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■第4回 ~アルミ弁当箱と旧車の意外な関係~ どうも!「日本アルミ弁当箱協会」会長のマツド・デラックスでございます。 今回からは「アルミ弁当箱と旧車の意外な関係」を語っていきたいと思います。 ■アルミ弁当箱全盛期はクルマ社会の全盛期でもあった このタイトル。旧車王の記事としては逆なんでしょうね(編集部注:そのままいきます)。 「クルマ社会の全盛期は、アルミ弁当箱にとっても全盛期」なんでしょう。 しかし、アルミ弁当箱協会の会長としてはあえて逆から行きたいと思います。 ■魔法使いサリー 「え?」と思う方と「なるほど!」と思う方、両極端に分れる作品がこの「魔法使いサリー」です。 1966年(昭和41年)といえば、自動車産業が活発化し、各メーカーが名車と呼ばれる「大衆車」を世に送り込む世代でもありました。 そんな中放映されていた魔法使いサリーも例外ではなく、自動車産業の影響を受けていたのです。 ■実はタイトル変更はあのクルマとは無関係? まず、よく話題になるのは「魔法使いサリー」のタイトルです。 この漫画の最初のタイトルは「魔法使いサニー」だったのは有名な話です。 そしてタイトル変更の理由として流れていた都市伝説は「日産が許可をしなかった」でした。 しかし、どうもこれは間違いで、許可されなかったのは他の会社で商品登録名があったからだそうです。 たしか家電メーカーだったはずで、日産も車種名としてその会社に使用許可をもらっていたそうです。 それが日産の大衆車「サニー」だった、というわけです。 現在車種名として残っていないのも、使用許可年数が過ぎたからという説もあるとのことです。 ■クルマの話題が多かったサリーちゃん そんなことが話題になったかならなかったのかは定かではありませんが、「魔法使いサリー」は「クルマ」にまつわる話題が多かったような気がします。 よっちゃんのお父さんの仕事は個人タクシーの運転者だったり「交通戦争(もう死語かもしれません)」を題材に物語があったり・・・。 極めつけのエピソードとして、主人公のサリーちゃんと弟のカブが「ラリー」に参加するという、実にマニアックな展開のエピソードまであったほどです。 そして、このラリーのエピソードで2人が乗るクルマを魔法で選ぶのですが、サリーちゃんは「私と同じ名前のサリーにするわ」といい、カブは対抗して「カブリカ」を選びます。 もちろん、日産の「サニー」VS トヨタの「パブリカ」というわけ訳です。 当時の制作スタッフも粋なことをするものですね。 ・・・といった具合に、アルミ弁当箱に描かれている作品には意外とクルマに関係する作品があるんです。 というわけで、今回の「斜めから見た旧車たち」は「サニー」と「パブリカ」にスポットを当ててみました! まったく脈絡のないコラムではありますが、旧車王ヒストリアだけでなく「マツドデラックスコレクション アルミ弁当箱図鑑」もよろしくお願いいたします。 ●アルミ弁当箱図鑑 厳選50 ーマニア編ー マツドデラックスコレクション (ヴァンタス) | マツド・デラックス https://www.amazon.co.jp/dp/4907061471 ●日本アルミ弁当箱協会会長「アルミ弁当箱図鑑 厳選50 」出版への道https://www.qsha-oh.com/historia/article/matsudo-bangai-1/ またアルミ弁当箱を並べて欲しい等とご要望のある方も是非お声をかけてください。 ●日本アルミ弁当箱協会ホームページhttps://kyokai.fans.ne.jp/arumibenntou/ ●Twitterhttps://twitter.com/keisuke38922 次回はイベントで10月30日に開催される「ISUZUオーナー集会」に参加、展示予定です。 こちらもぜひよろしくお願いいたします! [撮影/ライター・マツド・デラックス(山本圭亮)]
日本における旧車人気の過熱ぶりはとどまるところを知らない。 非常に残念なことではあるが、毎週のように国産旧車スポーツカーが盗難に遭うニュースが聞かれるほど、今注目度が高まっているのはたしかだ。 現オーナーの方たちも、複雑な心境で状況を見守っているのではないかと推察する。 それに比べると、同じ自動車大国・趣味国であるドイツでの「ヒストリックカー熱」は、表面上はとても落ち着いているように見える。 もちろん、ヒストリックカー全体の価格相場は上昇傾向にはあるけれども。 今回は「日本とドイツの旧車(ヒストリックカー)の過熱ぶり、共通しているところと決定的に異なる点」と題して、ドイツと日本における「熱の違い」を紹介していこうと思う。 ■100年以上前から存在する「自動車クラブ」 最初に伝えたいのは、ヒストリックカークラブの数と、その歴史の違いだ。 日本にも数多くの旧車クラブが存在する。 コロナ禍以前は、たくさんのイベントやミーティングが毎週末のように行われていた。 しかし、ドイツのヒストリックカークラブの数はその比ではない。 インターネットで都市名とともにクラブの検索をかけると、それこそ無数に出てくる。 その中でも特に格式高いとされているヒストリックカークラブは、その歴史が非常に古い。 中には19世紀後半に設立されたクラブまで存在する。 それらは、まだ自動車が特権階級だけの乗り物だった時代に設立されているから、ただ自動車を愛好する会というよりは「上流階級たちの社交場」という意味合いも多く含まれていた。 現在ドイツ国内のコンクール・デレガンスを行っている団体は、こうした古いクラブや組織をルーツに持っている場合が多い。 彼らは、ヒストリックカーがヒストリックカーと呼ばれる前、つまり新車として存在していた時代から、クルマを愛好する会を運営し続けている。 もっとも、日本でもっとも古いとされている自動車クラブ「オートモビル・クラブ・ジャパン」の歴史は明治41年(1908年)までさかのぼるというから、決して引けは取らないのだが。 ■ドイツでは、メーカーからの部品供給が手厚い 古くからの愛好家たちが大勢いるという地盤があるおかげだろうか、ドイツではヒストリックカーの部品供給はとても良好だ。 ドイツの主要ブランドは、ポルシェ・クラシックやメルセデス・ベンツ・クラシックといった「ヒストリックカー部門」を社内に持っている。 名車CTR、通称「イエローバード」で知られるルーフ社のようなごく小さな会社ですら、クラシック部門が存在する。 そこでは、純正部品の供給や、メーカー自身によるレストア、ヒストリックカーに対応したデザインのナビゲーションシステムやヒストリックカー専用オイルの開発などが行われている。 こうした純正部品以外にも、サードパーティ製の安価で高性能な部品が多く販売されている。 フォルクスワーゲン・タイプ1のような「ヒストリックカー入門車」の場合、ほとんどすべてのパーツに純正部品か、サードパーティ製部品かの選択肢が存在するほどだ。 これらの部品の中には、ヒストリックカーと呼ばれるようになってから再生産されたものもあるが、単に「新車当時から供給が続いている部品」も多い。 ドイツの人々の中には「そのクルマを気に入ったら、こつこつ直しながらとことん(何十万キロも)乗る」という人も少なくないから、その要望にメーカー側が応えているといえる。 こうしたヒストリックカーに対するメーカー側の姿勢の違いは、日本とは大きく異なる点だろう。 日本でもメーカーによるレストアサービスや旧車の部品供給が少しずつ始まっているが、その車種はかつての人気車種やスポーツカーといった、非常に偏りのあるラインナップにとどまっている。 個人的な願いとしては、国民の生活とともにあった大衆車にこそ、スポットライトが当たってほしいと願っているのだが。 ■ドイツでは「趣味としてのレストア」が成立するほどハードルが低い 日本とドイツ、どちらにもレストアを行う業者は多い。 違いがあるのは、「メルセデス・ベンツ・300SLのレストアだけを行う」といった、超高額・超希少車だけを取り扱うことだけで運営している業者が存在しているという点だ。 