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風を切りながら走る爽快感を、軽自動車ながら存分に味わえるホンダ ビート。わずか一世代しか生産されなかったにも関わらず、現在でも多くのファンの心を掴んでいるクルマです。 そこで今回は、ビートに込められたホンダ開発陣のこだわりと、今も愛される理由を徹底的に紹介します。 ビートは初物づくしのすごい軽自動車 1990年代に登場したビートは、「初」という冠のつく仕様が多数盛り込まれた画期的なモデルでした。しかし、初採用の仕様の数々は決して奇をてらったものではなく、ホンダがこだわり抜いて開発した結果です。 まずは、ビートの仕様を改めて振り返ってみましょう。 世界初のミッドシップフルオープンモノコックボディ 1991年に発売されたビートは、量産車として世界で初めてミッドシップレイアウトとフルオープンモノコックボディを採用したモデルです。普通車でも存在しなかった世界初の仕様を、軽自動車で実現した点にホンダの高い技術力がうかがえます。 まず、ミッドシップレイアウトを軽自動車で設計するのは、容易なことではありません。ボディサイズが規格で決められているため、限られたスペースのなかで座席後部にエンジンを配置する必要があります。 さらに、フルオープンという仕様も、本格スポーツという方向性の軽自動車で実現するのは困難です。排気量の小さなエンジンで十分な走行性能を発揮するには、ボディの軽量化は欠かせません。しかし、ボディ剛性を確保しておかないと、キビキビとしたハンドリング性能が犠牲になってしまいます。そこでホンダは、主要なボディパーツの板厚をアップしつつ入力部分に効果的に補強材をいれることで、ビートの高い剛性を実現しました。 軽自動車で初めての仕様を詰め込んだ、ホンダのこだわり ビートには、軽自動車初の仕様が数多く採用されました。なかでも注目したいのは、フロント13インチとリア14インチの異径ホイールです。ミッドシップレイアウトによってリア側の重量が増した分、ホイールサイズを前後で変えることで重量バランスの最適化が図られています。 なお、ミッドシップレイアウトを軽自動車に採用したのもビートが初めてです。さらに、4輪ディスクブレーキ、SRSエアバックも軽自動車としては初の装備でした。 また、単なる軽自動車ではない、本格スポーツとしてのこだわりも随所にみられます。例えば、トランスミッションは5速MTのみが設定されています。日常の足という軽自動車本来の利便性を考えるとATを用意したほうが販売台数を伸ばせたはずですが、あえて5MTのみに限定し、走りを最大限に楽しめるモデルとしてリリースされました。 他にも、エンジン出力が犠牲になるパワーステアリングは装備しておらず、万人受けする利便性より走行性能を重視していたことがわかります。 ビートが今も愛されている理由 軽自動車初の仕様が数多く採用されたビートですが、他の高性能スポーツカーに比べて特別優位な点はあまり見当たりません。しかし、現在も中古車市場では活発に取引され、多くの人が大切に乗り続けています。 ビートがなぜ今も愛されているのか、2つのポイントで探っていきましょう。 F1の技術がフィードバックされた自然吸気エンジン ビートに搭載されているE07A型エンジンは、トゥデイやライフなどにも搭載される汎用エンジンです。しかし、ビートに搭載するにあたって、F1のテクノロジーを応用した技術で徹底的なチューニングが施されました。自然吸気エンジンながら、軽自動車の自主規制いっぱいの64psを発揮します。 E07A型エンジンで特筆すべきは、普通車でもあまり採用されていない3連スロットルです。気筒ごとに独立したスロットルを設けることで、吸気効率を高めています。さらに、レスポンスとアイドリングを両立するために、2つの燃料噴射制御マップを切り換える方式が採用されました。このホンダ独自のエンジンシステムは、「MTREC」(Multi Throttle Responsive Engine Control System)と呼ばれています。 ミッドシップレイアウトというスペース的な問題もあったのかもしれませんが、ターボに頼らないというホンダのエンジンへのこだわりは、ビートが愛されている理由の1つでしょう。 クルマを操る楽しさを追求 ビートは、実際に運転してみるとそれほど速いと感じるクルマではありません。最高出力の64psを発生するのは8,100rpmと極めて高い回転数で、ターボ車のような爆発的な加速力はないためです。 しかし、軽自動車というサイズとミッドシップレイアウトを活かした、キビキビとしたハンドリング性能はビートでなければ味わえません。また、8,000回転以上まで到達するエンジンは、スポーツカーに乗っているという感覚を満足させるには十分です。 絶対的な速さではなく、手足のようにクルマを扱える感覚こそが人々を惹きつける魅力なのでしょう。 残存台数の多さから今も愛されていることがわかる ビートは1991年から1996年の1世代しか生産されず、販売台数はそれほど伸びませんでした。デビュー当時は、前年発売されたNSXと同様のミッドシップレイアウトというイメージ戦略と138万8,000円という手頃な価格から予約が殺到。しかし、1990年代の「RVブーム」のあおりを受けて販売台数が伸び悩み、最終的な生産台数は3万3,892台にとどまりました。 一方で、2021年12月時点で日本全国に残るビートは、1万7,072台にものぼるという情報もあります。生産終了から30年近くを経ても、なお半数以上が残っているのは驚異的です。軽自動車規格の2シーターという日常的には使い勝手の悪いパッケージのうえ、5MTでパワステはなしという快適性もないモデルですが、今も多くの人に愛されていることを残存台数が証明しています。
「スパルタン」とも評される日産 R32型GT-R。無駄が削ぎ落とされたボディデザインや大型のリアウィングなど見た目の印象が強いクルマですが、世間での評価通り機能性を追求した末に生まれた高性能スポーツカーです。 レース仕様を意識して開発されたエンジンなど、勝つための工夫が随所に凝らされたR32型GT-Rの誕生背景と実力を振り返ってみましょう。 レースで勝つために作られたR32型GT-R 1985年に始まった日本国内のグループA規定のレース、JTC(Japan Touringcar Championship)で思うような結果が残せていなかった日産は、「サーキットレースで勝てなければスカイラインの存在価値はない」とGT-R復活への決意を固めます。 スカイライン 2000GT-R以来16年ぶりに登場した、R32型GT-Rの誕生背景を振り返ってみましょう。 16年ぶりに復活したGT-Rの称号 スカイラインは、1989年にR32型へのフルモデルチェンジを果たします。同時に、1973年以来16年ぶりにGT-Rのグレードが復活しました。このタイミングでのGT-Rの復活には、単なる最上位グレードの設定ではなく、「レースで勝つ」という明確な目的がありました。 