オーナーインタビュー

銀幕への憧れはカナダを経て結実!ホンダ・シビックフェリオ(2004)
オーナーインタビュー 22.11.15

銀幕への憧れはカナダを経て結実!ホンダ・シビックフェリオ(2004)

■映画の記憶は実車を作り上げる「行動動機」へ 映画 ワイルド・スピード(英: Fast & Furious)シリーズに影響を受けてクルマへとドップリ浸かっていった人は少なくないだろう。 現在シリーズ9作品目、1作品目から既に21年を誇る大人気映画シリーズだ。 改めて劇場の席に座る観客の顔ぶれを思い出せば、幅広い年齢層からも支持されているのがとてもよく分かる。 特にワイルド・スピードのシリーズ前半では、日本車のスポーツコンパクト系のチューニングカーとストリートシーンがドラマチックかつ大胆に描かれている。 筆者もかつてDVDプレーヤーを何度も一時停止して、登場する車種のディテールを観察してはインターネット上にある情報と照らし合わせていた記憶が甦る。 今回紹介するシビックのオーナー、「ねおっちさん」もワイルド・スピードシリーズに影響を大きく受けた一人だ。 クルマをぱっと見ただけでも当時のシーンを思わせる雰囲気がそこら中に散りばめられているのが分かる。 カスタムを愛車に取り込むだけではなく、実際に海外へと足を運び続けそこで見た景色を愛車に落とし込む姿勢に惹かれ今回のインタビューと相成った。 まずはオーナーさんの生態から紐解いていくこととしよう。 ■お受験姿勢への反抗!?好きこそモノの上手なれ! ▲国内向けの右ハンドル車をベースに、カナダ仕様へとオーナーの手によって作り上げられていく7代目シビック。モデルとなるのは2004年式のSiだ ねおっちさんは1995年生まれの27歳。 免許取得後、トヨタの初代MR2を皮切りに、現在は英国仕様にモディファイされたスズキ・アルトと、カナダ仕様にモディファイされたホンダ・シビックの2台の車両を所有する生粋のカーガイだ。 愛車のそれぞれがカスタムを施され、オーナーの趣向を色濃く反映しているが、そのどれもが少しマニアックな視点から成り立っているのが興味深い。 「未就学児のころから英語受験をさせられたりする家庭で育ちました。当時は勉強する事自体が嫌で英語も子供のころから大嫌いでした。そんな自分がある日、シリーズ1作品目である、映画”ワイルド・スピード”を観る機会がありました。元々自分はクルマが好きだったのですが、そこに映るクルマ。そして背景にあるストリートシーンや生活の雰囲気にまで興味が沸きビデオテープは擦り切れるほど繰り返して視聴し、現在まで影響を受け続けています」 子供時代に映画を通しカーシーンへと鮮烈な経験を得たというねおっちさん。 小学校2年生の頃にはシリーズ2作品目となるワイルド・スピード2が封切りになり、劇場では飽きたらず英語版のDVDを手に入れたそう。 それをまた何度となく見ているうちに「英語を改めて勉強しようという」という気持ちと「クルマへの興味」が加速することになった。 そんなねおっちさんに転機が訪れる。 大学2年生の冬に訪れたホームステイ・プログラムの募集だった。 「訪問先は北米、ニュージーランド、そしてカナダのバンクーバーでした。本当はワイルド・スピードの本拠地である北米へと足を運びたかったのですが、夏期しか募集していないということで、気乗りしないままカナダへと行くこととなりました」 しぶしぶカナダ行きを決めたねおっちさんだったが、その渡航は後の自動車人生を大きく変えていくこととなる。 ■カナダは日本車のパラダイス?街ですれ違うクルマに仰天 ▲バンパー類などの大物からエンブレムまでカナダ仕向けで統一。ステッカー類などのディテールまで統一感をもって仕上げられている。マフラーエンドはVibrantでジェントルな雰囲気を印象付ける 交換留学先のカナダではバスで移動していたねおっちさん。 最初は興味が薄かったカナダでも実際に日々を過ごすなかで、クルマ事情が徐々に分かるようになってくる。 「まず、バスの車窓から流れていく対向車をみて驚きました。仕向け地が日本にしかないはずのクルマが数多く走っている事もそうだったのですが、日産バネットやプロボックスなどいわゆる趣味車じゃないタイプの日本製中古車がかなりの台数輸入されている事を知りました。もちろん、そのなかにはR32のスカイラインや日産・エスカルゴなど趣味性の高いクルマも混じっており、実用車として輸入される個体と趣味性の高い車種が混在していることによってカナダでもさまざまな趣向と需要があることを理解しました」 それからというものの、ねおっちさんはカナダのモータリゼーション自体にどんどんのめり込んでいくことになる。 「それからは何度となくカナダへ足を運び、クルマを通じた現地の知り合いも増えました。実際に街中を眺めているとクルマの姿から生活感が感じられ、その国ならではの雰囲気や個性に強く惹かれるものでした。特に”普通に”走っている日本車の姿はとてもかっこよく、そのころから庶民的なクルマをカスタムしてみたいという気持ちが高まっていきました」 ■部品は現地調達!数多の渡航で高まる完成度 ▲トランクには渡航時に手に入れたグッズが詰め込まれている。毎回カナダから部品類をボストンバックに詰めて持ち帰り、オーナー自身の手によって運ばれた部品でシビックの完成度は高まっていく。目には見えない苦労とエピソードが凝縮されたトランクだ 日本に帰国し、あのカナダのシーンを再現したいという気持ちが高まるねおっちさん。 カナダの景色を思い浮かべると、街中で数多く見かけたシビックのセダンが思い返されることとなる。 「元々シビックに興味は薄かったのですが、情景のなかにさまざまな仕様が街を行き交う姿が思い返されることと、日本で交友ができたショップの協力もあり、希望通りの個体が手に入ることとなり購入を決意しました」 手に入れたのはサンルーフつきのMT車。 年式はいわゆる”後期の前期”で、2004年に登録された個体。 手に入れたときはノーマルの個体だったというが、数年をかけ現在進行形でカスタムされている。 車体を眺めるほどにディテールの完成度は高く、右ハンドルベースで現地仕様を製作するには並々ならぬ努力が必要だったはずだ。 「実際に何度もカナダへと渡航して解体ヤードへ赴き自分で部品を取り外しています。シビック自体は人気車両のため沢山の出物があるのですが、ネットに出ている情報を頼りに実際に足を運んでみても既に必要な部品が取り外されてしまっていたり、雨季を経た車両は車内にダメージがあったりして空振りのときもかなり多かったりもします。30台中2台からしか部品がとれなかったときもありました」 「小物類は現地で知り合った知人らの協力も得て仕上げています。例えば、カナダ警察の車上荒らし防止用のチラシやティムホートンのシビックが描かれたカップ、ピザの空き箱まで実際に今でもカナダを走っているような雰囲気に仕上げています。イベントではなるべく車内に日本語が見えないように心がけていますね」 外観におけるまとまりとリアリティを意識して仕上げられているシビック。 カナダ向けに1年半ほど生産されていた2004年式のSiグレードをモデルとし、カナダから手荷物として持って帰ってきたフロントグリルやテールランプやエンブレム類。前期型1.7RSのサイドステップ。 ホイールは2002年モデルのRHエヴォリューションを履き、当時のスポーツコンパクトシーンを思わせるものだ。 マフラーや吸排気系にも手が入り、ジェントルながらも心地良いサウンドを響かせてくれた。 筆者的には既に高い完成度を誇るように思えるが、オーナー目線ではまだまだ手を入れたい部分はあるそう。 「一度ハマると深く掘り下げるタイプなので全然飽きませんね。とくに自分で現地から買ってきた部品やアイテムには愛着が沸き、それぞれのエピソードは忘れられないものです。これからもっとシビックを楽しみたいですね!」 ▲こちらの“ミニシビック”はオーナーによってアルテッツァのボディをベースに製作された唯一無二のボディだ。オーナーのライフワークである自動車にまつわるホビー趣味が存分に発揮された逸品だ クルマ文化と海外で眺めた視点。 それをミクスチャーして愛車に落とし込む。 半生で影響を受けたものを一台で表現することはもはや作品と言っても過言ではないのではないだろうか。 かつてカナダの風を切っていた数々の部品たち、そしてねおっちさんによって仕上げられたシビックはいつかのバンクーバーを凝縮した傑作だ。 さらに進化していく姿が今から楽しみだ。 [ライター・撮影/TUNA]

