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【相談例】
● 車売却のそもそもの流れが分からない
● どういった売り方が最適か相談したい
● 相続で車を売りたいけど売り方が分からない
● 二重査定や減額について知りたい
など
2019年から取材を続けている、「カスタムビルド&レストア WATAHIKI」代表・綿引雄司氏がハンドメイドで完成させた「6輪F1タイレルP34」。 アルミの板が綿引マジックで少しずつフォーミュラカーへと形作られ、やがて6輪F1タイレルP34となった。 はじめのうちは信じられなかったけれど、本当にハンドメイドなのだ。 プラモデルでいうなら「フルスクラッチ」だ。 いつしか6輪F1タイレルP34には命が吹き込まれるようになった。 排気量1.3リッターの隼のエンジンが搭載され、その動力はチェーンを介して後輪に伝達される。 そして後方からは隼エンジンのエキゾーストノートがうなりを上げる。 トランスミッション、サスペンション、ブレーキ、フューエルライン・・・。 マシンとしての命が吹き込まれた6輪F1タイレルP34は、ついに実走行が可能になった。 ここまでで充分だろう。 しかし綿引氏はこれに留まらず、サーキットで走れるように6輪F1タイレルP34をセットアップし、シェイクダウンにも立ち会うことができた。 その後、福島県にあるエビスサーキットでスポーツ走行を行い、国産スポーツ勢を抑えてトップタイムをたたき出してしまった。 そしてついにレースデビュー・・・。 筑波サーキットを舞台にバトルを繰り広げるフォーミュラカーが、かつて1枚のアルミの板であったことを誰が想像できるだろうか。 ■ハンドメイドの6輪F1タイレルP34が、筑波サーキット2000を走る! 2025年6月1日、筑波サーキット2000で開催されたアイドラーズFS-CUP第2戦に綿引氏の6輪F1タイレルP34がエントリーすると聞き、応援を兼ねて現地へ。 FS-CUPにエントリーした他のマシンたちが並べられた一角に6輪F1タイレルP34の姿をを見つけたとき、不覚にも「ホントにレースに出るんだ・・・」と思ってしまった。 ハンドメイドで6輪F1タイレルP34を造り上げるだけでも「タダゴト」ではないのに、実際に走行できるだけでなく、いまやサーキットでバトルできるマシンへと進化したのだ。 FS-CUPの当日のスケジュールは ・受付:05:00〜08:20・ブリーフィング:08:30-09:00・車輌/装備検査:09:05-・フリー走行&予選:10:35-10:55・決勝(10周):14:00-14:15 ・・・と、息つくヒマもないほど忙しい・・・というほどではないが、のんびりもしていられない。 ●今回のレースに備えて、6輪F1タイレルP34に以下の変更が加えられた。 ◯バックスターター&ギア取り付け◯それに伴いチェーンテンショナー位置を変更◯フロント前後のベルクランクアームの中心軸にベアリングを組み込み◯フロントのサスペンションを減衰力調整機構付きグロム用サスペンションに変更◯エンジンストップスイッチ取り付け◯バックミラーをセブリングミラーから砲弾型タイプに変更◯リアランプはダミーだったものを、内側の反射板にライトホルダーを作り点灯可能な仕様に変更◯集合管マフラーに変更◯フロントカウルフレームを強化、前回のレースでは曲がってしまったので、鉄に変更ではなくアルミのまま補強で対応◯フロントカウルリップスポイラーの吊り下げロッドを追加◯ヘルメットはハンスデバイス装着がレギュレーションで決まっていることに伴い、アライGP6Sへ変更。ニューカラーのロニーレプリカに変更 実はFS-CUPの参戦は今回が2度目になる。前回は惜しくもリタイア (フロントカウルが風圧に負けて路面に擦ってしまったのだ)となってしまったが、今回はフレームを強化するなど、対策も万全だ。 ■予選&決勝 FS-CUPエントリーしたマシンは20台。10:35にフリー走行がスタート。 途中、赤旗中断はあったものの、無事に予選を終了。 ベストラップは1分8秒477、決勝は16番グリッドからのスタートとなった。 綿引氏によると、予選のピットイン時にセルモーターでエンジンが始動せず、押し掛けしたことが違反行為とみなされてしまったのだという。 そのため、ベストラップのタイムが適用されず、次に速いタイムだった1分10秒003が適用された。 昼食をはさみ、午後から決勝・・・だったのだが、6輪F1タイレルP34のセルモーターとバッテリーが不調で、レース直前まで他チームのサポートもあって充電をすることに。 決勝は1週のローリングスタートをはさんでレーススタート! 6輪F1タイレルP34は順調にラップタイムを重ねて・・・かと思いきや、エンジンが不調だった模様で、排気音がおかしいかなと思う周もあった。 それでも無事に完走し、ベストラップは1分8秒342、14位という結果に終わった。最終コーナー入口付近のトップスピードは159km/hをマーク。ちなみに前回参戦したときのトップスピードは163km/h、ラップタイムは1分8秒993だったことを考慮すると、他のコーナーでタイムを縮めていることが分かる。 予選時よりも速いタイムが出ただけでなく、プロのコンストラクターが製作したフォーミュラーマシン(スーパーセブンもいたが)と互角のバトルを繰り広げたことになる。 エンジンの不調という課題は残ったものの、次なるステップへとつながる一戦だったことは確かだ。 なお、当日の模様は「CBR WATAHIKI」YouTubeチャンネルに公開されている。鮮明かつ迫力あるオンボードカメラによる映像も必見だ。 ●2025 FSカップ第2戦筑波自作タイレルでどこまで行けるか!https://youtu.be/Enk_Yj1QhgM?si=aYqd1r1KK9wO8LPa ●Fsカップ筑波6月1日決勝オンボード ハンドメイドタイレルhttps://youtu.be/6cA92O5U7fc?si=hYmMN0QYLq1dFYE5 ■道の駅おおたで開催されたサンブレフェスタ2025にエントリー アイドラーズFS-CUPから3週間後の6月22日には、道の駅おおた(群馬県太田市)で開催された「サンブレフェスタ2025」にエントリー。 昨年はあいにくの雨だったが、今年は晴れ。真夏並みの暑さとなったが、雨よりはいい。 サンブレフェスタではおなじみとなった場所に「6輪F1タイレルP34」が展示されると、綿引氏のYouTubeチャンネルを観ているファンはもちろんのこと、偶然道の駅おおたを訪れたギャラリーも足を止めていた。 サインボードがなかったので、初見の人はオリジナルの6輪F1タイレルP34だと思ったに違いない。 ここでサンブレフェスタにおける毎年恒例。これまでのサンブレフェスタに展示されたときの6輪F1タイレルP34と見比べてみよう。 ●2021年仕様●2022年仕様 ●2023年仕様 ●2024年仕様 ●2025年仕様 まさにハンドメイドタイレルの進化の過程そのものだ。いまにして思えば、2022年仕様のアルミ地むき出しの状態の展示が、多くのファンにとってスッピンのハンドメイドタイレルが見られる貴重な機会であったことが分かる。 ハンドメイドタイレルの進化はこれで終わりではない。まだ先がある。今後も進化の過程を可能な限り追い続けたいと思う。 余談だが、TAMIYA PLAMODEL FACTORY TOKYO(東京都港区)オープン1周年記念として6輪F1タイレルP34が展示されている(7月7日まで)。 筆者も実車を観てきたのだが、ぜひオリジナルのタイレルと、綿引氏が造り上げたハンドメイドタイレルを並べて展示する光景を観てみたい。 ■「道の駅おおた」について ・所在地:〒370-0421 群馬県太田市粕川町701-1https://goo.gl/maps/E3vus5Vmbpjn8mz68・電話:0276-56-9350・FAX:0276-56-9351・駐車場;普通車:126台、大型車:40台、身体障害専用:4台・URL:http://michinoeki-ota.com ●道の駅 おおた <公式> Facebookページhttps://www.facebook.com/michinoeki.ota/ ●道の駅おおた広報「おっくん」 Facebookページhttps://www.facebook.com/ekicho.ota/ ●道の駅 おおた <公式> Twitterhttps://twitter.com/michinoekiota ■手作りの6輪F1タイレルP34とは? 茨城県水戸市にある「カスタムビルド&レストア WATAHIKI(以下、CBR WATAHIKI)」代表の綿引雄司氏が、仕事の合間を縫って手作りで製作してきた、6輪が特徴的なF1マシン「タイレルP34」。 その完成度の高さから、ネット上ではタイレルP34のコンプリートマシンを綿引氏が所有していると誤解されることもしばしばだ。 また「タイレルP34のレプリカ」と評されることもあるが、綿引氏独自の解釈で製作された箇所も少なからずあることは事実だ。 そのため、忠実なレプリカというわけではない。 つまり、この「レプリカ」という表現がこのマシンに当てはまるかどうかは人それぞれの解釈に委ねたい。 製作者である綿引氏によると、このF1マシンが存在することは、タイレルのルーツでもあるケン・ティレル氏のご子息、ボブ・ティレル氏も把握しているという。 しかも、ボブ・ティレル氏は好意的に受け止めてくれているとのことだ。 ぜひ、イベント会場などで実車を観て、細部の作り込み、フィニッシュワーク美しさをその目で確認してみてほしい。 ■巴自動車商会/カスタムビルド&レストア WATAHIKI 店舗情報 住所:〒310-0912 茨城県水戸市見川3-528-2TEL:TEL/FAX 029-243-0133URL:http://cbr-watahiki.comお問い合わせ:http://www.cbr-watahiki.com/mail.html ●綿引氏のYouTubeチャンネル"cbrwatahiki" ※「アルミのイオタ」および「タイレル P34」の製作風景も紹介されていますhttps://www.youtube.com/@cbrwatahiki※YouTubeで動画を配信している「ぺーさんxyz」さんがイオタの製作過程を詳細にまとめた動画。手作業で造られていったことが分かる構成となっています。 ●板金職人の技炸裂!アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【前編】https://www.youtube.com/watch?v=hvAf5PfcSJg&t=8s ●アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【後編】https://www.youtube.com/watch?v=WidFHqbp4QA [ライター・カメラ/松村 透]