「GT-R」とは、「GrandTouring」と「Race」を意味しているといわれています。しかし、直接的にレースを意識して開発されたGT-Rは、初代PGC/KPGC10型とR32型の2モデルのみです。 あらゆる造形がグループAを意識していた グループA規定は市販車からの改造範囲が狭く、性能向上のために基本構造を変更することができません。そこで、R32型GT-Rは、あらゆる部分がレースへの参戦を前提に設計されました。特に外装部分の造形は、スポーツカーとしての見た目ではなく機能性に重点が置かれています。 例えば、フロントの大きな開口部とバンパーの特徴的なエアインレットは、冷却性能を最大限に高めることが目的です。加えて、ワイドホイールを使用する目的で採用されたブリスターフェンダーの存在もR32型GT-Rの魅力を語るうえで欠かせません。大径ホイールの装着が実現したためにグリップ力が向上し、走行性能にさらなる磨きがかかりました。。 圧倒的な速さを実現した2つの要素 R32型GT-Rは、当初の開発目的どおりレースで無類の速さを見せつけます。高い戦闘力に直接的に影響したのは、エンジンと先進的な駆動システムです。 レースでの結果も交えて、R32型GT-Rの実力を再確認してみましょう。 速すぎたRB26DETT R32型GT-Rに搭載されたのは、新開発のRB26DETTエンジンです。市販車の最高出力は、自主規制いっぱいの280ps。さらにレース仕様では、600ps+αのパワーを発揮したといわれています。 R32型がいかにレースを意識して設計されていたのかがわかるポイントが、エンジンの燃焼室の形状です。実は、RB26DETTの燃焼室は、市販車に適した形状ではありません。レースで高過給圧仕様にして圧縮比を下げた際に、最適になるように設計されています。 さらに、このエンジンの実力の高さをうかがわせるエピソードが残っています。当初、レース仕様の過給圧は1.6kgf/cm2を想定していました。しかし、他車が相手にならないほどの圧倒的な速さになることが判明し、何らかのハンディを課せられることをおそれた日産は過給圧の引き下げを決断したそうです。最終的な過給圧は、1.4kgf/cm2まで下げられました。 直線でもコーナリングでもライバルを引き離すアテーサET-S 高出力エンジンのパワーを余すことなく地面に伝えるアテーサET-Sも、GT-Rの圧倒的な速さを支えました。GT-Rの駆動方式は一般的に4WDだと認識されていますが、正確には後輪駆動がベースのパートタイム4WDです。 アテーサET-Sは、後輪のトルクが過大になるシチュエーションで湿式クラッチを介して前輪にもトルクを配分します。湿式クラッチを電子制御することで、0:100〜50:50の広範囲でシチュエーションに応じた最適なトルク配分を実現しました。 4年間負けなしの29連勝という大記録を樹立 R32型GT-Rは、開発の目的通りレース参戦直後から無類の強さを発揮します。市販の翌年にJTCに投入されると、1990年から1993年の4シーズンにわたって負け知らずの29連勝という大記録を打ち立てました。 最終年の1993年には7〜8台のGT-Rが出場していましたが他車を寄せ付けない速さだったため、GT-R同士の熾烈な順位争いが常に繰り広げられました。同型車同士の争いだっただけに、クルマとしての速さはあってもなかなか表彰台を獲得できないチームもありました。 特に1992年のRd.3 SUGOでのレースは、GT-Rを擁するチーム間での争いがいかに過酷だったのかがわかります。師と仰ぐ高橋国光氏とSTPタイサンGT-Rでチームを組む土屋圭市氏は、念願の3位表彰台を獲得しました。高橋氏の他界後に「オレが国さんをグループAの表彰台に上げる!」という固い決意をもってレースに臨んだことを土屋氏は語っています。 販売台数からわかる圧倒的な人気ぶり レースでの速さだけではなく、R32型GT-Rは商業的にも成功したモデルです。最上位グレードという位置づけにも関わらず、販売台数は4万3,934台にものぼりました。後継のR33型が1万6,422台、R34型が1万1,345台に留まったことからも、いかに驚異的な販売台数だったのかがわかります。 GT-Rには数々のモデルがありますが、初代と同等かそれ以上に特別視されているのがR32型です。エンジンのスペックやニュルブルクリンクでのタイムなど絶対的な性能は後発モデルのほうが向上していますが、R32型GT-Rにこだわるユーザーは少なくありません。販売終了からでもすでに30年以上が経過し年々残存台数は減ってきていますが、不滅の記録を打ち立てた歴史的なクルマとして後世に永く語り継がれていくでしょう。
3ドアコンパクトカーでありながらミッドシップレイアウトを採用した、ルノーのサンクターボ。WRCのホモロゲーション取得のため大衆車のサンクをベースに1980年代に開発されました。 本記事では、個性的なレイアウトと外観、レースで勝てる確かな性能を備えたサンクターボについて詳しく解説します。 WRCで勝つために生まれたルノー 5ターボ ルノー 5(サンク)は、先進的なデザインと高い実用性によって欧州でベストセラーになった大衆車です。サンクをベースに開発されたサンクターボは、レースで勝つことを目的に生まれました。 大胆な設計変更を加えて開発された、サンクターボの誕生を振り返ってみましょう。 ベース車輌の後席を取り払ってエンジンを搭載 サンクターボは、ベース車輌のサンク発売から8年後の1980年に登場しました。サンクはもともとFFの大衆車でしたが、サンクターボでは後輪駆動、しかもMRに変更されています。3ドアハッチバックの後席を取り払ったスペースにエンジンを搭載するという、思い切った設計によって実現しました。WRCで勝つという、ルノーの強い意志を感じるレイアウトです。 エンジンには、5アルピーヌのエンジンをベースに開発した、水冷式直列4気筒 1397cc OHVユニットを採用。ギャレット製インタークーラー付ターボチャージャーを搭載し、最高出力160ps/6,000rpm、最大トルク22.5kgm/3,250rpmを発揮します。 しっかりと作り込まれた基本設計 サンクターボの特徴は、個性的なエンジンの搭載位置だけではありません。WRCでしっかりと戦えるよう、基本設計もしっかりと詰められていました。サスペンションにはダブルウィッシュボーン方式を採用し、タイヤは前後でサイズが異なり、フロント190/55VR340、リア220/55VR365を装着します。 また、ルーフやドア、テールゲートがアルミ製で、そのほかのパネルにも薄い鋼板が使われている点も、ルノーがレースでの勝利にこだわっていたことがうかがえるポイントです。もともとコンパクトなサンクに、さらなる軽量化が施されました。 ターボ車としてのWRC初勝利を飾る サンクターボは、WRC史上初めてターボ車が勝利を挙げたモデルです。WRCでの勝利を目指して開発され、タイトルこそ獲得できなかったものの、歴史に名を残す活躍をしました。 