「車売却ってそもそもどんな流れなのか」「車の相続について相談したい」など車売却をご検討の際に出てくる悩みに無料でお答えいたします!
【相談例】
● 車売却のそもそもの流れが分からない
● どういった売り方が最適か相談したい
● 相続で車を売りたいけど売り方が分からない
● 二重査定や減額について知りたい
など
■手作りの6輪F1タイレルP34とは? 茨城県水戸市にある「カスタムビルド&レストア WATAHIKI(以下、CBR WATAHIKI)」代表の綿引雄司氏が、仕事の合間を縫って手作りで製作している、6輪が特徴的なF1マシン「タイレルP34」。 その完成度の高さから、ネット上ではタイレルP34のコンプリートマシンを綿引氏が所有していると誤解されることもしばしばだ。 また「タイレルP34のレプリカ」と評されることもあるが、綿引氏独自の解釈で製作された箇所も少なからずある。 そのため、忠実なレプリカというわけではない。 つまり、この「レプリカ」という表現がこのマシンに当てはまるかどうかは人それぞれの解釈に委ねたい。 むしろ、イベントやCBR WATAHIKI(事前にアポイントを取れば実物を見せてくれる)に赴けばホンモノさながらのタイレルP34が間近で観られるのだ。 この事実に素直に感激し、喜ぶべきなのかもしれない。 製作者である綿引氏によると、このF1マシンが存在することは、タイレルのルーツでもあるケン・ティレル氏のご子息、ボブ・ティレル氏も把握しているという。 しかも、ボブ・ティレル氏は好意的に受け止めてくれているとのことだ。 ■前回の取材後「全バラ」となったタイレルP34 8月にオートランドテクノ(茨城県石岡市)でお披露目したあと、カスタムビルド&レストア WATAHIKIにて隼用エンジンのドライサンプキットの取り付けおよびフレームの塗装を行ったタイレルP34。 ただ単に「走る」ことから少しずつ「攻める」マシンへと、つまりフォーミュラ本来の姿へと、進化の歩みを進めている最中だ。 …といっても、筑波サーキット2000を●●秒台といったような限界までタイムアタックをするようなマシンではないことを明記しておきたい。 ■1976年仕様のカウルを纏ったタイレルP34がサーキットを駆ける! 10月某日、綿引氏よりオートランドテクノにてタイレルP34を走らせるとの連絡をいただき、現地へ。 試走当日は前日まで雨の予報。 事実、カスタムビルド&レストア WATAHIKIからオートランドテクノまで移動するあいだに雨が降ったようで、タイレルP34のボディにも雨粒がついていた。 しかし、現地は曇り。 ときどき薄日が差すような奇跡(綿引氏曰く、晴れ男らしい)が起こったのだ。 こうしてタイレルP34をピットロードへと移動させ、エンジン始動! 製作者である綿引氏自ら、オートランドテクノのコースを走らせることとなった。 しかし、どこかエンジンの吹き上がりが今ひとつ。 様子を観つつ、周回を重ねて行くタイレルP34。 エンジンの駆動力を各部へ伝達するチェーンの緩みや、バキュームホース(負圧ホース)の配線の接続がうまくいっていない可能性あるようだ。 動力系はあらゆる流用部品の集合体だ。 本来の設計とは異なる使われ方をしている部位もある。 ■課題点を改善し、妙高ヒルクライムに参戦 去る10月15日・16日に新潟県妙高市で開催された「妙高ヒルクライム」にタイレルP34を持ち込み、コースとなった一般道へ放たれたマシン。 しかし、エンジンが吹き上がらない…。 1気筒火花が出ていない(つまり3気筒で)走っていたのだ。 点火コイルのひとつに不具合が見つかったようだ。 このイベントにエントリーしていた(有)上条自動車商会のスタッフの方たちも、隼のエンジンを積んだフォーミュラーカーを持ち込んでいたのだ。 点火コイルの予備部品を譲ってくださったり、タイレルP34のトラブルシューティングをサポートしてくれたのだ! 自作の燃料タンクに網状のフィルターを装着していなかったため、インジェクターに金属粉が混入していたことが判明。 除去することでエンジンが復活したのだ。 無事フリー走行に間に合ったタイレルP34。 そして2日目のタイムアタック。 あわせて6つのレグ(A地点からB地点までの区切られたタイムを競う競技)でタイムアタックを行い、それぞれのタイムの合計で順位を争うことになる。 綿引氏のタイレルP34は「クラスC」にエントリー。 ちなみに、エントリー台数は全12台。 前日のトラブル解決でエントリーできたものの、先日のテストランよりも高負荷の走行を行ったことでマシントラブルが発生。 果たして無事に完走できたのか…。 タイレルP34の圧巻の走り、そしてトラブルシューティング、クラスCにおける順位は…? ぜひこちらのYouTubeにアップロードされた動画で堪能してみてほしい。 ●フリー走行(妙高ヒルクライム1日目)[Chapter-1] Tyrrell P34 FLAT-OUT on Japanese Public Road | TOUGE BATTLEhttps://www.youtube.com/watch?v=4RRZZfAQ7qA ●タイムアタック(妙高ヒルクライム2日目)Over 200km/h On Public Road in Japan | F1 Tyrrell P34https://www.youtube.com/watch?v=V1blVF4SKIY [10月27日追記]●妙高ヒルクライムフロントサス動き確認動画!https://www.youtube.com/watch?v=4oYrq-ubobE ●妙高ヒルクライムLeg1~2~3~4チェーンテンショナーの動き!https://www.youtube.com/watch?v=SIRFCIVBusk [10月28日追記]●妙高ヒルクライム2022タイレル≪Leg5.Leg6≫4K画質!https://www.youtube.com/watch?v=zzAKL9zzkpU ■さらなる飛躍へと・・・ 部品の集合体がクルマであり、フォーミュラーマシンだ。 綿引氏はアルミ板や角材を切り貼りし、たたき出すことでタイレルP34のシルエットを創り上げた。 そして隼のエンジンを載せ、命を吹き込んだ。 走り込むことで美しくペイントされたアルミボディにも傷がつく。 しかし、そこには確実に魂が宿っているように思えてならない。 繰り返すが、このタイレルP34は手作りのフォーミュラカーだ。 ゼロからイチを創り出せる人こそクリエーターだと思う。 現代の名工、この言葉こそ綿引氏に相応しいように思えてならないのだ。 ※前回の記事はこちら。 ●手作りの6輪F1タイレルP34を追え!Vol.1https://www.qsha-oh.com/historia/article/tyrell-p34-vol1/ ■巴自動車商会/カスタムビルド&レストア WATAHIKI 店舗情報 住所:〒310-0912 茨城県水戸市見川3-528-2TEL:TEL/FAX 029-243-0133URL:http://cbr-watahiki.comお問い合わせ:http://www.cbr-watahiki.com/mail.html ●綿引氏のYouTubeチャンネル"cbrwatahiki" ※「アルミのイオタ」および「タイレル P34」の製作風景も紹介されていますhttps://www.youtube.com/user/cbrwatahiki/featured ※YouTubeで動画を配信している「ぺーさんxyz」さんがイオタの製作過程を詳細にまとめた動画。手作業で造られていったことが分かる構成となっています。 [10月30日追記]●板金職人の技炸裂!アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【前編】https://www.youtube.com/watch?v=hvAf5PfcSJg&t=8s アルミ板叩き出しでランボルギーニ・イオタを製作するまで【後編】https://www.youtube.com/watch?v=WidFHqbp4QA ■Special Thanks! オートランドテクノ ●営業時間9:00~18:00(12時〜13時はお昼休み)*ナイター営業は貸切のみとなります。 ●住所:〒315-0028 茨城県石岡市半の木11210-1●TEL/FAX:0299-23-4548●E-Mail:autoland81@techno-as.com●URL:http://www.techno-as.com●Twitter:https://twitter.com/autolandtechno●Facebookページ:https://www.facebook.com/autolandtechno/*レンタルカートあり!http://www.techno-as.com/charge.html 有限会社 上條自動車商会 ●住所:〒390-1131 長野県松本市大字今井松本道7010●TEL:0263-58-0026●FAX:0263-86-6393●E-Mail:kgs-sp@sea.plala.or.jp●事業内容:廃車手続き、自動車解体、中古パーツ・中古タイヤ・バッテリー等の販売●営業時間:8:30〜18:00●定休日:日曜・祝日●URL:https://www.kamijyou-jidousha.com [ライター・カメラ/松村 透・画像提供 綿引雄司氏&I氏]
2007年に登場したフェアレディZ バージョンNISMOは、2002年から2008年まで発売されていたZ33フェアレディZの限定モデルです。NISMOとオーテックが手を組んで開発し、当時の日産モータースポーツシーンを象徴するモデルでした。今回は、そんなフェアレディZバージョンNISMOの特徴と中古車相場、リセールバリューについて解説します。 日産車カスタマイズを司る“両雄”がタッグを組んだスペシャルモデル 2007年のマイナーチェンジと同時に発売されたのが、フェアレディZバージョン NISMOです。「バージョンNISMO」「バージョンNISMO タイプ380RS」「バージョンNISMO タイプ380RS コンペティション」という3種類のモデルが発売されました。いずれもニスモとオーテックジャパンが共同開発しており、モータースポーツのノウハウが詰め込まれたモデルです。 日産のモータースポーツ参戦と車両開発を担ってきたNISMO(ニスモ)と、日産車向けのカスタマイズパーツを開発・販売してきたオーテックジャパン。フェアレディZ バージョンNISMOは、そんな日産車カスタマイズを司る“両雄”がタッグを組んだスペシャルモデルなのです。 バージョンNISMO 3種類の限定モデルの中でも新車価格が低く、タマ数も多いことから一番入手しやすいモデルが「バージョンNISMO」です。新車販売当時の価格は、449.4万円でした。ノーマルモデルからの変更点はレイズ製鍛造アルミホイール、専用剛性アップボディ、専用サスペンション、YAMAHA製のパフォーマンスダンパーです。 内装に関しても、本革 / アルカンターラのコンビシートのほか専用装備を数多く搭載しています。本革巻ステアリングホイール、シフトノブ、パーキングブレーキレバー、ドアトリム、コンビネーションメーターなど、分かりやすい派手さはないものの、質感と走行性能を向上させるパーツが採用されています。 エンジンはノーマルモデルと同様ですが、同時に行われたマイナーチェンジによりVQ35DEからVQ35HRへ変更されました。出力は初めて300psを超え、313ps / 6,800rpm、36.5kgm / 4,800rpmの数字を誇ります。 VQ35HRはVQ35DEを高回転型に再設計しており、そのフィーリングは別物です。VQ35HR搭載のフェアレディZは販売期間が短く、市場に出ている数が少ないため、ハイパワーNAが好きな方にはおすすめのエンジンです。また、VQ35HRに変更されたことでボンネットに膨らみがあるため、VQ35HR搭載モデルであることを一目で見分けることができます。 空力についてはノーマルとは大きく異なっており、専用エアロパーツを装備することで、cd値0.30という当時としては世界最高水準の空力性能を実現しました。これにより、市販車では珍しいマイナスリフトを達成しています。 また、ノーマルでは「乗り味が大型の高級車のよう」といわれていましたが、専用サスペンションとボディ剛性の強化によりスポーツモデルらしい機敏さが加わりました。 レース仕様エンジン搭載モデルも市販化 2022年は新型RZ34フェアレディZの発売とGT500クラスへの参戦が話題ですが、Z33も全日本GT選手権 GT500に参戦した実績をもちます。 R34型スカイラインGT-Rに代わり、2004年から2007年まで参戦しました。中でも有名なザナヴィNISMO Zは、デビューイヤーである2004年の第1戦TIサーキット英田と、第6戦オートポリスでも優勝するなど安定した強さを発揮。2004年だけではなく、続く2005年にはモチュール ピットワーク Zと共にもNISMOとして2年連続のチームチャンピオンに輝きました。 