だった。 「生まれた頃に家にあったのが7thスカイラインのハードトップだったんです。色はホワイトでしたが、グレードはパサージュなどとは異なり地味な印象の車両だったと記憶しています。それでも、CMやカタログで謳い文句になっていた“都市工学です”という言葉に憧れていましたし、街の情景にまさにマッチするクルマだなあという印象でした」 今でも、ときどきではあるが、カタログやミニカーの収集をしているというオーナー氏だが、当時からスカイラインのカタログは穴が開くほど眺めたという。 当時、父親の仕事も好調だったといい、物持ちの良いオーナー氏の一家にも好景気に乗っかり、新しいクルマに乗り換えるタイミングとなった。 スカイラインにも深い愛着があったそうだが、乗り換えに際して白羽の矢が当たったのがトヨタ・マークIIだった。 「我が家に来たのは後期型の2.5リッター、グランデでした。子ども心にも内装の触り心地やドアの音ひとつとっても贅沢なクルマで、ものすごくカッコいいクルマがやってきたぞ!という気持ちになりましたね。例えば、父と買い物に行ったり洗車に行ったりと、ささやかなシーンでも印象深い記憶が多く“クルマといえばこれ!”という気持ちなんです」 90年代も後半になり、オーナー氏の一家は地方都市へと移住。 その後住んでいた地域での使い勝手もあり、マークIIは初代のムーヴへと入れ替えられた。 だが、一度火がついたクルマ好き少年の火は消えることなく大きく燃え盛っていく。 「卒業後、エンジニアリング関係の仕事に就きました。そこは自動車にもまつわる環境で質感などを追求する場所でもありました。就職後には元来のクルマ好きが目を覚まし、アルファロメオ・GTVを購入して取り憑かれたようにドライブに明け暮れていたのですが、車両トラブルも多く乗り換えを検討し始めました」 実はアルファロメオを所有しながらも、常々中古車サイトでマークIIやスカイラインを眺めてはいたというオーナー氏。 店頭で実際に触れてしまうと欲しいという気持ちが加速してしまい、掲載されていたマークIIを見に行ったその場で即決したそうだ。 ■さまざまなオプションが組み合わされたマークIIにひとめぼれ 1991年式の80系マークIIハードトップはモデルのなかでも後期にあたる。 販売面でもメガヒットを記録した同車は、販売店独自でさまざまな仕様や初代オーナーが注文したであろう大量に用意されたオプションの数々で、特異な個体も多く存在する。 オーナー氏のマークIIもいわゆるそんな個体で、2.5GTを基本としながらも細部の仕様が異なる。 例えば、ハイマウントストップランプ内蔵のトランクスポイラーとリアガラス内側のハイマウントストップランプがダブルで取り付けられていたり、グレーの内装にブルーガラス、クリアランスソナーの装備やスペアタイヤまでアルミホイールになっているなどなど…なかなか珍しい組み合わせの個体だ。 「走行距離や個体の程度を重視で購入したのですが、現物を見ると珍しい装備の組み合わせが揃った個体であることに気づいたのも購入の決め手でした。何より、実際に乗り込んだときのフィーリングがよく、気に入ってしまいましたね。ボディが小さく、見切りと視界の良さが抜群に良いことも運転していて良いな、と思った点でした」 ■クルマと未来へ行くために オーナー氏が購入してから約6年。 メカ類の交換はいろいろと行っているものの、日々の使用には問題なく活躍しているという。 長く使用していくなかでどんな部分が気に入っているか伺ってみることにした。 「マークIIは非常に元気よく走る部分が気に入っています。やはりターボが効いてからは胸のすくような加速感を味わえますね。また、部品類ひとつひとつの作り込み方がとてもしっかりしているのもこの時代の特徴かもしれません。シートや内装の触り心地、どこを触っても硬い印象がなく、現代でも高級感が感じられる仕上げになっている部分が気に入っています」 マークIIを前にして、内装の質感や乗り心地をさまざまな視点から語るオーナー氏は、さすがものづくりの現場にいる人だと思わざるを得ない。 そしてその口元から溢れる笑みからはこの個体が本当に好きなんだろう、という気持ちを強く感じさせる。 「今後、EVや燃料電池のクルマが出てきても乗れる限りはこのマークIIを手放すことはないでしょう。現在は機関係のリフレッシュに重点をおき整備をしていますが、今後は外装のリペアも行っていけたらいいなと思っています。