元々フランスでハロウィンはあまり有名ではなく、日本ほどデコレーションやイベントなどほとんど注力されていません。 近年、少しずつですが、子どもや若者を中心に仮装やお菓子配りなどで盛り上がり、フランスでも確実に地位を上げつつあるように感じます。 そんな10月、ハロウィンムードも割と薄いパリの街角で信号待ちをしていると、なんとも綺麗なカボチャ色の旧車も信号待ちをしているではありませんか。 運転席の男性と目があったので、親指でグーとジェスチャーをすると、わざわざ窓を開けて近くの公園に停めることを教えてくれました。 その週末はヴィンテージのイベントがあり、会場内にはクルマだけではなく古着やアンテーク家具など、古いモノを扱うSHOPやディーラーさんが出店される日だったのです。 私たちはそこへ向かう途中でしたが、その男性のクルマをじっくり見るべく、目の前の公園へ少し寄り道をすることに。 ■カリフォルニアからやって来た英国車 このイベントにクルマを見るために来場されていたマチューさんが乗っていたのは、イギリスのMGB(1974年製)です。 エンブレムがかっこいいMGですが、実は私、このとき初めてMGというメーカーを知り、『モーリス・ガレージ』のイニシャルだと教えていただきました。 調べてみると、イギリスのスポーツカーメーカーで、1955年に発売された流れるようなボディのクーペモデル『MGA』を筆頭に、当時世界中で英国スポーツカーブームが起きたとのこと。 その後継モデルである『MGB』は多くの部分が改良・近代化され、長きに渡って製造販売されたそうです。 ■レアなオレンジボディを探して 本当に綺麗なパンプキンカラーは、塗り直しはされていますがオリジナルだそうで、この色に一目惚れして購入されたのだとか。 マチューさんはオレンジ色が大好きなのですが、現在MGBのほかに所有している『BMW Z3』はシルバー。 長年『オレンジ色のクラシックカー』を探していたようです。 やはりオレンジ色にもいろいろあるようで、メーカーやモデルよりも『まず第一優先は好ましいオレンジ色』という、割と珍しい探し方をされたマチューさん。 前オーナーさんがカリフォルニアにて所有していた個体を、4年前フランス国内で見つけたそうです。 英国車なので通常は右ハンドルが主ですが、アメリカへの輸出用で既に左ハンドルとなっていたことも、マチューさんには好都合だった模様。 エンジンはオリジナルで、座席は合皮ですが傷みにくさを優先しているとのこと。 今回も試乗を薦めて頂いたので乗ってみることに! 木製のハンドルとフレームの黒色が英国らしく、大変かっこよかったです。 この日もばっちりオレンジ色のお召し物を羽織っていたので、せっかくですのでクルマとマチューさんのツーショットを…とお願いしたところ、残念ながらNG。 息子さんもクルマ好きらしく、この冬一緒にに日本旅行をされるそうで、東京で珍しいクルマが見れることを楽しみにされていました。 日本でもお気に入りのオレンジ色のクルマが見つかるといいですね! ■余談 ヴィンテージ好きが集まるイベントだけあって、公園の一角にはクラシックカーの修理屋さんの宣伝カーも来園していました。 フランス人の愛するシトロエン2CVの上には大きなペンギン! なぜペンギンなのかはわかりませんが、大人からも子供からも大注目されていました。 それでは遅ればせながらパリより“Des bonbons ou un sort!!”(フランス語版トリック・オア・トリートです) [ライター・画像 / スミ]
6月上旬の週末に諸用があり、クルマでノルマンディー地方へ行くことになりました。 観光地として有名なノルマンディー地方はとても広いので、2時間ほどで着く内陸部もありますが、今回は4時間以上運転をして海岸沿いを目指します。 ■ノルマンディーの小さな街で3台のjeepと遭遇 古くてかわいらしい街並みを運転していると、チラホラとミリタリー系のクルマを見かけるようになりました。 内心古いクルマが見られるかもとワクワクしていると予感的中です。 トランという小さな街の市役所を通り過ぎた瞬間、3台のjeep御一行が駐車しているのを発見しました。 気付いたときには追い抜いていましたが、車輌だけではなくドライバーの雰囲気もすてきでしたので、折り返して私たちも駐車することにしました。 それがこちらの1944年製のjeepです。カッコイイですね。 ■1944年といえば、ノルマンディー上陸作戦がはじまった年 1944年と聞いてピンとくる方もいるかもしれません。 フランス人の旦那は、すぐに「anniversaire debarquement 6 juin!!(6月6日の記念日だ!!)」とひらめいておりました。 そうです、6月6日はノルマンディー上陸作戦が始まった日で、それに関するセレモニーがその前の週末から当日にかけて行われるということでした。 ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦中ドイツに支配されていたフランスにてアメリカ・カナダ・イギリスなどを中心とした連合国軍が、ドーバー海峡を渡ってノルマンディーに上陸した史上最大規模の上陸作戦です。 のちにパリまで解放され、終戦のきっかけのひとつにもなっているできごとです。 きれいに全塗装されている車体には、英語で「USA」とフランス語で「grabuge(騒ぎ出すぞ)」と、二か国語が混ざって書かれているのも、普段なかなか見かけない組み合わせなので歴史的な物語を感じます。 私はこのできごとの名前くらいしか聞いたことがないのですが、フランス人にとってはナチスに占領されていた自国を取り戻すことができた大切な日で、今年も当日にはフランスのマクロン大統領がノルマンディー地方を訪問され話題となっていました。 ■オーナーのひとりが1944年製のjeepに座らせてくれた この日は22℃を超える晴天でしたが、乗車されているみなさまそろって当時を意識した装いをされていました。 クルマだけではなく、タイムスリップをしたような空間に興奮をしていると、ドライバーのムッシュが助手席へ座ることを提案してくれました。 車輌は綺麗に塗装し直されていましたが、触れると熱くなっている扉やシートベルトの感触は、当時を感じさせるものでした。 彼らもその先の海岸沿いまで行き仲間と合流をするそうで、いくつかのイベントの情報を教えてくれたので、私たちも時間をみつけて立ち寄ってみることにしました。 プログラムを見てみると、日にちごとにパレードや展示などがあり、私たちはles bourses militariaというミリタリー専門のフリーマーケットへ。 当時のクルマや戦闘機のナンバープレートやシートベルトなど、コレクターの方々にはお宝であろう商品がたくさんありました。 まわりの会話を聞いていると、海外から買い付けをしに来ている人もいたようです。 たくさんの映画やドラマのテーマになっているできごとですから、ファンが多いのもわかります。 先ほど話を聞かせていただいた御一行を探したのですが、海岸沿いの会場がいくつにも分かれていたため、再会できなかったのが残念です。 しかし、偶然にもこのイベントを知って堪能できて楽しかったです。 来年はこの歴史的大作戦をおこなった年から丸80年を迎えます。 10年前の70周年記念式典では、各国より首脳が来仏し盛大なパレードがおこなわれましたから、80周年記念式典では、また一層たくさんののイベントが各地でおこなわれることでしょう。 私も次回はより早くチェックをして参加したいと思います。 [ライター・撮影 / スミ]