日本において「トヨタ・2000GTのレストアを行う」業者は存在していても、2000GTのレストア、ただそれだけで運営を続けるのは非常に難しいはず。 もっとも、ドイツに存在している多くのレストア業者も、さまざまな車種を扱うのが一般的ではあるのだが。 レストア業者に頼んで新車同様に仕上げてもらう人もいれば、ヒストリックカークラブのみんなでこつこつレストアして楽しむ人たちもいる。 先述したように、極端に珍しい車種でなければ、部品の入手は難しくない。 新車当時の整備マニュアルや図面などもインターネットで入手できるし、人気車種であれば車種別の「レストア指南書」も販売されているから、それらを参考にレストアを趣味にしている人も多い。 レストアを趣味にするハードルは、日本よりもずっと低いといえるだろう。 ■綿々と続いている「自動車偏愛」 ここまで、日本の旧車熱と、ドイツのヒストリックカー熱の違いについて取り上げてきたが、いかがだっただろうか。 ざっくりと一言でまとめると「歴史と文化が深い」ということになるだろうか。 ドイツのヒストリックカー熱は今になって盛り上がったわけではなく、それこそ19世紀後半からの「自動車偏愛」が綿々と続いている、といったほうが正しい。 ドイツでは連日、気候変動保護に対する議論が進んでいて、ガソリンエンジン車がいつまで公道を走ることを許されるのか、という問いは市民の間でも話題になるほどだ。 ヒストリックカーを愛好する人々は、公道を走れなくなる最後の日まで、噛みしめるように公道のドライブを楽しむことだろう。 [ライター/守屋健]
いま、とある媒体で自分の愛車を紹介する原稿をまとめているのだけれど、一向にまとまらない。 書きたいことが多すぎるのだ。 編集担当さんの「まとまり次第で結構ですよ〜」のお言葉を額面通りに受け止めて(本心は違うと思うが・・・)、他の仕事の合間に少しずつ進めている。 連休明けには納品したいと思っている次第だ。 いわゆる「ナローポルシェ」といわれる古いポルシェ911を手に入れて早10年・・・。 歴代の愛車遍歴(12台)のなかでも「ダントツに長い」所有期間となった。 10年でダントツに長いなんて・・・。 新車から25年!ワンオーナー車ですよ!といった方を取材していると、尊敬の念を抱くとともに、何だか自分の飽きっぽい性格が恥ずかしく、同時に情けなくなることもしばしばだ。 これまでの愛車遍歴には「3年半のジンクス」という、なぜか見えない壁が存在した。 なぜか分からないけれど、この時期になるとクルマを買い替えるようなイリュージョン(?)が起こるのだ。 その壁を初めて突破したのがナローポルシェだった。 もっとも、所有していたとはいえ、それは名義上の話であり、実際にはレストア中の状態が長く続き、手元に来たのはホンの数年前だ。 いわゆる遠距離恋愛の状況が長く続き(・・・といっても直線距離で10km程度だけど)、主治医のところに足を運んでは、リフトアップされているドンガラ状態の愛車を眺めて「いつ完成するのか・・・」と、思う日々だった。 ・・・いまにして思えば、むしろこれがよかったのかもしれない。 すぐにレストアが完成したら、ここまで手元にある「ありがたみ」を実感できなかったはずだ。 待ちに待って苦労したすえに手に入れた分、ありがたみを実感している日々だ。 それはそれとして、実はいま・・・「3年半のジンクス」が忍び寄っている。 中古で手に入れた、家族用のフォルクスワーゲンのミニバンがそろそろ「3年半のジンクス」を迎えるのだ。 幸い、今すぐに欲しいクルマはないし(一応、GOOやカーセンサーでチェックしているモデルはあるけれど)、現在の愛車に不満もない。 そう。毎回そうなのだ。 しかし、ある日突然、自分でもよく分からないけれど「乗り替えてもいい大義名分(口実?)」や「ホントかよ」と思うようなスペシャルオファーが舞い込むのだ。 なぜだか分からないけれど、それがきっちり「手に入れてから3年半後」だったりする。 そのXデーは来月に迫っている。 今のところは平穏だ。 いまから怖いような、楽しみなような・・・。 [ライター・撮影/松村透]
■エピソード1:なんとなく始まった旧車複数所有生活 ボクはバランス至上主義の天秤座生まれ。 当然、義務教育とオプション教育の年数バランスにもこだわり(?)、6-3-3-6(最後の6は、1年の休学と留年を含む)という学生生活を送っている。 その最後の年となった1978年、学生時代最後のクルマとして、ふと目が合ってしまった1964年式のボルボ1800Sを購入したのだ。 当時は旧車という概念がなかったけど、「品5」ナンバーだったし、今なら普通に2年車検だけど、当時は11年以上経過すると1年車検だから明らかに旧い。 でもね、カッコイイんだこれが!! 気に入ってブイブイいわせていたけど、流石に北国のクルマ、冬は良いのだろうが、夏の室内は我慢大会の決勝レベル。 そこで借金して、マイカー初のクーラーを付けてもらうことになった。 いやぁ涼しい! こちらの画像はスウェーデン工場生産になって車名が「P1800」から「1800S」になった直後のモデルだ。 翌年春、卒業して某国産車ディーラーに勤めたのだが、ボルボは車検が近いし、エンジンやミッションのマウント劣化が激しく修理費用がかかる。 そんなとき、車検が1年ほど残ってるけど、いらなくなったから乗ってよ、ってなわけでホンダLN360がやってきた。たしか70年式あたりだから約9年落ち。 今の感覚では、まだまだ旧車というにはほど遠い存在だったけど、当時は、10年も経ったらポンコツのオンパレードという時代だったから、一般的な視線では旧いクルマに見えたはずだ。 まぁ、クルマを購入、維持するために必死になってバイトをしていた若造のボクは、あっという間に複数所有が成立して大喜び。 まるでおぼっちゃまになったような気分を味わったものだ。 こちらの画像はLN360のカタログの一部。 都内を走る分には不満のないパワーで、当時一緒に暮らしていたワンコとのドライブを楽しんだ記憶がある。 ただ第一次複数所有時代は、約半年という短期間のうちに終了した。 初任給の段階ではボルボの修理と車検は難しく売却することになったからだ。 LN360も、通勤用にコロナHT2000EFI-SLを入手した際に手放すことになった。 短い時間だったが、目的に応じてクルマを使い分ける喜びや楽しさを実体験できたことは、とても幸運だったと思う。 ■エピソード2:複数所有は楽しさ倍増、ただ…… その後も、一時的に複数所有することもあったサラリーマン時代だが、2台以上が旧車といえるパターンは皆無だった。 多くの場合、複数所有の基本は、好きなクルマと普段使う実用車って構成だから、旧車が好きで所有するなら、当然2台目は普通に快適な現代のクルマとなる。 その常識的複数所有パターンが一気に崩れたのは、独立2年目となる1989年のこと。 当時愛用していた新車で買った趣味兼実用のホンダCR-X Siに加え、今も所有する69年式フェアレディSRLを手に入れたのだ。 そのキッカケは、新車購入のCR-X Siの走行距離である。 起業し、通勤、営業、取材、そしてストレス解消の峠走りと大活躍してくれたのだから、 走行距離がガンガン伸びるのは当然だけど、2年弱で10万キロも走っていたのだ。 そろそろ買い替えを…と勧めてきた営業マンに、過走行だから査定の減点がナンチャラと言われてショックを受け、複数所有で走行距離の分散が必要と考えたわけだ。 冒頭の画像は69年式フェアレディSRL311。 89年に日本に帰ってきた帰国子女で、国内最初のオーナーがボク。 今も溺愛している最愛の個体だ。 まぁ、ここまでは自然な流れだったけど、その直後、事態は急変。 付き合いのあったアメ車屋さんから79年式ポンティアックファイアーバードトランザムが、自動車趣味の仲間から70年式スバル1300Gスポーツが同時期に転がり込んできたから、大きな変化に対応するため走り回った記憶がある。 さらにその半年後には、73年型1303Sと76年型1200LSと、2台のVWビートルまで加わり、一気にひとりと6台の大家族となってしまったわけだ。 予期せぬ出会いから無計画かつ強引な増車……ある意味ボクらしいできごとだった。 