もし手に入るのならば、新型のZなども近年の内燃機関エンジンのクルマとして非常に気になっている存在ですが、きっとこのまま浮気せずマークIIを所有していくような気がしていますね(笑)」 取材を終えて、オーナー氏とマークIIは走り出す。 取材場所は偶然にも住宅街となり、情景があの日見たニュータウンと重なる。 すでに生産から30年以上が経過した車両。そして人々の営みとともに歴史を重ねていく街並み。 そんななか、マークIIはこの先も生き続けていくことだろう。 JZエンジンの静かな響きが住宅街の空間に小さく反響する。 その音色は将来、街や自動車のカタチがどんなに変わろうとも、マークIIが今後も変わらない姿を約束してくれているかのようだった。 [ライター・撮影/TUNA]  

28年ワンオーナー、4人家族の中に トヨタ RAV4 L Ⅴ(1995)
オーナーインタビュー 2023.03.06

28年ワンオーナー、4人家族の中に トヨタ RAV4 L Ⅴ(1995)

愛されるクルマとはなんだろう───。 オーナーによって接し方はさまざまだ。 空調付きのインナーガレージで日々眺め、週末のドライブを楽しむ人。 はたまたSNSで写真を日々アップロードする人。 生涯でも大きな買い物といえるクルマだからこそ、天塩にかけて愛でたくなる気持ちも大きくなることだろう。 先日、筆者は15年落ちのファミリーカーを購入した。 手元に来たら一度しっかり洗車をしたくなる筆者なのだが、購入したクルマのシートレールの隙間から年代ものの“アイカツ”カードが出てきた。 他にもヘアピンや小さなお菓子のパッケージなどなど、「小さな子どもと家族」の痕跡が至るところから発掘され、そのクルマが家族の愛のなかで存在していたことに思いを馳せた。 ▲94年に発売された初代トヨタ・RAV4。1年後に追加された5ドア版がRAV4 Ⅴ(ファイブ)だ 同じ公道を走るクルマといえど、スーパーカーとファミリーカーでは住む世界が違う…のかもしれないが、それぞれの人と機械の関係性。 過ごした時間から来る思い入れや感情にはそれぞれのストーリーがあるはずだ。 今回紹介するクルマも、20年以上前は街中でよくすれ違ったファミリーカーだ。 しかし、今になってみれば年に何回すれ違うだろうか、といった具合。 それもワンオーナーカーともなれば、その個体と重ねた経験の数々は計り知れない。 オーナーと家族の物語。そんな視点で紐解いてみようと思う。 ■子供のころからずっと一緒。家族とともに歩む28年 「自分が2歳の頃我が家にやってきたんです。父がこのクルマの前に乗ってたCAアコードとの別れが非常に寂しかったことすらいまだに覚えていますね〜!」 笑ってそう話すのは平久江さん、今年30歳になる温和な青年だ。 普段ならそのクルマのオーナーさんにスポットを当てるが、このクルマの持ち主は彼のお父様である。 1994年に登場したトヨタ・RAV4。 それから1年遅れの1995年に追加で登場するのが5ドア版のRAV4” L”と”J” Ⅴ(ファイブ)だ。 平久江少年が2歳だった頃やってきたRAV4だったが、本来はSUVタイプのクルマが欲しかったわけではなかったという。 「天井のライナーが落ちてきたCAアコードに憤りを覚えた父は、当時別のクルマをオーダーしにトヨタのカローラ店へと足を運んだそうです。そこでディーラーの方におすすめされたのがRAV4 L Vでした。当時はまだ発売前だったこともあり、RAV4にはまったく興味のなかった父でしたが”家族4人で乗るならば…”と、購入を決めたらしいですね」 ショールームにあったRAV4も平久江家と同じライトアクアメタリックオパールだったそう。 シルバーやダークブルーといった個体が多かったRAV4だが、なぜこの色を選んだのであろうか。 ▲ボデーカラーはライトアクアメタリックオパール。RAV4 Ⅴの専用色だ 「父が石などに興味があり、色の名称と見た目の雰囲気に一目惚れしたそうです。まだRAV4を街中でよく見かけた当時から珍しい色で、同じ色の個体とすれ違うと家族でちょっとした話題になっていたのが思い出深いです」 まさに新車オーダーならではのエピソードだ。注文時からのこだわりは他にも続く。 「ディーラーの方から新車時にしかつけられない装備がありますよ!といわれ、メーカーオプションでさまざまなものが取り付けられています。今となっては珍しい装備ではあるのですが、ほとんど使用しているのを見たことがないムーンルーフなど…本当に必要だったのか?