「自動車の美術を研究する」27歳の人生の変節点とホンダ・アコード
オーナーインタビュー 22.10.23

「自動車の美術を研究する」27歳の人生の変節点とホンダ・アコード

■クルマとサブカルチャーを楽しむ人 2010年代の前半頃、とあるイラスト投稿のSNSでマニアックな国産車のイラストやアートを連日アップロードする男子高校生に出会った。 画面いっぱいに描かれたセリカ・カムリや初代ミラージュが印象的だったのを今でもよく覚えている。 自らの大好きなクルマを力いっぱいにインターネットを通して表現する姿勢は当時の自分にはとても素敵に感じられ、また少し羨ましくもあった。 それから数年が経過して筆者も社会人になった。 SNSを通じ勇気を出してクルマのオフ会に参加させていただく機会を得る。 当時そのコミュニティは、ネオクラシックな乗用車と20代前半のオーナーが多く集まるイベントであった。 主催者もやはり若き青年で、その人こそ数年前にSNSで出会った「自動車美術研究室」さんだった。 クルマが大好きな高校生は大人になり、若き自動車コミュニティの中心人物の一人になっていた。 ▲グレードは最上級グレードからひとつ下の1.8EXL-S。現行の北米アコード(CV3型)のグレード”EX-L”にまで引き継がれる老舗ネームだ 自動車美術研究室さんは現在27歳。 名前が示す通り、自動車にまつわるさまざまなカルチャーに造詣が深い人物だ。 とりわけカタログやミニカー、ノベルティに書籍といった分野において目がなく、自らの家にはコレクションが所狭しと並べられているという。 好きが高じて始めたコレクションはただ集めるだけでなく、同好の士を集め”カーサブカルフェス”なるイベントを催し、毎回大勢のコレクターが集う会となっている。 また、自動車美術研究室さんが主催するミーティング、通称”ジビケンミーティング”は既に初開催から7年、多いときで200台以上の参加車両が集うイベントとなった。 そんな彼のクルマ生活におけるターニングポイントとなったという、1986年式のホンダ・アコードEXL-Sについて今回は触れていきたい。 ■「最初は3万円のトゥデイを買うつもりで...」愛車との出会いのきっかけ 「18歳で免許を取得してからはずっと欲しいクルマを探しながら2年の月日が経っていました。当初、ジェミニかスプリンターシエロの中古車を購入しようと考えていたのですが、知人がピアッツァを購入したこともあり、リトラクタブルヘッドライトのクルマへの憧れが凄く強まっていました。ただ、当時学生だったため予算がなく、先輩から3万円のトゥデイを購入するつもりでした」 口から飛び出してくる車種群に昭和63年前後の雰囲気が漂っているので注釈を入れておくが、平成28年頃のエピソードである。 当時、先輩から譲ってもらう予定だったトゥデイは故障中で修理が必要な状態だったそう。 そこでホンダの旧車に強い販売店を探し、インターネットで連絡をとるとそこに在庫していたのがこのアコードだったという。 一旦気になると大学の講義も手につかないくらい気になってしまい、学友のクルマに同乗して販売店へと見に行くこととなった。 「実際に車両を目の当たりにしたときに、デザインが超かっこいい!と思いました。当時はアコードのことはほとんど知らず、ただリトラクタブルヘッドライトがついているセダン程度の認識しかありませんでした。ただ、運転席に乗り込んだ瞬間”買うモード”に一気になってしまうくらい直感的にいいなと思える存在だったんです」 ■ほぼ知識なし。直感が長い付き合いに とんとん拍子でアコードに引き寄せられていった自動車美術研究室さん。 その個体にどこか運命的な感覚を感じ、購入を決めたという。 「実際に購入して手元に届けられた際、お店の人に”このクルマ、キャブだから気をつけてね”といわれ初めてキャブレターという機構を知るくらいに当時は知識がありませんでした」 ▲リトラクタブルヘッドライトを開くと一変する表情。80sらしいデザインが逆に新鮮に感じられる。小糸製のハロゲンランプが収まる 購入したときは9万キロ前後、現在は124000kmと複数台の所有車を使い分けながら距離を刻んでいる。 購入してから8年間でアコードとは紆余曲折あり、1年間ほど主治医に預けたままで乗れなかった時期もあったとか。 「燃料ポンプ、ラジエター、サーモスタット、オルタネーター、エアコン。マフラーの修理はワンオフで製作してもらいました。ただ、これらの交換はアコードには定番で保守と消耗部品の交換といえるのではないかとも考えています」 そう笑顔で話す自動車美術研究室さんは、すっかり逞しくエンスージアストの道を歩んでいると感じる。 