私(ライター・林)、この夏に新たなクルマをお迎えしました。 2001年式の「アルファ ロメオ 145」というクルマです。 右ハンドルの正規輸入車、色はシルバー。 すでに所有している2002年式のアウディ 初代TTは据え置きで、いわゆる“増車”というヤツです。 ご縁があって我が家にやってきたイタリアっ子、なかなか小粋で良いクルマ。 これから色々な場所に連れて行って、ドライブを楽しみたい素敵な一台。 …ということで、今日はそんな新たな仲間、アルファ ロメオ 145をご紹介したいと思います。 ■予想だにしない選択・アルファ ロメオ アルファ ロメオのクルマ、以前の私にとっては何だか縁遠く感じるものでした。 アルファ ロメオといえば妖艶で熱血派、そんなイメージがあったのです。 私にとって、クルマとは等身大で向き合うべき道具。 アルファロメオは私の生活には釣り合わない、明らかにトゥーマッチな、エネルギッシュな嗜好品だと考えていました。 ところが知人から「アルファ145興味ある?」という連絡が届いたとき、なんだか私でも扱いきれる気がしたのです。 写真にうつるアルファ ロメオは、さして特徴のないシルバーの塗色で、凹凸に欠ける四角いフォルムをしていました。 妖艶とはほど遠く、むしろ寡黙、悪く言うなれば地味な印象。 「これなら私でも普段使いできるかも」と思えたのです。 ヘッドライトはガラス製で曇らないし、リアウィンドウはかわいらしいポップアップ式の開閉機構付き。 そしてリアシートはダブルフォールディング(座面跳ね上げ式)で、フルフラットになる優れモノ。 ボクシーかつ低く構えた華美過ぎないデザインは、世界的に名を馳せるデザイナー、クリス・バングルによるもの。 魅力的に映らないはずがありません。 ■侮るなかれ、ぴりりと辛いドライブフィール 私のアルファ145に搭載されるパワーユニットは、直列4気筒DOHC16バルブ・排気量2Lの自然吸気エンジン。 一気筒あたり2本の点火プラグを有する、ツインスパークと呼ばれるエンジンです。 肝心のスロットルはワイヤー式で、アクセル開度に応じて自在にエンジンのスロットルを制御できる点が非常にグッド。 変速機は5速マニュアルです。 現車確認の舞台は都内某所。 交通量の多い幹線道路に出てアクセルを踏み込むと、実に気分よく加速していくのです。 大排気量エンジンの緻密さこそ持ち合わせていないものの、「クォーン」といった音がします。 吹けあがりも豪快で、ビュンビュン回るエンジンには驚きました。 2Lエンジンでも、こんなにも豊かなフィーリングを得られるものなのか…! 車線変更をしてみると、予想よりもクイックなハンドリングに思わずニンマリ。 アルファ ロメオのステアリングは、イタリアの峠道を愉しめるよう、鋭いハンドリングに仕立てられていると以前に聞いたことがありました。 少しハンドルを切っただけで、鼻先が軽く動く楽しさといったら! いつもなら苦痛な都内の幹線道路が、なんと楽しい事でしょう。 ■同じようなクルマでも、やっぱり全然違うから面白い そんなこんなで、現車確認中に「買います!」と宣言してしまったので、すで所有しているアウディ 初代TTとアルファ ロメオ 145の2台持ちをすることになりました。 初代TTとアルファ145は、全長・全幅・全高のスリーサイズはほぼ一緒。 変速機はどちらも5速マニュアルで、駆動方式がFFである点も共通しています。 ついでに年式もほぼ同じです。 「いやいや、その2台はキャラ被りじゃん」と思ったアナタには、ぜひ2台を乗り比べていただきたい。 私が所有する2台、スペックこそ近似しているけれど、全く異なった設計思想を感じるのです。 ドイツ的「特別なクルマ」である初代TTと、イタリア的「普通のクルマ」であるアルファ145。 2台乗り比べてみると、驚くほど異なっていて面白いのです。 まず、運転席から見える景色が全然違います。 初代TTが目指したものは、パーソナルなスポーツカー。 窓の天地は意図的に狭められていて、閉塞感を感じます。 運転していて、特別感があるのが嬉しいポイント。 対して、アルファ145の窓はかなり大きめ。 乗員が広々と感じられるように、ウィンドウデザインが工夫されている点が特徴的です。 全体のデザインを見比べてみると、明らかなる設計意図の違いを感じることができるでしょう。 アルファ145のデザインはスクエアで、室内空間を極力無駄にしないよう努力した痕跡が、あちこちに見られます。 対して初代TTは、曲線を多用してキャビンを大きく絞り込んでいるから、室内空間は非常にタイト。 デザインが最優先であったことを感じさせます。 初代TTの魅力は、直進安定性が高い(比較的応答性が鈍い)ハンドリングに、中間加速が気持ち良いターボエンジン。 休日にアウトバーンを駆け抜けることに適しているのかもしれません。 やっぱり、少し特別なクルマです。 対してアルファ145は、普段使いがより楽しくなるクルマ。 ストップアンドゴーが多い街中を駆け回るのが楽しい、愉快なクルマなのです。 ■2台あるともっと楽しい、等身大のクルマ遊び アルファ145と初代TT、どちらも捨てがたい魅力を有しています。 どちらも20年落ちの安価な輸入中古車、傍から見れば「壊れそうなオンボロばっかり集めて…」といった感じかもしれません。 けれども、この2台だったら、私は胸を張って乗り回せる気がするのです。 アルファ145と初代TTの2台は、私の「クルマ観」の体現に他なりません。 あっそうそう、そういえば、アルファ145は既にエンジンオイル漏れとフューエルリークで1回入庫させています。 コツコツと手を入れていって、少しずつクルマのことを理解して、懸念なく連れ出せるように仕上げることが当座の目標です。 ときどき、記事を通じてアルファ145のお話をすることもあるかと思います。 今後とも、お付き合いくださいね。 [ライター・画像 / 林哲也]
私が所有するアウディ・初代TTは、2002(平成14)年製。オーナーであるライター・林も2002年生まれ。 すなわち、私と初代TTの関係性は“同い年”であるといえます。 今回のテーマは、「同い年の愛車のすゝめ」。ちょっとだけ愛車語りをしながら、私と初代TTの関係性についてご紹介したいと思います。 セルフ・オーナーインタビューみたいな感じで少し照れ臭さもありますが、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。 ■私と初代TTの年式的な結びつき 私が所有する初代TTは、FF(前輪駆動方式)に5MTを組み合わせた「1.8T」というグレードです。 発売当初の初代TTは、四輪駆動の「1.8Tクワトロ(6MT・225馬力)」のみのグレード展開。 「1.8T(5MT・180馬力)」は2001年1月に追加された、所謂廉価版のモデルでした。 MTを組み合わせた「1.8T」の日本における発売期間は比較的短く、2002年11月には、6速トルコンATモデルの登場に伴いカタログから姿を消しました。 私の初代TT 1.8Tも、先述の2年弱の発売期間の間に生産されました。 記録によれば、初年度登録は2002年7月。シートベルトの生産は2002年4月だったので、4月か5月あたりに生産されたと推測されます。 初夏にかけて、日本に上陸したのでしょう。 シートベルトの付け根にはベルトの生産年月が書いてあります。 クルマが生産された年月を簡単に推測できる手段のひとつです。 初代TTのシートベルトには「MADE IN HUNGARY」との記載も。 そうそう、アウディTTってドイツではなくハンガリーで作られているんですよね。 ハンガリー北西部にあるジュール(Győr)という工場で生産されています。 初代TTを手に入れてからしばらくは、てっきりドイツのインゴルシュタットで生産されたと思い込んでいました。 ハンガリー製と知って衝撃を受けた記憶があります。 …話を戻しましょう。 私の初代TTは2002年の春に生産されたわけですが、オーナーである私は2002年3月に生まれました。 所謂「2001年生まれの代の早生まれ」なので、初代TTとの関係性は、正確には「学年違いの同い年」ということになるでしょう。 私が愛車を手に入れた際の決め手は、年式とボディカラー(ステッペングラス・パールエフェクトというきれいな緑色)の2点でした。 私にとって「愛車が同い年であること」は、愛車との関係性を築くうえで最も大切な要素のひとつであるといっても過言ではありません。 ■ネオ・ネオクラシックとの豊かな暮らし 私の愛車、2002年式初代TTは、昨年度に晴れて(?)20年落ちになりました。 現在は「旧車」のオーナーとして旧車王ヒストリアの記事を執筆しているわけですが、当のオーナーはあまり初代TTのことを「古いクルマ」と認識していない気がします。 旧車王では「新車から10年以上経過したクルマ」を旧車と定義しているようなので、私(と私の周囲の友人たち)の感覚が異常なだけなのかもしれませんが…。 傍から見たら十分古いのでしょう。 初代TTは21世紀のクルマ。 まだまだ元気に走るし、消耗品の交換などの事前整備さえ怠らなければ、道端で三角表示板を広げてレッカーを待つ機会はそう多くないはずです。 ちなみに私の場合、自身が金欠大学生であるが故に、冷却系の消耗品が限界を迎えてしまい、ロードサービスのお世話になったことがあります(2年弱の所有期間の中でたった2回です)。 少し話が脱線してしまいました。 私は、初代TTは“ネオ・ネオクラシック”なクルマであると認識しています。 1990年代後半から2000年代前半にかけて、曲線を効果的に用いた、従来とはまったく異なるデザインを纏ったクルマが急増しました。 国産車ではトヨタ・WiLL Viやホンダ・初代インサイト、輸入車では初代TTやルノー・アヴァンタイムなどをはじめとした、エキセントリックなデザインのクルマたち。 大きくラウンドした面構成は、従来の角ばった(所謂“ネオクラシック”なクルマの)自動車デザインとは大きく異なるものだったといえるでしょう。 21世紀の到来を目前にして数多く誕生した未来感に溢れたクルマは、20年余りが経った現在においても、未だにアヴァンギャルドだと感じます。 