旧車の魅力

フェラーリ・550 バルケッタ ピニンファリーナは世界でわずか448台しか販売されなかった超希少車
旧車の魅力 2023.10.18

フェラーリ・550 バルケッタ ピニンファリーナは世界でわずか448台しか販売されなかった超希少車

日本国内でわずか24台しか販売されなかったフェラーリの特別限定車、550 バルケッタ ピニンファリーナ。フェラーリ車でありながら、提携会社の名称をわざわざ冠して作られた特別なオープン2シーターです。ごく限られたオーナーしか手に入れられませんでした。。今回は、希少性の高い550 バルケッタ ピニンファリーナが製造された背景と限定車としての魅力を徹底的に掘り下げます。 フラッグシップモデルを記念車に採用 2000年に登場した550 バルケッタ ピニンファリーナは、長らくフラッグシップにミッドシップレイアウトを採用してきたフェラーリが、久々にFRレイアウトを採用した550 マラネロをベースに製造されました。 フラッグシップモデルに名前をつけられるほど、深い関係性を築いていたフェラーリとピニンファリーナ社。その繋がりの重要性を含めて、550 バルケッタ ピニンファリーナの誕生背景を解説します。 創業70周年モデルとして台数限定生産 550 バルケッタ ピニンファリーナは、2000年のパリサロンでお披露目されました。「バルケッタ」とは「2人乗りのオープンカー」を意味し、ピニンファリーナ社の創業70周年を記念して制作されたオープン2シーターの限定モデルです。 日本に割り当てられた販売台数は、わずか24台という新車販売時から希少価値の高いモデルでした。なお、生産台数は当初444台の予定でしたが、アジア圏からの「不吉」という声を受け、448台に増台されたという逸話も残っています。 フェラーリの美しいボディラインを作り続けるピニンファリーナ モデル名にも採用されている「ピニンファリーナ社」は、フェラーリ車のデザイン全般を1951年から手がける会社です。創業70周年の記念モデルとして、550 バルケッタ ピニンファリーナをフェラーリよりリリースしました。メーカーのアニバーサリーイヤーではないにも関わらず、特別限定車を製造・販売したことから関係性の深さがうかがえます。 250GT ベルリネッタ、365 GTB/4 デイトナ、512 BB、テスタロッサと数多くの名車をピニンファリーナ社はデザインしました。そして、550 バルケッタ ピニンファリーナのベース車輌の550 マラネロもピニンファリーナ社がデザインを手がけたモデルです。 ベースはFRに回帰した550 マラネロ 550 バルケッタ ピニンファリーナのベース車輌は、1996年発売の550 マラネロです。長年フェラーリのフラッグシップモデルはミッドシップレイアウトでしたが、365 GTB/4 デイトナ以来23年ぶりにFRレイアウトを採用したモデルとして話題を呼びました。 エンジンは車名のナンバリング通り5.5LのV型12気筒DOHCで、最高出力は485psを発揮。高出力エンジンを支える足回りには、フラッグシップにふさわしい先進装備の電子制御可変ショックアブソーバーを採用し、超高速域でも安定した走りを実現したモデルです。 記念車として別の車輌を用意するのではなく、メーカーの顔であるフラッグシップモデル、しかも久々に採用したFRレイアウトのクルマをベースとできたのも、フェラーリのピニンファリーナ社への厚い信頼からでしょう。 フェラーリ・550 バルケッタ ピニンファリーナの魅力 550 バルケッタ ピニンファリーナは、エアロや内装を少しモデファイした程度の特別仕様車ではありません。ピニンファリーナ社がフェラーリのデザインを手がける威信をかけて、細部までこだわって作ったモデルです。 ここからはそんな550 バルケッタ ピニンファリーナの魅力を紹介します。 オープンモデルとしてリデザイン 550 バルケッタ ピニンファリーナは、単に550 マラネロの天井を切り取っただけのモデルではありません。デザイン全般を手がけるピニンファリーナ社らしく、細部にこだわってリデザインされました。 まず外観上の大きなポイントは、550 マラネロよりも10cmほど短くしたフロントガラスです。さらにAピラー上部の塗装を黒にすることで、全体的に低さを強調したデザインに仕上がっています。 内装のデザインでは、コノリーレザーのレーシングタイプのシート、レザー張りのロールバー、メーターナセルとトンネルコンソールはスウェード調とするなど記念モデルにふさわしいデザインと質感が特徴的です。さらに、センターコンソール、メーターパネルにはカーボンパネルを使用して、レーシーな雰囲気を高めました。 走行性能は550マラネロを踏襲 550 バルケッタ ピニンファリーナの走行性能は、基本的に550 マラネロを踏襲しています。ただし、オープン形状のため抵抗係数が悪化し、最高速度は550 マラネロより20km/h遅い300km/hでした。 オープン化に伴って、ボディ剛性の強化や安全面での装備も追加。万が一の転倒に備えてAピラーの強化とロールバー、ボディの補強など走行性能には不利な重量増につながるチューニングが施されます。しかし、ボディワークを含めてデザインを一手に引き受けたピニンファリーナ社だけあって、車体重量は550 マラネロと同様の1,690kgに抑えました。 パッケージング自体はベースモデルとまったく同様で、FRレイアウトに置かれた485psを発揮する5.5LのV型12気筒DOHCエンジンに6速MTが組み合わされています。記念のオープンモデルだからといって性能を犠牲にしなかった点は、フェラーリと二人三脚で歩んできたピニンファリーナ社へのリスペクトがあらわれています。 記念モデルだけあって別格の価値を誇る550 バルケッタ ピニンファリーナ 発売が1996年と比較的新しいことと5年間という販売期間の長さから、550 マラネロ自体はそれほど希少性の高い車種ではありません。しかし、550 バルケッタ ピニンファリーナは、全世界でわずか448台、日本国内では24台しか販売されなかったため、限られたオーナーしか手にできなかった希少車です。 ただし、希少車だからといって高く売却できるとは限りません。極端な希少車の場合、かえって値段がつけにくくなるため、誤った査定をされてしまう場合もあります。550 バルケッタ ピニンファリーナのように、ほとんど取引のないクルマを売却する際は、必ず旧車や希少車の取り扱い実績のある専門業者に依頼しましょう。