過去、エンジントラブルを疑った際に部品取り用の同型アコードを購入。 部品取り車はナンバープレートをつけるつもりはなかったが、置いておくほど朽ちていきそうなのが見ていられなくなり、エアコンが効かないながらも動態保存しているとか。 ▲デュアルキャブのB18a DOHCエンジンを搭載。当時、最上級グレードのSi以外はインジェクションではなくキャブ仕様である ■「時代を抜き去るもの」先進的なボディに身を包んだデザイン 自動車美術研究室さんがもっとも気に入っているところは開閉式のリトラクタブルヘッドライトの部分だ。 ヨーロッパおよびクリオ店専売のアコードCAは固定型のヘッドライトになるが、そちらにはあまり興味がないそう。 ミドルクラスのセダンとして上級車の装いを持たせつつ、先進的、かつトレンディな姿勢をデザインにまで注ぐところにホンダの精神を感じる。 妥協なく突き詰めた結果、国内外で販売記録的にもスマッシュヒットを生み出し、現在でも米国のモータリゼーション史に残るほどの存在となっている。 当時キャッチコピーだった”時代を抜きさるもの”は、単なる意気込みだけではないように感じられる。 外観を改めて眺めてみる。 低いノーズ、大きなキャビン、トランクのハイデッキ感。 人間を優先した車両のパッケージングを実現しながらも、デザインを巧みに成立させている。 CA型のアコードは「4ドアのプレリュード」を想起させるといわれるが、実際に並べてみるとその構成は大きく異なる。 しっかりとセダンに見えるようにしつつ、2ドアクーペのようなスポーティーさを融合させる。 スタイリングと設計が高次元に組み合った結果といえよう。 クルマの内外装に大きなモデイファイは加えないものの、3ヶ月に一回くらいの頻度で気分転換にホイールキャップを履き替えているそうだ。 足回りの変更は外観に大きな変化をもたらすので効果的な着替えであると感じる。 この時代のホンダ車のホイールキャップはナットと一緒に元締めされている車種も多い。 大ことなコレクションが飛んでいかない部分にも寄与するものだ。 ▲純正の外観を保ちつつ気分によってホイールキャップを履き替える。今回はインテグラの物が装着される 次に内装を見てみよう。 ▲低くコンパクトにまとめられながらもダッシュボード上部にはトレーなど機能的なレイアウト。ステアリングにはクルーズコントロールも装着される グラスエリアを大きくとったデザインは当時のホンダの思想を大きく反映する。 シートにはオリジナルのハーフカバーを装着する。 当時を偲ばせるコレクション的に装着しているのではなく、夏場はモケットのシートが熱を持つためあくまで実用品として使っているとのことだった。 当時の部品は小変更点が多く、見た目は似ていても生産元のサプライヤーが異なるなどもあるという。 例えば、アコードのメーターも前期と後期に見た目の差異は少ないが、NS製とデンソー製がある。 知人が所有しているアコードのメーターが故障し、代替品を購入したところ製造元が異なりメーターは動作しないということに初めて気が付いた。 手痛い出費になったと推察するが、そんな、一つ一つの経験がオーナーの経験値を高めていることであろう。 ■アコードは人生観を変えるターニングポイントへと導いてくれた存在 アコードを買う前と後では人生観がまるっきり変わったという。 クルマを買ったことによりオフ会など対外的にイベントへ参加する機会が増え、自然と今まで知り合うことのなかった知人が増えていったそう。 そのうちに自らイベントを企画するようになり、周囲の協力を得ながら規模は大きくなっていった。 「それまでもイベントに行って参加するなどはしていましたが、人を集めて矢面に立とうという気持ちはありませんでした。ただ、クルマを通して楽しい空間を作りたいという気持ちが強くなり、仲間と一緒にイベントを開催するに至りました。クルマのイベントはある意味自分が目立たなくて良いのが好きなんです。クルマを中心にした話ができ、SNSでその車種をきっかけに繋がりが増えていく、そんな点に魅力を感じイベントを続けていますね」 最後に今後、このクルマとどう付き合いたいかを伺ってみた。 「この先、クルマを取り巻く世界は大きく変わっていくと思います。たとえ電動車しか走れなくなった世界になったとしても乗り続けたいと思っています。アコードをEV化できるように準備していかなくちゃいけませんね!」 笑って話す自動車美術研究室さんの言葉は冗談めかしながらも、本気の決心を感じさせるものだった。 クルマを取り巻く文化、そしてそれらを楽しむ仲間たちと共に未来へと走り続けてほしい。 そう感じるインタビューとなった。 [ライター・撮影/TUNA]