もちろん、好きなクルマがいつでも身近にあるのは幸せだったが、当時はバブル真っ盛りで、年中無休24時間営業の超多忙な毎日。 とても楽しむ余裕なんてない。 そこで、楽しむために乗れないなら仕事に使っちゃえぇ!! と割り切り、取材や納品、外注先との打ち合わせなど、あらゆるシーンで遠慮なく活用し、コンディション維持に努めていた。 突如訪れた大家族生活で、コンディション維持走行同様苦労したのが自動車税だった。 当時の税額だと、トランザム1台だけで16万円コースだったから、とてもキツかった。 駐車場確保も大切な責務。 でも、自分の性格上、クルマがドンドン増えそうな予感がしたので、あらかじめ農業用倉庫を借りていたので救われた。 ただ、置き場があっちこっちになるのはねぇ……。 台風なんかがくると、クルマが心配でじっとしていられなくなってしまう。 多くの旧車に囲まれた生活は喜びも絶大だが、心労が絶えないのも事実と知ったのだ。 ■エピソード3:ナンバーは選ばず、偶然あてがわれたナンバーを楽しむ!? ボクはある時期哲学にハマっていた。 特にC.G.ユングの提唱した理論である「共時性」には強く共感したのだが、それは、思念のエネルギーと偶然の事象に「関連」を感じていたからだ。 身近な例では、電話番号の下4桁やクルマのナンバーがそれ。 初めて就職した会社の配属先の電話番号下4桁が「9771」で、結婚して最初に借りたアパートに付けた電話の番号下4桁が「7197」。 転職して京都に移り、初めて買ったマンションの部屋が「519号」で、そのときの電話番号下4桁が「5195」だからシンクロしてるように思えるでしょ。 最近でも、「3867」のクルマを代えたら「3864」になって、それを代えたら「3877」だから、なんとなく偶然の引き寄せ現象を感じちゃう。 さらに、その時期に買い足した1台が強烈だった。 友人であるショップオーナーは、910型ブルーバードのバンだから、ナンバーは910にするだろ? と提案してきた。 しかしボクは、偶然の一致を予感するから指定はしないで、と頼み、自分のメモの隅に、多分ナンバーは「38〇〇」or「〇〇77」?と書いていた。 そうしたら、そのナンバーが「8677」!! 笑っちゃうでしょ。 ショップオーナーも驚いていましたよ(^^) この連鎖は、それが最後になって、その後GETした2台には継承されなかったけど、思念が偶然を引き寄せたようで興味深い。 だからボクは意図せずに回ってきたナンバーとともに歩み、次のシンクロを楽しみにしているのだ。 ■エピソード4:2シーターシンドローム 複数所有のメリットは、使用目的に応じたラインアップを構築できること。 例えばボクの場合なら、 1.フェアレディ2000、2.車中泊も快適なミニバン、3.仕事機材が積みやすく機動性に優れる小型ステーションワゴン4.フォーマルな席にも似合う、重厚なセダン5.お買い物やチョイ乗りのアシ ・・・ってなラインアップなら実に明快だ。 実は、東京から兵庫に転居した時点では、この理想に近い状態だった。 セダンは真っ赤なアルファロメオ75TSだったからチョイとヤンチャ系だったけど、足りないのは小型ステーションワゴンだけ。 ・・・で、探し始めたのだが、ここに割り込んできたのがポルシェ964だった。 ステーションワゴンとはほど遠いし、よりによってRSR仕様に作り上げた2シーター。 もちろん金額も圧倒的に高かったのだが、つい、買っちまったのである。 その頃、中古で購入後5年強乗ったプレサージュに大きな修理が必要となったので、ホンダのシャトル(もちろん中古)に代替え。 さらに、アルファロメオ75TSとアシに使っていたプレオRMも手放すことになり、ラインアップの再構築をしなくてはならなくなった。 そんなとき、ついうっかりヤフオクで「ポチってしまったの」がボクスターだった。 すでに2台のナンバー付き2シーターがあるだけでなく、2台持っていたレース用のフェアレディSRのうち、ノーマルエンジンクラス用の1台にナンバーを付けるプロジェクトも進行中のできごと。 こうして完成してしまったのが、シャトル+2シーター4台というラインアップだ。 こちらの画像は、2シーターが4台揃っちまった頃のボクの所有車両。 ボクスターの奥は、当時、唯一の普通のクルマとして活躍してくれたシャトル。 そこにミニ1300iが加わったので、少しはまともになったけど、2シーターを主体とする多頭飼いの実用性レベルは、チイとばかり低すぎた。 我ながら、なんともマヌケなクルマ選びをしたものである。 現在は、2台のポルシェを手放し、ナンバーを付けたレース用フェアレディは初期型の240Zに変身している。 2シーターは2台に減って、なんとなく実用性が向上したけど、実はこれも一時的。 そろそろ、現在仕上げ中の2シーターが完成しちゃいそうなので、またまたややこしくなりそうだ。 ■エピソード5:多頭飼いを苦しめる任意保険 クルマを運転する以上、事故の可能性はゼロではない。 だから当然のこととして任意保険に加入し、そのリスクに備えることになる。 でもね、この任意保険のシステムは疑問符のオンパレードだ。 例えば、長年無事故を継続して、任意保険で20等級であるドライバーが、初めて複数所有を敢行し、2台目の任意保険に新規加入するとしよう。 そのとき、2台目の特例として、初年度から1ランクアップで7等級から始まるのだが、ここで最初の疑問符が舞い降りてくる。 運転者が契約者本人限定であれば、2台契約しようが5台契約しようが、保険会社が請け負う事故リスクは1台だけの契約と同じはずだからだ。 過去のデータから、車種や地域によってリスクに差があるにせよ、それは保険の基本料率の話であって、等級に差を付ける正当性が理解できない。 この問題を考えると、2番目の疑問符も浮上してくる。 それは、同一個人が何台契約しようが、運転者が契約者本人限定なら、1回の運転で動く車両は1台だけであり、保険会社が背負うリスクも当然1台分だけ。 でも、それぞれの車両に対し、保険契約をしないとならない。 契約者個人は、例えば5台所有の場合、1回の運転時に背負う事故リスクを5台分負担するということになるし、保険会社は1台分のリスクで5台分の保険料収入を得ることにもなる。 運転者はひとりでも、彼の所有する複数のクルマが動き回るというなら話は別だが、これはユーザーが圧倒的に不利となるやり方ではないだろうか。 もちろん、車両保険に関しては個別契約が必要だが、対人、対物、搭乗者など、基本的な自動車保険契約部分に関しては、車両にかけるのではなく、ドライバーにかけるスタイルにするべきだと感じる。 これは、任意保険だけではなく、自賠責保険に関しても同様で、自動運転車両以外は、車両個々ではなく、ドライバーにかけるべき保険と考える。 車種によるリスク変化をカバーしたいのであれば、ドライバー保険としながら、その個人が所有する車両の申告を義務付け、必要に応じた係数をかければ良い。 また、契約しているドライバーが一時的に他車に乗る場合の短期契約もあるとありがたい。 任意保険のシステムが、もっと自由に多頭飼いができるよう改善されたなら、出会ったクルマをもっと気軽に受け入れられるのになぁ、なんて思う今日この頃。 これって、ボクの単なるワガママかな……? [画像/ボルボ 撮影&ライター/島田和也]