ベースがビートルとは思えない! 流麗なボディラインが魅力的なカルマンギア
旧車の魅力 2023.10.18

ベースがビートルとは思えない! 流麗なボディラインが魅力的なカルマンギア

ヘッドライトの形状に合わせて盛り上がったフロントから、リアエンドにかけての流麗なラインが魅力の名車・フォルクスワーゲン カルマンギア。70年近く前の1955年に登場したクルマにもかかわらず、現在でも人気が高いうえ、中古車市場での流通台数もそれなりにある珍しい旧車です。 フォルクスワーゲン社が戦後のブランド地位確立を目指して開発した、カルマンギアの開発背景と魅力をたっぷりと紹介します。 フォルクスワーゲンのブランドイメージを高める1台 フォルクスワーゲン社は、第2次世界大戦前に開発した「KdF Wagen」の車名を戦後「タイプ1」と改めて再生産します。「ビートル」の愛称で親しまれる、ヒット作を生み出すことに成功しました。 さらなるブランドイメージの向上を目指した経営陣は、新たに上級モデルのパーソナルカーの開発を考えます。当初は別のモデルが予定されていましたが、紆余曲折の末に生み出されたのがカルマンギアです。 カルマンギアの開発背景を振り返ってみましょう。 開発期間短縮のためにビートルをベースに開発 カルマンギアが登場したのは1955年。ビートルの成功後、早い段階で上位のパーソナルカーを考えていたフォルクスワーゲンは、当初はビートルの2シーターモデルをそのポジションにおく予定でした。しかし、生産拠点の火災の影響などもあって、ブランドイメージを構築できないまま1953年には生産が頓挫しました。 そこで、フォルクスワーゲン社は、ビートルの派生ではなく新たなモデルの開発を決断します。しかし、上級モデルの立ち上げは、すでに当初の予定から遅れていたため、できるだけ開発期間を短くする必要がありました。そこで、開発期間とコストを抑えつつ新たな車種を生み出すためには、主要コンポーネントの多くをビートルと共通にせざるを得なかったのです。 車名の由来となった開発2社 新たな車種の開発を決断するものの、残念ながらすんなりとは完成しません。カルマンギアの開発は、フォルクスワーゲンのカブリオレの生産を一手に引き受けていたカルマン社に依頼します。しかし、カルマン社のデザインしたプロトタイプは、フォルクスワーゲン首脳陣に採用されませんでした。 そこで、カルマン社はイタリアの代表的なボディデザイン会社、ギア社に相談を持ちかけます。ギア社の仕上げたプロトタイプは、左右が盛り上がったデザインのフロントノーズからルーフ、リアエンジンフードまで流れるような素晴らしいデザインでした。カルマン社のデザインに首を縦に振らなかったフォルクスワーゲン社の首脳陣は、感嘆とともにプロトタイプを承認。ボディ生産を担うカルマン社、車輌をデザインしたギア社の社名を合わせて、「カルマンギア」と名付けられました。 もし、当初提案したカルマン社のデザインが採用されていたら、車名は「カルマン」だったかもしれません。 ボディデザインの変更は失敗 1955年に発表したカルマンギアは、フォルクスワーゲン社の狙い通り成功を収めます。さらなる地位の確立を目指して、より豪華で速いモデルを発売しました。 タイプ3をベースに開発した、通称タイプ34と呼ばれるカルマンギアを1961年にリリースします。アメリカ市場や近代化を意識して、直線的なボディデザインを採用しますが、変更したボディデザインが裏目に出て、ユーザーからの支持を得られませんでした。結局、タイプ1(通称:タイプ14)のカルマンギアが1973年まで生産されたのに対して、タイプ34の生産は1969年に打ち切られました。 意欲的に改良が続けられたカルマンギア 市場に投入されたカルマンギアは、フォルクスワーゲン社経営陣の狙い通り販売台数を伸ばしていきます。しかし、販売台数と高まったブランドへの上昇機運をより高めるため、意欲的に開発を続けました。 1955年から1973年の18年間にも及ぶカルマンギアの生産期間中、性能の向上を図り続けたカルマンギアの歴史を振り返ってみましょう。 度重なる性能向上が図られたエンジン カルマンギアは、走る楽しさを追求したモデルだけに、エンジンの開発は精力的に行われました。カルマンギアに当初搭載されたエンジンは、1,192ccの水平対向4気筒OHVエンジンで、パワーは30hp。1961年には細かな仕様を見直し、同排気量ながら最高出力が34hpに引き上げられました。 さらに、1966年に排気量を1,285ccにアップし最高出力は40hpに向上、最高速度も128km/hを記録しました。1967年には、1,493ccにまで排気量が引き上げられると、最高出力は44hpで最高速度は136km/hに達します。 最終的には、1970年モデルで、排気量1,584cc、50hp、最高速度は実に140km/hにまで高められました。 市場ニーズを的確に取り入れた内外装 カルマンギアの発売2年後の1957年には、カブリオレモデルを発表します。また、標準モデルを含めた内装も、専用ステアリングやサンバイザー、オルガンペダルの装着といった改良が加えられました。 1960年には大幅なマイナーチェンジが図られます。とくに外観面の変更は大掛かりなもので、フロントフェンダーの形状、ヘッドライト位置の変更やクロームメッキのグリルの装着、テールランプを角型から三日月型に変更と、従来のスタイリングを踏襲しつつ徹底的に全体の設計が見直されました。 また、運転席のアームレストや助手席のフットレスト、ウィンドウウォッシャーの装備など快適性を高める装備も時代に合わせて追加されていきます。さらに、エンジン性能の向上にともなって、トランスミッションのフルシンクロ化や1960年代後半にはフロントディスクブレーキの装備といった形で走行性能に関連する装備も次々にグレードアップされていきました。 ビートル以上に一部ファンから人気を集める ビートルは独特なスタイリングから、今でも人高い人気を誇っています。カルマンギアもビートルと同様に、今もなお根強いファンの支持を集めるクルマです。むしろクルマの特殊性から、ビートル以上に熱狂的なファンも多くいます。 販売台数は44万台あまりにのぼり、1973年に生産終了したクルマとしては比較的入手しやすいです。しかし、状態の良い個体は一般的な旧車に比べて少なく、なおかつ意欲的に年次改良が重ねられて年式ごとに仕様がバラバラであるために、目当ての1台を見つけるまでにはかなりの根気が必要でしょう。 また、年式によって細かな違いがあるために、一般的な買取業者だと正しく査定してもらえないかもしれません。売却の際には、カルマンギアをはじめとした旧車を専門に取り扱っている業者に査定を依頼しましょう。旧車の知識が豊富な業者なら、年式や仕様に応じた適切な価格を提示してもらえます。