家族から受け継いだアスコットと、憧れのイノーバを同時所有する若きオーナー
オーナーインタビュー 22.10.09

家族から受け継いだアスコットと、憧れのイノーバを同時所有する若きオーナー

■スタイリングと居住性を高めた4ドアハードトップ 平成初期の映像をたまたまテレビで見かける機会があった。 幹線道路には多くの白いセダンが行き交い、当時の自動車の流行を感じさせる映像だった。 2022年現在、各メーカーは自動車のラインナップを整理して統合する流れが顕著だ。 しかし90年代初頭といえば、ユーザーの趣向へ幅広い対応をしながらセダン系車種のバリエーションがどんどん増えていった時期でもある。 それを象徴するように、当時乗用車を自社開発を行っている日本のすべてのメーカーが3BOX型の車両をラインナップに持っている。 軽トラックもミニバンもOEMで共通化している現代では考えにくい状況であるとはいえないだろうか。 ▲この個体は最上級グレードの2.3Si-Z。メーカーオプションのサンルーフを装着し、まるで当時のカタログに掲載されていたかのような佇まいだ 1992年3月に登場したホンダ・アスコットイノーバは4ドアハードトップ。 6ライトウインドウに、最近でいうところの4ドアクーペスタイルのレイアウトは、現代の目線から眺めてもスポーティでグラマラスささえ感じるものだ。 当時、ホンダの3BOXラインナップは、末っ子からシビックフェリオ、インテグラ、コンチェルト、ミドルクラスセダンのアコードと姉妹車のアスコット、アコードインスパイアと姉妹車のビガー、そしてフラッグシップのレジェンドなど多種多様であり、それぞれの車種に強いキャラクターを与えている。 開発時期にバブル時代を経ているとはいえ、3BOXへの熱量は相当なものであったといえよう。 ▲サイドからの眺めは、クーペや5ドアハッチバックのよう。流麗に構成されたボディは最近の4ドアクーペを先取りしたかのようだ ■英国に姉妹を持つスポーティなキャラクター エンジンは2.3リッターDOHCのH23A型、輸出仕様のプレリュードと同型のエンジンだ。 H23A自体はアコードワゴンSiR等にも搭載されるエンジンだが、VTECなしの仕様としては日本国内でアスコットイノーバにのみ搭載されるものだ。 1993年からは欧州向けの5代目ホンダアコードとして、イギリスのスウィンドン工場で生産が開始されている。 当時、業務提携の関係にあった英国・ローバーの600シリーズと開発をともにした姉妹車であり、ダッシュボードの形状もは近似のものを採用している。 車体自体のデザインに日本車離れした印象を持つのは、こういったバックボーンだったことからも頷ける。 続いてインテリアを見てみよう。 とにかく低く、グラッシーに作ろうとしていた80年代のホンダ車の思想を受け継ぎながらも、随所に工夫を忍ばせながら進化している。 例えば、ダッシュボードからドアトリムに連なる雰囲気やシートの造形はラウンディッシュに構成され、豊かな雰囲気を醸し出している。 既に高級感を訴求する経験値の高さを感じ、シートやドアライニングなど、人が触れるところの多くにソフトな質感を持たせているところも上級セダンの風格を強めている。 ▲内装には複数のマテリアルを合わせたインパネ周りや大型の水平指針メーターが目を惹く アスコットイノーバが登場した1992年から生産を終了する1996年頃までのトレンドは、セダンやスポーティな性格のクルマからRV車へと趣向が移り変わり行く時代でもあった。 そのような過渡期ともいる時代においても、特徴的なフロントフェイス、デザインおよび車両のキャラクターは、当時を振り返ってもひとつの個性としてしっかりと輝いていたように思える。 オーナーのさいとうさんは1997年生まれの25歳。 つまり、生まれたときには既にアスコットイノーバは生産終了している世代でもある。 では、なぜこのクルマに惹かれるのだろうか? ■「自分が生まれたとき、そこにアスコットがあったから」25歳で4台のアスコットを手に入れたオーナー像  「自分が物心ついたとき、既に実家にはホンダのアスコット(CB1)がありました。自分がクルマ好きになったのも、そのアスコットがきっかけで今に至ります。免許を取得し、実家のアスコットを受け継いだのですが、そのドナーのために白いアスコットを購入。さらに、以前から欲しいと思い続けてきたこのイノーバを購入しました。最近ではもう一台ドナーとしてアスコットを購入しています」 柔らかな口ぶりで語るさいとうさんだが、愛車遍歴のすべてがアスコットシリーズという一途さと行動力に本気度合いが窺い知れる。 「1歳の頃にはミニカーで遊んでいたそうですが、自分が覚えている限りでは3歳くらいで“うちのアスコットはなんてカッコいいんだろう...”と思うようになっていました。そんな気持ちが20年以上どんどん大きくなって現在に至っています」 ▲当時はまだ採用例が少なかったキーレスエントリーはドアノブにリモコンの受光部がある オーナー自身の愛車遍歴としては3台目となり、すべてがホンダのアスコットシリーズだ。 取材時は所有してからは約半年。 購入経路は、同じくCB型のアスコットに乗っているオーナーさんが手離すという話を耳にし、個人売買という形で所有することになった。 複数オーナーが所有してきた個体だが、現在の距離は約65000kmだという。 生産から30年が経過したクルマとしては少ない部類といえよう。 複数台を所有するさいとうさんだが、イベントの他にも日常での出番も多く、使いやすい一台になっているという。 ▲純正オプションの空気清浄機。エクステリアへと魅せるデザインがカッコいい。今探すと見つけるのが大変な逸品といえよう 「街中に出ると、イノーバは普通のアスコットに比べて不思議と視線を集めるクルマです。最近ではあまり見かけない車体の色だったり、ヘッドライトと一体型のフォグランプの光り方、字光式のナンバープレートなど合わせ技で目を惹いているのかもしれませんね」 ▲フォグとハイ/ロー、ウインカーが一体のヘッドランプ。同社のスペシャリティクーペ、プレリュードと似たグリルのデザインもイノーバがスポーティな性格であることを印象付ける 古くて珍しい、という理由だけではなく、車両自体の個性やスタイリングによって注目を浴びる。 登場から30年が経過しても強いキャラクターが息づいている事を話を伺って改めて感じた。 最後に今後、イノーバとどう付き合っていきたいかを伺ってみた。 「稀に天然個体のアスコットを目撃した例を知人を通じてごく稀に聞くのですが、自分はそういった個体を街中で見かけたことは一度もないんです。既に現存する個体もかなり少なくなっているはずなので、エンジンが動く限りは純正の姿を保ちつつ後世に残していくことができればいいな、と思っています」 好きなクルマを追い求め、それを所有できる。 なんて素晴らしいことだろう。 それがどうしても欲しかった一台となればまた格別のことだ。 周りに同一の車種がいなくても、分かり合える仲間がいる。 こうして将来へとクルマたちが一台でも多く残っていく姿を窺い知れるのは、ひとりの旧車ファンとしてもとても嬉しい気持ちになるインタビューとなった。 これからもアスコット、そして多くのクルマに触れ、さいとうさんの世界を深く追求していってほしい。 [ライター・撮影/TUNA]