そんなZ33フェアレディZのレーシングスピリットは「バージョンニNISMO タイプ380RS」と「バージョンNISMO タイプ380RSコンペティション」の二つの限定車で体感できます。 バージョンニNISMO タイプ380RS 「バージョンニNISMO タイプ380RS」はレース専用車両である「バージョンNISMO タイプ380RSコンペティション」をデチューンした公道使用モデルです。新車当時の価格は539.7万円で、冒頭に紹介した「バージョンニNISMO」よりも高額なものの、レーシングカーの性能を公道でも味わえる魅力的な一台です。 モデル名にある380は排気量を表し、エンジンは3.5Lから3.8Lにボアアップされています。鍛造ピストン、強化コンロッド、プロフィールやバルブリフト量が見直されたカムシャフトなどに変更され、最高出力350ps / 7200rpm、最大トルク40.5kgm / 4800rpmを発生。レスポンス良くどの回転域からでも胸のすくような加速が得られる感覚は、大排気量NAエンジンの醍醐味です。 バージョンNISMO タイプ380RSコンペティション 「バージョンNISMO タイプ380RSコンペティション」は、スーパー耐久などのレース専用車両で、プライベーターのレースドライバー向けに販売されました。受注生産のみで、価格は2,625万円と驚愕の金額です。しかし、NISMOのレーシングカーをそのまま購入できる「夢のクルマ」といえます。 「バージョンNISMO タイプ380RSコンペティション」に搭載されるエンジンは3.8Lのレーシングエンジンです。MOTEC社製の専用ECMを採用し、最高出力400ps以上、最大トルク43.0kgm以上を発生します。 その他にも、6速クロスミッション、強化クラッチ、メカニカルLSD、ブレンボ社製6ピストンキャリパーと380mm大径ローターを装備。また軽量化のためにドアやボンネットなどにカーボンファイバー、ドアおよびバックドアのウインドウにポリカーボネートが採用されています。 さらに、ロールゲージやバケットシート、セーフティハーネス、消火器、カットオフスイッチ、95L安全燃料タンクなどの安全装備を装着しており、車両購入後すぐに実戦レースへ参加可能な仕様に仕上がっています。 まさに「レーシングカー」そのものであり、中古車市場では滅多に見かけませんが、モータースポーツ好きには憧れの一台です。 日産フェアレディZ バージョン NISMOの中古車市場 フェアレディZ バージョンNISMOの中古車相場は138万円から338万円で、流通量は少ないものの状態の良い車両が多いです。限定車の割には価格が高騰していませんが、今後は純ガソリンエンジン車の減少、大排気量NA車の減少に伴い、価格の高騰が見込まれます。購入を検討している方は早めに市場をチェックするといいでしょう。 300台限定のフェアレディZ バージョンニNISMO タイプ380RSはさらに流通量が少なく、2022年8月時点では589万円で販売されています。新車価格を超える金額となっており、今後も値段が下がることは考えにくいでしょう。 そして、旧車王におけるフェアレディZ バージョンNISMOの買取価格は約180万円で、300台限定のバージョンニNISMO タイプ380RSは最大455万円の値がついています。ファンが多いNISMO限定車は驚くほど高い買取額が提示されるケースもあり、売却を考えている方は、一度査定に出してみるといいでしょう。 まとめ 日産 フェアレディZ バージョンNISMOは、性能アップしたVQエンジン搭載モデルやレーシングエンジンを搭載したコンペティションモデルをはじめ、当時の日産モータースポーツを象徴するモデルです。 R34スカイラインGT-Rが2002年に生産を終了し、2007年にR35GT-Rが登場するまでの6年間は、フラッグシップスポーツカーが存在しない時代でした。NISMOとオーテックが手を組み開発したフェアレディZ バージョンNISMOは、そのすき間を埋める存在であると同時に、日産の歴史に残る名車なのです。
日本のスポーツセダンを牽引し続ける「スカイライン」。今では日産を代表する車種として認識されていますが、その源流は日産に吸収合併される前のプリンス自動車という国内メーカーが生み出しました。今回は、特に名車の呼び声が高い2代目スカイラインのレースモデル「スカイライン2000GT」にフォーカスを当て、プリンス自動車 スカイラインについて振り返ります。 プリンス自動車から始まった名車スカイラインの歴史 1950年代にプリンス自動車によって開発されたスカイラインは、当時としては先進的なデザインと性能を誇る小型車でした。初代の成功により誕生した2代目は、高性能スポーツセダンとしての地位を確立します。 2世代に渡って開発されたスカイラインは、常にクラストップの先進性と性能を誇っていました。 戦後すぐに生まれた国内トップクラスの小型車 プリンス自動車 スカイラインの誕生は、終戦から12年後の1957年で、プリンス自動車の前身である「富士精密工業」によって開発されました。 従来のプリンス車から構造を一新したオリジナルのセミ・モノコックボディに、アメリカンスタイルのボリュームあるボディデザインを採用しています。当時の国産車としては先進的なスタイリングが特徴的でした。 また、クラストップの性能面も、多くの注目を集めました。新型エンジンではないものの、改良されたGA30型エンジンは、同クラスで競合するトヨタや日産を超える60psを発生。当時の国産1,500cc最速となる125km/hを達成しています。 スカイラインの地位を確立した2代目S50系 スカイラインは、初代発売から6年後の1963年にフルモデルチェンジを受けます。明確に小型量産車市場を狙った2代目のボディデザインは、初代とは異なるヨーロピアンテイストに変更されました。 新たに採用したモノコックボディによって軽量化と高剛性も実現し、高性能スポーツセダンとしての認知を高めていくことになります。搭載されたG1型1.5L直列4気筒OHVエンジンは、クラストップの性能とともにメンテナンスフリーエンジンとしても話題を呼びました。 2年間または4万kmの保証をつけたエンジンは、シリンダーヘッドとエンジンブロックを「封印」しました。必要なメンテナンスは6000kmごとのオイル交換と3万kmごとのエアクリーナー交換だけとされています。さらに、サスペンションやステアリングギアボックスも1年間または3万kmまでグリスアップ不要で、日本初のメンテナンスフリー車として販売されました。 