ハイソカーの代名詞GX71系マークⅡ3兄弟が成功した理由とは? 豪華な内装を始めとする魅力の全貌に迫る
旧車の魅力 2023.10.18

ハイソカーの代名詞GX71系マークⅡ3兄弟が成功した理由とは? 豪華な内装を始めとする魅力の全貌に迫る

トヨタ GX71系マークⅡ3兄弟は、日本の自動車史の一時代を築き上げたモデルです。当時の日本で巻き起こったハイソカーブームをけん引しました。 端正なフロントマスクに直線基調のボディライン、実用的で野暮ったい一般的なマイカーのイメージを一新。潤沢な予算を背景にメーカーが技術を惜しみなく注ぎ込み、ユーザーに新たなクルマの楽しみ方を与えたのがGX71系マークⅡ3兄弟です。 マークⅡ3兄弟が成功した理由とその魅力を、ハイソカーブームも含めて紐解いてみましょう。 時代の流れに乗って登場 1970年代の高度経済成長によって、庶民でもマイカーに手が届くようになりましたが、クルマはあくまでも実用品。「便利な道具」という域を出ない存在でした。そこに訪れたのが、戦後最大ともいわれるバブル景気です。経済的にゆとりが生まれ、「生活必需品以外は贅沢品」といった風潮から徐々に高級志向へと国民の意識が向き始めます。 そんな時代背景に見事にマッチして空前のブームを巻き起こしたのが、これまでにはないジャンルのクルマ「ハイソカー」でした。 経済的ゆとりから生まれたハイソカーブーム ハイソカーの「ハイソ」とは、上流社会や上流階級を意味する「ハイソサエティ(HighSociety)」の略語で、ハイソカーは「上流階級のクルマ」という意味です。80年代後半のバブル景気とともに一大ブームへ発展したカテゴリで、上質な内外装と高い性能が多くの人を魅了しました。 単なる乗り物としての側面が強かったクルマに、ラグジュアリー志向という新たな価値観を持ち込んだのがハイソカーです。経済的なゆとりを背景に、豪華な内装やパワフルなエンジン、現代では不必要とも思えるような先進装備を搭載し、実用面だけではなく所有欲も満足させる仕様のクルマが次々に登場しました。 ハイソカーの象徴にもなったマークⅡ3兄弟 ハイソカーブームを牽引したのは、トヨタのマークⅡ3兄弟です。前モデルまでは大衆車の派生車種「コロナ マークⅡ」として販売されていましたが、1984年に5代目へのフルモデルチェンジで「マークⅡ」として独立。共通のプラットフォームを使用する「チェイサー」「クレスタ」を含めたGX71系3車種が、多少の方向性の違いこそあれハイソカーの象徴的存在となりました。 当時のトヨタはハイソカーの一種ともいえるクラウンをすでに高級車として販売していましたが、単なる高級路線ではなく、庶民でも手の届くクルマが上質になった点がハイソカーブームのポイントです。 ハイソカーブーム以降もマークⅡ3兄弟としてモデルチェンジを重ねましたが、実は登場時期はそれぞれ異なります。最も古いモデルがマークⅡで、1968年に初代が登場しました。続いて1977年にマークⅡの姉妹車としてチェイサーが登場、さらに1980年の4代目マークⅡ投入時にクレスタが追加されます。つまり、チェイサーとクレスタはマークⅡの派生車種ということで、マークⅡ3兄弟と呼ばれるようになりました。 なお、共通プラットフォームの別車種は一般的に「姉妹車」と呼びますが、なぜか「マークⅡ3兄弟」だけは「兄弟」という呼び名がついているのも面白いポイントです。 当時の技術を詰め込んだ贅沢仕様のGX71系 GX71系のマークⅡ3兄弟には、スタイリッシュなハードトップ、豪華な内装、ハイパワーエンジンと当時の技術が惜しみなく投入されています。一方で、5ナンバーサイズという経済性も意識したパッケージングは、まさに庶民派の高級車でした。 ここからは、GX71系マークⅡ3兄弟の魅力をたっぷりと紹介します。 スタイリッシュな外観と豪華な内装 4ドアハードトップをベースにしたスタイリング(クレスタのみ4ドアセダン)にクローム調のモールを各部にあしらった華飾、直線基調のボディラインはエレガントそのものでした。内装面に目を移すと、たっぷりと厚みをもたせた光沢あるモケットのシートはリビングルームを彷彿とさせます。 さらに、デジタルメーターやフルオートエアコン、電子制御の足回り「TEMS」、独立したブレーキ制御を実現する4輪ESCまで装備。ボディカラーには、ソアラやクラウンで設定されていた「スーパーホワイト」も採用し、文字通りワンクラス上の上質さを実現しました。 日本初の技術が盛り込まれたハイパワーエンジン マークⅡ3兄弟のトップグレードには、160psを発生する2L直列6気筒DOHCエンジンが搭載されています。DOHCエンジンはまだ一部の車種にしか採用されていなかった当時、「Twincam24」のエンブレムは自動車ファンの憧れでした。 さらに、発売翌年の1985年には、日本初のツインターボを採用した1G-GTEU型エンジンが登場します。直列6気筒DOHCエンジンというだけでも十分なインパクトでしたが、最高出力を185psにまで高める日本初の技術を詰め込み、一気に人気が加速しました。 街道レーサーの走りにもなった マークⅡ3兄弟は「街道レーサー」と呼ばれる、レーシングカーのようにカスタマイズしたクルマを楽しむ層からも人気を集めました。1970年代に登場した街道レーサーは1990年代以降に盛んになった「走り屋」のルーツとも言われ、マークⅡ3兄弟は真っ盛りの時代に登場したのです。 大型のフロントスポイラーやリアスポイラー(ウィング)、サイドスカートを装着すると、低重心で直線基調のボディラインが強調され、よりスポーティな外観が手に入ります。また、エンジンについてもブーストアップやタービン交換、シリンダー直径を広げて排気量を増やすボアアップまでさまざまなチューニングエンジンが存在していました。 GX71系の人気が今も衰えない理由 ハイソカーと呼ばれる車輌のなかには、トヨタ クラウンやソアラ、日産 レパードなどもともと高級路線で開発されていた車種も含まれます。しかし、5ナンバーサイズや高すぎない価格といった条件のなか、豪華な内外装や先進技術を装備したという意味では、マークⅡ3兄弟は他車種とは異なる存在のハイソカーです。 特にGX71系のクルマが今も人気を集める理由は、コストカットの進む現在では考えられない豪華な内装と、一方で旧車然とした直線基調のスタイリングでしょう。角のある旧車を象徴するかのようなデザインでありながら、クロームメッキ調の華飾といった現代的要素も共存しているのは、後にも先にもGX71系だけです。2Lで185馬力を発生するハイパワーエンジンも魅力ですが、GX71系の車種がグレードを問わず人気を博している理由には、現在では決して真似できない“あの”時代だからこそ実現できた特別な仕様が強く影響しているのではないでしょうか。