まず、グループ4時代の1981年開幕戦モンテカルロで、いきなりの初優勝。翌年の1982年ツール・ド・コルスでは、2勝目をあげて実力の高さを証明します。さらに、グループB時代に突入後も、1985年のツール・ド・コルス、1986年のポルトガルでそれぞれ勝利を挙げ、合計4勝を挙げました。 性能面以外も個性的だった WRCで実力を証明したサンクターボですが、ロードカーとしても魅力あふれるモデルです。迫力のある外観、有名デザイナーによる内装など、個性的で特別感のある1台に仕上げられました。 ここからは、性能面以外でのサンクターボの魅力をみていきましょう。 大衆車がベースとは思えない迫力ある外観 サンクターボで真っ先に目を奪われるのは、リアの大きく張り出したフェンダーです。フロント、リアともにブリスターフェンダーではありますが、リア形状が醸し出す迫力は唯一無二だといえるでしょう。また、フェンダー前部に設けられたエアインテークも、戦うマシンであることを主張しています。 一方で、フロント周りを中心に、サンクのイメージを踏襲している点もサンクターボのアイデンティティです。大衆コンパクトカーのスタイリングを維持しながら、戦闘力をあげる工夫が随所に凝らされています。 マリオ・ベリーニが担当した内装 ホモロゲーション取得のために開発されたサンクターボですが、市販車としての質感にも徹底的にこだわっています。内装デザインを担当したのは、イタリアの有名デザイナーマリオ・ベリーニです。 独特の真っ赤なシートやダッシュボードが大きな話題を呼びました。性能や外観に負けない内装のデザイン性の高さも、サンクターボの大きな魅力です。 こだわりのターボ1とコスパのターボ2 サンクターボには、ターボ1とターボ2の2種類があります。ターボ1は、最初に開発されたモデルということもあり、マリオ・ベリーニが手掛けた内装も含めて性能だけでなく質感も高められています。 一方のターボ2は、実用的な内装を組み合わせて生産性をあげることで、ターボ1よりも25%も安価な価格設定を実現したコスパの高いモデルです。 ターボ1が1,820台、ターボ2は3,167台が生産されました。価格が安かったため生産台数が伸びたターボ2ですが、中古車で入手するのであれば質感の高いターボ1がおすすめです。 輸入車ということもあって流通台数は少ない サンクターボは、ターボ1、2合わせても5,000台ほどしか販売されていないため、残存数はわずかです。しかも、正規輸入された台数は限られていたため、日本国内ではあまり流通していません。 希少性の高さから、新車時には安価に設定されたターボ2も、価値ある1台として評価されています。 【まとめ】サンクターボを売却するなら修理・修復の仕組みのある買取業者に サンクターボの歴史と魅力について紹介しました。 WRCの歴史に功績を残した名誉あるモデルでありながら、現存数は少なく、年々希少価値が高まっています。また、40年前のクルマであるために、ダメージが蓄積された個体が多いのが現状です。 希少性が高いクルマであるにもかかわらず、コンディションが理由で査定額が下がってしまうのは大変もったいないことです。サンクターボを売却をご検討されているのであれば、古いクルマを修理・修復する仕組みが整っている業者に依頼しましょう。自社でクルマのコンディションを蘇らせることができる会社であれば、故障している個体であっても査定額が下がりにくい傾向にあります。 レース史に名を刻んだ名車であるからこそ、慎重な売却先の選定をおすすめします。 なお、本メディアの運営元である「旧車王」では、10年以上経過したクルマに特化して買取を行っているのみならず、お客様からお譲りいただいたクルマを修理・修復して市場へ再流通させています。長年乗り続けて故障しているクルマであっても丁寧に査定いたしますので、売却先にお悩みの方はぜひご相談ください。
一般的な2ボックスのホットハッチというフォルムながら、ミッドシップ4WDという個性的なドライブトレインをもつプジョー 205 ターボ16。WRCで勝つために開発され、圧倒的な速さで期待に応えたプジョーの歴史のなかで燦然と輝く名車です。 そこで今回は、プジョー 205 ターボ16が誕生した背景とWRCでの活躍について詳しく紹介します。 プジョーの歴史を作り上げた205 ターボ16 205 ターボ16は2年連続でタイトル獲得を成し遂げ、プジョーの実力の高さを見せつけたモデルです。WRCにおいて、プジョーは1970年代の限定的な活躍に留まっていましたが、205 ターボ16が歴史を大きく変えました。 あのジャン・トッドをトップに迎えたプジョー・タルボ・スポールが開発した205 ターボ16の概要を振り返ってみましょう。 空前の大ヒットモデル・205の人気を支えたターボ16 205 ターボ16は、同時期に登場した205をベースに開発されました。「新型ラリーカーは、開発中の205に似ていなければいけない」と、当時のプジョー社長、ボワローから要求されていたためです。 205 ターボ16の開発には、プジョーのモータースポーツ部門として設立されたプジョー・タルボ・スポールがあたりました。WRCで勝つべく中身はまったくの別物でしたが、社長の要求通り205の外観イメージを踏襲したマシンに仕上げられています。205が熱い支持を得た理由の1つが、圧倒的なパフォーマンスを誇る205 ターボ16の存在だと言ってもよいかもしれません。 プジョー・タルボ・スポールを設立したジャン・トッド 205 ターボ16の誕生に欠かせなかった人物が、ジャン・トッドです。のちにF1でのフェラーリ躍進の立役者となり、FIAの9代目会長まで務めた彼が、プジョー・タルボ・スポールを設立しました。 205 ターボ16の開発にあたって、ジャン・トッドは大胆なアプローチを行います。左右のドアと前後ウィンドウ、ルーフの前部を205と共有しつつ、パワーユニットをミッドシップに搭載する4WD仕様への変更を成し遂げました。 WRCで圧倒的な強さを証明 当時のWRCでは、アウディ クアトロが4WDで圧倒的な速さを誇っていました。しかし、205 ターボ16は、1984年の投入初年度から早速実力の高さを証明します。デビュー戦こそリタイヤに終わるものの、シーズン半ばから1000湖ラリー、サンレモラリー、RACラリーで3連勝を飾りました。 翌1985年シーズンでは、マニュファクチャラーとドライバータイトルをダブル獲得。さらに、続く1986年にも猛追するランチア デルタS4を制して、2年連続でダブルタイトルを手にしました。 WRCで勝つべく磨き上げられた205 ターボ16 205 ターボ16は、WRCで勝つために作られたモデルです。一方で、ベース車の見た目を踏襲するという限られた条件も課せられていました。 圧倒的なパワーと個性的な外装を備えた、205 ターボ16の魅力をみていきましょう。 圧倒的な戦闘力を発揮したパワートレイン 運転席後方に横置きで配置された直列4気筒DOHCエンジンは、一般発売された公道仕様でも最高出力200ps、最大トルク26.0kg・mを発揮。