スカイラインに課された命題はレースで勝つこと S54A型、S54B型として人気の高いスカイライン2000GTシリーズが誕生したのは、レースに惨敗したことがきっかけでした。レースに勝つことを課せられ、結果を残したことで一気に評価が高まったスカイライン2000GT。当時の国内での人気が、S54B型の派生モデルとなるS54A型の発売につながりました。 初戦に惨敗したことで生み出されたS54型 2代目S50系スカイラインは、発売直前に初開催された日本グランプリに出場したものの惨敗を喫しています。この結果を受けてS54型として開発されたのが、スカイライン2000GTにつながるスカイラインGTでした。 エンジンにG7型2L直列6気筒OHCエンジンを採用し、エンジンの大型化にあわせてフロントの車軸を前方に移動させホイールベースが200mm延長されました。標準使用でも105psを発生する高性能モデルで、S54Rと呼ばれるレース仕様車は、ウェーバー製の3連キャブレターを装備し最終的に152ps以上を絞り出します。 そして迎えた第2回日本グランプリで、スカイラインGTはポールポジションを獲得します。レースでは格上のポルシェを抜いて1周ではあるもののトップに立つ活躍を見せ、サーキットに集まったファンを熱狂させます。最終的にポルシェに敗れてしまいますが、上位を独占するという輝かしい結果を残しました。 スカイラインGTはホモロゲーションを満たすために合計100台が製作されましたが、レース結果を受けて一般販売用として用意された92台はすぐに完売。スカGの愛称がつけられるなど、スカイラインGTの発売を望む声が高まっていきました。 世間の強い要望によって発売されたスカイライン2000GT レースで実力を証明したスカイラインGTを望む声を受けて、カタログ掲載モデルとして1965年に発売されたのが通称54Bと呼ばれるスカイライン2000GT(のちのスカイライン2000GT-B)です。 スカイライン2000GTは、レース仕様とほぼ同スペックで販売され、ウエーバー製の3連装40DCOE型キャブレターに加えて、圧縮比を8.8から9.3に向上させます。その結果、125ps/5,600rpmの最高出力と17.0kgm/4,400rpmの最大トルクを発生させるまでになります。 さらに、3速フルシンクロを備えたトランスミッションにはオーバードライブも設定され、最高速は180km/hを記録し、当時としては日本最高のスペックを誇るモデルでした。 マイルドなスカイライン2000GT-A ファン層が広がったことで「もっとマイルドな2000GTに乗りたい」という声が高まり、派生モデルとなるスカイライン2000GT-A(通称54A)が生み出されます。 スカイライン2000GTの発売からわずか7ヶ月後にスカイライン2000GT-Aが誕生したことで、従来2000GTと呼ばれていたモデルは、2000GT-Bに変更されました。スカイライン2000GT-Aは、エンジンがシングルキャブ仕様となり、54Bに比べるとマイルドなスペックであるものの国内トップクラスの105psを発生させるモデルです。 より幅広い層のスカイラインユーザーを獲得することに成功しました。 現在も人気のスカイラインGT スカイラインのルーツともいえるスカイライン2000GTは、発売が60年以上前ということもあり、市場ではほとんど見かけません。また、歴史的価値と希少性から一般の中古車相場は当てはまらないため、購入したい場合はその都度問い合わせる必要があります。大手中古車サイトで検索したところ1966年式のS54Bが1台だけ見つかりましたが、価格は応談となっていて不明です。 旧車王での買取相場を見ると、1968年式のS54Bが不動車にもかかわらず20万円もの価格がついています。もしガレージで眠っているスカイライン2000GTがあれば、どんな状態でも思わぬ買い取り価格がつくかも知れません。 ※中古車相場は2022年9月原稿執筆時
日本における旧車人気の過熱ぶりはとどまるところを知らない。 非常に残念なことではあるが、毎週のように国産旧車スポーツカーが盗難に遭うニュースが聞かれるほど、今注目度が高まっているのはたしかだ。 現オーナーの方たちも、複雑な心境で状況を見守っているのではないかと推察する。 それに比べると、同じ自動車大国・趣味国であるドイツでの「ヒストリックカー熱」は、表面上はとても落ち着いているように見える。 もちろん、ヒストリックカー全体の価格相場は上昇傾向にはあるけれども。 今回は「日本とドイツの旧車(ヒストリックカー)の過熱ぶり、共通しているところと決定的に異なる点」と題して、ドイツと日本における「熱の違い」を紹介していこうと思う。 ■100年以上前から存在する「自動車クラブ」 最初に伝えたいのは、ヒストリックカークラブの数と、その歴史の違いだ。 日本にも数多くの旧車クラブが存在する。 コロナ禍以前は、たくさんのイベントやミーティングが毎週末のように行われていた。 しかし、ドイツのヒストリックカークラブの数はその比ではない。 インターネットで都市名とともにクラブの検索をかけると、それこそ無数に出てくる。 その中でも特に格式高いとされているヒストリックカークラブは、その歴史が非常に古い。 中には19世紀後半に設立されたクラブまで存在する。 それらは、まだ自動車が特権階級だけの乗り物だった時代に設立されているから、ただ自動車を愛好する会というよりは「上流階級たちの社交場」という意味合いも多く含まれていた。 現在ドイツ国内のコンクール・デレガンスを行っている団体は、こうした古いクラブや組織をルーツに持っている場合が多い。 彼らは、ヒストリックカーがヒストリックカーと呼ばれる前、つまり新車として存在していた時代から、クルマを愛好する会を運営し続けている。 もっとも、日本でもっとも古いとされている自動車クラブ「オートモビル・クラブ・ジャパン」の歴史は明治41年(1908年)までさかのぼるというから、決して引けは取らないのだが。 ■ドイツでは、メーカーからの部品供給が手厚い 古くからの愛好家たちが大勢いるという地盤があるおかげだろうか、ドイツではヒストリックカーの部品供給はとても良好だ。 ドイツの主要ブランドは、ポルシェ・クラシックやメルセデス・ベンツ・クラシックといった「ヒストリックカー部門」を社内に持っている。 名車CTR、通称「イエローバード」で知られるルーフ社のようなごく小さな会社ですら、クラシック部門が存在する。 そこでは、純正部品の供給や、メーカー自身によるレストア、ヒストリックカーに対応したデザインのナビゲーションシステムやヒストリックカー専用オイルの開発などが行われている。 