この1980年代~1990年代のクルマ(現在のネオクラシックカー)の「定石」からの脱出を図った2000年前後のクルマ、これらを“ネオ・ネオクラシックカー”と私は捉えています。 前置きが長くなりましたが、私と“ネオ・ネオクラシック”との暮らしはとても豊かで、刺激に満ちたものです。 私にとって初代TTの“ネオ・ネオクラシック”なデザインやテクノロジーは決して「懐かしい」と感じるようなものではなく、すべてが新しい発見の連続なのです。 それもそのはず、私にとって初代TTとは、まさに産声を上げた瞬間に発売されていたクルマです。 当然、私の幼少期の記憶の中に、当時のアウディ・ディーラーに並ぶ初代TTの姿はありません。 物心がついた幼少期には、今でいう“ネオ・ネオクラシック”なクルマは数年落ちで、新規性に乏しいクルマだと捉えられていたことでしょう。 20歳になって、自身が生まれた時のことをさまざまな資料を通じて辿ってみると、幼少期に当然のように接していた自動車デザイン・自動車テクノロジーが、実は非常に新規性と先進性に富んだ、挑戦的なものであったことに気が付きました。 インターネットで当時のブログ記事を漁ってみたり、古書店で当時のカーグラフィックやTipoを探してしてみたり、オークションアプリで当時の新車カタログを落札して情報収集をしてみたりするうちに、自身の「クルマ好きの原点ともいえる幼少期の記憶」の解像度がどんどん上がってくるのです。 このような知的好奇心が満たされるような「オタ活(=オタク的活動)」に出会ったことは、私の今後のモビリティライフに大きな影響を与えたといえるでしょう。 自身と歳が近いクルマに惹かれ、いざ初代TTを所有してみて2年弱が経過した今でさえも、さまざまな「気付き」の連続です。 1/1のプラモデルを前にして、自身の最古の記憶と、自身が知り得ない古の情報を辿りながら、愛車の隅々に投影された設計思想を紐解くオーナー体験、なんとも贅沢で刺激的なものだなァと思っています。 さまざまな地にドライブに赴き、幾度も洗車を重ね、基礎的な日常整備を繰り返す日々の営みのなかで、愛車のことをより深く知り、愛車と自身が生まれた時代背景をも理解するモビリティライフ。 成人してから再会した幼馴染と接するような、懐かしくてストーリー性のある暮らしは、同い年のクルマと接する醍醐味でしょう。私の“ネオ・ネオクラシック”、最高の相棒です。 ■自身の成長と愛車のエイジングを共に楽しむ生活の在り方 私は21歳の大学生。世間的に見たら(特に自動車メディアの世界においては)、まだまだ「若い」と捉えられて当たり前ともいえる年齢です。 けれども私と同様に、製造されてから21年“しか”経過していない私の初代TTは、すでに「旧車」として扱われ、「古いクルマ乗ってるね!」といわれることも少なくありません。 なんだか不思議ですが、20歳の猫が「長寿」といわれるのと同じような感覚だと思っています。 ちなみに、20歳の猫は人間年齢で96歳らしいです。 クルマが使われる期間の平均年数はたったの13年(!)とのことなので、私の初代TTはご長寿さんということなのでしょう。 いつも酷使してゴメンネ、高齢なのに。 私のはじめての愛車であり、最高の相棒でもある、同い年の初代TT。 これからずっと、私が墓に入るまで所有していたいと願ってやまないのですが、クルマと人間では平均寿命があまりにも違います。 イレギュラーが発生しない限り、私よりも先に初代TTがお釈迦になるということは、誰から見ても明らかでしょう。 けれども、クルマはあくまでも人間が造り出した工業製品です。 すなわち、生殺与奪の権は人間にあるのです。 クルマの寿命は人間がコントロールすることができる、ということですね。 現に、幾度にも及ぶ移植手術を受け、今もなお公道を走り続けるヒストリックカーはこの世に何台も存在しています。 しかしながら、オーナーの財布の中身が尽きた場合や、移植するドナーが見つからない場合、愛車を健康な状態で保つのは非常に困難になるでしょう。 放置車両となって「寝たきり」になってしまうことは、私としては何としても避けたい。 そのためには、現在付いている部品を温存するのが最大の近道だと考えています。 オイル管理をしっかりとして、早め早めに整備工場に足を運び、愛車の弱点を知り、今後の治療(整備)計画をしっかりと立てることが、今の私にできる最大の延命術だと考えています。 そして、財布の中身を温存しておくこともとっても大事。 些細なリフレッシュに気を取られて、突然の大規模故障に対応できなくなってしまったら元も子もありません。 そのためには、意外にも「細かいことは気にしないスキル」が重要だと私は信じています。 私の初代TTも、細かいところを見たら随所に“オンボロ”が垣間見えます。 ドット欠けが著しいデンターディスプレイに、動きが怪しい燃料メーター。 外気温計もおかしな温度を指しています。もちろん、これらはすべて正常に作動するに越したことはありません。 けれども、今の私にとっては、初代TTに末永く乗るために、程々に貯蓄をしながら必要な箇所をリフレッシュしていくことが求められているのです。 私も、20歳を超えてから脂っこい食べ物が苦手になってきました。 今までよりも肺活量も落ちていて、息を切らして電車に駆け込むことが増えました。 人間もクルマも、歳をとったら少しずつ劣化していくものなのですね。 愛車にも完璧を求めることなく、程々に適当に、都合の悪いところは見て見ぬふりをしながら、一緒に老いていきたいなァなんて思っています。 同い年の愛車とともに過ごす毎日、なかなか良いモノですよ。オススメです。 [画像/Adobe Stock、TOYOTA、HONDA、RENAULT・撮影/ライター 林 哲也]
新生Z32専門店は、しだいに旧車屋へ! [前回までのあらずじ]今から25年前の1997年、平成9年に中古車販売店の営業の仕事をスタートした筆者。 雇われ店長で、70スープラ専門店からZ32専門店へ転換。 紆余曲折を経て、有名店にまで昇りつめたものの、燃え尽き症候群に陥る。 ノルマや数字に追われる仕事からも逃れたいと思っていたところ、まさかの会社消失。 10年間走り続けてきた道がいきなりなくなった。 今までのお客様のためにも独立しかないと決意し、新たな道を作るべく「新生Z32専門店」を立ち上げることに。 たくさんの方に応援、ご協力いただいたご恩は一生忘れないだろう。 ついて来てくれたスタッフにも感謝です。 ■前の会社の延長でいけるはずもなく、前途多難のスタートに 前の会社が消失してから間を開けてはダメだと思い、急遽土地を借りて、1ヶ月後の2007年1月に新店舗をスタートさせました。 ショップ名は、「Zが一番!」という思いを込めて「Zone」(ゼットワン)にしました。 何とかお店らしい雰囲気になり、順調なスタートが切れるはずが・・・。 前の会社が負債を残して辞めてしまったので、そこにいた私は周りからそっぽを向かれ、四面楚歌状態に陥ったのです。 誰からも取引きしてもらえず、ローンも取り扱えない、部品の仕入れもできない、オリジナルパーツも作れない・・・。 いきなり大きな壁にぶち当たりましたが、悩んでいる時間はありません。 お取引きしていただきたい会社に、土下座して回りました。 輪をかけて、この頃からスポーツカーの人気に陰りが出はじめてきたので、先行きが不安な前途多難なスタートとなったのです。 もちろんZ32一車種ではやっていけるわけがなく、Z33も扱っていましたし、それ以降のフェアレディZも扱う予定でした。 その証拠が、当時の看板です。「FAIRLADY Z PRO SHOP」 と、Z32だけに拘っていません。 ■お店のスタイルを変化させるのが怖かった 当時、筆者は前のお店のスタイルを引き継いではじめるのがベストだと思っていました。 中古車販売ありきで、車検やメンテナンスは安く。 デモカーは前の会社の社長に退職金替わりにいただいたので、この点はラッキーでした。 今までのお客様に安心感を与えるため、前のお店と変わらない雰囲気を作ることが大事だと思い込んでいたのです。 ところが「新生Z32専門店」と謳ったものの、何の進化もなく、新鮮味もなく、惰性ではじめたような旧態依然としたお店です。 新たなお客様から見たとき、まったく魅力はなかったでしょう。 しかも、スポーツカーはますます人気が落ちて、売却の相談に溢れました。 整備は、タイミングベルト交換以外、お金をかけてメンテナンスする方も少なったかなと思います。 その結果、クルマの程度もみるみる落ちていったのです。 『Z32の価値を上げるのが専門店の役目ではないか!』 このままで良いわけはない! 頭では理解していても、お店のスタイルを変えることに恐怖を覚えました。 ■このままではZ32がなくなる。自分が何とかしなければ! そうこうしているうちに「純正部品の製廃」が出てきました。 メーカーが古いクルマの部品をなくしてきたのです。 このとき、Z32が旧車になってきたことを実感しました。 新車エコカー補助金で下取りに入れたクルマは廃車され、海外にも流されはじめます。 「このままでは、Z32が国内からなくなってしまう・・・」という危機感を覚えました。 すぐにでも何とかしなければ!! 「Z32を国内で遺すために必要なことは、オーナー様に大事に乗ってもらうことだ!」 こうして文字にすると簡単に映りますが、実際には奥が深いです。 そこで、下記の取り組みをはじめたのです。 ・Z33~をやめてZ32に全集中、一球入魂です。