軍用車キューベルワーゲンはあのビートル?! フォルクスワーゲンの名車が図った生き残り戦略
旧車の魅力 2023.10.18

軍用車キューベルワーゲンはあのビートル?! フォルクスワーゲンの名車が図った生き残り戦略

第2次世界大戦中にドイツ軍が使用した軍用車、キューベルワーゲン。かわいらしいフォルムから「ビートル」と呼ばれた、フォルクスワーゲン タイプ1をベースに開発されたモデルです。後にポルシェの創業者となる博士が手掛けたことでも知られています。 時代に翻弄されつつも、高い技術と確固たる信念で開発されたキューベルワーゲンについて、フォルクスワーゲン社やタイプ1の歴史とともに振り返ってみましょう。 数奇な運命をたどった名車「ビートル」 国民のための乗用車として、量産化を目指して開発されたタイプ1。今でこそ「ビートル」の愛称で知られる世界的な人気車ですが、第二次世界大戦中は、軍用車として活躍していた時期もありました。 数奇な運命をたどった名車ビートル。ビートル(=タイプ1)を生み出したドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲンが設立されたきっかけと、タイプ1をベースに作られた軍用車「キューベルワーゲン」の誕生秘話を紹介します。 ヒトラーによる国策企業として始まったフォルクスワーゲン フォルクスワーゲンは、「ドイツ国民車準備会社」として1937年にドイツのヴォルフスブルクで設立されました。当時の首相アドルフ・ヒトラーが、全国民に自動車を普及する目的で立ち上げたのが始まりです。 フォルクスワーゲンの設立から遡ること4年、1933年のベルリンモーターショーで演壇に立ったヒトラーは、「我々は今こそ【国民のための車】を持つべきである!」という演説で国民車構想を披露。自動車の開発には、後にポルシェを設立するフェルディナント・ポルシェ博士を任命し、大衆車の開発を加速させました。 厳しい条件をクリアして誕生した「歓喜力行団の車」ビートル 国民車の開発は、フォルクスワーゲン社設立前の1934年から始まりました。なお、開発にあたっては、5つの条件が開発担当のポルシェ博士につきつけられます。「大人2名、子ども2名の定員」「空冷式エンジン」「7Lで100km以上の走行」「時速100km/h以上の達成」「価格は1,000ドイツマルク以下」と、当時の小型車の水準としてはいずれもかなり厳しい条件でした。 しかし、開発着手からわずか2年後の1936年、ポルシェ博士はついにプロトタイプの「VW3」を完成させます。すべての条件をクリアし、5万kmのテスト走行を経て開発を次の段階に進めました。 続く1937年にはプロトタイプ「VW30」(後に「VW60」に改変)を完成させました。30台が生産され、延べ240万km以上に及ぶテスト走行が行われます。起こりうる運転ミスの想定や耐久性など、200名ものナチス親衛隊を動員して徹底的にテストされました。 そして完成したのが、後のタイプ1、プロトタイプの最終形「VW38」です。VW38の完成度の高さに満足したヒトラーは、この車に「KdF-Wagen(歓喜力行団の車)」と命名。「KdF 」は「Kraft durch Freude」の略で、国民に余暇活動を推進した組織名として使用されていて、まさに国民車を象徴する名称として名付けられました。 「年間100万台を作れる工場」という号令で生産体制も整えられ、いよいよ量産に踏み切ろうとした1939年、ドイツはポーランドに侵攻します。第二次世界大戦の火ぶたが落とされたことで、VW38の生産はストップしました。「歓喜力行団の車」は、戦場へ送られる軍用車に姿を変えることになります。 軍用車として登場したキューベルワーゲン 「キューベルワーゲン」は、タイプ1をベースに開発された軍用車両です。量産間近だったVW38をベースに、Type62といった試作車を経て最終的にType82と呼ばれるモデルが量産車として正式採用されました。駆動方式はリアにエンジンを搭載するRRを採用し、車体底部にドライブシャフトなどが通らないシンプルな作りになっています。 「バケットシート自動車」を意味するキューベルワーゲンという愛称の通り、ベンチシートが一般的だった当時としては珍しく独立したバケットシートを備えていました。また、4名がしっかり座れるサイズでありながら、わずか725kgと軽量だった点は湿地などで高い走破性を求められる軍用車として使い勝手のよいポイントです。 軽量なアルミ製エンジン、RRレイアウトやセミモノコックフレームの採用など、キューベルワーゲンの基本構造にはタイプ1の開発で得たノウハウが随所にいかされていました。 戦後も愛され続けるキューベルワーゲン 軍事目的のためだけに作られたキューベルワーゲンは、終戦とともに姿を消します。しかし、戦後にデザイン性や機能性の高さから人気が高まり、レプリカモデルも製造されました。 戦後も愛され続けるキューベルワーゲンの魅力と、現代に蘇ったレプリカモデルについてみていきましょう。 キューベルワーゲンは世界初のSUV キューベルワーゲンはシンプルな箱型デザインながら、多くの点で現在のSUVに通じる部分があります。軍用車としての性能を追求した結果、当時としては完成度の高い車輌に仕上がっていることが現在の人気にもつながっているのでしょう。 キューベルワーゲンの堅牢性以外に目を移すと、高い居住性と多様性が印象的です。前列は左右独立したバケットシートで、後席もベンチシートで十分な座先を確保。乗降性のよい4ドアを装備していた点も含めて、乗用車としてみても高い居住性だったことがわかります。 さらに驚くべきことに、リアシートの背面は可倒式で、シート自体も蝶ネジで外せるなど多彩なシートアレンジも実現していました。広いトランクルームまでつなげると、負傷兵を寝かせて収容することや2名で野営といった使い方もできます。 「悪路走破性」「乗員の居住性」「多彩なシートアレンジ」という言葉だけを並べると、まるで現代の最新SUVのカタログのようです。 人気の高さからレプリカも製造された キューベルワーゲンには、現代の技術で製作されたレプリカモデルが存在しています。カナダの自動車メーカー、インターメカニカ製の「IM-TYP82」です。キューベルワーゲンのモデル番号を想起させる名称で販売されたレプリカは、外観ではオリジナルと見分けがつかないほど精巧に作られています。 一方で、各部は現代の道路事情に合わせて改良され、排ガス規制や日本の保安基準にも適合するなどオリジナルよりも扱いやすく作られている点も大きな特徴です。また、エンジンは新品のフォルクスワーゲン製空冷水平対向4気筒エンジンを搭載しています。 さらに特筆すべきは、オリジナルよりも足回りなどが強化されているにもかかわらず、車重はわずか750kgに抑えられている点です。 ただし、残念ながらインターメカニカ社は廃業したため、現在は新車でIM-TYP82を購入できません。 キューベルワーゲンは生産台数5万2,000台の希少車種 世界初の量産軍用車として生産されたキューベルワーゲンですが、大戦末期には空襲などで工場の稼働が落ち、最終的にはわずか5万2,000台しか生産されませんでした。軍用車という特殊な用途ではありますが、アメリカ軍のジープが36万台生産されたことを考えるとかなり少ない数字です。 中古車を購入する際は、海外も含めて専門業者を中心に根気強く探しましょう。また、レプリカモデルも視野に入れると、多少選択肢が広くなるかもしれません。 一方で、キューベルワーゲンのような特殊な車輌は、手放したくても買取ってくれる業者が少ないのが実情です。旧車王では、1953年式ウィリスM38A1の買取実績があるなど、軍用車のような特殊な車輌も買取っています。売却をご検討の際には、ぜひご相談ください。

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旧車の魅力 2023.10.18

プジョー 205GTI/CTIがホットハッチの名車に上り詰めた理由とは? 開発背景と独特の魅力を徹底考察

胸のすく軽快な走りと3ドアハッチバックという独特のスタイリングで、現在でも高い人気を誇るプジョー 205GTI/CTI。デザイン、性能ともに完成度が高く、ライバル車よりも後発ながら、ホットハッチの代表的な1台に挙げられるほどの地位を獲得しました。 発売から30年以上が経過しても、古さを感じさせないプジョー 205GTI/CTIの魅力をたっぷりと紹介します。 後発ながらホットハッチの名車となった プジョー 205GTI/CTIは今でこそホットハッチの名車の1台に数えられますが、同カテゴリーでの地位はライバルに遅れをとっていました。 プジョーのブランドそのものにも大きな影響を与えた、205GTI/CTIの開発背景を振り返ってみましょう。 ライバル車ゴルフ GTIを倒すために開発された205GTI 1984年に登場した205GTI/CTIは、実は1970年代に発売されたゴルフ GTIをベンチマークとして開発されました。なお、「CTI」はカブリオレモデルで、GTIと基本性能は同一ながら、フルオープンの開放感を味わえるモデルです。 「GTI」というグレード名も含めてホットハッチの元祖ともいわれるゴルフ GTIは、1976年の初代発売から欧州で絶大な支持を集めていました。当時のプジョーは、ルノーやシトロエンに比べるとマイナーな存在だったこともあり、「打倒・ゴルフ GTI」を至上命題にGTIを投入します。 プジョーのホットハッチへのこだわりはボディバリエーションにも現れており、205のメインモデルに位置づけられたGTIでは5ドアをラインナップから排除。3ドアハッチバックのみの発売という、徹底した「打倒・ゴルフ GTI」戦略をとりました。 プジョーを世界ブランドに押し上げた1台 205GTI/CTIの発売は、プジョーのブランドイメージを世界レベルに押し上げました。高性能モデルという普及モデルではないグレードにも関わらず、GTIの販売台数は30万台を記録。GTIが205全体の人気をけん引し、世界での販売台数はシリーズ累計で527万台にも達しました。 軽量ボディによる高い走行性能だけではなく、ゴルフ GTIにはないプジョー独特の内外装の高いデザイン性も評価されました。1970年代に発売されたゴルフ GTIに対して、1980年代に開発された点も先進性という意味で有利に働いたのかもしれません。 WRCで示した高い実力 ライバル車に対して後発だったプジョーは、デザイン性だけではなく高い性能をアピールする必要もありました。そこで、「205」の名を冠したモデルでのWRC(世界ラリー選手権)勝利を目指します。結果的にプジョーは世界ラリーチャンピオンの称号を手に入れ、高い性能と信頼を世界にアピールすることに成功しました。 WRCに投入された車輌は、205GTIとほぼ同じ外観をもつ「205ターボ16」。ただし、構造や性能は205GTIとは全くの別物で、レース参戦のためにわずか200台だけ生産されたモデルです。 現在でも205GTI/CTIが人気の理由 欧州のコンパクトカーで、旧車として人気を維持し続けている車種はあまり多くありません。しかし、205GTI/CTIは日本への輸入がホットハッチブームと重なった影響もあり、現在でも高い人気を保っています。 205GTI/CTIが人気の理由を探ってみましょう。 ライバルを意識して進化したエンジン 205GTIに搭載されたエンジンは、1.6Lで最高出力105psを発生させます。3ドアで軽量に作られた車体を考えると、当時としては十分な性能でした。しかし、205GTIの発売翌年である1985年に、同じフランスの自動車メーカールノーが1.4Lながらターボを備えて115psを発生する「ルノースーパー5GTターボ」を開発。プジョーは、メーカーとして国内のライバルであるルノーの性能アップにすぐさま反応します。 ルノーのエンジン開発の翌年、205GTIのオプションとして「205 GTI 1.6 115」を追加します。吸排気システムをアップグレードした専用エンジンで対抗しました。 さらに、同年には「205 GTI 1.9」をリリースし、ライバルとのさらなる差別化を図ります。新たに開発された1.9Lエンジンは、最大出力130ps、最大トルク161Nmを発生。重量わずか910kgと1tを切る車重と相まって、最強のホットハッチといえる走りを楽しめるようになりました。 プジョーらしい高いデザイン性 205GTIをさらに魅力的なクルマに押し上げているのは、プジョーらしい内外装の高いデザイン性です。1970年代の開発ということもあり、直線的で無骨なイメージのライバル車ゴルフ GTIに対して、ボンネットの先端部やリアハッチの後端、ボディラインへ適度に曲線を取り入れたおしゃれなデザインは、フランスの自動車メーカーならではの特徴といえるでしょう。 さらにインテリアも秀逸で、スポーティな印象を与える洗練されたダッシュボードは、エアコン吹き出し口やコントロールパネルといった各部が統一感のあるレイアウトで配置されており、現代でも古さを感じさせません。 また、コンパクトカーでありながら、ヘッドクリアランスと足元のスペースがしっかりと確保されるなど、居住性の高さも205GTIがホットハッチとして優れている点です。ホールド性の高いバケットシートも含めて、ロングドライブの疲労を軽減してくれます。 GTIの楽しさをそのままに開放感を味わえるCTI カブリオレモデルの205CTIは、エンジンをアップグレードした1986年に登場しました。高性能車のオープンモデルでは、ボディ剛性の低下といった理由から性能面を犠牲にするケースも少なくありません。しかし、205CTIは、オープンであること以外はほぼ205GTIと同仕様で発売されました。 ボディ剛性の観点でロールバーは追加されているものの、内外装ともに205GTIを踏襲しています。軽快な走りに開放感も加わった205CTIは、205の魅力を最大限に引き出したモデルといえるでしょう。 古さを感じさせない旧車だけに高い人気を維持 プジョー 205GTI/CTIは、洗練された内装や当時としてはワイドに設計されたボディデザインから、現在でもあまり古さを感じません。旧車でありながら普段使いしても全く違和感がないため、旧車ファンのみならず一般の人にまで幅広い層から支持されています。 また、シリーズとしては500万台以上が販売された205ですが、GTI/CTIに限ると生産台数は世界で30万台。発売年からの経過年数が増えるごとに希少性も高まりつつあります。 ただし、いかに見た目が現代的でも、30年以上前の旧車であることは事実です。中古車を購入する際は、しっかりと整備された個体を探しましょう。売却する際は、205GTI/CTIの人気を理解している専門業者への相談をおすすめします。年式や走行距離などの情報だけで査定するような業者に依頼すると、実際の価値よりも低く見積もられてしまうかもしれません。旧車の真の価値を把握している、古いクルマに強い買取業者を選びましょう。