こうした純正部品以外にも、サードパーティ製の安価で高性能な部品が多く販売されている。 フォルクスワーゲン・タイプ1のような「ヒストリックカー入門車」の場合、ほとんどすべてのパーツに純正部品か、サードパーティ製部品かの選択肢が存在するほどだ。 これらの部品の中には、ヒストリックカーと呼ばれるようになってから再生産されたものもあるが、単に「新車当時から供給が続いている部品」も多い。 ドイツの人々の中には「そのクルマを気に入ったら、こつこつ直しながらとことん(何十万キロも)乗る」という人も少なくないから、その要望にメーカー側が応えているといえる。 こうしたヒストリックカーに対するメーカー側の姿勢の違いは、日本とは大きく異なる点だろう。 日本でもメーカーによるレストアサービスや旧車の部品供給が少しずつ始まっているが、その車種はかつての人気車種やスポーツカーといった、非常に偏りのあるラインナップにとどまっている。 個人的な願いとしては、国民の生活とともにあった大衆車にこそ、スポットライトが当たってほしいと願っているのだが。 ■ドイツでは「趣味としてのレストア」が成立するほどハードルが低い 日本とドイツ、どちらにもレストアを行う業者は多い。 違いがあるのは、「メルセデス・ベンツ・300SLのレストアだけを行う」といった、超高額・超希少車だけを取り扱うことだけで運営している業者が存在しているという点だ。 日本において「トヨタ・2000GTのレストアを行う」業者は存在していても、2000GTのレストア、ただそれだけで運営を続けるのは非常に難しいはず。 もっとも、ドイツに存在している多くのレストア業者も、さまざまな車種を扱うのが一般的ではあるのだが。 レストア業者に頼んで新車同様に仕上げてもらう人もいれば、ヒストリックカークラブのみんなでこつこつレストアして楽しむ人たちもいる。 先述したように、極端に珍しい車種でなければ、部品の入手は難しくない。 新車当時の整備マニュアルや図面などもインターネットで入手できるし、人気車種であれば車種別の「レストア指南書」も販売されているから、それらを参考にレストアを趣味にしている人も多い。 レストアを趣味にするハードルは、日本よりもずっと低いといえるだろう。 ■綿々と続いている「自動車偏愛」 ここまで、日本の旧車熱と、ドイツのヒストリックカー熱の違いについて取り上げてきたが、いかがだっただろうか。 ざっくりと一言でまとめると「歴史と文化が深い」ということになるだろうか。 ドイツのヒストリックカー熱は今になって盛り上がったわけではなく、それこそ19世紀後半からの「自動車偏愛」が綿々と続いている、といったほうが正しい。 ドイツでは連日、気候変動保護に対する議論が進んでいて、ガソリンエンジン車がいつまで公道を走ることを許されるのか、という問いは市民の間でも話題になるほどだ。 ヒストリックカーを愛好する人々は、公道を走れなくなる最後の日まで、噛みしめるように公道のドライブを楽しむことだろう。 [ライター/守屋健]
いま、とある媒体で自分の愛車を紹介する原稿をまとめているのだけれど、一向にまとまらない。 書きたいことが多すぎるのだ。 編集担当さんの「まとまり次第で結構ですよ〜」のお言葉を額面通りに受け止めて(本心は違うと思うが・・・)、他の仕事の合間に少しずつ進めている。 連休明けには納品したいと思っている次第だ。 いわゆる「ナローポルシェ」といわれる古いポルシェ911を手に入れて早10年・・・。 歴代の愛車遍歴(12台)のなかでも「ダントツに長い」所有期間となった。 10年でダントツに長いなんて・・・。 新車から25年!ワンオーナー車ですよ!といった方を取材していると、尊敬の念を抱くとともに、何だか自分の飽きっぽい性格が恥ずかしく、同時に情けなくなることもしばしばだ。 これまでの愛車遍歴には「3年半のジンクス」という、なぜか見えない壁が存在した。 なぜか分からないけれど、この時期になるとクルマを買い替えるようなイリュージョン(?)が起こるのだ。 その壁を初めて突破したのがナローポルシェだった。 もっとも、所有していたとはいえ、それは名義上の話であり、実際にはレストア中の状態が長く続き、手元に来たのはホンの数年前だ。 いわゆる遠距離恋愛の状況が長く続き(・・・といっても直線距離で10km程度だけど)、主治医のところに足を運んでは、リフトアップされているドンガラ状態の愛車を眺めて「いつ完成するのか・・・」と、思う日々だった。 ・・・いまにして思えば、むしろこれがよかったのかもしれない。 すぐにレストアが完成したら、ここまで手元にある「ありがたみ」を実感できなかったはずだ。 待ちに待って苦労したすえに手に入れた分、ありがたみを実感している日々だ。 それはそれとして、実はいま・・・「3年半のジンクス」が忍び寄っている。 中古で手に入れた、家族用のフォルクスワーゲンのミニバンがそろそろ「3年半のジンクス」を迎えるのだ。 幸い、今すぐに欲しいクルマはないし(一応、GOOやカーセンサーでチェックしているモデルはあるけれど)、現在の愛車に不満もない。 そう。毎回そうなのだ。 しかし、ある日突然、自分でもよく分からないけれど「乗り替えてもいい大義名分(口実?)」や「ホントかよ」と思うようなスペシャルオファーが舞い込むのだ。 なぜだか分からないけれど、それがきっちり「手に入れてから3年半後」だったりする。 そのXデーは来月に迫っている。 今のところは平穏だ。 いまから怖いような、楽しみなような・・・。 [ライター・撮影/松村透]