私たちの気持ちがぶれないようにする・クルマを良くするために、オーナー様のやりたいことに合わせた仕事ではなく、私たちがやりたい仕事をする・クルマを短命するチューニングや改造は行わない・内外装の見直しよりも、機関系の見直しを優先して勧める・まだ旧車だと思っていないオーナー様の意識改革を行う・故障してからの修理ではなく、部品があるうちに予防整備を勧める・純正部品をメーカーにオーダーし続け、製廃阻止活動を励行する・機能単位のリフレッシュメニューを勧めて、安心して長く乗っていけるクルマを増やす・大事に乗っていただける方を見極めてクルマを販売する。販売条件は、遠くても当店でメンテナンスしていただくこと 上記を全スタッフが志を一つにして全力で取り組むことで、仕事への取り組みや、やり方が変わってきました ■Z32を後世に遺すために、旧車屋さんに変身! 約10年前から少しずつお店のスタイルが変わってきました。 私たちのポリシーやスタンスに賛同してくださる方が増えて、全国から車輛のご購入、リフレッシュやレストアのご相談をいただくようになりました。 Z32を大事に長く乗りたい方が、潜在的にたくさんいらっしゃったのです。 すぐに整備環境を拡充し、できる限りことを自社で対応できるようにしました。 部品庫に部品をストックしたり、ないものを作ったり、綺麗に仕上がる方法を考えたりと。 外注先も意思疎通できる一流のプロフェッショナルに変えていきました。 こうして、やっと理想の専門店になったわけですが、行きついた先は「旧車屋」でした。 継続は力なりです。 普通の中古車屋さんが、いつの間にか旧車屋さんになったケースは多いと思いますが、私たちもその一社といえます。 その後、雑誌の取材を受けたり、旧車イベントにも出展するようになり、しだいに「旧車屋」が定着してきました。 今は、名車Z32を後世に遺すことが私共の使命と思い、人生をかけて取り組んでおります。 いつまでやっていけるかを考えず「行きつくところまで進んでいく」覚悟で日々、業務に邁進しています。 (これまでのエピソード)お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまでhttps://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol1/ お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまで[エピソード2]https://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol2/ [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
今から25年前の1997年、平成9年に中古車販売店の営業の仕事をスタートした筆者。 当時、新人セールスの筆者でも月に10台は売れた時代でした。 しかし、その販売スタイルを一新すべく、強行突破で始めたのが70スープラ専門店。 これは大当たり!だったのですが、トヨタ車は壊れないのでユーザーとの接点が希薄になり、パタリと売れなくなったのです。 そこへ、たまたま下取りで入ってきたのが真っ赤な元年式のフェアレディZ(Z32)。 直観的に「これがおそらくラストチャンスだ!日本一のZ32専門店を作るぞ!」と迷いなく決断し、Z32専門店に転換。 再スタートを切ることとなったのです。 (前回のエピソード)■お調子者営業マンだった私が、Z32専門店を立ち上げるまで https://www.qsha-oh.com/historia/article/z32-omura-vol1/ ■なぜZ32専門店に急転換できたか? 当時、雇われていた会社は、東京と神奈川県に8店舗を展開する創業30年の中堅中古車販売店。 特に神奈川県は他社との競合が激しく、食うか食われるかの激戦区でしたから、早急な店舗作りが求められました。 幸い、その会社は店長会議で報告するだけでお店の方向性を決めることができたのです。 社長は数字には厳しかったですが、若い社員がのびのび働ける環境を提供してくれたのだと思います。 私も、ある一店舗を任せれていたので、そのお陰で思い切った店作りを夢見ることができたのです。 ■まず店構えを一新し!Z32を大量仕入れ!派手に宣伝! Z32専門店をやると決めた以上、とにかく店構えが大事です。 それまでのイメージを一新するため、自分で看板をデザインし、一気に交換しました。 これでもう後に引けません。 車種変更もできません。 逃げ道がないよう、自分で自分を追い込んだのです。 同時に、自ら関東・東海の主要オークション会場に出向き、Z32を買いまくって、展示場全体をZ32で埋め尽くしました。 こうしてあれよあれよという間に、Z32専門店のできあがりです。 ショールーム付きで、ピットも併設された立派なお店になりました。 国道16号沿いで立地も最高。 通りかかりの人が、その圧巻の光景に目を奪われたことでしょう。 当時、宣伝に一番お金をかけたのが、雑誌「カーセンサー」でした。 月に2回、カラー見開き2ページで、掲載料は50万円くらいだったと思います。 まだホームページがない頃ですから、とにかく雑誌に派手に露出することが重要だったのです。 さぁ、これで準備万端!ここまでは順調!後は、売るだけです! ■軌道に乗るまでは、記憶に残らないほどの忙しさ! 当初は2人しかいませんでしたので、とにかく忙しい! 軌道に乗るまでの3年間は、ほぼ不眠不休でした。 人間、意外と頑丈ですね。 当時はまだ30代前半でしたので、気力だけで頑張れました。 ただ、何度とか神経痛になりましたが・・・。 その忙しさといえば、仕入れたクルマをその日のうちに磨き、ピッカピカに仕上げて次の朝には並べる。 フロントガラスには、そのクルマの装備や特長を書いてカラフルなイルミネーションを貼る。 週末の前日は、何時になろうと全車綺麗に洗車する。 カーセンサーの原稿は、30台分を手書きで作る。 売れたクルマは、自分で陸運局まで出向いて登録し、納車準備をする。 時には、遠方へ納車も・・・。 頭を使わず、体を使った仕事が多かったように思います。 不思議なのは、その頃の記憶が殆どないんですよね。 ■売ればクレームの嵐!整備の重要性を痛感! 努力の甲斐あって、売れはじめるのは早かったです。 ところが、ろくすっぽ整備もせずに納車していましたので、いきなりクレームの嵐。 70スープラのときとは大違いです。 70スープラは、ご納車後故障もなく、何の不安もなく売っていましたので。 特に多かったのが、「エンジンが止まる!」「エンジンがかからない!」という致命的なものでした。 「厄介なクルマを始めてしまったなぁ」と、後悔先に立たず。 Z32のウィークポイントも知らずに、いいことだけいって売っていましたので、いきなりしっぺ返しがきました。 どうやら、パワートランジスタという部品がダメらしい。 3万円(今は5万円)と高価でしたが、これだけは事前に交換して納車することにしました。 整備の重要性を感じた瞬間です。 これが、整備にも力を入れるきっかけになったわけです。 その後、専属のメカニックを置くようにして、少しずつ整備体制も整えて行くようになったのです。 ■専門店は目立ったもの勝ち!有名になって有頂天に! しかし、当時はまだカスタムやドレスアップが流行っていた頃。 各メーカーから多種多少の魅力的なパーツがラインナップされていました。 優先すべきは、いかに派手するか、格好良くするかです。 メンテナンスは二の次です。 広告塔のデモカーはどこよりも目を引くように仕上げました。 さらに、・雑誌には一番目立つ広告を!・オリジナルパーツも豊富に用意!・イベントにも出まくる!・メンテナンスはどこよりも安く!・極めつけは、エンジンオイル交換永久無料! 集客率を上げるために、思いつくことはすべてやったのです。 ネットの普及に伴って、ホームページでリアルタイムな情報を提供することも徹底していました。 専門店は目立ったもの勝ち! 他社の追従を許さず、ライバルが現れても、どこ吹く風。 飛ぶ鳥を落とす勢いで、快進撃は続きます。 有名になって完全に有頂天になってしまうのです。 ■転落した専門店を救った東京オートサロンの出展! ところが、私の独りよがりでお店を作ってきたので、他のスタッフが付いてこれるわけがありません。 私以外、Z32好きというわけではありませんでしたので、熱量の差が違いすぎます。 接客も整備もクレームが増えて、ネットで悪評が広がり、それまでの勢いに陰りが出はじめたのです。 いつの間にか、ポツンと裸の王様。名ばかりの専門店になっていました。 さて、どう立て直すか? 起死回生を狙ったのが、東京オートサロンの出展です。 ショップならどこでも憧れるクルマの祭典です。 今までの集大成ともいうべき究極のデモカーを作って出てみようと決意したのです。 これでもかというほどお金をかけました・・・。 結果、大反響をいただき「普通の中古車屋さんが、ついにここまで来たか!」と、成功した実感を味わったのを思い出します。 ■10年間やってきた専門店がいきなり消滅!まさかの独立へ! しかし、その達成感は、燃え尽き症候群の引き金となり、一気に気力が失せたのです。 何とか勢いでここまで来ましたが、その先のビジョンが見えなくなりました。 売上目標や月販30台のノルマや数字のプレッシャーにも潰され、精神的に追い込まれていたので、しだいに辞めたいと思うようになっていたのです。 元々、営業が性に合っていませんでしたし。 そんな中、追い打ちをかける人生最大の転機が訪れました。 雇われていた会社が計画倒産したのです。 今まで築き上げてきたものが、一瞬にして崩れ落ち無職に。 すぐに頭によぎったのは「今までのお客様をないがしろにして逃げるなんてことはできない」という想いでした。 辞めたいと思っていたのがまるでウソのようでした。 解放感と使命感と不安感がブレンドされた今までに味わったことのない独特な気分の中、まさかの事態に戸惑っている暇もなく独立を決意することに。 こうして、10年やってきたZ32専門店は幕を閉じ、新たなステージへと進むことになるのです。 [つづく] [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