これまで所有してきたなかで、唯一といってもいいかもしれない「自分なりに卒業できたクルマ」がある。 それはマツダ ユーノスロードスターだ。 長くなりそうなので、何回かに分けようと思う。 デビュー当時から、ユーノスロードスターというオープンカーが人気だということは何となく知っていた。 けれど、その頃の筆者はフェアレディZ(Z32型)に夢中だった。 当時はまだ高校生。 運転免許がないので「走りの楽しさ」といわれてもピンとこない。 速くて、パワーがあって、カッコ良くて・・・。 そういった分かりやすいクルマが好きだった。 そんなわけで、ハタチになったら・・・シルバーのZ32 2by2 ツインターボ 5速MTを60回ローンで手に入れ、メーカーオプションの本革シートとBOSEサウンドは必須だな、マフラーはここ、エアロはこれ、ホイールは・・・なんてことを、授業中にこっそりカーセンサーを読みながら夢想していた。 今考えれば脳天気もいいところだ。 ユーノスロードスターの虜になったのは、19才の夏。 運転免許を取得してからわずか半年後のことだった。 まだ初心者マークが取れるか取れないかという当時の筆者に、クルマ好きの恩師が、このとき所有していた純白のユーノスロードスターを1泊2日で貸してくれたのだ。 ユーノスロードスター借りたのは8月のお盆明け、つまり残暑も厳しい(この年、初めて猛暑日を記録したように思う)夏の日だった。 恩師が所有していたユーノスロードスターは、1.6Lエンジンのほぼ最終型、色はシャストホワイト、スペシャルパッケージ。 恩師の好みでシフトノブがウッドに交換されて以外、ホイールやマフラーもノーマルだった。 こっちとしては「MT車を運転できるだけでも幸せ〜」な時期だったし、まさかのFRのオープンカーを自由に運転できる機会に恵まれたのだ。 有頂天にならないわけがない。 恩師からユーノスロードスターを借りたのは夜遅く、23時頃だったと記憶している。 走り出した瞬間、軽い、そして交差点を曲がるだけで楽しい! 走っても走っても走っても足りない・・・。 熱帯夜で周りの空気が暑いとか、もう何時間も水を一滴も飲んでいないとか・・・そんなことを忘れるほど夢中になっていた。 気がついたら夜が明け始めているではないか。 さすがに疲れて仕方なく家路についた。 そして仮眠してふたたび走り出した。 まだカーナビが高級品で、とにかく知っている道を走るしかなかった。 自宅周辺や市街地、山道を含めて・・・気づけば2日で400kmくらい走ったように思う。 あのときの屋根を開けて走る爽快感と、草木の匂い、エンジン音が近くに感じられた記憶はいまでも鮮明に憶えている。 洗車してガソリンを満タンにして恩師にユーノスロードスターを返すのが辛かった。 よし!自分もユーノスロードスターを買おう! そう決意するまで時間は掛からなかった。 しかし、当時自分が貧乏学生であること、ユーノスロードスターが人気車であり、新車はもちろんのこと、中古車でもかなり割高であることを知り、愕然とするのであった・・・。 (つづく) [ライター・撮影/松村透]
台湾系アメリカ人のBenさんは2006年に「ジャパニーズ・ノスタルジック・カー」を設立。 アットホームな雰囲気のウェブサイトには全米で開催される日本製旧車のイベントレポートや、日本車の歴史、日本人でも知らない興味深いトリビアなど、日本製旧車のあれこれが網羅されています。 日本には数多くの旧車メディアが存在しており、この「旧車王ヒストリア」もその一つです。 日本には日本の旧車、ドイツの旧車、アメリカの旧車、フランスの旧車など、それぞれに特化した専門メディアもありますが、実はアメリカで日本の旧車に特化したメディアはただ一つだけ。 「ジャパニーズ・ノスタルジック・カー」(https://japanesenostalgiccar.com/)を運営するBen Hsu(ベン・シュー)氏にお話を伺いました。 Benさんご自身も古いランクル(ランドクルーザーFJ60)を所有しています。 ちなみに、Benさんのランクル60は、2021年秋にホットウィール「カーカルチャーシリーズ」でミニカーとして発売されました。 ▲赤枠で囲んだホットウィールがBenさんのランクル60 ホットウィールでも日本の旧車が大人気! ▲米国唯一の日本旧車メディア編集長のBenさんにインタビュー中の筆者(加藤博人) ■ジャパニーズ・ノスタルジック・カーを立ち上げた経緯を教えてください 私が2006年にこのサイトを立ち上げた当時は、日本の旧車に関する情報を発信しているウェブサイトはもちろん、紙の雑誌においてもゼロでした。 メディアが存在しないどころか、当時のアメリカにおいては日本の古いクルマは『価値のある存在』として見られていませんでした。 ちょうど、その頃、カリフォルニア州ロングビーチでは「Japanese Classic Car Show(JCCS)」(日本旧車集会)の第1回が開催されていました。 当時の私は東海岸に住んでいたのでJCCSの存在を知りませんでしたが開催2年目以降は毎年参加しています。 ■japanesenostalgiccar.comというサイト名に「クラシック」ではなく「ノスタルジック」が使われているのはなぜでしょうか? これも日本製の古いクルマは当時「旧車」(クラシックカー)とみなされていなかったことに関係しています。 アメリカの有名な旧車クラブに「Classic Car Club of America」がありますが、彼らの「クラシック」の定義ではアメリカ製やドイツ製、フランス製、イギリス製の旧車しか「クラシックカー」として認められず、日本製の旧車は彼らの眼中にありませんでした。 またこれとは別に、日本では「レトロな物」を「ノスタルジック」と形容することが割と一般的です。 そのような経緯からサイトの名前には「クラシック」ではなく、「ノスタルジック」とつけました。 ■Benさんがサイトを立ち上げて16年が経過しましたが、アメリカにおいて日本の旧車を取り巻く環境、日本の旧車の価値はどう変わったと思いますか? 本当に大きく変わったと思います。 例えば、少し前のバレット・ジャクソン(アメリカでもっとも権威があるコレクター用カーオークション)で印象に残っているのが、司会が「我々のオークションでホンダ・シビックを見ることはあり得ないでしょう」といっていたことです。 それだけ日本の古いクルマはコレクション価値のあるものと認識されていなかったわけです。 日本車は「集めるほど価値のあるクルマ」というより、「実用的で道具のように使えるクルマ」と考えている人がとても多かったんだと感じています。 それが近年はスカイラインR32GT-Rや80スープラ、シビックタイプR、ランドクルーザーFJ40シリーズなどがバレット・ジャクソンに出品されて高額な価格で落札されることも増えました。 ■Benさんが日本の旧車に興味を持つようになったきっかけは? 初めて知った日本のクラシックカーはグランツーリスモに出てくるトヨタ2000GTやハコスカで、高校生のときに欲しかったクルマはホンダ NSXやマツダRX-7(FD)、トヨタ スープラなどの日本製スポーツカーでした。 1992年、家族で台湾に行ったのですが(初めて自分がアジアを訪れたとき)、当時はアメリカから台北への直行便がなく、トランジットのために成田で一泊しました。 当時はインターネットもなく、日本で走っているクルマの情報はほとんど把握していませんでした。 日本で走っているクルマはアメリカと同じなのだろうと勝手に想像していました。 しかし成田に着いて日本の街中を見るとまったく知らないクルマたちがたくさん走っていることに気づきました。 トヨタクラウンや日産セドリック、アメリカで見ないクルマばかりでとても興奮しました。 それ以降、初めて見る日本車にも興味を持つようになりました。 ■Benさんがいま、手に入れたい日本車はありますか? あります!日産スカイラインGT-R(R32/R33)です。 でもとんでもない金額になっていますけどね。 もし、GT-Rを手に入れても大切なコレクションにしてまともに走らせもしないでしょう(笑)。 運転するならマツダ・ロードスターなどのライトウェイトスポーツカーも好きですね。 でもロードスターを買うにしても、まったく同じクルマがアメリカで左ハンドルでも手に入るのなら、右ハンドルにこだわりません。 アメリカでは手に入らないクルマを日本から輸入して乗りたいですね。 先週、カリフォルニア州ロングビーチでは、Benさんも出展した第17回JCCS(日本旧車集会)が華々しく開催されました。 回を追うごとに参加台数が増え、来場者も1万人超となりました。 [ライター・カメラ/加藤ヒロト]