これまで所有してきたなかで、唯一といってもいいかもしれない「自分なりに卒業できたクルマ」がある。 それはマツダ ユーノスロードスターだ。 長くなりそうなので、何回かに分けようと思う。 デビュー当時から、ユーノスロードスターというオープンカーが人気だということは何となく知っていた。 けれど、その頃の筆者はフェアレディZ(Z32型)に夢中だった。 当時はまだ高校生。 運転免許がないので「走りの楽しさ」といわれてもピンとこない。 速くて、パワーがあって、カッコ良くて・・・。 そういった分かりやすいクルマが好きだった。 そんなわけで、ハタチになったら・・・シルバーのZ32 2by2 ツインターボ 5速MTを60回ローンで手に入れ、メーカーオプションの本革シートとBOSEサウンドは必須だな、マフラーはここ、エアロはこれ、ホイールは・・・なんてことを、授業中にこっそりカーセンサーを読みながら夢想していた。 今考えれば脳天気もいいところだ。 ユーノスロードスターの虜になったのは、19才の夏。 運転免許を取得してからわずか半年後のことだった。 まだ初心者マークが取れるか取れないかという当時の筆者に、クルマ好きの恩師が、このとき所有していた純白のユーノスロードスターを1泊2日で貸してくれたのだ。 ユーノスロードスター借りたのは8月のお盆明け、つまり残暑も厳しい(この年、初めて猛暑日を記録したように思う)夏の日だった。 恩師が所有していたユーノスロードスターは、1.6Lエンジンのほぼ最終型、色はシャストホワイト、スペシャルパッケージ。 恩師の好みでシフトノブがウッドに交換されて以外、ホイールやマフラーもノーマルだった。 こっちとしては「MT車を運転できるだけでも幸せ〜」な時期だったし、まさかのFRのオープンカーを自由に運転できる機会に恵まれたのだ。 有頂天にならないわけがない。 恩師からユーノスロードスターを借りたのは夜遅く、23時頃だったと記憶している。 走り出した瞬間、軽い、そして交差点を曲がるだけで楽しい! 走っても走っても走っても足りない・・・。 熱帯夜で周りの空気が暑いとか、もう何時間も水を一滴も飲んでいないとか・・・そんなことを忘れるほど夢中になっていた。 気がついたら夜が明け始めているではないか。 さすがに疲れて仕方なく家路についた。 そして仮眠してふたたび走り出した。 まだカーナビが高級品で、とにかく知っている道を走るしかなかった。 自宅周辺や市街地、山道を含めて・・・気づけば2日で400kmくらい走ったように思う。 あのときの屋根を開けて走る爽快感と、草木の匂い、エンジン音が近くに感じられた記憶はいまでも鮮明に憶えている。 洗車してガソリンを満タンにして恩師にユーノスロードスターを返すのが辛かった。 よし!自分もユーノスロードスターを買おう! そう決意するまで時間は掛からなかった。 しかし、当時自分が貧乏学生であること、ユーノスロードスターが人気車であり、新車はもちろんのこと、中古車でもかなり割高であることを知り、愕然とするのであった・・・。 (つづく) [ライター・撮影/松村透]
台湾系アメリカ人のBenさんは2006年に「ジャパニーズ・ノスタルジック・カー」を設立。 アットホームな雰囲気のウェブサイトには全米で開催される日本製旧車のイベントレポートや、日本車の歴史、日本人でも知らない興味深いトリビアなど、日本製旧車のあれこれが網羅されています。 日本には数多くの旧車メディアが存在しており、この「旧車王ヒストリア」もその一つです。 日本には日本の旧車、ドイツの旧車、アメリカの旧車、フランスの旧車など、それぞれに特化した専門メディアもありますが、実はアメリカで日本の旧車に特化したメディアはただ一つだけ。 「ジャパニーズ・ノスタルジック・カー」(https://japanesenostalgiccar.com/)を運営するBen Hsu(ベン・シュー)氏にお話を伺いました。 Benさんご自身も古いランクル(ランドクルーザーFJ60)を所有しています。 ちなみに、Benさんのランクル60は、2021年秋にホットウィール「カーカルチャーシリーズ」でミニカーとして発売されました。 ▲赤枠で囲んだホットウィールがBenさんのランクル60 ホットウィールでも日本の旧車が大人気! ▲米国唯一の日本旧車メディア編集長のBenさんにインタビュー中の筆者(加藤博人) ■ジャパニーズ・ノスタルジック・カーを立ち上げた経緯を教えてください 私が2006年にこのサイトを立ち上げた当時は、日本の旧車に関する情報を発信しているウェブサイトはもちろん、紙の雑誌においてもゼロでした。 メディアが存在しないどころか、当時のアメリカにおいては日本の古いクルマは『価値のある存在』として見られていませんでした。 ちょうど、その頃、カリフォルニア州ロングビーチでは「Japanese Classic Car Show(JCCS)」(日本旧車集会)の第1回が開催されていました。 当時の私は東海岸に住んでいたのでJCCSの存在を知りませんでしたが開催2年目以降は毎年参加しています。 ■japanesenostalgiccar.comというサイト名に「クラシック」ではなく「ノスタルジック」が使われているのはなぜでしょうか? これも日本製の古いクルマは当時「旧車」(クラシックカー)とみなされていなかったことに関係しています。 アメリカの有名な旧車クラブに「Classic Car Club of America」がありますが、彼らの「クラシック」の定義ではアメリカ製やドイツ製、フランス製、イギリス製の旧車しか「クラシックカー」として認められず、日本製の旧車は彼らの眼中にありませんでした。 またこれとは別に、日本では「レトロな物」を「ノスタルジック」と形容することが割と一般的です。 そのような経緯からサイトの名前には「クラシック」ではなく、「ノスタルジック」とつけました。 ■Benさんがサイトを立ち上げて16年が経過しましたが、アメリカにおいて日本の旧車を取り巻く環境、日本の旧車の価値はどう変わったと思いますか? 本当に大きく変わったと思います。 例えば、少し前のバレット・ジャクソン(アメリカでもっとも権威があるコレクター用カーオークション)で印象に残っているのが、司会が「我々のオークションでホンダ・シビックを見ることはあり得ないでしょう」といっていたことです。 それだけ日本の古いクルマはコレクション価値のあるものと認識されていなかったわけです。 日本車は「集めるほど価値のあるクルマ」というより、「実用的で道具のように使えるクルマ」と考えている人がとても多かったんだと感じています。 それが近年はスカイラインR32GT-Rや80スープラ、シビックタイプR、ランドクルーザーFJ40シリーズなどがバレット・ジャクソンに出品されて高額な価格で落札されることも増えました。 ■Benさんが日本の旧車に興味を持つようになったきっかけは? 初めて知った日本のクラシックカーはグランツーリスモに出てくるトヨタ2000GTやハコスカで、高校生のときに欲しかったクルマはホンダ NSXやマツダRX-7(FD)、トヨタ スープラなどの日本製スポーツカーでした。 1992年、家族で台湾に行ったのですが(初めて自分がアジアを訪れたとき)、当時はアメリカから台北への直行便がなく、トランジットのために成田で一泊しました。 当時はインターネットもなく、日本で走っているクルマの情報はほとんど把握していませんでした。 日本で走っているクルマはアメリカと同じなのだろうと勝手に想像していました。 