■活況だった1990年代後半の中古車業界 私が中古車販売店の営業になったのは25年前の1997年、平成9年のことでした。 当時はまだ「旧車、旧車」と騒がれていない時代でした。 新車販売が低迷するなか、中古車業界は活況。 軽自動車、ミニバン、ステーションワゴン、セダン、スポーツカーなど、どのジャンルも飛ぶように売れる時代でした。 1997年といえば、中古車販売もインターネットより雑誌媒体が主流。 関東版カーセンサーやGoo(現グー)は約3cmもの分厚さだったんです。 それだけ、中古車販売店や掲載する台数が多かったということですね。 当時はとにかく若いお客様の勢いがすごかったことを覚えています。 免許取り立ての方も頭金なしで、すぐにローンを組んでクルマに乗っていたような時代です。 100~150万円くらいの価格帯の中古車が売れ筋でした。 新人の私でも月に10台は売れた結果、すぐに天狗になってしまう業種だったのです。 独立も夢ではない、古物商と土地と資金があれば開業できました。 販売車の仕入れのほとんどが業者オークションで、売れ筋を買い集めたもの勝ち!という世界。 今振り返ると、程度を見極めて仕入れしていた販売店があっただろうか・・・。 メーター改ざん車や、修復歴有無の確認が曖昧のままユーザーに流れているケースも多かったように思います。 ■勢いのある中古車業界に飛び込んだ結果・・・ 私が最初に配属になった店舗は、スポーツカー専門店でした。 R32スカイライン、S13シルビア、180SX、ソアラ、スープラ、MR-2、セリカ、RX-7、GTO、ドリ車など人気車がずらり並び、華やかな展示場でした。 土日は朝から来店が絶えず、店頭にならべられた中古車は次々に売れていきました。 ただ、似たようなお店が同じ県内に続々と出店してきた結果、客取り合戦が勃発。 とにかく中古車を売らなきゃいけない時代でしたので、展示車をどこよりも綺麗に見せて、いいことをいって売る営業スタイルになっていたのも事実です。 クルマの知識はそこそこに「どうやったら客を落とせるか?」というしか考えていませんでした。 なにしろ、中身のない「お調子者営業マン」です。 そんな調子だったので、クレームが多かったことも事実。 売れば会社に評価されるけれど、何とも後味が悪い・・・。 気付けば数字に踊らされて、お客様のために売っているという実感がなくなっていったのです。 ■他店との差別化で生まれた70スープラ専門店 そんな葛藤のなか、悩んでいる暇もなく、ずるずると時は流れてしまいます。 そんなとき、あるきっかけから、車種を絞った専門店に目をつけたのです。 それはつまり、同業他社とは一線を画す「差別化戦略」でした。 1990年代後半当時、スカイラインGT-R専門店は存在していたと思いますが、車種を絞ることでお客様も減るので、当時の社長には大反対されました。 強行突破ではじめたのが70スープラ専門店です。 セリカXXに憧れていた時期があったので、70スープラは自然な流れだったのかもしれません。 なぜこれにしたのか?実ははっきりとは覚えていません。 でも・・・これは当たりました。 特に2.5GTツインターボRは、置けば売れる入れ食い状態でして、全国のオークションで片っ端から仕入れしました。 しかし、スープラが売れまくる一方で、物足りなさもありました。 トヨタ車は壊れないので、ご納車後、次にお客様とお会いするのは車検のタイミングなのです。 久しぶりにお客様へ連絡してみると、いつの間にか別のクルマに乗り換えていたり、他のショップに出入りしていたり・・・。 自分でも、何のためにクルマを売っているのか分からなくなりました。 クルマを集めて、ただ磨いて売るだけなら誰でもできる。 30歳を過ぎて、こんな仕事をしていてはダメだと思うようになっていったのです ■運命的な出会いとZ32専門店の誕生 そんななか、たまたま下取りで入ってきたのが真っ赤な元年式のフェアレディZ(Z32)でした。 私が二十歳の頃にデビューしたクルマでしたが、当時は高嶺の花だったので、頭からすっかり消えていたのです。 改めて見たZ32は、華やかで、美しくて、格好良くて・・・。 今まで見てきたスポーツカーとは違う雰囲気とオーラを持っているように感じたのです。 まさに運命的な出会い。 私は直観的に「これがおそらくラストチャンスだ!日本一のZ32専門店を作るぞ!」と迷いなく決めました。 特にトヨタが良いとか、日産が良いとか、メーカーへのこだわりはなく、Z32の格好良さだけで決めたようなものでした。 その頃のZ32はまだ新車も販売している現役モデルでありながら、中古車相場は100~200万円に落ち着いてきていました。 なぜか根拠のない勝算と自信があったのです。 しかし、この決断が自虐行為になるとは思いもよらず・・・。 実は、そこからさらに苦悩の日々に陥っていくのです。 [つづく] [ライター・撮影/小村英樹(Zone代表)]
■1.なぜ「多頭飼い」になってしまったのか? 多くの方が、「多頭飼い」という言葉をニュースなどで1度は目にしたことがあるはずです。 この言葉から連想するのはどちらかというとネガティブなイメージがあるかもしれませんが、今回は「ポジティブ(?)」な話題なのでご安心ください。 なぜなら、私が多頭飼いに「陥ってしまった」エピソードのご紹介だからです。 そもそも、クルマが勝手に増えることはないモノというはいうまでもありません。 では、なぜ増えたかというと、筆者自身、情が湧いてしまうと手放すことができない性格であるため、自ら招いてしまった結果だからです。 今回、勝手に増えるはずがないクルマが、いつの間にか(?)多頭飼いになっていた経緯をご挨拶も兼ねて紹介いたします。 ■2.これは運命!?巡り合わせの初愛車が嫁いできた! 筆者の初めての愛車は1992年式日産 パルサー GTI-R(RNN14型)。 運転免許取得のため教習所に通っていた17歳のとき、手元にやってきました。 馴れ初めは、高校時代の先輩が手に入れてから3か月足らずで廃車にするということで、菓子折りで譲っていただきました。 廃車にするのにもお金がかかる時代だったので、先輩としては引き取ってくれるだけ助かるわけです。 そして筆者も、格安で憧れのクルマが手に入ったわけですから、お互いにメリットがあったのです。 しかし、前オーナーである先輩が廃車にしようと考えていたくらいですから、それなりの不具合を抱えていたことも事実でした。 そもそも、廃車に至ったきっかけは「アイドリングしないでエンストする」というものでした。 これは、取り付けられていた社外品パーツが壊れていたのが原因だったようです。 引き取りに行った際にすぐ原因が判明。 応急処置を施し、筆者の父に運転してもらい、自宅に持ち帰ったのです。 実は、先輩から譲っていただく時点で他にも不具合を伺っており、「想像以上にお金がかかるから、駄目だと思ったらすぐに手放すように」と忠告されていました。 案の定、免許を取得し、パルサーGTI-R乗るにつれ、さまざまな不具合が表面化していったのです。 ただ、タダ同然で手に入れたこともあり「パルサーGTI-Rを買ったと思えば・・・」と考えて修理をしていたら、それなりの金額を費やす羽目に。 これこそが、「安くて素性の良くないクルマ」を手に入れた際に陥ってしまう錯覚なのです。 いわゆる「ダメ男と付き合う感覚」とは、こういうことなのではないかと考えてしまいます。 さまざまな不具合を抱えたパルサーGTI-R。もっとも深刻だったのはエンジンでした。 いわゆる「オイル上がり」の状態になっていたのです。 「オイル上がり」とは、エンジンの燃焼室にオイルが入って一緒に燃焼してしまう症状のことを指します。 この症状を直すためには、エンジンをオーバーホールするか、載せ替えるしかありません。 当時学生だった筆者に、エンジンの不具合を直すほどのまとまったお金はありません。 どうするべきか悩んでいる最中に、新たな「縁談」が舞い込んできたのです。 ■3.決断を迫られたすえ、増車する道を選んだ2台目 私が中学生だったころ(2000年代初頭)からインターネットが身近なものになりつつあり、ホームページを作っている方とも「掲示板」を通じてやり取りをすることがありました。 免許を取得する前からやり取りをしていただいた方々と、「オフ会」にパルサーに乗っていってお邪魔することもありました(やり取り時は別の車種でしたが)。 そこで知り合った方から、2台目の愛車となる1998年式 日産 HU14ブルーバード SSS-Zを譲っていただけることになったのです。 知り合った方の新しい愛車のお披露目会の帰りに、筆者のパルサーが不調になってしまったのです。 そんな折り、まだ嫁ぎ先が決まっていないブルーバードの話をいただいたのでした。 しかし、筆者は当時二十歳・・・。 実は幼いころからブルーバードは好きなクルマでした。 筆者の祖父は、ブルーバードを910型、U12型を2台、そして私と同じU14型と、幼少期からの記憶でも4台も乗り継いでいたことが影響しているようです。 事実、幼心にブルーバードは背が低くてカッコイイクルマだと思っていましたから。 ・・・というのも、我が家は筆者が物心ついたころから日産バネット(後のセレナ)というミニバンを乗り継いで育ってきた経緯があります。 時々乗せてもらうブルーバードは、バネットとは異なり、目線が低く、まるでスポーツカーのようでした。 現代のミニバンやSUVで育った子どもたちも、筆者のように「目線の低さ」にカルチャーショックを受けることで、セダンやスポーツカーに憧れを持つ日が訪れて欲しい・・・と、実体験を通じて心のなかで密かに願っています。 U14型ブルーバードが新車だったころ、親からもらったカタログをボロボロになるまで読み込むほど好きだった筆者。 結局、知人のブルーバードを迎え入れることにしました。しかし、迎え入れるにあたって問題なのは「パルサーをどうするのか」ということ。 不具合の多いクルマなので「メカにもそれなりに詳しく、大事にしてくれそうな人に乗ってもらいたい」というのが親心というもの。 その結果、このクルマの素性を知っている高校時代の後輩に譲る方向で話を進めていました。 しかしある日の夜、父が「パルサーいろいろ直したのに手放すのはもったいなくないか?」といってきたのです。 筆者のなかでは手放す以外の選択肢を考えていなかったこともあり、事態は急転直下。 父が置き場所を確保したということで、急遽パルサーをそのまま所有することになったのでした。 ただ、勝手に父と私が決めたことであり、家族の他の者には知らせていなかったのです。 「学生の身分でクルマ2台持ち」という大それたことはすぐ母にもバレました。 しかも、筆者がブルーバードを引き取りに行くタイミングで・・・。 激怒した母から逃げるように家を飛び出したことを、今でも鮮明に覚えています。 乗ってきたブルーバードをまったく見ようともせず、1週間ろくに口も聞いてくれませんでした。 その後、謝って許してもらえましたが、クルマを複数台持つということはこんな家庭トラブルもあるので、しっかりと事前に話をするようにしましょう(苦笑)。 メインカーとなったブルーバードはまったく故障知らずで快適。当たり前のことにもの凄く感動をしました。 あまりにも絶好調すぎて、物足りなさすら感じるほど。 「最初の愛車がその後のクルマ人生を決める」といいますが、確実に普通の人の感覚から外れてしまっていることを実感したのでした。 ブルーバードに乗るきっかけとなったオーナーズクラブの方々との交友を続けていくなかで、「カスタム」することも覚えていきました。 元々カスタムパーツが豊富ではないクルマなので、諸先輩方の流用情報、不要となったパーツを譲っていただいたことも。 その結果、自分のクルマを作る楽しさも覚えていったのです。 ブルーバードに乗るようになってからはますます移動距離も延びていき、5万kmで譲っていただいたブルーバードはあっという間に10万、15万kmと距離を伸ばしていくのでした。 その間ブルーバードもそれなりの故障などを経験しましたが、ラッキーなことに復活して今に至っています。 ■4.士気を上げる!?勢いで手に入れた3台目 月日は流れ社会人になりました。 数年が経ち、それなりに仕事を覚えてきたころ・・・。いろいろと不条理なことにぶつかったりするのは多くの方々が経験してきたことと思います(筆者もその一人です)。 仕事でストレスフルだったあるとき、昔からお世話になっている先輩からクルマの買い手を探している話が舞い込んできました。 クルマは2002年式ダイハツ コペン(L880K型)。 クルマに詳しくない方も知っている人気車です。 嫁ぎ先は探せばすぐに見つかると思いました。 売値を聞くと個人売買なので相場よりも安め。 しかも車検を取ったばかり。 これは・・・かなり魅力的に映りました。 コペンがデビューしたとき、まだ中学生だった筆者は気になるクルマだったので自転車でディーラーに観に行くほど気になる存在だったのです。 そのとき、オプションカタログに載っていたトミカを思わず注文してしまったほどです(笑)。 以来、一度は所有したいと思っていたクルマですが、筆者の懐事情はまったく余裕はありません。 しかし、この条件と金額は今後出てくる気がしない。 貯金をかき集めればどうにかなる。 何か生活に弾みをつけたいのも相まって、意を決して購入することにしました。 ブルーバードのときの反省を踏まえ、今回は事前に家族にも相談をしました。 当初は「何を考えているんだ!」といわれましたが、車種がコペンであることを告げると「コペンならいいか」と。コペンの魅力、おそるべし。 売主に「購入者が見つかりましたよ。私です」と伝えると、「待て待て3台持つのか!?」と心配されましたが、筆者の熱意で納得していただきました。 夢のコペン!そしてクルマ好きが一度は夢見るオープンカー生活がスタートしたのでした。 コペンは当初1年程度か、車検のタイミングまで乗り、価値のあるうちに手放そうと思っていました。 しかし、乗ると魅力にどんどんハマってしまい、7年経った現在も所有しています。 ■5.感覚がマヒ!?夢を叶えるための4台目 我が家のラインナップでコペンを除く3台に共通点があります。 それは「すべてSR20型というエンジンを積んでいる」ということが挙げられます。 具体的には・セレナ(父所有):SR20DE・パルサー:SR20DET・ブルーバード:SR20VE といった具合に、SR20シリーズのなかでも種類が異なります。 SR20を大きく分けると4種類に分類されるのですが、気づけばその3/4種類そろっているのです。 そう、残りのSR20シリーズはあと1種類なのです。 残すはSR20VETというエンジンのみ。 このエンジンを積んでいるのは、初代エクストレイルのGTというグレードのみになります。 初代エクストレイルが出たとき、GTだけがエンジンとバンパー&グリルが他のグレードと異なり、そこに惹かれていました。 筆者は前期型のGTのデザインが好きだったため、チャンスがあれば欲しいなと常々思っていました。 実はこれまで、購入を検討する機会が何度かありました。 そのタイミングとは、ブルーバードが不調になったときであり、何度か中古車を見に行ったものの、結局踏み切れずにいました。 そしてあるとき、エクストレイルGTを購入するきっかけ(大義名分?)が訪れます。 それは、父所有のセレナを親がぶつけた際、オールペンしてきれいにしたことでした。 それまでは趣味のスノーボードをする際に借りていましたが、きれいになったことで雪道を走らせたくないというのです。 そこで、スノーボードに行くためのクルマが必要になったのでした。 なぜかそのタイミングで、これまで見たことがないボディーカラーと装備を持つエクストレイルGTの中古車を近所の中古車販売店で発見してしまったのです。 さっそく見に行ったところ、多少汚れていたものの目立つ傷もなく、自身の経験則から、距離や装備、コンディションを総合して妥当な金額に思えました。 しかし、またしても懐事情が厳しいため、コペンを手放そうと決意。何件か査定してもらいました。 しかしここで予想外のことが! 「もし可能なら、手放さずに持ち続けた方が良いですよ」と査定をしていただいたそれぞれの買取り店でいわれることに。 たしかに、ここで手放したらもう買い直せないことは想像できました。 そこで、無茶を承知で4台目を増車することにしたのです。 「どうにもならなくなったら手放せばよい。乗り続けたければ頑張ればよい」というのが、筆者がたどりついた結論です。 ちなみに、家族はもう驚きませんでした(もうクルマが増えることにマヒしていた!?)。 筆者がSR20シリーズエンジン搭載車をコンプリートするという夢を知っていたので「悩んでいるうちに売れて後悔するのは目に見えているから早く買ってきなさい」と後押しまでしてくれました。 そして日産 PNT30型のエクストレイル GTを購入し、所有車が4台となったのでした。 ■6.まとめ:やれる範囲でやろうと思えばどうにかなる!そして自分も周りも感覚がマヒしてくる・・・ 思い出を振り返りながら書いていたら長文となってしまいました。 ここまで読んでいただき「どうしょうもないなぁ」と笑っていただけたら幸いです。 よくクルマを複数台持っている人のことを「浮気癖がある人」という人もいます。 筆者にとって、クルマは「恋人」というより「子ども」の感覚です。 手をかけ「直す」ことが「育てる」感覚になっていました。 筆者としては、可能な限り、このバランスの取れたラインナップを維持していきたいと思っています。 クルマは乗っても乗らなくても所有をしていれば維持費はかかるモノです。 日々の生活からクルマを楽しむために節約をしていますが、それもまた楽しみになっていきました。 よく今後のカーライフについて質問されることがあります。 筆者が手放せない理由に愛着が湧いていることはもちろんですが、知らぬ間に玉数も減っている世代となり、手放すともう二度と手に入れられない気がしているからです。 満足して一気にラインアップが変わることがあるかもしれませんし、現状を維持するために、さらに増車してしまう可能性もゼロではありません(笑)。 さらなる多頭飼いにご期待(?)ください。 [ライター・撮影/お杉]