かつて、若者だった世代であれば、バブル期に一世を風靡した「デートカー」という概念があったことを記憶している人も多いだろう。 当時のデートカーはホンダ プレリュード、トヨタ ソアラ、日産 シルビアといったクルマたちが代表格であり、それらのクルマはドイツに向けても輸出されていた。 しかし・・・。 そもそも当時、ドイツには「デートカー」という概念は存在していたのだろうか。 さらにいえば、現在のドイツのクルマ好き、あるいは若い人の間に、デートカーという概念は存在しているのだろうか。 今回はその点をドイツで暮らす日本人の視点で考察してみようと思う。 ■そもそもドイツは「流行」そのものが存在しにくい社会 結論を先に書いてしまうと、「デートカー」という概念はドイツには存在しない。 過去に存在しなかったし、これからも存在することはおそらくないだろう。 なぜここまで筆者が断言できるかには理由がある。 大前提として、ドイツにおける「流行」というものについて、少し話をしなければならない。 ドイツでは、なにか特定の文化・考え方が一世を風靡する、という現象は起こりにくい。 というか、そうした現象が起こることについて強い忌避感がある。 第二次世界大戦とその後の東西分断でドイツという国がなにをしたか、ドイツ人はよく知っているし、その時代を想起させるような「極端な一体感」を嫌う。 だから、日本のように「今、○○の間で○○が大流行!」という内容のテレビ番組が放映されることはない。 また、若者や社会人が世代ごとに似たようなファッションになることもないし、「こうした考え方が世間の常識だ」などというような考え方の強要が行われることはない(個々人が抱えている正義や主義・主張は当然あるけれども)。 もちろんドイツにもフォルクスワーゲン ゴルフのような、ろくに宣伝などしなくても黙って月何万台も売れていくようなベストセラー商品は存在する。 ただしそれは、あくまでひとりひとりがゴルフの大きさなり価格なりを「ちょうどいい」と思うから買っているのであり、「ドイツでは今、フォルクスワーゲン・ゴルフが大流行!」「○○人にひとりが購入しています!」という宣伝文句にあおられて買っているのではない。 つまり、ドイツでの「流行」は、ごく身近な人間関係のなかでは形成される可能性はあるものの、テレビや雑誌などが主導で社会全体を動かすものにはなりにくい。 現在ドイツで流行っている概念といえば「自然環境保護」や「無農薬」「地産地消」などだが、これらは政府が力を入れているものだ。 これからも継続していこうという考え方であり、一過性の「流行」とはいい難い。 ドイツは日本におけるような意味の「流行」が起こりにくい社会なのである。 ■ドイツにおける「流行」は局地的に発生するもの? デートカーの概念に戻ろう。 ドイツでは「流行」という概念そのものが存在しにくい社会であるから、「このクルマに乗っていればモテる」「このクルマに乗っている男性・女性はかっこいい」という考え方が、個人の考え方の範囲を超えて社会全体に浸透する、ということは起こらない。 トヨタ ソアラに乗っていればモテる、というような価値観は、ドイツ社会では形成されることすらありえないのである。 そういった意味から、「デートに向いているクルマ」というのも存在しない。 あなたが男性だとして、今売れているからといって最新のスタイリッシュなSUVを購入したとしよう。 そのクルマを意中の女性が気に入ってくれるか(そしてそのクルマに乗っているあなたを気に入ってくれるか)は、その女性がどんな考え方を持っているかに左右される。 彼女は「とても素敵なクルマに乗っていますね」とほめてくれるかもしれないし、「時代遅れでナンセンス。環境保護を考えるとクルマを持たないか、せいぜいピュアEVが妥当なところじゃないですか?」と問い詰めてくるかもしれない。 一方、ベルリンに住む移民の最大派閥・トルコ系の男性の間では今、ドイツ製のハイパフォーマンス・セダンが大人気である。 彼らは、AMGやBMW Mシリーズ、アウディのS・RSシリーズを大きな借金をしてでも買い、ベルリンの街を爆走する。 彼らにとってそうした高級セダンはステータスシンボルであり、成功者の証であり、将来の結婚相手を見つけるときの大きな武器であり、なにか困った事態が発生したときは即座に売ってお金に変える「保険」でもある。 彼らは結婚式の際にフェラーリやランボルギーニをレンタルして、編隊を組んで走行したりもする。 しかし、これはごく狭い文化圏の話だ。 ドイツに住む大多数の人間はこんな価値観を持ってはいないし、こうした価値観を時代遅れだと考えている。 ■「自分らしさ」を大事にしてクルマを選ぶ 「流行」は存在しない。 クルマ(そして自分)が気に入られるかどうかは相手に左右される。 それなら、デートに出かける時のクルマなんて、なんでもいいのだろうか? 個人的に感じるのは、仮に男性側がクルマを用意して女性とどこかに出かける、となったとき、男性側に求められるのは、明確な「なぜそのクルマを選んだのか」という理由と、そのクルマが好きだ、という気持ちだと思う。 それがはっきりしていればしているほど、お互いの理解が進むのは間違いない。 自分は小さくて軽いハッチバックが好きだ、運転していて楽しいし、維持費も安いし燃費もいい、駐車場を探すのにも困らないよ。 僕は古いクルマが好きだ、デザインが美しいと思うし、たしかに壊れやすいけれども、自分で直して面倒見ながら乗るのも楽しみのひとつだよ。 私は乗り心地が良くて静かなセダンが好きだ、友人を乗せても満足してもらえるし、なにより長距離を走っても疲れない。 俺は荷物も家族も友達も、なんでも飲み込むような大きなバンが好きだ、こいつにキャンプ道具をたくさん積み込んでみんなで出かけるんだ、最高だぞ! 自分の主張をはっきりさせたら、あとは相手の判断に委ねるしかない。 その結果、意中の相手とうまくいかなくても、必要以上に落ち込むことはしない。 自分自身に正直に、うそをつかないで生きていくことの方が重要であり、自分を偽って相手に媚びて一緒になっても幸せにはなれない、と多くの人々が考えているからだ。 ■あのクルマだけは唯一「デートカー」と呼べる?かもしれない 当時日本で流行したデートカーたちは、ドイツの中古車市場ではほぼ流通していない。 今では部品が入手困難だし、そもそもそれほど多くの数が輸入されていない。 これまで散々「デートカーという概念は存在しない」と書いてきたが、過去から現在まででほぼ唯一、ドイツの女性の目を見開かせるようなクルマがある。 ポルシェ911だ。ポルシェのことは誰でも知っているし、911のデザインは一目で「あのクルマ」だと認識してもらえる。 高価なクルマであることは一般的に認知されてはいるが、一方で実用性をも兼ね備えた、控えめなスポーツカーである。 ポイントは高い。 しかし一方で、これは踏み絵でもある。 あなたが911に乗って彼女を迎えにいった場合、非常に注意深く観察されることを覚悟しなければならない。 クルマに見合った年収を稼げているか、クルマばかりに熱中して家族をかえりみない人物ではないか、環境保護や政治についての明確な考え方は持っているか……。 ま、それはさておき・・・さあ、楽しいデートの始まりだ。 [ライター/守屋健]