日常から一歩踏み出してバブルの世界へ… ホンダ・インテグラXSi
オーナーインタビュー 22.09.14

日常から一歩踏み出してバブルの世界へ… ホンダ・インテグラXSi

■バブルの時代を体現するタイムマシーン 「平成レトロ」というキーワードが世の中に現れて久しい。 平成の期間は30年と113日もあるのだから、その間でさまざまなジェネレーションが存在することは容易に理解できる。 しかし、こと”レトロ”となると、昭和の境目にあったバブル期に思いを馳せずにはいられない。 今回取材をさせていただいたオーナーのrainforceさんもそんな一人。 1991年生まれの31歳で、バブル時代の生活は未経験だ。 対して所有するインテグラは1990年に生産された個体で、その時代を生きた生き証人のようなクルマだ。 オーナーよりも一歳年上。 平成から令和へと、時代を越える姿を覗いてみよう。 ■かつての家車と姿を重ねたどり着いたインテグラ ▲大きなガラスが特徴的なリアビュー。後づけのダイバーシティアンテナとハイマウントストップランプがマッチしている。 幼少期から自他ともに認める車好き少年だったrainforceさん。 そんな彼のクルマ好きを形成したのは、家車として両親が所有していたDA型インテグラだ。 フリントブラックメタリックの4ドアハードトップで、子供心にも「かっこいい!いつか乗ってみたい!」という気持ちが芽生えたそうだ。 rainforceさんが10歳の頃、その個体はミッションのトラブルによって買い換えることになってしまう。 それでもインテグラへの想いは心の片隅に置いたままで、少年はクルマ好きの青年へと成長していく。 免許を取得し、初めて所有した愛車は学生時代にヤフオクで購入した10万円の三菱・パジェロミニ。 自らの意思でどこへでも行ける喜びは自動車への興味へとさらにのめり込むきっかけとなった。 就職後はプジョー・106 S16を購入。 そのパワーとハンドリングは、ワインディングをキビキビと駆け抜けるのにうってつけの1台だ。 現在でも所有するほどのお気に入りの一台となる。 ただ、そんな相棒をよそに心の片隅で燻っていたインテグラへの想いが大きくなっていくのを無視することはできなかった。 「106を所有しながらも、もう一台増車したいという気持ちを常に持ち続けていました。 90年代のクルマはモデルを問わず市場にある個体も数が減り、値段も高騰し始めているので買うならラストチャンスが迫ってきていると感じていました」 ■クルマ好き青年が心に抱き続けた珠玉の一台 そんな念願が叶い、手に入れたインテグラは1990年車。 インテグラシリーズとしては2代目、前期型のXSiでホンダ初のVTECエンジン搭載車だ。 インテグラは先述の通り、4ドアのハードトップと3ドアのクーペが存在し、サルーン的なフォーマルさやスペシャリティカーとしての性格も強い。 今となってはコンパクトなパッケージングだが、その実レッドゾーンは8000回転からのB16Aを搭載し、リッターあたり100psを出力するホットな心臓を持つ。 「DA型インテグラはリリースから既に33年が経過していますが、走りにおけるプリミティブな部分においてはこの時代で既に完成形に近いのでないかと感じます」 rainforceさんが語る通り、装備やパッケージングに不足は感じられない。 それどころか控えめなのに洒脱なインテリアの雰囲気づくりや、低いノーズにグラッシーなキャビンの構成は近年のクルマとは異なる体験をもたらしてくれるだろう。 それまで106を所有するカーライフのなかでは比較的スポーティな運転を楽しんでいたというが、インテグラと付き合ううえでカーライフに少し変化があったという。 「今まで106は良き相棒としていい意味でラフに乗っていた感じが強かったのですが、インテグラにしてからはクルマの状態についてよく気にかけるようになりました。洗車時にもタイヤの空気圧やエンジンの調子を確認するようになり、細かいところに気を配るようになったと自分でも感じています」 ■時代感をディテールに宿しながら走るムードのあるドライブ 購入時は約85000kmの上物の個体だ。 購入から1年間で約11000kmを走行したという現在も車体は隅々まで磨かれ、その美しさは新車から間もない頃の姿を想像するのは難しくない。 車体自体は基本的にオリジナルを保ちつつもインテグラが生まれた時代を反映し、ダイバーシティアンテナやハイマウントストップランプの装着を行いモディファイされている。 タイヤは復刻版のアドバンタイプDとBBSのホイールで引き締まった印象だ。 内装はオーディオ類がこだわりポイントだ。 アルパインのデッキとイコライザーとアンプ、スピーカーは同年代のもので揃え、CDプレーヤーのディスクマンと車載のテレビ、芳香剤のポピーやカップホルダーなどのアクセサリー系が置かれトータルコーディネートされている。 「車内の雰囲気づくりとして、目に見える部分に現代的なものをなるべく置かないように心がけています。インテグラを所有し始めてからは夜の都心や首都高をゆったりと走らせるのがあっていると感じ、そんなドライブに出かける機会も増えるようになりました」 ▲内装にも時代を感じさせるアイテムを配置。色味なども揃えられ、雰囲気を全体的に高めている。 いざとなればVTECが目を覚まし、その本性を覗かせるのもインテグラも、情緒的な雰囲気を纏い大人な走りができるのもまた魅力といえるだろう。 最後にrainforceさんに今後の愛車への付き合い方について伺ってみた。 「ホンダ初のVTEC搭載車ということで、文化財…とまでは行かなくてもできるだけ長く楽しめるようにしたいと思います。とはいえ、しまい込むことはなく適度に楽しみながら動態保存していきたいと感じています」 幼少期の憧れから、時代感を閉じ込めたタイムマシーンへ。時代を超えていくインテグラがこの先もエネルギッシュに走っていく姿を期待してしまうものだ。 [ライター・撮影/TUNA]