KKK製ターボチャージャー、ボッシュ製Kジェトロニック、空冷インタークーラーを備え、レース仕様では205T16エボリューション1で350ps、エボリューション2で450psを発生したともいわれています。 生み出された強大なパワーは、5MTのギアボックスからフルタイム4WDのトルク配分を司るファーガソン・システムに至ります。トルクを余すことなく路面に伝達するため、足回りは4輪ダブルウィッシュボーンサスペンションで固められました。 専用設計された個性的な外装 205の外観イメージを踏襲している一方で、205 ターボ16専用の外装パーツも数々装備されています。もっとも目を引くのが、前後に大きく張り出したブリスターフェンダーです。特にリアフェンダーには大型のエアインテークがデザインされ、ミッドシップレイアウトを象徴しています。 ボンネットに開けられた大型のエアアウトレットやリアスポイラーも、レーシーな雰囲気を高めるポイントです。左右のドアはベース車輌を踏襲した標準的なデザインだけに、モデファイされた部分がさらに際立ちます。 グループB終焉のきっかけにもなったモンスターマシン 205 ターボ16は見た目こそ市販車と同じですが、中身は全く別物のモンスターマシンです。当時のWRC グループBでは、プジョーに限らず、ランチアやアウディも同様のアプローチでマシン製作を行っていて、最高出力は500psを大きく上回っていたともいわれています。 市販車ベースに強大なパワーユニットを搭載することで、レースがエキサイティングになるのと同時に、ドライバーの危険性が高まります。実際、1985年のアルゼンチンでは、プジョーのエースドライバーがアクシデントで大怪我を負っています。さらに、1986年には、プジョーと死闘を繰り広げていたランチアの若きエースドライバーであったヘンリ・トイヴォネンが事故により他界しました。WRCは多くの痛ましい事故の発生を重く受け止め、グループBの廃止を決定します。 結果的に、205 ターボ16は、プジョーが持てる技術を最大限詰め込んで開発した最後のモンスターマシンになりました。グループB時代を締めくくる象徴として、205 ターボ16は今後も語り継がれていくことでしょう。
元祖和製スーパーカーともいわれる、ホンダ NSX。自然吸気ながらハイパワーを発揮するVTECエンジンをミッドシップに搭載し、独特のスタイリングの軽量高剛性ボディで圧倒的なパフォーマンスを誇りました。 世界のスポーツカーメーカーにまで影響を与えたNSXについて、全日本GT選手権での活躍を中心に振り返ってみましょう。 世界初のオールアルミ製軽量高剛性ボディの国産スーパーカー NSXは、量産車として世界初発のオールアルミ製ボディを採用したスーパーカーです。ハイパワーエンジンをあえて不慣れなミッドシップに搭載し、「新しい時代のスポーツカー」を目指して開発されました。 あのF1ドライバーのアドバイスが完成のきっかけになったともいわれる、NSXの誕生背景を振り返ってみましょう。 アイルトン・セナの一言で完成を迎えた 国産スーパーカーの代表ともいわれるNSXは、アイルトン・セナの一言によって最終的な方向性が決まったといわれています。NSX登場直前の1989年に、アイルトン・セナがプロトタイプのステアリングを握りました。テスト走行の感想として、ボディ剛性を高めたほうがよいというアドバイスをホンダ開発陣に伝えたそうです。この発言をきっかけに、ホンダはドイツのニュルブルクリンクでの徹底的な走り込みを決断しました。 今でこそ市販車開発のテストコースとして有名なニュルブルクリンクですが、当時は現地に長期滞在してテストを実施する日本のメーカーはいませんでした。数ヶ月に及ぶテスト走行で、セナが指摘したボディ剛性を50%も高めることに成功します。ボディ剛性の向上により、スポーツカーとしての運動性能を高めつつ、高級車としての乗り心地も両立させました。結果として、ホンダが目指した「新しい時代のスポーツカー」というコンセプトを体現したモデルになりました。 VTECエンジンをミッドシップ搭載 ミッドシップに搭載されたV6エンジンには、ホンダを象徴する可変バルブ機構のVTECを採用。自然吸気エンジンながら、最高出力は自主規制いっぱいの280psを発揮します。 また、FFの開発を得意としていたホンダですが、NSXではミッドシップレイアウトを採用しています。誰もがドライビングを楽しめる、新時代のスポーツカーを提示したかったためです。 全日本GT選手権で発揮した高い実力 スーパーGTの前身である全日本GT選手権(以下JGTC)で、NSXは13年間の参戦期間で37勝という成績を残しています。参戦自体が後発となってしまったことや、トヨタ スープラ、日産 GT-Rといった競合がひしめいていた時代だったことを考えると輝かしい実績です。 JGTCでのNSXの活躍を、順を追ってみていきましょう。 本格参戦2年目で初優勝を達成 NSXがJGTCに本格的に参戦したのは、選手権発足3年後の1997年です。多くのライバルがハイパワーターボ車だったなかで自然吸気エンジンだったため、空力を中心とした運動性能でカバーする方針を打ち出して開発されました。 参戦初年度は多くのトラブルに見舞われつつも、第5戦のMINE、第6戦のSUGOで連続して2位表彰台を獲得。優勝こそ獲得できませんでしたが、参戦初年度から実力の片鱗を感じさせました。 続く1998年は、開幕戦鈴鹿の予選で上位3位を独占すると、毎戦ポールポジションを獲得します。そして、第4戦の富士で念願の初優勝を成し遂げた後、最終戦までの4戦とも勝ち続け、見事5連勝を飾ります。前半に勝利を重ねられなかったことでタイトルこそ逃したものの、全戦でポールポジションを獲得するという圧倒的な速さをみせつけました。 ランボルギーニと同じ方式の縦置きMR JGTC参戦時は、市販車と同様の横置きのMRレイアウトでした。しかし、2003年に自由なエンジンレイアウトが認められたことで、利点の多い縦置きへの変更に踏み切ります。 しかも、ただの縦置きではなく、ランボルギーニと同じ前後を逆に配置してトランスミッションが前方にくるレイアウトを採用。ウェイトハンデや実質的な空力規制といったミッドシップに不利な規制改定がされるなか、少しでも前後重量バランスを改善することが目的でした。 苦心の末に獲得した最後のタイトル NSXは参戦全105戦中、5割弱に及ぶ50回ものポールポジションを獲得しました。また、優勝を37回も数えていることからも、NSXの実力の高さがうかがえます。しかし、意外にもタイトルの獲得は、2000年と2007年の2度のみに終わりました。 特に2000年のタイトル初獲得以降は、度重なる仕様変更に苦心していたことがわかります。先のエンジンレイアウトの変更、自然吸気へのこだわりを捨ててターボエンジンを投入するといった多くの対策を講じたものの、思うような結果にはつながりませんでした。 しかし、最終的には自然吸気エンジンに回帰した結果、2007年シーズン開幕戦ではNSX勢が予選で上位4位を独占。シーズンを通じて速さを発揮し、2度目となるタイトルを獲得しました。 スポーツカーの時代を変えたNSX NSXの登場は、フェラーリやポルシェといった名だたるスポーツカーメーカーのアプローチを変えたともいわれています。オールアルミ製ボディの採用、アイルトン・セナの発言をきっかけに突き詰められた高剛性化によって、ミッドシップ本来の運動性能の高さを最大限に発揮するモデルとして誕生したNSX。 スポーツカーらしい人馬一体の操作感に加え、乗る人を選ばない運転のしやすさと乗り心地を両立しました。従来のスポーツカーは乗り手の技術を要求する存在でしたが、誰でも運転できるという新ジャンルを切り開いたのがNSXです。高性能で速いのに乗りやすいという現代のスポーツカーは、NSXの存在がなければ実現していなかったのかも知れません。