先日、群馬県邑楽郡で開催された「OURA86 meets 2022」の模様を取材してきた。 現在、鋭意原稿をまとめているところだ。 当日の予報は雨。 しかも、台風14号が接近しているという、開催するかどうか難しい判断が迫られるイベントだったように思う。 イベントの案内には「雨天決行(荒天の場合は途中で中止)」とあったので、主催者は「基本的には開催しまっせ」という心づもりなんだろうなと思っていた。 事実、前日夜に公式Twitterにアップされた内容に目を通す限り「中止」するつもりは毛頭ないらしい。 文字どおり「雨天決行」になりそうだ。 果たしてイベント当日、開演の30分前、午前9時30分に会場に到着。 奇跡的に現地は曇り。 雨は降っていなかった。 千載一遇のチャンスとばかりに、大急ぎで参加車両を撮りまくった。 それは他のギャラリーや取材者の方たちも同じようで、夢中で展示されているハチロクを撮影していた。 つまり、みんなもうすぐ雨が降ってくることを想定していたわけだ。 最近はスマホを片手にじっくりと動画を撮影する人(おそらく自身のYouTubeチャンネルに公開するのだろう)が増えてきたので、うっかりすると自分が見切れてしまったり、お互いによそ見をしていてぶつかってしまうこともある。 気をつけなければ。 だがしかし・・・あるていど覚悟はしていたが、撮影開始から1時間も経たないうちに本降りの雨が降ってきた。 当日の靴はレインブーツ、カメラにレインカバーを被せ、自分自身もレインコートを着て撮影続行。 傘片手に撮影なんてできっこないのは分かっていたので、あらかじめ用意しておいて正解だった。 とはいえ、周囲を見回しても、こんな格好で撮影している人なんて1人もいない。 端から見れば、雨ガッパにカメラカバーの重装備で寝そべって撮影しているなんて自分くらいなものだ(笑)。 重度のハチロクマニアに思われるだろうが、そんなことはもはやどうでもいい。 大事なのは撮れ高だ。 こうして3〜4時間、ぶっ続けで撮影して一息入れたころには、レインコートやレインブーツも用をなさない。 カメラ以外、何もかもずぶ濡れだった。 まぁ、どうにか撮れ高を確保できたので良しとしよう。 受付の方に挨拶を済ませて帰路についた。 ひとつ気になったのは、手塩に掛けて面倒をみてきた愛車がずぶ濡れになってしまったことをオーナーさんがどう思っているか、なのだが・・・(それを承知でエントリーしてきたのだと思うが)。 前にもどこかで書いたかもしれないが、オーナーインタビュー当日、雨の予報だった場合は基本的に延期としている。 たとえ晴れていても、路面がウェットの状態で愛車を走らせるのを嫌うオーナーさんもいるので、相談のうえ、延期にする場合もある。 さらに古いクルマだと、冬場だと残雪があったりして、塩カルを嫌うオーナーさんもいるし、海沿いでの撮影を避けて欲しいという方もいる。 錆を気にしているからだ。 「えー!そこまで気にするのかよ!?」と思うかもしれないが、自分の感覚では珍しいことではない。 それくらい気にしてやっと取材がスムーズに進むイメージがある。 もちろん、なかには旧車だろうが、日本に1台しか存在しないような貴重なクルマのオーナーさんであろうが「雨や台風なんてそもそも気にしない」という人もいる。 クルマなんだから走ってナンボ、汚れても気にしないというわけだ。 クルマ本来の正しい使い方だし、その潔さに敬服する。 とはいえ、春先、梅雨時、そして秋雨と、年間をとおして雨が多い時期は意外と多い。 そうなると、取材延期になることもしばしば。 1、2回延期というのはザラにあるのだが、数年に1度、あるかないかの頻度ではあるけれど「何度も何度も雨天延期になる」ケースがある。 4回とか、5回とか・・・。 そうなると最初の予定日からようやく取材ができるまで数ヶ月後、ということになってしまう。 なかにはオーナーさんがしびれを切らして音信不通になってしまうこともある。 できるだけオーナーさんに嫌な想いをさせないよう努力しているつもりだが、どうにもならないこともあるわけで・・・。 雨で取材が延期になるたび(割と確率が高い気がする)、ドラえもん34巻に登場する「雨男晴れ男メーター」で具体的な数値を計測してもらって真実を明かしてほしいと思ってしまう。 ちなみに、各キャラクターの計測結果は(プラスが晴れ/マイナスが雨)・ドラえもん:プラス1.5・のび太:マイナス2.0・のび太のパパ:マイナス8.5・しずかちゃん:プラス9・スネ夫:マイナス7・ジャイアン:プラス10 ・・・とのことだ。 ジャイアンプラス10!!おそるべし!究極の晴れ男だ。 しずかちゃんもプラス9なのでかなりの晴れ女! ジャイアンだと面倒くさそうだから、毎回しずかちゃんに取材同行をお願いしようかなと思ったり。 余談: 旧車オーナーが雨を嫌う理由は錆以外にもある。 それはエアコンだ。 エアコンレスのクルマだと、雨の日は窓の内側が曇ってしまう。 雨に濡れるわ、窓ガラスは曇るわ、錆は進行するわ・・・のまさに「三重苦」。 信号待ちのたびにタオルで拭き取ることになるのだが、これがけっこうな「苦行」なのだ。 [ライター・撮影/松村透]
「ハコスカ」の名称で多くのモーターファンに認知されている3代目日産 スカイライン。実はこのスカイラインは、日産にとって節目となる記念すべきモデルでした。プリンスとの合併、レースでの連勝記録、GT-Rの称号の誕生などスカイライン、そして日産の方向性をも決定づけた3代目スカイライン「ハコスカ」の魅力に迫ります。 日産とプリンス合併後初のスカイライン 日産とプリンスの合併後初の新規モデルとして発売されたのが3代目スカイライン、通称ハコスカです。 スカイラインの方向性を決定づけた3代目 3代目スカイラインの登場は1968年。1966年に日産とプリンスが合併したあと、初の新規モデルとして発売されました。 ハコスカの愛称で親しまれた3代目スカイラインは、スカイラインの方向性や日産のスカイラインとしての地位を確立したモデル。とくに発売2ヶ月後に登場したGC10型はスカイライン人気を決定づけたモデルとなりました。 初期型となるC10型に搭載されたエンジンはプリンスが開発したG15型エンジン。一方のGC10型には日産の開発したL20型エンジンが搭載。プリンスのスカイラインから脱却し、日産のスカイラインという地位を確立したのが2000GTとして販売されたGC10型です。 GT-Rもハコスカから始まった 2000GTによって人気を集めたスカイラインはさらに意欲的に新型を投入します。GC10型スカイライン登場の翌年、PGC10型2000GT-Rが追加されました。 2000GT-Rのコンセプトカーは、2000GT発売と同月に開催された第15回東京モーターショーにスカイライン2000GTのレーシング仕様として出品されます。2000GTのエンブレムは赤く塗られ、エンジンには新型のS20型エンジンが採用されました。 レーシング仕様として登場した2000GT-Rは実際にレースシーンを席巻。ツーリングカー50連勝という日本のレース史上不滅の金字塔を打ち立てたのです。 2000GT-R以降、「GT-R」の名はスカイライン最高の走行性能を誇るグレードに冠されるようになります。ちなみに、GT-Rといえば2ドアクーペのイメージですが2000GT-R登場当初は4ドアセダンのみの設定でした。 愛称がつけられたのもハコスカが最初 ハコスカは性能やモデル展開だけではなく、あらゆる面でその後のスカイラインの方向性を決定づけたモデルです。その1つがスカイラインシリーズに名付けられた愛称。スカイラインは「ハコスカ」をはじめ「ケンメリ」「鉄仮面」などさまざまな愛称がつけられています。 初めて愛称がつけられたのが3代目スカイライン「ハコスカ」でした。特徴的な角張ったボディから「箱型のスカイライン」と評されたことが語源です。また、「愛のスカイライン」というCMキャッチコピーから「愛スカ」とも呼ばれました。 4年間で意欲的に新型式を投入した3代目スカイライン 3代目スカイラインに対して、日産がいかに力を入れていたのか。その意気込みが良く分かるポイントは、投入されたモデルの多さです。初期型となるC10型を皮切りに4年間の販売期間で、メインラインだけでも実に4つの型式のモデルが投入されました。 バリエーションの多かったC10型 合併後初の新モデルとなったC10型は、まだプリンスの影響が色濃く残っています。その象徴がエンジンで、プリンス製のG15型1500cc直列4気筒OHCエンジンを搭載していました。 また、展開バリエーションが多かったのもC10型の特徴。ベースとなる4ドアセダン(C10型)をはじめ、エステートのWC10型、バンのVC10型がラインナップされていました。 グレードは「スタンダード」と「デラックス」の2種だったものの、デラックスは「ファミリーデラックス」「ツーリングデラックス」「スポーティデラックス」の3種を展開。さらに、女性仕様の「Lパック」というメーカーオプションまで用意します。当時としてはバリエーションの幅が広く人気を集めました。 日産スカイラインの元祖となったGC10型 C10型発売の2ヶ月後に投入されたGC10型最大の特徴が、日産製エンジンへの変更です。 120psを発生する2,000cc直列6気筒OHCのL20型エンジンが搭載され、大幅に走行性能を向上。