うまい・やすい・はやい。 筆者はこの言葉が嫌いではない。 デフレ文化がはびこる日本において、賛否両論があるワードであろうが、人間として生きるべく難易度低めに手に入れることができて、快適に物事を扱うことができるならばそれは人類の英知の賜物であろう。 クルマは人間を補助してくれるパートナーでもあり、めちゃくちゃに甘やかしてくれる存在でもある(やたらスパルタなクルマもいたりするが...)。 雨風を凌いで目的地まで安全に走ることができ、夏の暑い日に大量のペットボトルを買い込んで坂道を文句を言わずに登ってくれる。 旧車王ヒストリアというメディアで執筆するには、いささか趣味性に欠ける観点かもしれないが、日々の暮らしを豊かに彩ってくれる相棒はやはり自分のカーライフにおいて外せないものだ。 ここに「うまい・やすい・はやい」を意識し始めると、どんな感じになるだろうか。 ■これでいい...ではなく、これがいい! この9年で16台のクルマを購入し、そのすべてに愛情を注いできたつもりだ。 そのなかでも「これは好きだ!」と明確に思わざるを得ない存在がある。 それが自分にとってはダイハツの軽自動車であり、そのなかでも「タント」というトールワゴンに妙に惹かれてしまっている。 タントは初代モデルが2003年のデビューだ。 以前の記事にも執筆したが、トールタイプの軽ワゴンの風雲児であり優れた積載性や居住性は後続の軽自動車、ならびに日本のファミリーワゴンに大きな影響をもたらしたであろうことはさまざまなクルマの内装レイアウトを見ても明白だ。 室内長は2160mm、室内高は1355mmと、ベビーカーや自転車をそのまま載せられてしまう大きさなのだ。 日本のカントリーサイドへと足を運ぶと、山間部や公共交通機関が手を伸ばせない地域でもタントをはじめとするハイトワゴンの活躍ぶりを頻繁に見かける。 狭い道へと人と荷物をグングンと進むことができ、いわば社会インフラになりかけているといっても過言ではないように思える。 親子に“ぴったんと”という初代のキャッチフレーズが懐かしいが、日本に“ぴったんと”したクルマだ。 常々その存在には惹かれるものがあったのだが、実際に所有するとやはりその使いやすさに舌を巻くことになったのだ。 それまで所有していたアウディA4アバントを手離し、初代タントを購入したのは2022年の6月。 そこから約半年ほど所有して日常や業務で使用しつつ、下道で北海道1.5周と日本海側の東北地方を下道だけで移動したりした。 これまで所有したなかで自身の身体にもっともあったシートはシトロエン・C4のシートであったが、次点で初代タントがノミネートする。 その証拠は、毎日400km超を車中泊しながら3週間移動した実績に起因するものだが、実際に乗ってあまり緊張せず疲れない作りであると感じたのだ。 だから自分にとってタントはまず「実に“うまい”」クルマであるのだ。 まぐれだろうか、と思い他にも同年代で別ブランドの軽自動車を2台購入してみたのだが、残念ながらシートが身体に合わず今回改めて2代目のタント(L375)を購入する運びとなった。 ■うまい・やすい・はやい。三拍子揃った2代目タント 新たに自分のもとにやってきたのが2代目のタント(L375)だ。 見た目こそ初代からのキープコンセプトだが、その進化幅は小さくない。 車台はダイハツのAプラットフォームを採用。 エンジンは低速トルクにKF-VEエンジンを採用したことで初代と比べても出足が良い。 もちろんこの型だけ乗れば“古い軽自動車”の印象は拭えないかもしれないが、初代と比べれば「あれ?マイルドターボでもついたかな?」くらいにはトルクを感じるものだ。 CVTの相性は悪くなく、ストップアンドゴーが多い道での乗り味は喜びが大きい。 街中でリッター当たり15キロ以上は走るので、非常に経済的なこともメリットだ。 足回りは初代のタイヤ4本がどこにあるかを掴みやすい印象から、しなやかに動く足元といった感じに印象がシートの座面とも相まってグッとアップグレードされている。 ステアリングは一時期のコンパクトカーのようにものすごく軽いというわけではなく、不安定な雰囲気は感じさせない。 もちろん背が高い車体なので大きくロールはするが、予測を立てて安全な速度域で走るぶんには問題が無い。 内装に目を向けてみる。大きなセンターメーターが特徴的なタント。 ワイドに拡がるシンメトリーなインパネの造形と、大きなガラスエリアが軽自動車とは思えない解放感を感じさせる。 昔、ホンダのモビリオが登場した際、ユーロトラムをモチーフとしたデザインコンセプトだったが、同じくトラムのように大きくとった視界は当たり前のように景色が沢山見え、ドライブがそれだけでも豊かだと思える。 シフトレバーはインパネシフト。直観的に力を入れられるIパターンなので、夜間の駐車場での操作も非常にスムーズだ。 また、シフトレバーと同様にコンパクトにまとめられたオーディオやエアコンの操作類のお陰で初代タントよりもありとあらゆる隙間に収納スペースが増加。 花粉が舞う時期にお世話になる箱ティッシュや携帯電話のホルダーや充電器、折り畳み傘やマスクなどごっそり隠しておけるので、本来のデザインを邪魔しないことも収納力が高いハイトワゴン車がもつ高い性能の一つだと思っている。 内装のトリムに関していえば、初代の方がトリムの内張りにクロスなども多かったのだが、90°開くことができるファミリーカーのドア...ということを実用目線で考えると拭きとりやすくシンプルなドアトリムにも理由があるように思える(現行のLA650に試乗した際もそう感じた)。 シートアレンジにも一工夫あり、超ロングスライドする助手席シートはハイバッグ部分が前方へと倒れてテーブルスペースに。 キッズがいる家族には重宝する機能であろうが、パック寿司やピザを車内で楽しみたい独身男性にも素晴らしい。 また、フラットになるシートとピラーレスのドアはあまりにも相性がいい。もちろん積載のしやすさもいうことが無いが、ドアを解放しての昼寝は格別だ。 デイキャンプ道具なしでも居心地の良い空間が作れる。 こんな雰囲気をどこかで見たことがある。 きっとそれはかつての東京モーターショーのダイハツブースで味わった感覚に近い。 街中で大量に見るタントも、実はコンセプトカーで描いた未来の姿そのものなんじゃないだろうか。 ここまでエンジン特性と、インテリアの使い方について述べた。 エンジンの特性も、まさに“はやい”になるのだが、使いやすくて動作がスムーズ。 これもまた”はやくてうまい”部分といえるのではないだろうか。 ■このお値段で味わえる至福のカーライフ 購入時、走行距離は79000キロだった。 手元に来たときは内装の汚れが酷く、おそらくコンビニのカップコーヒーを盛大にこぼしたであろう凄惨な汚れがシートにまき散らされていた。 筆者はクルマを購入後、まず洗車をしながらよく観察する。 もちろん買ったばかりの愛車が嬉しい!という気持ちもあるのだが、傷などのダメージやモール類の劣化具合など自分でどのくらい修復が可能かを眺める。 内装に関しても同様だ。 今回は掃除機をかけつつ、カーペットリンサーで座席のクリーニングも施した。 清掃を行っているとスライドドアやシートレールの隙間からは夥しい砂埃が出てきてなんとなく砂利駐車場に停めていたのかな?と想像出できる。 樹脂類はアーマーオールとシリコンルブを使って磨き、ガラスの内拭きは薬局で買える100円の純水でふきあげると奇麗に仕上がるので筆者的に重宝している。 数時間かけて洗車を行うと、買った当初は汚かった車内も、それなりに気持ちよく過ごせる車内となった。 なにより、奇麗になると新車当時とまでは言わないまでも、クルマ本来のデザインやコンセプトが掴みやすくなる気もする。 エクステリアのデザインは直線基調で細部のデザイン以外は水平基調だった初代に比べ、ドア断面などに豊かな立体が追加され始めクルマとしての軽快さが追加されている。 左側のリアのドアは電動スライド、右後ろはヒンジと、変則的な構造である。 個人的には運転席を降りてサッと開けるこの方式は理想的なのだが、子供たちとコミュニケーションをとるママさんドライバーの為には、運転席で開閉リクエストをしてドア開閉の力を要せずに開くことができる電動スライドドアの方が好まれるかもしれない。タントも3代目以降はそういった方式をとっている。 また、外装を眺めてハッキリと異なるのはリアのクオーターウインドウの形状だ。 初代はスクエアな形状で見切りよく作られていたが、2代目は丸くとられて車内から感じる光も柔らかく感じる。 筆者は激安の軽自動車を足にするようになってから都心と郊外をクルマ移動する機会がグンと増えた。 それまで、首都高に乗りボンヤリと防音壁の向こうに延々と続いていくビル群や住宅の屋根を見ながら走っていた。 最近では殆ど首都高に乗らず、少し家を早く出て下道で行き来するようになった。 断捨離だとか、豊かすぎる生活をあえて手離したつもりは無い。自分にとって軽自動車のスピード感で移動することの心地よさがすっかりフィットしてしまったのだ。 それどころか、裏道へとスイスイ入れて荷物も沢山入る。 燃費に関してはA4アバントの倍だ。 ちなみに車体価格は車検が半年ついて12.9万円。 ナンバープレートなどの諸費用やオイル交換を含めても14万円でおつりがくる。 iPhone14proやロードバイクより安いこのクルマを“やすい”と言わずしてなんという。 実は欲しい軽自動車はまだ沢山あり、どんなクルマで何をしてみようという妄想は膨らむばかりだ。 このタントならば車中泊もしてみたいし、カメラ機材を積んで長距離の旅行にも出かけてみたい。 そう考えさせてくれる余裕が生まれたのも、キャパシティ的にも経済的にも懐の広い低年式軽自動車のお陰ではなかろうか。 “趣味車”と一括りにしてもさまざまな切り口があるが、ここで“うまい・はやい・やすい”を軸にしたクルマ選びから大きな喜びを得てみるのはいかがだろうか? そのうち「これでいい...」ではなく「これがいい!」に想いがどんどん膨らんでしまうかもしれない。 [ライター・撮影/TUNA]