祖父が遺したマツダ ポーターバンは「家族の一員」古谷啓通さんオーナーインタビュー
オーナーインタビュー 22.09.09

祖父が遺したマツダ ポーターバンは「家族の一員」古谷啓通さんオーナーインタビュー

1台のクルマに乗り続ける理由。 カーライフは十人十色だが、最愛の1台と長きにわたって過ごしていくカーライフは憧れであり、理想のカーライフというクルマ好きは多い。 今回は、マツダ ポーターバンに乗り続けるオーナー古谷啓通さん(42歳)のカーライフをご紹介しよう。 祖父が社有車として愛用していた個体を、17年前に受け継いだ古谷さん。 古谷さんの祖父は2012年に他界されているが、ポーターバンはその後も手厚いメンテナンスによって「現役」だ。 県外へのイベントも自走で参加。現在の総走行距離は22万キロを超えている。 このクルマにオーナーの古谷さんがどのように接しているか、そしてどんな工夫をしながら愛車を維持しているかを紹介しながら、「家族の一員」ともいえる愛車とのストーリーを紐解いていこう。 ▲「全塗装から10年以上が経過して程よくヤレてきました」と古谷さん。商用車は「使い込まれた道具感」も魅力のひとつ ■「マツダ ポーター」のプロフィール マツダ ポーターは、東洋工業(現マツダ)が生産していた軽商用車だ。それまで生産されていたB360(通称Bバン)のフルモデルチェンジ版として1968年に誕生。 ボディタイプは「バン」と「ボンネットトラック」の2タイプ。 エンジンはDB型4ストローク4気筒OHVを継続採用していたが、1973年のマイナーチェンジにてAA型2ストローク2気筒ロータリーバルブエンジンに換装されて後期型となり、1976年に生産終了した。 この間の1975年には、軽自動車のナンバーが白い小判ナンバー(小板ナンバー)から現在の黄ナンバーとなった。 1976年には軽規格が360㏄から550㏄へと変更されているが、ポーターはマイナーチェンジのみで、規格変更は行わずに継続生産された。 なお、1969年にはキャブオーバー軽トラックとして「ポーターキャブ」が車種追加されているが、こちらは1977年に三菱製のエンジンに換装されるビッグマイナーチェンジを行って550㏄の新規格に対応し、最終的に1989年まで生産された。 ▲ブリヂストンのとある輸出用バイクのエンジンにその源流があるといわれるAA型2ストロークロータリーバルブエンジン。35馬力というパワーは当時の軽商用車部門で最強を誇ったが、排ガス規制の影響で33馬力から32馬力とパワーダウンを余儀なくされた   ▲リアゲートはベンチにも!?  背後の「ござ」は古谷さんの祖父の代からの愛用品。工具などの目隠しとして使われていた[写真提供/古谷啓通さん] ■ルーフキャリアはこの個体のアイデンティティ この個体は、古谷さんの祖父が営んでいた「古谷電気商会」の社有車だった。 仕事の相棒として屋号をペイントすることなくオリジナルのまま愛用していた。ボディカラーは「シーライクブルー」と呼ばれる純正色だ。 古谷さん: この「シーライクブルー」という色ですが、最終型の「デラックス」以外、マツダで採用された車種・グレードが今のところわかりません。 2スト以降の「ポーターバンデラックス」のカラーはずっと「マーチブルー」だったのですが、生産自体1年に満たない最終型のために、わざわざ専用色を作るのかな?と考えてしまいます。ポーターの謎のひとつです(笑)。 ▲古谷さんの祖父は1970年から2年おきにポーターバンを買い替え、計4台乗り継いでいた ──この個体の最も大きな特徴は「ルーフキャリア」を取り付けている点だ。古谷さんの祖父が取り付けたもので、ハシゴなどの仕事道具を載せていた。 古谷さん: ルーフキャリアがついていないと「このポーター」ではないんです。祖父が歴代のポーターに付け替えるたび、そのボディカラーに合わせていました。このルーフキャリアを修復する際に塗装を剥がしたとき、代々のボディカラーが層になっていました。 ■物心ついた頃から一緒に過ごしてきた ──古谷さんの生まれる前からポーターバンは家にあり、暮らしに寄り添ってきた。古谷さんのクルマ観や好みにもこのクルマが深く関わっているのではないだろうか。古谷さんの祖父との思い出、そして幼少時代のポーターとのエピソードを伺った。 古谷さん: 祖父の運転免許は360ccの軽自動車限定免許でした。しかも家の車庫への通路は狭く、360ccの軽自動車のボディサイズでないと入れなかったということもあり、このポーターバン以外に乗り換える新車もなく、結果ポーターに特化したドライバーになっていました。   ▲排気量360ccまでの軽自動車が運転可能な軽自動車限定免許。1968年に普通自動車免許に統合された 古谷さん: 「ポーター以外は違和感があって乗れない」というレベルの祖父でしたが、その代わりポーターに乗れば暗闇でも鍵穴を探す事なくキーを差し込んでいましたし、車両感覚もまさに身体の一部であるかのように幅寄せ、すり抜けを行っていました。 免許を返納する頃でも横に乗っていて運転に不安を感じる場面はなかったですね。高齢による反応の衰えをポーターに特化していたことによる「慣れ」がカバーしていたのかもしれません。 ▲古谷さんの祖父が乗っていた頃の1枚。どんな狭い路地も通り抜けていた[写真提供/古谷啓通さん] ──幼い頃の思い出で、とくに印象に残っている出来事は? 古谷さん: 僕は物心ついた頃から、このクルマの助手席に乗っていました。助手席にハンドル付きのチャイルドシートみたいなものを付けてもらって、運転のまねをしながら育ったんです。 我が家はとりわけクルマ好きの家庭ではありませんでしたが、クルマに興味を持った背景はポーターバンの存在が大きかったかもしれません。どこに行くにもこのクルマと一緒でしたね。 僕は幼い頃によく発熱していたんですが、寝込むたびに祖父の運転でポーターバンの後部座席に寝かせられて病院へ連れていってもらっていました。あれは雨の日だったのだと思うのですが、熱でほてった頭に車体のタイヤハウスの車内側の鉄板を当てていると、それがひんやりして気持ち良く、水しぶきの「シャー」という音と共に心地良かったなという記憶があります。 両親がお見合いをした日も、祖父が父親を乗せてお見合い会場まで送迎したという話ものちに聞きました。   ▲マツダのファンイベントにて[写真提供/古谷啓通さん] ──古谷さんが「クルマ好き」としてポーターを意識したのはいつだったのだろうか? 