エンジンの大型化に伴ってフロントノーズも延伸され、ロングノーズ仕様になります。実は3代目スカイラインはもともと6気筒エンジン搭載を配慮して開発されていたため、ロングノーズ仕様になったことで車全体のバランスが整いました。 モデル名には2000GTの名が冠され、ロングノーズのスタイリングは翌年発売されるGT-Rにもつながります。 記念すべき初代GT-RとなったPGC10型 2000GTのレーシング仕様という位置付けで1969年に発表されたのが、GT-Rの称号が初めて使用されたPGC10型。2000GT-Rと名付けられたPGC10型スカイラインこそが、現在まで続く「GT-R」の初代です。 2000GT-Rはレース車両としての走行性能を追求して開発され、最高出力160psを発生する新開発の2,000cc直列6気筒DOHCエンジンS20型を搭載。サスペンションやステアリングギア比に加えてリアフェンダーの形状までもが変更されたうえ、レースに不要なヒーターやラジオはオプション扱いとされました。 現在まで続くGT-Rの形になったKPGC10型 GT-Rの称号を初めて冠されたのは4ドアセダンのPGC10型スカイラインですが、2ドアクーペという現在まで続くGT-Rの形となったのはKPGC10型です。 登場当初は圧倒的な速さを誇っていた4ドアセダンの2000GT-Rですが、次第にロータリーエンジンを搭載するマツダ車の猛追が始まります。 そこで投入されたのが2ドアクーペのKPGC10型です。KPGC10型スカイラインは従来のPGC10型のホイールベースを短くすることでコーナリング性能を大幅に引き上げ、ライバルの猛追を振り切りました。 また、KPGC10型は。デザイン面で大幅に変更が加えられています。ダッシュパネルなどインテリアに大幅な変更が加えられたことに加えて、フロントグリルや前後バンパーとテールランプなどの外観も随所にデザイン変更が施されました。 まとめ 現在でも日産のスポーツモデルとして続くスカイラインの歴史は、3代目スカイライン「ハコスカ」から始まったと言っても過言ではありません。 また、最高の走行性能を誇るグレードに使用されたGT-Rの称号も3代目スカイラインが元祖。現在では「GT-R」という車名で独立した車種となるほど、3代目スカイラインから使用が始まったGT-Rの名称は日産だけじゃなく日本を代表する大名跡です。 ハコスカは発売からすでに50年以上が経過しました。しかし、すべての起源となったハコスカはスカイラインファンのみならず、多くのモーターファンから今も高い人気を集める車種です。 市場での人気もまさに異次元。高いものでは、1970年式の2000GT-Rが3,000万円以上で販売されていました。さらに旧車王での買取価格は1969年式のPGC10型スカイラインで1,350万円のものもあり、上限1,500万円という高値で取引されています。※価格はいずれも2022年3月現在 [ライター/増田真吾]
7月中旬、仕事で北海道へクルマで渡らねばならず、久しぶりにカーフェリーを利用しました。 新潟発小樽行きの新日本海フェリー、あくまで自走派の筆者も、納得の快適かつ効率的に動くことができました。 0泊3日の小樽行き。 「また行きたい」と思わせてくれたカーフェリーの旅の魅力、振り返ってみたいと思います。 ■津軽海峡だけを渡るか、陸路の移動を徹底的に少なくするか? フェリーでの旅、いつ以来でしょうか。 子供の頃に有明埠頭からサマーキャンプで四国まで行ったことがありました。 それ以来かもしれません。 カーフェリーとなると、鹿児島の桜島フェリーや、九州に行くのに四国八幡浜から九州大分、あとはたまたまタイミングが良かったので予定外に静岡の清水から伊豆半島の土肥、伊勢湾フェリーの鳥羽から伊良湖岬などで利用したことも。 どれも「基本は自走するけど、たまには利用してみるか」という「選択の上での利用」でした。 しかし今回の北海道行きは、自動車で行くには「フェリーを利用するしかない」。 いわば不可避も利用となります。 さてどのルートで行こうか? 予定が決まった段階でいろいろと調べました。 青森まで自走して津軽海峡だけをフェリーで渡る方法もあります。 メジャーなのは大洗から苫小牧という航路。 いずれにしても、北海道に入るためには絶対にフェリーに乗らなければなりません。 今回の目的地は小樽。 津軽海峡だけを渡って、函館からとなるとかなり距離もあります。 苫小牧からもそこそこの距離。 自走する距離自体には抵抗はありませんでしたが、走り慣れていないルートで何か傷害が起きた場合のリスクヘッジとそれに付随する時間はあまり攻められないなあという判断が優勢になりました(いつものように前後の予定もものすごく空いていて、気ままに眠くなったら道に停めてお昼寝、という訳にはいかないスケジュールでした)。 いろいろと判断した結果、苫小牧着ではなく小樽にダイレクトに行くことにしました。 そうなると利用するのは「新日本海フェリー」新潟、舞鶴からの直行か、敦賀発秋田経由のルート(新潟か秋田発に決まっているだろと思われるかもしれませんが、前後の予定次第では舞鶴、敦賀発もあながち可能性0ではないので一応確認はしました)。 便が多いのと、発着時間的に正午に出発、早朝着というので新潟発小樽行きが使い勝手が良さそうで、これの予約を取ることにしました。 この最繁忙期ではないにせよ、夏の時期は比較的自動車での旅行者も多い時期。 さらに物流での利用もかなり盛ん。 燃油サーチャージなどもあり、結局筆者が利用した便の運賃は片道84,580円(今回は車両引き取りでしたので、積載車での旅、全長8メートル未満、乗員一名分運賃込)でした。 なお、帰りは往復割引が適用されて、1割引に。 値段を聞いたとき、確かに内心「うげげげ、やっぱりそれなりの値段だなあ」とは思いました。 でも色々試算すると、そうでもないことが分かったのです。 何しろ、新潟港昼発です。 早朝出て行っても、前日の夜出発して途中仮眠を取るにしても余裕です。 乗ったらあとは船に委ねるだけ。 到着は翌朝4時半。 夏の時期ですのでもう明るい時間。 ちょっとウロウロしたりできます。 旅行すると早くても昼過ぎに到着、翌朝も朝食を食べたら少し散策して帰るもよいものです。 その点「ゼロ泊」でも、クルマがあるのですから、下手な1泊2泊程度の旅行よりも密度が高いかもしれませんね。 今回は降りるや否や市内でウニマグロ丼を食べて、一度足を運んでみたい余市(ほぼ隣町)までドライブ。 午前中に引き取りを完了して、博物館を見学。 夕方の船に再び乗って帰ってきました。 ちなみに帰りの船は17時小樽発、新潟翌朝9時半着。 この距離の往復を3日でこなせるのはむしろかなり早いイメージ。 行動としては関西周辺までのスケジュール感に近いですね。 岡山以西ですと、もう1日2日余裕を持っておきたい感じさえします。 ひたすら陸路を船の時間を気にしながら走って、高速代(は場合によっては下道利用で浮かせるにしても)、燃料代だけでも片道3万円では収まりません。 どのみち津軽海峡だけ渡るにしても、このクラス、やはり3万円では乗れません。 その間ゆっくり休めること、その効率と宿代などを考えると、乗船した時点ですでに「経済的優位性」はあると感じたのでした。 道中を楽しみながら、という旅もいいでしょう。 しかし仕事が絡んだ効率的な移動という点でフェリーは相当に長けている! 乗る前から感じることができました。 早朝4時から開いている市場食堂はフェリー客目当て?なのでしょうか。 フェリーから降りたライダー中心に早くも店の周りに集結していました。 朝ごはんから2,400円はちょっとやりすぎたかな?と思いましたが、まあ「入道税」みたいなもの、必要経費ですね。 すっきりとした甘味、濃厚なウニの風味がずっと後まで残ります。 小樽でウニ、芸がないようですが、これは執拗に食べたくなる。 こんな「早起きは三文の得」標準装備な船旅。最高ですね。 ■ぜんぜん遅くない!時速25ノットで「進み続ける」フェリーの速さ フェリーの旅、それは遅く時間がかかるというイメージがあるかもしれません。 私も、イメージで決めつけていましたが、これがそうでもないのです。 