特徴的な大型リアウィングと左右に大きく張り出したフェンダーが特徴的な三菱 パジェロ エボリューション。外観だけでなく、チューニングされたV6エンジンによる高いパフォーマンスも高く評価されているモデルです。 今回は、三菱の開発陣がダカール・ラリーで勝つためにこだわって作り込んだ、パジェロ エボリューションの誕生背景と魅力を紹介します。 1レースに勝つためだけに誕生したパジェロ エボリューション 三菱の「エボリューション」といえば、WRCを戦ったランサー エボリューション(通称:ランエボ)があります。同じくレースを制するために開発されたモデルが、パジェロ エボリューションです。しかし、ランエボがシリーズ戦での勝利を目的としていたのに対して、パジェロ エボリューションはダカールラリーただ1戦に勝つために開発されました。 たった1つのレースにかけた三菱の情熱がつまった、パジェロ エボリューションの誕生背景を振り返ってみましょう。 新レギュレーション対応のために開発 パジェロ エボリューションが登場した1997年から主催者が規定を変更し、メーカーは市販車ベースで改造範囲の狭いT2車輌でのみ参戦可能となりました。また、ガソリンエンジンの過給機使用が全面的に禁止されます。三菱は規定内の改造を施したパジェロを1997年のレースに投入すると同時に、翌年以降のホモロゲーション取得のためにパジェロ エボリューションを開発しました。 改造範囲が限られるため、パジェロは市販車の段階で強くレースを意識した仕様になっていました。例えば、当時のクロスカントリー車のリアサスペンションとして一般的だったリジット式ではなく、4輪独立懸架のダブルウィッシュボーン式を採用しています。また、エンジンには可変バルブタイミング機構を備え、全域でのトルクフルな加速を実現しました。 投入初年度から圧倒的な速さをみせた パジェロ エボリューションは、投入初年度の1998年に期待通りの成績を残します。優勝を飾ったJ-P. フォントネを筆頭に、3位まで表彰台を独占。前年にパジェロで日本人で初めてダカール・ラリーを制した篠塚氏も2位を獲得しています。 翌1999年は優勝こそ逃したものの、2位から4位までの上位を独占して存在感を示しました。また、優勝したのはプロトタイプのシュレッサーバギーだったことを考えると、パジェロ エボリューションが市販車ベースとしては無類の速さを誇っていたことがわかります。 市販モデルも抜群の個性と存在感を発揮 レースで輝かしい実績を残したパジェロ エボリューションですが、単に市販車としてみても個性的で魅力あふれるSUVです。 続いて、パジェロ エボリューションの魅力を紹介します。 NAながら280psを発揮したMIVECエンジン パジェロ エボリューションの圧倒的なパフォーマンスを支えたのは、三菱の可変バルブ技術MIVECを搭載した6G74型3.5LのV型6気筒エンジンです。過給機禁止のレギュレーションへの対応で、自然吸気エンジンながら最高出力は自主規制いっぱいの280ps、最大トルクは35.5kgmを発揮します。 また、過酷なラリーでの信頼性を高めるため、チタン製バルブリテーナー、中空吸気バルブ、ナトリウム封入排気バルブといった細かい点まで突き詰められました。さらに、エンジンの高出力化に対応するため、トランスミッションも剛性強化とセッティング変更が施されています。 空力性能を追求した迫力のエアロボディ レースでの空力性能を強く意識したエアロボディもパジェロ エボリューションの特徴です。WRCに参戦していたランサー エボリューションのように、個性的なエアロパーツを備えています。 大幅に広げられた前後のフェンダー、エアロバンパー、大型の個性的なリアスポイラーが「エボリューション」を主張するポイントです。さらに、フロント部の開口部と大型のボンネットエアインテークは、エンジンの冷却効率を追求した結果の機能美だといえます。 フラッグシップモデルにふさわしいインテリア ダカール・ラリーで勝つために開発されたものの、パジェロシリーズのフラッグシップモデルという肩書きにふさわしい内装もパジェロ エボリューションの特徴です。本革巻きのステアリングやメーターベゼルやエアコンの吹出口などに配されたカーボン調のパネルといった装備は、所有するドライバーの満足度を高めます。 また、フルオートエアコンやキーレスエントリーに加え、フロントにはホールド性の高いレカロ社製のシートが装備されるなど、日常使いからロングドライブまで快適にこなせる1台に仕上がっています。 初代限りの生産だった希少性の高いモデル パジェロ エボリューションは、1997年に発売された初代のみで生産を終了しました。もともとホモロゲーション取得のために販売されたということもあり、生産台数もわずか2,693台といわれています。パジェロシリーズのなかでも、特に希少性の高いモデルです。 新車価格は374万円(5MT車)という、優れた性能と現在のSUVの価格水準から考えると大変コストパフォーマンスに優れたモデルでした。しかし、その希少性の高さから、現在の中古車市場ではプレミア化しつつあり、高値で取引されるケースが増えているようです。ダカール・ラリーで残した輝かしい実績も影響して、今後価値がさらに高まっていくかもしれません。