古谷さん: クルマの知識が増えてきた中学生になりたての頃からですね。いてあたりまえの存在なのに、生活圏で同じクルマを見ることがない…。そこから「このクルマはどういうクルマなんだろう?」と興味を持ち始めました。 しかし、ポーターはいわゆる“名車”ではなく“迷車”の類ですから、クルマ雑誌を読んでもなかなか誌面で見かけることはありませんでした。 この個体がマツダ ポーターバンの最終型だと知るまでに随分かかってしまいました。 ▲歴代ポーターの新車注文書を保管。フォグランプや泥除け、バイザーなどのオプション品は今も現車に付いている ▲古谷さんがコツコツと収集してきた当時のカタログ。情報が少ない車種のため、カタログや自動車誌の記事はコレクションとともに貴重な情報源 ■古谷さんの祖父が見つけてきた「弐号機」の存在 ──ポーターバンを受け継ごうと決めたのは、古谷さんの祖父がもう1台のポーターバンを手に入れ、2台体制になったことがきっかけだったという。 古谷さん: 2005年から2006年にかけての話で、祖父もまだまだ現役だった頃です。ポーターバンも現役の仕事車だったのですが、ある日の仕事帰り、走行不能になってしまいました。フロントの足回りの故障でした。 当時、整備に出していた店からは「部品がないので直せません」と宣告されてしまいまして…。祖父はポーターしか乗れないし、「引退するしかない」とまで言い出してしまったので、部品取り車のポーターバンを探しに探して、なんとか修理はできました。 ところが…修理をしている間に、部品取り車を見つけた車屋さんで、祖父が別のポーターバンを見つけていたのです。気がつけば、そのポーターバンが車庫に収まっていました(笑)。 祖父によると「仕事の相棒に長く寝込まれたら困るから、これからは2台体制を取ることにした。ワシは主に青いの(マーチブルー)に乗るから、ポーターバンが直って戻ったら、後はお前が保守管理するように!」とのことでした(笑) ▲自宅の車庫に収まるマーチブルーのポーターバン デラックス「弐号機」(右)。看板は当時モノでネットオークションにて入手。[写真提供/古谷啓通さん] ■「初号機」にポーターキャブのエンジンを移植 ──維持と管理をまかされたことで、実質マイカーとなったポーターバン。2台になったことで当時は「初号機」「弐号機」と呼び分けていたという。このとき、古谷家は3台の「ポーター」を所有していたことになる。もともと乗っていた「初号機」、2台目の「弐号機」、そして大型荷物の運搬専用だった軽トラックのポーターキャブ(PC3A型)があった。 古谷さん: 当時、走行距離が16万キロに達していたので、「初号機」のフロント足回りの修理に使った部品取り車のエンジンに載せ換えたんです。 しかしあまり調子が良くなく、祖父との協議の結果、主に冷蔵庫と洗濯機を運ぶ時のみに使用していたポーターキャブのエンジンを移植することにしました。 このポーターキャブも幼い頃、ジャングルジムのように、よじ登って遊んでいた思い入れのあるクルマだったのですが、断腸の思いでした。 ▲断腸の思いでポーターキャブのエンジンへ換装(手前が元々は部品取りのポーターに載っていたエンジン、奥がポーターキャブのエンジン)[写真提供/古谷啓通さん] ──エンジンのあとは、ボディのレストアにも着手した古谷さん。熟練した技術をもつ鈑金職人のもとで、ポーターバンは修復されることとなった。 古谷さん: クルマ仲間のネットワークで、ボディの鈑金塗装が得意な職人さんを紹介してもらいました。職人さんからは「確かに錆びて大穴も開いているけど、肝心な所は風が通っていたから腐ってない。大丈夫、直るよ!」と言っていただき、あの時は本当に嬉しかったです。 ボディは特に、左後部座席の足元フロア部分(リーフサスの付け根が取り付けられている部分)がボロボロに腐食していたので、患部を切除し、新たに鉄板を鈑金加工してフロアを新規作成しています。その他ドアの下部などもほぼ作り直されています。 ▲腐食部分を切除し、鉄板を叩いて新たに作成[写真提供/古谷啓通さん] ▲パーツリスト、取扱説明書、整備解説書は修復時に重要な資料となる。流用部品の手がかりにもなるため、旧車を所有するならできるだけ揃えておきたい ■祖父との別れ。そして「弐号機」の巣立ち ──古谷さんとポーターバンにとって、2011年から2012年にかけては大きな転機となった。古谷さんの祖父が2012年に他界したことにより、手元には形見として2台のポーターバンが遺された。 古谷さん: 2011年に祖父が免許返納したことにより、「弐号機」も僕の名義となりました。2012年に祖父は他界しました。 2台とも「形見」となったわけですが、色や細部に違いはあれど同じポーターバンです。つい「初号機」ばかり乗ってしまい、「弐号機」は気がつけばバッテリー上がりを起こしていることもしばしば。維持していくにもどうしたものかと思案していたところ、知人を介して「ポーターバンを譲って欲しい」と、一人の青年が志願してきたのです。 彼はイベントで、クルマ仲間を介して紹介されました。ポーターバンに乗りたい動機を尋ねてみると、「幼い頃、祖父がこれと同じ黄色ナンバーで青色のポーターバンに乗っていて…」と、どこかで見聞きしたような動機でした(笑)。年式、グレードまで同じであることも含めて、ぜひとも譲って欲しいとのことでした。 メンテナンス面も、彼と共通のクルマ仲間の協力があれば安心かなと判断して、「弐号機」を彼に託す事に決めました。引き取りの時は、彼の祖父も立ち会い、共通のクルマ仲間たちのサポートを受けながらも自走で隣県に巣立って行きました。 巣立って行く当日はやはり名残惜しくて、途中までポーターバンに乗って見送りましたね。  ▲「弐号機」の新オーナーとは今も交流が続く。「弐号機」も快調だという[写真提供/古谷啓通さん] ■オリジナルを維持するより「公道現役」でいること ──ポーターバンを維持していく上で「フルオリジナルの維持にはこだわらない」という古谷さん。純正、他車種、社外品を流用してのモディファイも施している。 古谷さん: ポーターは商用車なので「実用こそ現役の証」と考えています。なので、モディファイのテーマは「実際の生産終了後ももしポーターバンが継続生産されていたとしたら?」と、「技術者だった祖父がこの改良を良しとするか」です。オリジナルイメージを崩さないことを心がけ、合法の範囲でモディファイしています。 例えば、ステアリングは仲間から譲っていただいた、マツダの限定車「∞(アンフィニ)」用のmomoステアリングに。 