もしかすると飛行機の次、新幹線とはどちらが速いか。 ルートや移動の種類によってはそのくらいのスピードがある乗り物です。 船内には通貨ポイントの予定時刻が掲示されています。 積丹半島を回り込む航路ということもあって、秋田沖で新潟からだと三分の一。 全航路の半分ほどが北海道の沖合ということになります。 北海道、相当大きい、40代になってこんなことに驚かされるとはと思いました。 確かに最高速度で比較すれば、自動車も時速100キロほど出ます。 大型トラックでも時速90キロほどで高速道路は移動できます。 フェリーの速度は25ノット(時速約45キロ)です。 これだけを比較するととても遅く感じますが、これは巡航速度、出発したら洋上で停まることなく進み続けるのです。 自動車の移動、振り返ってみると分かりますが、大都市圏ではせいぜい20キロから30キロほどしか1時間で移動できません。 地方の郊外のバイパスなど信号停車や渋滞がない場所では50キロ近く移動できる場合もあります、高速道路なら渋滞がなければもう少し進むこともあるでしょう。 しかし、人間が運転している以上、緊張感を保ち続ける時間には限界があります。 16時間以上もの間時速45キロを維持できるフェリーは相当に早いなあと改めて感心してしまいました。 そしてその間、買い溜めておいた本を読んだり、昼寝をしたり、洋上で風に当たる。 十分に休息を取ることができます。 ロングドライブで、途中で寄り道、以外の価値はフェリーを利用することで大幅にハードルが下がるなと感じたのでした。 洋上からは虹も拝めました。 日本の気候、山が影響していることも少なくなく、陸上は雨でも海上はいい天気ということもあるのでしょう。 もちろん逆も然りですが。 最近ゆっくりと月を見たことなど、いつ以来でしょうか? 狙ったわけではないのですが、この晩は満月。 雲が多かったものの、洋上のお月見も、夏ならではかもしれません。 ■早い時間から「飲まねばならない!」のです クルマ旅とお酒の関係。 好きな方は我慢を強いられることもあるでしょう。 しかしフェリーに乗ったらさっさと明るいうちから飲みましょう。 新日本海フェリー就航地が舞鶴、敦賀、新潟、秋田、小樽。もしかするとお酒好きな方は地名を見ただけでその地の地酒、ワイン、など銘酒の数々に思いを馳せる方もいるのではないでしょうか。 クルマを船に積み込んで出港早々是非とも明るい時間から飲み出したいところです。 むしろ飲むなら早めにというべきかもしれません。 フェリーに乗ったら、どのみち航行中は車両甲板には立ち入ることができません。 ドライバーの人はお酒を我慢する意味がないからです。 目の前には大海原が広がります。明るい時間から飲むお酒はどうして美味しいのでしょうか。さっさと飲み始めましょう。 さっさと飲み始めて早めに休んで、翌朝早くに目的地につきますので、むしろ夜遅くまで飲むのは禁忌です。 ちなみに、ターミナルにも掲示がありますが、クルマをフェリーに積み込むまでは飲酒は禁止です。 オーシャンビューでゆっくりできて(するしかなくて)心身の休息にもなる船旅、しかもその間人間は休めても、しっかり移動できている。 レジャーはもちろんビジネスユース(物流系以外でも)もっと見直されていいと思います。 ■船とシンクロ、洋上の名湯を楽しむ クルマで出かけては、温泉に寄るのも好きな筆者、このフェリーには浴室もあって、この風呂、とても気に入ってしまいました。 温泉でもないですし、水は潤沢にある日本国内の一晩程度の航海が主流ですので造水器(海水から真水を作る機械)もないでしょう。 普通のお風呂ではあるのですが、これがなかなかいいお風呂でした。 高層階にあり、窓からの景色(ひたすら海だけですが)を見ながらの入浴はそれだけで、心や気持ちの淀みも綺麗に洋上で洗い流せてしまうかのうようです。 そして露天風呂もあって、もちろん航行中の船舶の中の浴室、入浴中に海に転落してもいけませんし、洋上かなり風も強いですから、防護するためのガラスの仕切りは設けられていました。 それでも、波の音、洋上の風、そして何より、船に同期していい具合にピッチングするさまなど、フェリーの浴室ならではの醍醐味が存分に楽しめるのでした。 よく温まり、ゆったり寝れば、翌日も早朝からしっかり活動できるでしょう。 ■さっそく「またフェリーに乗りたい」 今回の旅は小樽から引き上げてくるだけの用でしたので、0泊3日ですぐに戻ってきてしまいました。 それでも、1泊2日の予定でもああはいかないかもというくらいの充実さはあったと思います。 自由に動けるのがクルマの魅力ですが、長距離ドライブで疲れてしまっては元も子もありません。 コスト的にも時間的にも自走してそこを走ったのとあまり変わらず、さらフェリーを利用しなければ味わえない船旅ならではの洋上の思い出も楽しめる。 なかなかお得な旅なのではないでしょうか。 ひたすら自分でハンドルを握り、アクセルを踏んで走るのが好きな筆者も、大船に委ね、是非また出かけてみたい、と思わされたカーフェリーの旅でした。 特に道東方面、0泊3日や1泊4日程度でも色々出かけられるのではないか。 こんなことならプライベートでもまた出かけてみたいと思い、さっそく出かける理由何かないか探しているほどです。 幼い頃、伊豆七島や、四国に船旅をしたことがあります。 あのときはもっとうるさく、もっと揺れた記憶があります。 もちろん天候の影響がありますが。 思ったよりずっと静かで快適。 大いにのんびりできるて休息しながら、ガッツリ移動もできている。夜行バスに乗ると思います。 自走して仮眠して目覚めると、寝ている間は止まっているわけですから進んでいません。 しかし、目覚めればバスタ。 運転手さんがいるってなんと素敵なんだと思うのです。 けれどもそれは人間だけしか運べません。 しかしフェリーは、普段「自走のクルマ旅は夜行バスのようにはいかない」と思っているクルマごと運んでくれるのです。 某猫型ロボットの出してくれる「どこでもドア」はたちまち移動できますが味気ないですが、旅情もある。 「フェリー、なんて素敵なんだ!」と思ってしまいました。 現代人に必要なことは、距離に負けない物流と同時に、ものが移動するくらいの時間、日常を振り返り、心静かに過ごす。 大海原の波に揺られて過ごす時間、年に1日かそこらは取らないといけない。 そんな思いになりました。 今普段のアシはS660、軽自動車です。 クルマの大きさに依存するフェリーの料金。 なんのための軽か。 是非ともS660でフェリー旅、出直したいと思いました。 港に着き下船が始まる前。いろんな気持ちで船に乗っているのだと思います。 最近ではこういう少なくなったかもしれませんが「旅情の色々」が集う場所。 車両甲板もまた独特の雰囲気がいいものです。 早々仕事も終わり、帰りのフェリーまでの間、小樽市総合博物館を見学。 北海道の鉄道が充実。 小樽の栄えた時代の移ろい、雪との戦い、現存する最古の機関車など、日本の鉄道史上欠かせない展示が数多く、なかなかの見応え。 風雪と除雪剤などで傷んだボディも生々しい急行型気動車キハ27初め懐かしい車体の数々でした。 往年の北海道の鉄道名車の脇にガレージが設けられ、石原裕次郎記念館から移管されたというロールス・ロイス。 アイアンバンパーが端正なシルバーシャドウⅠ 絶対的に軽くはない車重を支えるためにジャッキアップされていました。 お昼はやはり寿司。 八角の握りは初めての体験。 柔らかくあまりこれ見よがしではない品のいい食感と香り。 鯛などとは違った面白い体験となりました。 早朝出発したその船で夕方本州へ帰ります。 小樽市内に引き取りに行き、余市までドライアブして、小樽市総合博物館を見学して、ダメおしの寿司ランチをしても、まだ余裕ある一日。 幼い頃にスキーで家族旅行に来た時に駆け足で寄って以来の小樽。 実質初めてという今回は十分すぎる満足度でした。 車両の大きさと重量をうまく組み合わせて積み込む様子もなかなか興味深いもの。 今回はサーブ900の引き取りでしたが、帰りは一番最後の乗船案内され、この位置にバックで駐車。 フェリーでのバックでの駐車は初めての体験でした。 [ライター・画像/中込健太郎]