ボルボ P1800は半世紀以上前のクルマなのに現役! イメージとは異なるもう1つのボルボ
旧車の魅力 2023.09.19

ボルボ P1800は半世紀以上前のクルマなのに現役! イメージとは異なるもう1つのボルボ

ヘッドライト上部の盛り上がったラインが、ボディ後端部のフィンまでつながるクラシックカーらしいデザイン。ボルボ P1800は、1960年代に登場したボルボ初の本格スポーツクーペです。 現在のボルボとはイメージの異なるスタイリングの一方、伝統的な高い耐久性を持ち合わせるP1800の魅力をモデル変遷も含めて詳しく紹介します。 空飛ぶレンガとはまったく違う流麗なボルボ ボルボの代名詞といえば、1980年代に発売された「空飛ぶレンガ」の異名で知られる240ターボです。直線基調で大柄、いかにも頑丈そうなスタイリングが人気を集めました。 しかし、240ターボ発売から遡ること20年余り。1960年代にボルボは、流麗なボディラインをもつ、いかにもクラシックカーらしいスポーツクーペを登場させます。 12年間にも渡って生産された、ボルボ初の本格スポーツクーペ、P1800の開発背景を振り返ってみましょう。 ボルボ初の本格スポーツクーペ 1961年に登場したP1800は、ボルボ初の本格スポーツクーペとして4年の歳月をかけて開発されました。実は、ボルボはP1800以前にもオープンスポーツの開発を手掛けていましたが、さまざまな問題から生産はわずか67台(68台の説もあり)に留まり、1年限りで生産終了してしまいます。 シャシーをはじめ、多くの部品を当時ボルボが販売していた中型車アマゾンから流用する一方、ボディとエンジンはP1800用に新開発しました。特にボディデザインにはこだわり、デザイナーにマセラティミストラルやクアトロポルテを手掛けたピエトロ・フルアを起用。当時のボルボのイメージを一新する、流麗なボディラインが特徴的です。 また、エンジンには、最高出力100馬力の新開発のB18型を搭載しました。デザイン性だけではなく、本格スポーツクーペとして高い走行性能を誇るモデルです。 高い耐久性はボルボの伝統 耐久性の高さも、ボルボP1800の大きな魅力です。1950年代から製造されているベースの中型乗用車アマゾンは、すでに耐久性に定評がありました。 また、P1800が残した記録からも、その耐久性の高さがうかがえます。個人が1台の乗用車で走行した距離の世界記録として、2013年9月に300万マイル(約480万km)の走行距離がギネス認定されました。1966年製のP1800を50年近く走らせ続けたという、驚くべき記録です。 ボルボの代名詞にもつながった4種のP1800 P1800は1861年の発売以来1973年の販売終了までに、スポーツクーペとして3モデルをリリース。さらに、ボルボの伝統へつながる派生車種も、生産終了間際まで意欲的に開発が続けられました。 P1800シリーズとして登場した4モデルについて、変遷と特徴を紹介します。 P1800(1961〜1963年) 1961年、最初に登場したモデルがP1800です。ヘッドライトからリアフィンへとつながる流れるようなボディラインが特徴的で、最終型まで基本的なスタイリングは変わりません。 なお、ボルボはスウェーデンの会社ですが、初期モデルはイギリスのプレスト・スチール社とジェンセン モーターズ社で生産されていました。 P1800S(1963〜1969年) P1800Sにモデルチェンジしたのは、発売から2年後の1963年でした。イギリスでの生産で問題が生じたことが、モデルチェンジの理由の1つです。品質や物流といった問題が常に発生していたうえ、2社は改善する意欲がなかったといわれています。 そこで、ボルボのお膝元スウェーデンでの生産に切り替えました。P1800Sの「S」は、スポーツの頭文字がイメージされますが、実は「スウェーデン」を表しています。 外観上はほとんど変わりませんでしたが、エンジンは108馬力に出力を向上。さらに、1968年にはエンジンを2Lに拡大し、118馬力にまで出力が高められました。なお、エンジンが拡大された後も、車名は「P1800S」から変更されませんでした。 P1800E(1970〜1972年) P1800Eへのモデルチェンジでは、エンジンが圧倒的な進化を遂げます。従来のツインキャブを近代的なEFI(電子制御燃料噴射)に変更。最終モデルでは、130馬力まで一気に出力を向上させました。 P1800ES(1972〜1973年) P1800シリーズ、モデル最終年に登場したのがエステートモデルのP1800ESです。「エステート」とは「ステーションワゴン」の欧州名で、2ドアクーペではなく3ドアハッチバックにボディスタイルを変更しました。 フロントからキャビンに至るボディラインはクーペタイプを踏襲しつつ、自然な形でボディ後端のデザインをステーションワゴンスタイルに改めています。ボルボといえばステーションワゴンという伝統の、先駆けとなったモデルです。 半世紀以上前のモデルなのに現存台数も多い 「質実剛健」というボルボの代名詞の礎となったP1800シリーズは、累計4万7,492台が生産されました。1966年モデルを乗り続けていた人が2013年にギネス記録を樹立したように、クラシックカーでありながら現役ともいえるモデルです。 一方で、やはり50年前の車種ということで、メンテナンスは欠かせません。また、売却する際は、単に旧車としてではなく「現役車輌」としての価値と、「クラシックカー」としての希少性を正しく評価してもらうことが重要です。P1800を購入、売却をする際は、必ず専門業者に相談しましょう。