車内側のドアノブ等は内装色に合わせて550cc時代のポーターキャブ用に。シートベルトは装着性を考えてELR式に。ハンズフリーフォンにも対応しています。 ▲サバンナRX-7(FC型)やカペラなどの限定車∞(アンフィニ)に純正装着されていたmomo製のステアリング   ▲ポーターキャブのドアノブと持ち手を流用。レギュレーターハンドルは流用できなかったため、ブラックの純正品を色を合わせて取り付けている 古谷さん: 最近、丸目ヘッドランプにしました。光軸・光量ともに今の規準にあわせづらく、また、部品供給状況の悪化によって車検対応が厳しくなってきたため、純正のシールドビームをH4のバルブが使える汎用性のあるものにしました。 ただし、旧車らしさを求めて凸レンズにこだわっています。もしポーターが継続生産されていたら、コストダウンの結果、専用品だった純正シールドビームから、丸目の汎用ヘッドランプに替わっていたのではないかと(笑)」  ▲ヘッドランプは、同じマツダ車用のものを流用。もちろんオリジナルにも戻せる ▲12インチホイールはクルマ仲間から譲り受けた。「とあるクルマに付けるために注文された特注品」とのこと ▲ボディ修復時に復刻してもらった「マツダ」のデカール(右テールランプ横)や、商売繁盛を願う、地元稲荷神社の鳥居ステッカー(リヤガラス左上)も、商用車アピールには欠かせない ▲当時マツダ車を新車で買ったら付いていたオーナー名入りの厳島神社の御守も健在。こうした小物が残っているのも家族ワンオーナー車ならでは ■オーナーに合った「乗り方」まで伝授。頼もしい主治医の存在 ──「実用こそ現役の証」にこだわる古谷さん。使い勝手も走りも「実用性重視」の方向にチューニングしている。このようなチューニングをはじめ、部品交換や修理を行う「主治医」が、メカニックの西栄一さんだ。 古谷さん: 西さんとは2006年に参加したイベントで知り合い、以降頼もしい主治医的な存在です。普段と異なる音や匂い等の違和感、不具合、あるいは「こういう事できないかなぁ」という願望が出ると、必ず相談しています。 ポーターバンは西さんのチューニングによって、以前よりエンジン回転数を落としての80km/hでの巡航ができるようになり、遠方へ行きやすくなりました。その代わり登坂はちょっと苦労しますが、普段乗るのに問題はありません。 さらに、運転技術も教わっています。チューニングに適したシフトタイミングや、ABSのないクルマのブレーキング、シートポジションの重要さも教わりました。西さんと知り合ってから、ポーターバンが快調になっただけでなく「クルマを守ることは人を守ることに繋がる」ということも学びました。 ▲メカニックの西栄一さんはレーシングドライバーの経歴をもち、整備と走りの経験豊富。自身もマツダ シャンテとホンダ T360を所有し、ストックしておいたシャンテの部品をポーターバンに流用することも ──古谷さんは「西さんから『ご臨終』といわれたときがポーターバンの寿命だと思っている」という。いっぽう西さんは「どんなことがあっても直していきたい」と話す。古谷さんと西さんの間には、深い信頼と絆が構築されている。   ▲取扱説明書にある「推奨速度」を参考にしつつ、「この個体がどうしたら走りやすいか」を走行時の状況をふまえて考え、ポーターバンに適した乗り方を心がけているという ■「このポーターでないと駄目なんです」 ──古谷さんにとってポーターバンは、今はどんな存在なのか、あらためて尋ねてみた。 古谷さん: 祖父の形見であり、乳母車であり…もはや家族の一員なんですよ。「高齢車」なので祖父のように足車とはいきませんが、家にいるのがあたりまえで、乗りたいと思った時に乗って出かけられる、代わりのない存在です。 以前、こんなことがありました。ヘッドライトが車検をクリアできず、そのまま車検切れになってしまい、公道を走れない期間が半年ほどありました。 「そこにあるのに、乗って走れない」 あの状況は、僕にとっては耐え難いことだったと痛感しています。例え他のポーターに乗る機会があったとしても、きっと満足できなかったでしょう。ポーターという車種が好きというより「我が家のこのポーター」でないと駄目なんです。 もし、このクルマに乗れなくなったら次のポーターは探さないでしょうね。祖父はポーターに特化していましたが、僕は「我が家のポーター」に特化しているのですよ、きっと。 ■あたりまえに乗り、クルマを通じた繋がりを大切にしたい ──ポーターバンと今後、どう過ごしていきたいかを尋ねた。 古谷さん: 足回りの予防整備を準備中です。もし部品がない場合は、代用品か加工を考えなくてはなりません。仲間にも情報提供してもらったりネットで調べたりしています。 早めのトラブル対策と日常のメンテナンスで、祖父が乗っていたように、これからも「あたりまえ」に乗っていきたい思いがありますね。 ──維持していくうえで、とくに大切にしていきたいことは? 古谷さん: 人との繋がりです。「旧車の維持はおたがいさま」と思っていて、仲間同士の情報共有は本当に大事です。一人でできることは限られますが、オーナー各々ができることや知識を持ち寄り、なんとかしていけたらなと考えています。どんなクルマでもいつかは旧車になりますから。 ──「クルマも家族の一員」と例えられるが、まさに言葉どおりだ。共に仕事をし、家族の節目に寄り添い、新たな思い出を蓄積しながらポーターバンは唯一無二の存在となった。このさき年齢を重ねても、生活様式が変化しても、古谷さんとポーターバンとの付き合い方は変わらない…そんな気がする。「古谷家のポーター」は、今日も快調に走り続けている。 ▲「海の色」のポーターバンがシーサイドロードを走る ■古谷さんの宝物 ──最後に、古谷さんの宝物を紹介したい。ポーターバンを通じて縁のあった方から贈られた品々を見せていただいた。   ▲マイナーゆえにミニカーが存在しないポーターバン。クルマ仲間に木工やペーパークラフトのミニカーをプレゼントしてもらったそうだ ▲ペーパークラフトは仲間のお子さんの手作り。ちなみにそのお子さんは好青年に成長。現在は、共にクルマを楽しむ仲間となっているという   ▲「弐号機」を託したオーナーから結婚祝いの御礼として贈られた美しい水彩画 [取材協力/吉備旧車倶楽部] [ライター・撮影/野鶴美和]  

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