しかし成田に着いて日本の街中を見るとまったく知らないクルマたちがたくさん走っていることに気づきました。 トヨタクラウンや日産セドリック、アメリカで見ないクルマばかりでとても興奮しました。 それ以降、初めて見る日本車にも興味を持つようになりました。 ■Benさんがいま、手に入れたい日本車はありますか? あります!日産スカイラインGT-R(R32/R33)です。 でもとんでもない金額になっていますけどね。 もし、GT-Rを手に入れても大切なコレクションにしてまともに走らせもしないでしょう(笑)。 運転するならマツダ・ロードスターなどのライトウェイトスポーツカーも好きですね。 でもロードスターを買うにしても、まったく同じクルマがアメリカで左ハンドルでも手に入るのなら、右ハンドルにこだわりません。 アメリカでは手に入らないクルマを日本から輸入して乗りたいですね。 先週、カリフォルニア州ロングビーチでは、Benさんも出展した第17回JCCS(日本旧車集会)が華々しく開催されました。 回を追うごとに参加台数が増え、来場者も1万人超となりました。 [ライター・カメラ/加藤ヒロト]
かつて、若者だった世代であれば、バブル期に一世を風靡した「デートカー」という概念があったことを記憶している人も多いだろう。 当時のデートカーはホンダ プレリュード、トヨタ ソアラ、日産 シルビアといったクルマたちが代表格であり、それらのクルマはドイツに向けても輸出されていた。 しかし・・・。 そもそも当時、ドイツには「デートカー」という概念は存在していたのだろうか。 さらにいえば、現在のドイツのクルマ好き、あるいは若い人の間に、デートカーという概念は存在しているのだろうか。 今回はその点をドイツで暮らす日本人の視点で考察してみようと思う。 ■そもそもドイツは「流行」そのものが存在しにくい社会 結論を先に書いてしまうと、「デートカー」という概念はドイツには存在しない。 過去に存在しなかったし、これからも存在することはおそらくないだろう。 なぜここまで筆者が断言できるかには理由がある。 大前提として、ドイツにおける「流行」というものについて、少し話をしなければならない。 ドイツでは、なにか特定の文化・考え方が一世を風靡する、という現象は起こりにくい。 というか、そうした現象が起こることについて強い忌避感がある。 第二次世界大戦とその後の東西分断でドイツという国がなにをしたか、ドイツ人はよく知っているし、その時代を想起させるような「極端な一体感」を嫌う。 だから、日本のように「今、○○の間で○○が大流行!」という内容のテレビ番組が放映されることはない。 また、若者や社会人が世代ごとに似たようなファッションになることもないし、「こうした考え方が世間の常識だ」などというような考え方の強要が行われることはない(個々人が抱えている正義や主義・主張は当然あるけれども)。 もちろんドイツにもフォルクスワーゲン ゴルフのような、ろくに宣伝などしなくても黙って月何万台も売れていくようなベストセラー商品は存在する。 ただしそれは、あくまでひとりひとりがゴルフの大きさなり価格なりを「ちょうどいい」と思うから買っているのであり、「ドイツでは今、フォルクスワーゲン・ゴルフが大流行!」「○○人にひとりが購入しています!」という宣伝文句にあおられて買っているのではない。 つまり、ドイツでの「流行」は、ごく身近な人間関係のなかでは形成される可能性はあるものの、テレビや雑誌などが主導で社会全体を動かすものにはなりにくい。 現在ドイツで流行っている概念といえば「自然環境保護」や「無農薬」「地産地消」などだが、これらは政府が力を入れているものだ。 これからも継続していこうという考え方であり、一過性の「流行」とはいい難い。 ドイツは日本におけるような意味の「流行」が起こりにくい社会なのである。 ■ドイツにおける「流行」は局地的に発生するもの? デートカーの概念に戻ろう。 ドイツでは「流行」という概念そのものが存在しにくい社会であるから、「このクルマに乗っていればモテる」「このクルマに乗っている男性・女性はかっこいい」という考え方が、個人の考え方の範囲を超えて社会全体に浸透する、ということは起こらない。 トヨタ ソアラに乗っていればモテる、というような価値観は、ドイツ社会では形成されることすらありえないのである。 そういった意味から、「デートに向いているクルマ」というのも存在しない。 あなたが男性だとして、今売れているからといって最新のスタイリッシュなSUVを購入したとしよう。 そのクルマを意中の女性が気に入ってくれるか(そしてそのクルマに乗っているあなたを気に入ってくれるか)は、その女性がどんな考え方を持っているかに左右される。 彼女は「とても素敵なクルマに乗っていますね」とほめてくれるかもしれないし、「時代遅れでナンセンス。環境保護を考えるとクルマを持たないか、せいぜいピュアEVが妥当なところじゃないですか?」と問い詰めてくるかもしれない。 一方、ベルリンに住む移民の最大派閥・トルコ系の男性の間では今、ドイツ製のハイパフォーマンス・セダンが大人気である。 彼らは、AMGやBMW Mシリーズ、アウディのS・RSシリーズを大きな借金をしてでも買い、ベルリンの街を爆走する。 彼らにとってそうした高級セダンはステータスシンボルであり、成功者の証であり、将来の結婚相手を見つけるときの大きな武器であり、なにか困った事態が発生したときは即座に売ってお金に変える「保険」でもある。 彼らは結婚式の際にフェラーリやランボルギーニをレンタルして、編隊を組んで走行したりもする。 しかし、これはごく狭い文化圏の話だ。 ドイツに住む大多数の人間はこんな価値観を持ってはいないし、こうした価値観を時代遅れだと考えている。 ■「自分らしさ」を大事にしてクルマを選ぶ 「流行」は存在しない。 クルマ(そして自分)が気に入られるかどうかは相手に左右される。 それなら、デートに出かける時のクルマなんて、なんでもいいのだろうか? 個人的に感じるのは、仮に男性側がクルマを用意して女性とどこかに出かける、となったとき、男性側に求められるのは、明確な「なぜそのクルマを選んだのか」という理由と、そのクルマが好きだ、という気持ちだと思う。 それがはっきりしていればしているほど、お互いの理解が進むのは間違いない。 自分は小さくて軽いハッチバックが好きだ、運転していて楽しいし、維持費も安いし燃費もいい、駐車場を探すのにも困らないよ。 僕は古いクルマが好きだ、デザインが美しいと思うし、たしかに壊れやすいけれども、自分で直して面倒見ながら乗るのも楽しみのひとつだよ。 