ランボルギーニ ディアブロはミレニアル世代?! フラッグシップモデルの系譜を受け継いだ歴史を振り返る
旧車の魅力 2023.08.31

ランボルギーニ ディアブロはミレニアル世代?! フラッグシップモデルの系譜を受け継いだ歴史を振り返る

名車カウンタックの後継車として開発されたランボルギーニ ディアブロ。独特のスタイリングとV12サウンドはスーパーカーの象徴としても讃えられ、現在も多くのファンに愛されています。 20世紀末に登場し、次世代の基礎を築き上げたディアブロの歴史を振り返ってみましょう。 世紀末の10年を駆け抜けたディアブロ ランボルギーニ ディアブロは、1990年〜2001年まで販売されました。奇しくもちょうど20世紀末の10年が販売期間にあたり、21世紀に登場する後継フラッグシップモデルを形作った車種でもあります。 まずは、ディアブロの開発背景や基本性能を詳しく紹介します。 名車カウンタックの後継車種 ランボルギーニ ディアブロは、16年もの長期間販売されていた名車カウンタックの後継車種として1990年に登場しました。ディアブロの開発にあたって、ランボルギーニは「最高速は最低でも320km/h(時速200マイル)を超え、力強く異端でなければならない」と厳しい開発ハードルを自ら課します。スーパーカーの代名詞にまでなった名車カウンタックの後継車だけに、普通のクルマでは意味がないと考えていたのでしょう。 カウンタックと同様ミッドシップに縦置きで搭載した5.7LのV型12気筒エンジンは最大492psを発生。ボディデザインは、現代的な曲線を取り入れて新たに生まれ変わったものの、残された直線部分からカウンタックの面影も感じます。また、カウンタックで世界で初めて採用されたランボルギーニの象徴であるシザーズドアも健在です。 結果的にカウンタックの16年には及ばなかったものの、ディアブロは2001年までの11年間に渡り生産され、全モデル合計2,903台が販売されました。 スペイン語で「悪魔」を意味する「DIABLO(ディアブロ)」という言葉を車名にしたという背景からも、カウンタック以上に独自性をもったクルマにしたかったメーカーの想いがうかがい知れます。 縦置きミッドシップはフラッグシップの系譜 ディアブロはカウンタックと同様に、大型のV12エンジンを縦置きミッドシップに搭載しています。実は縦置きミッドシップは、カウンタック開発時にランボルギーニが苦心したポイントでした。 横置きミッドシップで発生する後輪の軸荷重問題を解決するため、カウンタックでは縦置きレイアウトの採用を決めます。一方、巨大なV型12気筒エンジンを縦に置くと、ホイールベースが長くなり旋回性能が低下してしまう点が課題でした。 そこで、前後を入れ替えて、エンジンの前側にトランスミッションを置く配置を考案。理想的な重量バランスと、旋回性能の両立を成功させます。ディアブロにも同様のレイアウトが採用され、ランボルギーニのフラッグシップモデル伝統のパッケージに仕上げられました。 柔軟な姿勢で開発されていた フラッグシップという位置づけのディアブロは、いわばランボルギーニの顔です。V12エンジンやミッドシップレイアウトといったスーパーカーとしてのこだわりをみせる一方、実は社外の意見やパーツを取り入れる柔軟な側面もありました。 ディアブロのボディデザインは、マルチェロ・ガンディー二がデザインしたプロトタイプ「P132」がベースです。「P132」は直線基調のカウンタックのデザインを踏襲したものでした。しかし、当時の親会社クライスラー社の意向もあって、大幅に手を入れることが決定。最終的には、前モデルのカウンタックと比べると、角を落とした滑らかなボディラインでリリースされました。 また、ディアブロの後期型では、実は日本の自動車メーカー日産のパーツが流用されています。一部地域の法令への対応でリトラクタブルヘッドライトを廃止する際に、日産 Z32型フェアレディZのヘッドライトを流用しました。正式に部品供給を受ける契約を日産と結べなかったとの話も残っており、その証拠にヘッドライトには「NISSAN」のロゴが入っています。 世界で337台しか生産されなかったディアブロ VT 6.0 ディアブロは2001年に生産終了するまで、意欲的に新モデルやバリエーションを投入し続けました。なかでも、世界でわずか337台しか生産されなかったディアブロ VT 6.0は、高い走行性能と希少性から人気を博しているモデルです。 ディアブロ最後のモデルにもなった、ディアブロ VT 6.0について紹介します。(正確にはディアブロ VT 6.0SEが最終モデル) アウディ傘下で登場したディアブロ VT 6.0 ディアブロ VT 6.0は、ディアブロの発売からちょうど10年が経過した2000年に登場しました。1999年からランボルギーニはアウディの傘下になっていましたが、ディアブロの開発は続行されます。 初の社内デザイナー、ルク・ドンカーヴォルケによるスタイリングの変更が行われるなか、ディアブロ VT 6.0は誕生しました。エンジンは当初の5.7Lから6.0Lに拡大され、最高出力550ps、最大トルク63.2kgmを発生。強力なパワーは4WDによって余すことなく路面に伝えられ、豪快な加速を味わえます。初期モデル登場から10年を経て、ディアブロは最終モデルで最大の進化を遂げました。 実は4WDを前提に開発されていたディアブロ ディアブロの初期モデルは、後輪駆動のいわゆるMRです。しかし、ディアブロは当初から4WD化を想定していました。ディアブロ登場から3年後の1993年に、ランボルギーニ初の4WDグランツーリズモ「ディアブロ VT」をリリースします。 「VT」とは「ビスカス・トラクション」の略で、ランボルギーニの4WDシステムです。ディアブロ VTのリリース後、1995年のディアブロVTロードスターを経て、ディアブロ VT 6.0に繋がります。 後継フラッグシップにつながったディアブロ ディアブロは、2000年以降のランボルギーニフラッグシップモデルに大きな影響を与えました。カウンタックから引き継いだレイアウト、圧倒的にパワーアップしたV型12気筒6.0Lエンジン、初の4WDと後継のムルシエラゴやアヴェンタドールにもみられる特徴は、すべてディアブロで実装されています。 ディアブロはある程度買い手が限定される車種のため、購入時も売却時も注意が必要です。希少車の取扱いに慣れた専門業者でないと、車輌状態の確認や価格の妥当性に不安が残ります。 ランボルギーニ ディアブロを売買する際は、流通の少ないモデルでも問題なく取り扱える専門業者への相談をおすすめします。