トヨタ 86は、2代目の現行型の受注が一時停止になっていたほどの人気のスポーツカーです。車名の由来が名車「AE86」であることやスバルとの共同開発といった話題性の高さから、発売前から注目を集めていました。 スバルの水平対向エンジンにトヨタの燃料直噴技術を組み込むという、形だけではない真の共同開発によって生まれた名車の開発ストーリーを紐解いていきましょう。 両社の思惑が見事に融合して実現 初代86は、トヨタとスバルの業務提携を受けて開発されました。しかし、開発が決定した当初は、トヨタの掲げるコンセプトに対してスバル側が違和感を感じていた場面もあったようです。 最終的には両社の開発陣が強力なタッグを組んで完成させた、初代ZN6型86の開発時の状況を改めて振り返ってみましょう。 決め手となった1台の試作車 2012年に初代が発売された86の開発起源は、2005年のスバルとの業務提携にまで遡ります。両社の提携のシンボルとなり得る車種の開発を目指して、スバルの水平対向エンジンを搭載したFRスポーツという大枠のコンセプトが決定されました。 しかし、トヨタが提示した2Lの自然吸気エンジンのFRスポーツという企画に対して、スバル開発陣は当初は温度差を感じたそうです。長年ターボを装備したハイパワー水平対向エンジンと4WDという最強の組み合わせに価値を見出していたため、トヨタの開発哲学に違和感があったのかもしれません。 両社が一歩を踏み出すきっかけになったのは、レガシィをベースに製作したFRの試作車です。水平対向エンジン+FRスポーツの可能性を探るために、手作りともいえる手法で製作されました。実際に形にしたことで水平対向エンジンが新しい領域を切り開く可能性をスバルが感じたため、プロジェクトは一気に本格的な開発フェーズに移行します。 コンセプトカーを段階的に公開 車輌デザインを担当していたトヨタは、2009年の東京モーターショーで「FT-86 コンセプト」を発表します。このコンセプトカーの時点で、スバル製の2Lの水平対向エンジンを採用することも発表されました。 続く2010年の東京オートサロンでは、「FT-86 G スポーツコンセプト」を公開。東京モーターショーで発表したFT-86 コンセプトに、エアロやターボチャージャーでカスタマイズが施されていました。 さらに2011年のスイス・ジュネーブモーターショーでは、市販化に向けたデザインスタディとして「FT-86 II コンセプト」を発表します。また、同モーターショーでスバルが公開した「BOXERスポーツカーアーキテクチャ」も話題を呼びました。水平対向エンジンとFRのメカニズムをスケルトンの車体に搭載するという、技術コンセプトモデルとしての展示でした。トヨタのFT-86 II コンセプトとスバルのBOXERスポーツカーアーキテクチャを合わせると新車の全体像が見えてくるという、共同開発ならではの心にくい演出です。 スタートダッシュを決めて地位を確立 発売前から段階的にコンセプトカーが公開されて期待が高まっていたこともあり、86は発売直後から一気に注目を集めます。また、発売直後のレースで結果を残したことで、スポーツカーとしての実力を強烈に印象付けました。 続いて、86の人気と実力の高さをうかがうことができる、当初の販売台数とレースでの結果を紹介します。 計画の7倍にも達した販売台数 86発売当初の目標では、月間販売台数は1,000台だったといわれています。しかし、発売初月には約7,000台を売り上げ、年間での販売台数は2万2,510台にも達しました。翌年の2013年にも、1万2,400台を販売しています。 86が発売された2012年ごろは、多くのメーカーのラインナップからスポーツカーが消えていました。歴史のあるGT-Rのように従来からファンのついているモデルならまだしも、まったくの新車種が市場でユーザーを掴んだのは驚異的なことです。 発売翌月のレースで早くも結果を残す 86が発売されたのは2012年の4月ですが、5月にドイツのニュルブルクリンクで開催された24時間耐久レースでいきなりクラス優勝を果たします。記念すべき第40回大会という歴史あるレースで、新型車が優勝したことで世界からも注目を集めました。 また、全日本ラリーや全日本ジムカーナなどでも数々の優勝を果たしており、基本性能の高さをうかがい知れます。過酷なレースの世界での活躍によって、86のスポーツカーとしての評価をさらに高めました。 トヨタとしてのアイデンティティも表現 業務提携というビジネス上の思惑ありきではなく、2社の開発陣が文字通り「共同」で開発したことで86の完成度は高まりました。一方で、トヨタが販売する86には、AE86のDNAも組み込まれています。 基本設計は共同開発ながら、サスペンションや細部の最終的なチューニングは各メーカに委ねられました。トヨタは、AE86を彷彿とさせる、FRらしい旋回性能重視の乗り味に調整。また、極端な味付けをせず、ユーザーが好みにチューニングして仕上げていくという点もAE86と同様です。 スポーツカー不遇の時代に風穴を開けた初代ZN6型86は、現行型が進化し続けても特別な存在であり続けるでしょう。
マツダ FD3S型RX-7は、「ワイド&ロー」「ロングノーズショートデッキ」といったスポーツカーに欠かせない外観要素を備えたモデルです。しかし、RX-7の本当の魅力は、個性的な外観ではなく磨き上げられた運動性能にあります。 そこで今回は、FD3S型RX-7が誕生した背景と進化の軌跡を紹介します。 登場後も進化し続けたRX-7 FD3S型RX-7は、12年の販売期間の間、1度もフルモデルチェンジをしませんでした。製品サイクルの短くなりつつあった1990年代以降のモデルとしては、かなり珍しいことです。 基本設計がしっかりしていたからこそロングライフが実現した、FD3Sの開発の背景を振り返ってみましょう。 先代から正統進化を遂げた 3代目RX-7のFD3S型は、6年ぶりのフルモデルチェンジを果たして1991年に登場します。初代から続いた「サバンナ」の呼称がなくなり、当時の販売チャネルを冠した「アンフィニ RX-7」という名称に改められました。 「世界最速のハンドリングマシン」というコンセプトで開発されたモデルで、先代のFC3S型で強めたピュアスポーツという性格を完成の域にまで高めています。 なお、1997年にはマツダの販売チャネルが統合されたこと受け、「マツダ RX-7」に改められました。 意欲的にマイナーチェンジを重ねた FD3Sには、1〜6型までの合計6種類があります。さらに大きく3つの時期に分類され、1~3型が前期型、4型が中期型、5~6型が後期型です。また、各モデルで数多くの特別仕様車も投入されました。 初期モデルの販売台数が思うように伸びなかったなか、発売2年後の1993年に登場したのが2型です。内外装の改良に加え、タイプR2という2シーターモデルも投入されました。バブル崩壊の影響が色濃い1995年に誕生した3型では、大幅なプライスダウンが決行されます。これまでは400万円を超えるモデルもラインナップされていましたが、3型では全モデルが300万円台に抑えられました。 中期型と呼ばれる4型は、6種類のモデルでもっとも長く生産されました。デザイン面での大きな変更点は、テールランプがFD3S型を象徴する3連丸型に変更されたことです。また、エンジン周りでも、16ビットECUの採用やエアインテークパイプの材質変更といったアップデートが加えられています。 後期型の5型では、フルモデルチェンジ並みの大幅な変更が加えられました。特に目立ったのは、エンジン出力がついに国内自主規制いっぱいの280psにまで高められたことです。デザイン面では、開口部の大きなフロントバンパーに変更することでクーリングの解決が図られています。さらに、フロントのウィンカー部がコンビネーションランプに変わり、より現代的で洗練されたデザインになりました。