と思ってしまったりしています(笑)」 ▲「父が使っているのは数回ほど」というムーンルーフは工場出荷時のオプション。息子氏は便利でよくチルトアップして利用するようだ ときどき中古車市場で流通するレアなオプションが装備されている旧型の中古車たちにも、注文時にはこんなエピソードがあったのかもしれない。 ただ、それらの話を30年近く経過した今、実際の愛車を前に伺えるのはこういったメディアの前にでも出てこない限りかなり稀有なことではないだろうか。 ところで、平久江家ではなぜ28年もの間、RAV4は愛され続けたのだろうか。 「単純にこのクルマであらゆることに不足しないからなんです。我が家の車庫事情が5ナンバーサイズまでというのもありますが、家族4人で乗車して荷物を積んでも窮屈さを感じません。免許を取得してからは僕もよくこのクルマを使わせてもらっているのですが、このサイズ感は自分でも気に入っています。今のRAV4もすっごくカッコいいと思っています!」 ▲インテリアもトヨタらしい質実剛健なデザインだが、それまでのクロカン系車種の無骨なデザインではなく、同社のセダンなどからも遠くない上質なものだ 最近では街中で走っていると、後方についた現行のRAV4ユーザーが驚きの顔で「これがRAV4?」と話しているかのようなシーンとも何度か遭遇することもあったとか。 確かにラギットに進化した近年のRAV4とはキャラクター自体も異なっているように感じるが、タウンユースもアウトドアユースも気軽、かつアクティブに一台でこなせる姿は過去から現代まで続くキャラクターといえよう。 車体の全長は4105mm、全幅は現行のトヨタ・ライズと同じで1695mmの5ナンバーサイズだ。 ラウンディッシュなボデーの造形は抑揚があり、当時のトヨタデザインらしい艶やかさも魅力だ。 販売店チャンネル違いで販売されたRAV4の”J”と”L”。 Jは当時のオート店向けでLはカローラ店向け。 Lのグリルは格子状になっているのが特徴のひとつだ。 ▲3S-FEはタフな名機だ。スポーツカーなどにも搭載されているが、イプサムなど海外でも評価が高い エンジンは名機3S-FE。 2リッター、135psは必要にして十分。 何よりその高い耐久性は、海外に中古車として輸出されていった同エンジン搭載車が今でもかなりの台数走り回っていることを考えると自ずと頷けてしまう。 メーカーでの装着オプション以外にカスタムされた点は少なく、ナンバープレートも新車当時のまま。 猫可愛がりされているガレージ保管の車両ともまた趣が異なり、28年間のありのままの姿が逞しく見える。 例えば、車内の携帯電話の充電器やクッション類すらもこのクルマの歴史を物語る痕跡だ。 少年時代の平久江氏とはどんな思い出を紡いできたのだろう。 「自分の子供時代はキャンプや潮干狩りに連れていってもらった記憶がありますね。そういった思い出補正的に特別な感情があります。今は自分もクルマが大好きで、自動車にまつわるイベントを開催する側にもなったほどです。そのうえで感じるのは、新車から長い間一台のクルマを感じられることはなんて恵まれた環境なんだろうと思っていますね」 ▲カンガルーバーはオプション。フォグランプガードがアウトドアライクなデザインは現代にも通ずるものだ 生涯、何台のクルマに気持ちを揺すぶられることだろう。 そのクルマと生活を共にして思い出が作れたならば愛車家としてはこの上ない。 そしてこのRAV4も平久江さんにとって格別な存在であることだろう。 今後、このクルマとどんな風に時を過ごしていきたいか最後に伺ってみることにした。 「今は所有者である父親が免許を返納するまで、なんとか無事な状態で生き残って欲しいと思っています(笑)。ここまできたらRAV4は手放さないつもりでいて、ある意味責任といいますか、できるだけ長く所有できればと思っていますね!」 クルマと家族の物語。幼い頃より共に暮らし育ち、育てられてきた存在。 大きくなった平久江さんはRAV4のシフトノブを握り西へ東へと今日も行く。 愛されるクルマとはなんだろう───。 その答えはやはり千差万別であるのだが、少なくとも平久江家のRAV4はそこかしこにエピソードが宿る。 そんなクルマはやはり”愛車”と呼ばれるのに相応しい気がしたのだ。[ライター・撮影/TUNA]  

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