ピラーレスハードトップの高級セダン! ブロアムの名を初めて冠した日産 330型セドリック
旧車の魅力 2023.06.29

ピラーレスハードトップの高級セダン! ブロアムの名を初めて冠した日産 330型セドリック

開放感のあるピラーレスハードトップが特徴的な、日産  330型セドリック。国産高級セダンでありながら、アメリカ車のデザインを融合させた異色のモデルです。 また、最上級グレード「ブロアム」が初めて設定されたのも330型セドリックでした。「輝ける変身」をキャッチコピーに掲げ、日本の経済成長とともに駆け抜けた330型セドリックの魅力に迫ります。 高度経済成長のなかで生まれた330型セドリック 330型セドリックの登場した1970年代は、日本が高度経済成長期を迎えて人々が豊かになりつつある時代でした。当時の日産は、アメリカ車のデザインからまだ脱却していない時期でしたが、330型セドリックは単なる模倣ではなく、アメリカンテイストを日本車に取り入れて見事に昇華させたモデルです。 高級志向の高まりに呼応するかのように登場した、330型セドリックの誕生背景を振り返ってみましょう。 迫力あるボディとわかりやすいラグジュアリー感 セドリックとして4代目の330型セドリックの登場は1975年。3代目の発売から約4年ぶりのフルモデルチェンジを果たします。コンセプトは先代を踏襲しつつ、さらにアメリカンテイストを取り込んで大柄で迫力のあるデザインに仕上がりました。 経済的に豊かになり、高級志向が高まりを見せつつあった時代に対して日産の出した答えが330型セドリックです。ボディサイズが大型化されただけでなく、開放感のあるピラーレスハードトップを筆頭に、内外装含めてアメリカ車のようなわかりやすい高級感を取り入れてデザインされました。 最上級グレード「ブロアム」は330型セドリックから始まった 日産セダンの最上級グレード名として、1990年代の終わりまで使われていた「ブロアム」。(一部車種では2000年代にも限定的に使用)最初にブロアムが設定された車種が330型セドリックでした。 ブロアムとはかつての馬車の形を指す言葉で、イギリス男爵ヘンリーブロアムが由来です。本来のブロアムは、御者の乗る席には屋根はなく後席のみにキャビンがある形状です。330型セドリック「ブロアム」とは、形式上の共通点は見当たりません。ブロアムと名付けた真意は不明ですが、最高級グレードとして後席のラグジュアリー感も重視したという意味合いでしょうか。 アメリカンテイストの高級車「330型セドリック」3つの魅力 流れるようなリアクォーターのラインに、コークボトルデザインを取り入れた豊満で複雑なフォルム。さらに内装や装備面も充実させ、330型セドリックは豪華さを目に見える形でわかりやすく表現しました。 豊かになって高級志向の高まったユーザーを釘付けにした、330型セドリックの魅力を3つ紹介します。 開放感を味わえるピラーレスハードトップ 330型セドリックのボディバリエーションの一つが、ピラーレス・ハードトップです。窓枠付きの硬派なセダンと異なり、Bピラーとサッシュをもたないため、サイドはスポーティな印象です。 ピラーレスのクルマが初めてお披露目されたのは、1949年のアメリカ、キャデラック・クーペドゥビルでした。現在でもメルセデス・ベンツやロールスロイスなどの高級クーペが採用しています。窓を全開にすると前席と後席が一体となり、アメリカのロードトリップを思わせる、この上ない開放感を味わえます。 また、豊富なボディバリエーションをそろえていた点も、330型セドリックの特徴です。ピラーレス構造を採用した4ドアハードトップに加え、通常の4ドア、2ドアハードトップをそろえ、豊かになった日本人の幅広いニーズに応えました。 存在感のあるフロントマスク フロントマスクの印象が、330型セドリックに車格にふさわしい風格と迫力を与えています。大型バンパーとフロントグリル、さらにヘッドライトを囲う四角い枠までクロムメッキ加工という徹底ぶりです。また、ボディの至る所にもクロムパーツが使用されていました。 特にブロアムを含む4ドア系ではヘッドライトに丸4灯を採用していたこともあって、フロントマスク全体が光り輝く威風堂々とした印象でした。全長4.7mにも及ぶ大型ボディに負けないフロントマスクのデザインによって、大きくて高級というセドリックのコンセプトをしっかりと表現しています。 高級感あふれる内装と豪華な装備 330型セドリックのシートには、厳選された生地を使用し、自宅のソファさながらの心地よさを再現しました。運転席には本革巻きステアリング、木目パネルを取り入れたコックピットには高級オーディオを装備しています。 さらに、デュアルエアコンや後席パワーシートといった先進の快適装備に加え、大型アームレストやトランクオープナースイッチ、高級カーペットまで備えた「高級車」にふさわしい仕様です。 330型セドリックは旧車ファンの間で人気 日産 セドリックは、後継車「フーガ」に引き継がれる2004年まで、44年間にわたるロングセラー車種でした。なかでも独特なアメリカンスタイルの330型は、今でも旧車ファンの間で人気モデルです。 しかし、330型セドリックは、販売開始からすでに50年近く経過している旧車です。納得のいく一台を見つけるには、信頼のできる中古車業者へ相談しましょう。購入する際は必ず現車を確認し、必要なメンテナンスや費用についてしっかり確認することが大切です。 また、人気の高さから、330型セドリックには思わぬ高値がつくかもしれません。売却する際には、旧車を専門に取り扱う業者で正しい価値を査定してもらいましょう。 ※経過年数は2023年6月執筆当時

アルファロメオの伝統のエンジンV6ブッソを徹底解説!名機を載せた名車156GTAと147GTAも紹介
旧車の魅力 2023.05.24

アルファロメオの伝統のエンジンV6ブッソを徹底解説!名機を載せた名車156GTAと147GTAも紹介

官能的な加速感、気持ちの良い吹け上がりと共に響く甘美な音。アルファロメオ伝統のV6エンジン“V6ブッソ”は、今もファンを魅了し続けるエンジンです。今回は、開発者の名前を冠した通称で呼ばれるほど多くの人に愛された、V6ブッソについて振り返ります。アルファロメオのこだわりと、スペックだけでは測れない情緒的な魅力が見えてきました。 V6ブッソは最後のアルファロメオ製エンジン アルファロメオが1970年代に開発したV型6気筒エンジンは、1979年から2005年までの26年間も生産され続けた伝統あるエンジンで、“V6ブッソ”の愛称で呼ばれています。名機となったV6ブッソは、アルファロメオを代表するさまざまな車種に搭載されました。 今なお人気の高いV6ブッソと、開発者ジュゼッペ・ブッソについて紹介します。 アルファロメオ伝統のV6エンジン アルファロメオV6エンジン、通称V6ブッソが登場したのは1979年。アルファロメオのフラッグシップセダン、アルファ6(セイ)に初めて搭載されます。 その後、SOHCからDOHC、2バルブから4バルブ、キャブレターからインジェクションといった改良を加えながら、2005年の生産終了まで26年間もの間作り続けられました。 長期に渡る生産期間に、さまざまなバリエーションも生み出されます。排気量は当初2.5Lのみでしたが2L・3L・3.2Lを追加し合計4種になり、吸気方式は自然吸気とターボが用意されました。 オリジナル設計のエンジンをこれだけの長期間生産し続けたアルファロメオでしたが、2005年以降のエンジンは、残念ながら他メーカーとの共同開発に移行します。結果的に、アルファロメオがゼロから開発した最後のエンジンとなったことも、後にV6ブッソの評価を高めた要因の1つと言って間違いありません。 エンジンの愛称にもなっている開発者“ブッソ” V6ブッソを開発したのは、イタリア・トリノ生まれのエンジニア、ジュゼッペ・ブッソです。キャリアのスタートはフィアット、その後アルファロメオのレーシングエンジン責任者を務め、一度フェラーリに移籍しました。再びアルファロメオに戻ってきた後、手掛けたのが名機V6ブッソです。 個性的な存在感を放つV6ブッソ V6ブッソはアルファロメオを代表するエンジンだけあって、どのクルマに搭載されていてもエンジン単体で独特の存在感を放っています。 長年作り続けられ、今なおファンの心をつかんで放さないV6ブッソのすべては書ききれません。そこで、数あるV6ブッソの魅力から、あえて2点に絞って紹介します。 ファンを魅了する吹けの良さと甘美なサウンド V6ブッソの魅力は、高回転まで気持ちよく回る“吹け”の良さです。アクセルを踏み込むと、V6エンジンが生み出すパワフルなトルクによって、高回転まで一気に吹き上がります。 そして、エンジンの吹け上がりと共に高鳴るエンジン音も、V6ブッソが多くの人を虜にする理由です。V6ブッソが搭載されるモデルはさまざまにありますが、どのモデルも多くのファンを魅了しています。 高性能エンジンが奏でる音の表現として「咆哮」という言葉がよく使われますが、アルファロメオのそれは、咆哮ではなく「美声」と呼ぶにふさわしい官能的なサウンドです。フェラーリの乾ききった高音や6気筒エンジン特有の滑らかな音とも異なり、情熱的でハリのある甘美な響きを感じさせます。 息をのむ見た目の美しさ V6ブッソは、見た目でも人の心をひきつけるエンジンです。赤色の筆記体で記された「Alpha Romeo」の文字が印象的なヘッドカバーに、同じく赤色の「V6」の文字が浮かび上がるインダクションボックス。そこから伸びるインテークマニホールドも含めて、デザイン的なまとまりを感じます。 V6ブッソはイグニッションを回さなくても、見た目だけでエンジン全体のバランスの良さを感じさせる独特の魅力を持ったエンジンです。エンジンルームを眺めていると、機能美とはこんなにも美しいものかと再認識することができます。 V6ブッソを搭載した人気の2車種 数あるV6ブッソを搭載した車種の中でも、とくに高い人気を集めているのが156GTAと147GTAです。いずれもV6ブッソ最後のモデルとなったため希少性が高く“車両価格はエンジンの価格”とまで言われています。 156GTAには、セダンとスポーツワゴンが用意されていました。専用にチューンされた3.2LのV6ブッソは最高出力250ps/6,200rpm、最大トルク30.6kgm/4,800rpmを発生。セダンタイプで1,420kgもあったボディでしたが、V6ブッソ独特のエンジン音と加速感を味わえます。 147GTAは、156GTAの兄弟車として発売された、3ドアハッチバックのいわゆるホットハッチです。156GTAと同じく250psを発生する3.2LのV6ブッソエンジンを搭載しています。セダンの156GTAよりも車重が軽い147GTAのパワーウェイトレシオ5.56kg/psは、トップクラスのスポーツカーと遜色ないスペックで、V6ブッソ本来の加速感をセダン以上に感じられるモデルでした。 156GTAと147GTAを売るなら実績・知識豊富な業者へ 強烈な個性とヒステリックな魅力が溢れるV6ブッソ。そんな名機を最後に搭載した156GTAと147GTAはアルファロメオが誇る人気モデルです。 売却を検討する際にはエンジンの特徴や魅力をしっかりと理解している業者を選びましょう。どんな歴史をもち、どういった部分が長年愛されているのかを知っている買取業者であれば、高額買取に期待できます。156GTAと147GTAはちろん、さまざまな車、特に古いクルマに特化したサービスに査定を依頼するのがおすすめです。