最終の6型では、5型で洗練された箇所や仕様をさらに高める形で、内外装とグレード体系に手が加えられています。 ピュアスポーツを追求したRX-7 1980年代後半から、スポーティな走りにラグジュアリー要素を加えたスペシャルティカーの開発に自動車各社は傾倒していきました。しかし、マツダはRX-7の位置づけをピュアスポーツとして、運動性能を徹底的に磨き上げます。 マツダがこだわり抜いた、FD3Sの運動性能の高さについてみていきましょう。 ロータリーエンジンはモデルごとに進化 FD3Sに搭載されたロータリーエンジンの最高出力は、当初は255psでした。1990年初頭だったとはいえ、GT-RやNSXが自主規制いっぱいの280psを達成していたことを考えるとやや物足りない印象です。 しかし、初代登場以降も意欲的にエンジン開発は続けられ、16ビットECUを採用した4型(中期型)では265psにまで引き上げられます。さらに、後期型の5型では、ついに自主規制いっぱいの280psに到達しました。 脅威のパワーウェイトレシオが実現したハンドリング性能 パワーこそライバル車にやや劣っていましたが、FD3Sの魅力はエンジン搭載位置の最適化と軽量化によって実現した高い運動性能でした。徹底的な軽量化を図った結果、1型登場時の最高出力255psでもパワー・ウェイト・レシオ5.0kg/ps以下という難しい指標をクリアしています。 また、エンジンをフロントミッドシップに搭載し、50:50という理想的な前後重量配分を実現しました。さらに、エンジン搭載位置をFC3Sから25mmも下げ、安定したコーナリング性能も手に入れています。 スーパーGTでも証明したロータリーエンジンの実力 ロータリーエンジンのレースでの活躍といえば、1991年の日本メーカー初のルマン優勝です。それから10年以上の時を経て、FD3Sも日本最高峰のツーリングカーレース、スーパーGTでシリーズタイトルを獲得しています。 すでに販売を終了していた2006年のシリーズで、RE雨宮のRX-7がついにシリーズチャンピオンに輝きました。シリーズ2位のRE雨宮RX-7は最終戦の富士での逆転を目指しましたが、途中スピンを喫したこともあり、最終ラップまで逆転でのタイトル獲得は難しい位置でした。しかし、最終ラップのゴール直前で前走車がガス欠になったことで1つ順位が繰り上がり、ポイントでトップチームと並びます。結果的に、規定によってシリーズチャンピオンを獲得しました。 色褪せない個性的なスタイリング フロントからテールエンドまで、流れるような曲線で描かれたボディライン。FD3S型RX-7は、現代のスポーツカーと比較しても見劣りしない、美しさと圧倒的な個性を兼ね備えたモデルです。 また、FD3Sの個性的なデザインは、世界で唯一量産ロータリーエンジンを搭載できるマツダだからこそ実現しました。ハイパワーながら小型という特徴を活かすことで、他メーカーでは真似できない低重心化を成し遂げたのです。ピュアスポーツとしての性能を追い求めたために、長く愛されるスタイリングが生まれたのかもしれません。
2代目インプレッサの前期型「丸目」には、少なからず不評の声がありました。しかし、「涙目」へのマイナーチェンジによって、市場の評価は大きく変わります。また、見た目だけでなく性能面のアップデートが多岐に渡ったことも、涙目の大きな特徴です。 本記事では、WRCでも活躍した涙目の魅力をたっぷりと紹介します。 涙目は2代目インプレッサの中期型 2代目インプレッサで実施された2度のビッグマイナーチェンジのうち、最初のマイナーチェンジによって誕生したのが涙目です。現代的なデザインが話題を呼び、その意匠は後期型の鷹目にも受け継がれていきました。 まずは、2代目インプレッサの変遷やWRCでの活躍を振り返ってみましょう。 2代目インプレッサは2度のビッグマイナーチェンジを実施 レガシィの兄弟車として1992年に登場したインプレッサは、2000年に初のモデルチェンジを行って2代目に生まれ変わりました。2007年まで販売された2代目インプレッサですが、2度のビッグマイナーチェンジが実施されたため3つのモデルが存在しています。 登場順に前期、中期、後期と呼ばれると同時に、ヘッドライトの形状から「丸目」「涙目」「鷹目」という愛称もつけられました。2002年に実施された最初のビッグマイナーチェンジで登場したのが涙目です。不評だった丸目から、大きくデザインを刷新しての登場でした。 現代的な鷹目につながった涙目 丸目が不評だった前期型に対して、中期型の涙目ではヘッドライトの形状を中心にバンパーやボンネット、フェンダーに至るまでフロント周りの意匠が現代的に大きく変更されました。後期型の鷹目で成熟の域に達した2代目インプレッサですが、涙目での変更点がいくつも踏襲されています。 また、グレードによって異なるキャラクターの内装が用意され、質感も全体的に高められました。特にSTiバージョンでは、ブルーに統一した内装や専用の赤色表示のメーターが装備され、特別感が一層高められています。 WRCでも活躍した涙目 インプレッサは、初代からWRCで実力の高さを証明していました。2代目の中期型である涙目も例外ではありません。涙目が登場した翌年の2003年には、インプレッサWRC2003を駆るソター・ソルベルグがドライバーズチャンピオンを獲得しました。また、2004年に初開催されたラリージャパンでは、初代王者に輝いています。 さらに、涙目のインプレッサはドリフトの国内プロリーグD1グランプリでも活躍し、WRCファン以外からも一躍注目を集めました。D1ドライバーの熊久保信重氏は、ラリーカーが好きだったという理由で涙目のインプレッサを選択し、2006年には、シリーズチャンピオンを獲得しました。 多岐に渡る涙目での変更点 2代目インプレッサの中期型は、ヘッドライトのデザイン的特徴から涙目と呼ばれています。しかし、変更点はヘッドライトや、フロントマスクだけではありません。アップデートされた箇所は多岐に渡り、クルマとしての完成度をより高めています。 涙目での変更点を、WRX STiバージョンのパワーアップポイントも含めてみていきましょう。 質感が向上したインテリアと機能性を備えたエクステリア 涙目のインプレッサでは、インテリアの質感が向上しました。また、構造の合理化によるシートの軽量化や補強など、性能面の向上も図られます。WRXモデルはブラックの文字盤とメタル調メーターリングによる特別感、1.5Lモデルは鮮やかなブルーの文字盤によるカジュアルさなど、モデルによるキャラクターの違いも明確に表現されています。 エクステリアは、見た目だけでなく機能性も考慮して変更が施されました。ボンネットの先端部を下げてバンパーからフロントウィンドウまで流れるようなデザインに仕上げたことで、空気抵抗の低減が図られています。また、ターボエンジン搭載モデルでは、インタークーラーのエアインテークを拡大して冷却性能を向上させています。 大幅にパワーアップしたWRX STiバージョン 涙目のWRX STiバージョンには、丸目の前期型と同型のエンジンが搭載されています。しかし、ファインチューニングによって最大トルクを2.2kgm向上させ、40.2kgmという強大な最大トルクを実現しました。排ガスの通路を2つにわけた「ツインスクロールターボ」による低回転域からの過給、エキマニ(エキゾーストマニホールド)の等長化といったエネルギーロスの低減といった変更が施されています。さらに、バルブの軽量化やピストンの強度向上といった細かい点も、徹底的に改良されています。 機能面では、トルク配分の制御が大きな変更点です。丸目で45.5:54.5だった前後のトルク配分は涙目で35:65に変更されました。また、センターデフの差動制限力(ロック率)を運転中にドライバーがダイヤルを操作することで任意に設定変更が可能なDCCDに、路面状況に応じて自動的に制御する「オートモード」が、新たに追加設定されています。 通常モデルでも高価買取が狙える人気モデル 涙目のなかでも人気のモデルは、やはり限定仕様車のスペックC タイプRA-RやS203です。しかし、通常のWRX STiバージョンでも状態次第では、十分に高価買取が狙えます。 また、WRX STiバージョンでないターボモデルでも、それなりに値段がつくことも珍しくありません。ただし、現代的なデザインになったとはいえ、涙目のインプレッサは生産終了からすでに20年が経過しているモデルです。売却をする際は、旧車としての正しい価値を査定してくれる経験豊富な専門業者に相談することをおすすめします。
高性能スポーツセダンとしてヒットした三菱 6代目ギャランのなかで、フラッグシップモデルとして開発されたVR-4。日産 R32型GT-Rやスバル レガシィRSよりも2年先行して駆動方式に4WDを採用した、国産ハイパワー4WDターボ車の草分け的存在でもありました。 セダンなのに速かったギャラン VR-4のスペックやレースでの戦績、クルマとしての魅力をたっぷりと紹介します。 ラリー参戦も見据えたトップグレードの開発 ギャラン VR-4は、4ドアセダンでありながら最高出力200psオーバーという当時のスポーツカーをも凌ぐスペックを誇っていました。WRC(世界ラリー選手権)への再挑戦に向け、規定改定を見据えて開発されたモデルでもあったためです。 三菱の看板車種ギャランのトップグレード、VR-4がどんなモデルだったのかを詳しく振り返ってみましょう。 VR-4は6代目ギャランで誕生 ギャラン VR-4は、ギャランの6代目へのフルモデルチェンジと共に1987年に生まれました。ギャランは1969年に初代が登場した三菱の主力セダンで、最終的には2015年に販売終了するまでに実に9世代も作られたモデルです。 VR-4はトップグレードに位置づけられ、数々のハイテク装備や名機4G63型エンジンを搭載。先代よりも大柄になった外観も速さを予感させました。 名機4G63エンジンによる抜群の加速力 ギャラン VR-4に採用された2Lの4G63型エンジンにはターボが搭載され、最高出力205ps、最大トルク30.0kg・mを発揮します。さらに、マイナーチェンジごとに改良が繰り返され、1989年登場の中期モデルでは220ps、1990年には240psまで最高出力が引き上げられました。 最高速度223km/h、0-400mを13.92秒という抜群の加速力で、車重1,360kgのセダンながらスポーツカー顔負けの動力性能を誇りました。 ギャラン VR-4主要諸元 エンジン 4G63型直4DOHCターボ 排気量 1,997cc 最高出力 205ps/6,000rpm トランスミッション 5速mT ボディサイズ 全長4,560×全幅1,695×全高1,440mm 車輌重量 1,360kg 三菱ワークス体制でWRCに再挑戦 ギャラン VR-4は、WRCが市販車ベースのグループA規定に変更されることに合わせて開発されました。グループA規定のWRCで活躍した三菱車といえばランサーエボリューション(ランエボ)というイメージですが、実はギャラン VR-4が最初です。 ギャラン VR-4は、1988年から1993年の6年間で6度の優勝を飾ります。本格的なワークス体制となった1989年には、いきなり4戦中2勝を上げます。さらに、1991年のコートジボワールラリーでは、篠塚建次郎選手が日本人初のWRC優勝を手にしました。 シリーズタイトルほどの輝かしい成績とはいかなかったものの、VR-4の活躍こそが同じ4G63型エンジンを積むランエボの開発と三菱のWRCの成功につながったといえます。 国産4ドアスポーツセダンの頂点 ギャラン VR-4はギャランのトップグレードというだけでなく、当時の国産4ドアスポーツセダンでは最高峰ともいえるほど装備が充実していました。また、エレガントなイメージのセダンとは異なる、精悍なボディデザインも6代目ギャランの特徴です。 VR-4に注ぎ込まれた技術と、先代から大幅に変更されたデザインをみていきましょう。 惜しみになく注ぎ込まれたハイテク装備 ギャラン VR-4には、当時の技術が最大限投入されています。目玉は「ACTIVE FOUR」と呼ばれる、性能に大きく影響する先進装備です。4バルブターボエンジン(4VALVE)、先に紹介した4WDに加えて4輪操舵の4WSも装備、さらに4輪独立懸架(4IS)と4輪ABS(4ABS)を備えていました。 また、派生車が数多くリリースされたのも、VR-4の特徴の1つです。VR-4RやVR-4RSといったラリー専用車、WRC RACラリー優勝記念モデルの2.0ターボスーパーVR-4、電動リアスポイラーを採用したVR-4アームド・バイ・ラリーアートといった限定車、特別仕様車が販売されました。 速さを感じさせるボディデザイン 6代目ギャランは、性能面だけでなく外観も先代から大きく変わっています。セダンとしてややコンサバティブな印象の5代目に比べて、速さを予感させるマッシブで力強いスタイリングに進化しました。 複合局面で構成しつつもボディラインは全体に直線基調にまとめられていて、室内空間の快適性を高めた6ライトウィンドウを採用するなど迫力のあるデザインです。内装はシンプルながら機能的にまとめられていて、余分な華飾のないところに三菱のこだわりを感じます。 希少性の高まりを感じさせるVR-4 ギャラン VR-4を大手中古車サイトで検索したところ、販売中の車輌はわずか5台でした。三菱車初のカー・オブ・ザ・イヤーも受賞し販売台数を伸ばした6代目ギャランですが、販売終了からすでに30年以上が経過しており、現在では希少なモデルです。さらに、VR-4の特別仕様車を探すとなると、至難の業かもしれません。 なお、これだけの希少車だと、購入時以上に売却時の業者選びに気をつける必要があります。市場での流通量が少ないため、仕様によって査定額が変わります。実際、大手中古車サイトでは、169万円から399万円まで販売価格に大きな差がありました。ギャラン VR-4のような希少車を売却する際は、旧車の取り扱いに慣れた経験豊富な専門業者に相談しましょう。