日産 フェアレディZの礎になったのはS130だった?! 国産車初となる装備など初代以上の魅力を紹介
旧車の魅力 2023.03.28

日産 フェアレディZの礎になったのはS130だった?! 国産車初となる装備など初代以上の魅力を紹介

初代同様アメリカンテイストに仕上げられたロングノーズショートデッキの特徴的なスタイリングに、国産車初のTバールーフを備えたS130型2代目日産 フェアレディZ。 先代を踏襲したデザインだったこともあり、初代のS30型が登場したときほどの大きなインパクトはなかったものの、性能面、スタイリング共に完成度の高い一台として今も人気を博しています。今回は、フェアレディZの伝統をつくり上げた2代目S130型の魅力を詳しく見ていきましょう。 初代の成功を受けて誕生したS130 9年間に渡って生産された初代S30型の成功を受けて、1970年代後半にフェアレディZ初のモデルチェンジによって登場したのがS130型です。 高い人気にもつながった初代のスタイリングを踏襲しつつ、実は大きく刷新されていたS130の概要を振り返ります。 240Zが時代を作った初代フェアレディZ フェアレディZの初代S30型は、ダットサン フェアレディの後継車として1969年に登場。欧州のGTカー並みの高いスペックを誇りながらも、価格をかなり低く抑えていたために市場に大きなインパクトを与えました。 エンジンは、L型直列6気筒エンジンを搭載。ロングノーズショートデッキという特徴的なスタイリングに加え、北米には低中速域がトルクフルな2.4Lモデルを投入していたことから特にアメリカで高い人気を獲得します。全世界で販売台数55万台という大ヒットを記録しました。 S30型の成功受けて製造されたS130型 初代S30型フェアレディZの成功を受けて、初のフルモデルチェンジを果たして登場したのがS130型2代目フェアレディZです。デザインこそ初代をそのまま踏襲していましたが、実はシャーシからすべてが一新されていました。 全体にワイド化し、より力強く安定感のある印象を与えるスタイリングを手に入れます。さらに、全長を伸長しキャビンの居住性を確保したことで、2 + 2モデルの後席の居住性が大きく向上。リアサスペンションの刷新や四輪ディスクブレーキの採用も含めて、スポーツカーというコンセプトを維持しつつも、GTカーの性格が色濃くなりました。 販売台数は42万台と初代には及ばなかったものの、ユーザー層の限られるスポーツカーとしては大成功と呼べる記録でした。また、初代の約9年間に対してS130の販売期間が約5年間ということ考えると驚異的な数字です。現在まで続くフェアレディZの人気を、不動のものにしたモデルといえます。 国産車初のTバールーフが印象的なS130 外観上は初代をそのまま踏襲したかのような印象を受けるS130。しかし、国産車初となるTバールーフやわずか5年という販売期間中も進化し続けたエンジンなど、意欲的に開発されたモデルでした。 S130で初めて採用された装備のいくつかは、その後のフェアレディZの伝統になったものもあります。現代のフェアレディZにつながる礎ともなったS130の特徴的な装備を紹介しましょう。 フェアレディZの象徴になったTバールーフを初めて採用 S130型は、フェアレディZシリーズとしてだけではなく、国産車として初めてTバールーフを採用したモデルです。しかし、実は発売時にはラインナップにありませんでした。発売から2年後の1980年に、新仕様車として投入されます。 ルーフガラスを外すとオープンカー並みの開放感を得られるTバールーフは、フェアレディZのアメリカンテイストをより強調する装備でした。日本車離れしたデザインのTバールーフを印象付けたのが、ドラマ「西部警察」の劇中車として登場した、ガルウィングに改造された「スーパーZ」です。S130型以降、TバールーフはフェアレディZの象徴ともいえる仕様として定着しました。 積極的に開発したエンジンは初のターボモデルも投入 S130型は、Tバールーフと同様にシリーズ初の仕様が追加されます。ターボエンジンです。先代の2.4Lから400cc排気量を増やしてラインナップされていた、2.8L直列6気筒L28E型エンジンにターボを搭載し、180psを発生するL28ET型が北米モデルに投入されました。 さらに、S130型末期の1982年には、国内販売される2.0Lモデルにもターボが追加されます。北米向けには「280Z」として販売されていたため、「フェアレディZ」としては初のターボモデルとなりました。 近代的に洗練されたインテリア エクステリアはS30型を踏襲したデザインだったS130型フェアレディZですが、インテリアは大きく洗練されて近代的になりました。ステアリングホイールも、スタンダードな3本スポークから逆V時型の先鋭的なデザインのものに変更されています。 一方で、センターコンソール上部の3連メーターは、フェアレディZのアイデンティティとして初代を踏襲した形で残されました。 新型フェアレディZにもつながるS130 フェアレディZシリーズで、登場時に大きなインパクトを与えたのは初代のS30型です。しかし、Tバールーフやターボ仕様、洗練されたインテリアといったその後のフェアレディZにつながる装備を初採用したのはS130型でした。 S30型よりも大幅に性能が向上しているS130型は、現在でも根強い人気を誇ります。ただし、生産終了から40年が経過しているため入手は難しくなってきています。 大手中古車サイトで検索したところ、10台強しか見つからなかったうえ、多くの個体では価格が開示されていませんでした。北米仕様として販売されていた個体の販売価格は、1983年式ということ以外、走行距離もグレードも不明にもかかわらず、510万円もの本体価格が付けられていました。 ※中古車価格は2023年3月執筆時

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