私は乗り心地が良くて静かなセダンが好きだ、友人を乗せても満足してもらえるし、なにより長距離を走っても疲れない。 俺は荷物も家族も友達も、なんでも飲み込むような大きなバンが好きだ、こいつにキャンプ道具をたくさん積み込んでみんなで出かけるんだ、最高だぞ! 自分の主張をはっきりさせたら、あとは相手の判断に委ねるしかない。 その結果、意中の相手とうまくいかなくても、必要以上に落ち込むことはしない。 自分自身に正直に、うそをつかないで生きていくことの方が重要であり、自分を偽って相手に媚びて一緒になっても幸せにはなれない、と多くの人々が考えているからだ。 ■あのクルマだけは唯一「デートカー」と呼べる?かもしれない 当時日本で流行したデートカーたちは、ドイツの中古車市場ではほぼ流通していない。 今では部品が入手困難だし、そもそもそれほど多くの数が輸入されていない。 これまで散々「デートカーという概念は存在しない」と書いてきたが、過去から現在まででほぼ唯一、ドイツの女性の目を見開かせるようなクルマがある。 ポルシェ911だ。ポルシェのことは誰でも知っているし、911のデザインは一目で「あのクルマ」だと認識してもらえる。 高価なクルマであることは一般的に認知されてはいるが、一方で実用性をも兼ね備えた、控えめなスポーツカーである。 ポイントは高い。 しかし一方で、これは踏み絵でもある。 あなたが911に乗って彼女を迎えにいった場合、非常に注意深く観察されることを覚悟しなければならない。 クルマに見合った年収を稼げているか、クルマばかりに熱中して家族をかえりみない人物ではないか、環境保護や政治についての明確な考え方は持っているか……。 ま、それはさておき・・・さあ、楽しいデートの始まりだ。 [ライター/守屋健]
先日、群馬県邑楽郡で開催された「OURA86 meets 2022」の模様を取材してきた。 現在、鋭意原稿をまとめているところだ。 当日の予報は雨。 しかも、台風14号が接近しているという、開催するかどうか難しい判断が迫られるイベントだったように思う。 イベントの案内には「雨天決行(荒天の場合は途中で中止)」とあったので、主催者は「基本的には開催しまっせ」という心づもりなんだろうなと思っていた。 事実、前日夜に公式Twitterにアップされた内容に目を通す限り「中止」するつもりは毛頭ないらしい。 文字どおり「雨天決行」になりそうだ。 果たしてイベント当日、開演の30分前、午前9時30分に会場に到着。 奇跡的に現地は曇り。 雨は降っていなかった。 千載一遇のチャンスとばかりに、大急ぎで参加車両を撮りまくった。 それは他のギャラリーや取材者の方たちも同じようで、夢中で展示されているハチロクを撮影していた。 つまり、みんなもうすぐ雨が降ってくることを想定していたわけだ。 最近はスマホを片手にじっくりと動画を撮影する人(おそらく自身のYouTubeチャンネルに公開するのだろう)が増えてきたので、うっかりすると自分が見切れてしまったり、お互いによそ見をしていてぶつかってしまうこともある。 気をつけなければ。 だがしかし・・・あるていど覚悟はしていたが、撮影開始から1時間も経たないうちに本降りの雨が降ってきた。 当日の靴はレインブーツ、カメラにレインカバーを被せ、自分自身もレインコートを着て撮影続行。 傘片手に撮影なんてできっこないのは分かっていたので、あらかじめ用意しておいて正解だった。 とはいえ、周囲を見回しても、こんな格好で撮影している人なんて1人もいない。 端から見れば、雨ガッパにカメラカバーの重装備で寝そべって撮影しているなんて自分くらいなものだ(笑)。 重度のハチロクマニアに思われるだろうが、そんなことはもはやどうでもいい。 大事なのは撮れ高だ。 こうして3〜4時間、ぶっ続けで撮影して一息入れたころには、レインコートやレインブーツも用をなさない。 カメラ以外、何もかもずぶ濡れだった。 まぁ、どうにか撮れ高を確保できたので良しとしよう。 受付の方に挨拶を済ませて帰路についた。 ひとつ気になったのは、手塩に掛けて面倒をみてきた愛車がずぶ濡れになってしまったことをオーナーさんがどう思っているか、なのだが・・・(それを承知でエントリーしてきたのだと思うが)。 前にもどこかで書いたかもしれないが、オーナーインタビュー当日、雨の予報だった場合は基本的に延期としている。 たとえ晴れていても、路面がウェットの状態で愛車を走らせるのを嫌うオーナーさんもいるので、相談のうえ、延期にする場合もある。 さらに古いクルマだと、冬場だと残雪があったりして、塩カルを嫌うオーナーさんもいるし、海沿いでの撮影を避けて欲しいという方もいる。 錆を気にしているからだ。 「えー!そこまで気にするのかよ!?」と思うかもしれないが、自分の感覚では珍しいことではない。 それくらい気にしてやっと取材がスムーズに進むイメージがある。 もちろん、なかには旧車だろうが、日本に1台しか存在しないような貴重なクルマのオーナーさんであろうが「雨や台風なんてそもそも気にしない」という人もいる。 クルマなんだから走ってナンボ、汚れても気にしないというわけだ。 クルマ本来の正しい使い方だし、その潔さに敬服する。 とはいえ、春先、梅雨時、そして秋雨と、年間をとおして雨が多い時期は意外と多い。 そうなると、取材延期になることもしばしば。 1、2回延期というのはザラにあるのだが、数年に1度、あるかないかの頻度ではあるけれど「何度も何度も雨天延期になる」ケースがある。 4回とか、5回とか・・・。 そうなると最初の予定日からようやく取材ができるまで数ヶ月後、ということになってしまう。 なかにはオーナーさんがしびれを切らして音信不通になってしまうこともある。 できるだけオーナーさんに嫌な想いをさせないよう努力しているつもりだが、どうにもならないこともあるわけで・・・。 雨で取材が延期になるたび(割と確率が高い気がする)、ドラえもん34巻に登場する「雨男晴れ男メーター」で具体的な数値を計測してもらって真実を明かしてほしいと思ってしまう。 ちなみに、各キャラクターの計測結果は(プラスが晴れ/マイナスが雨)・ドラえもん:プラス1.5・のび太:マイナス2.0・のび太のパパ:マイナス8.5・しずかちゃん:プラス9・スネ夫:マイナス7・ジャイアン:プラス10 ・・・とのことだ。 ジャイアンプラス10!!おそるべし!究極の晴れ男だ。 しずかちゃんもプラス9なのでかなりの晴れ女! ジャイアンだと面倒くさそうだから、毎回しずかちゃんに取材同行をお願いしようかなと思ったり。 余談: 旧車オーナーが雨を嫌う理由は錆以外にもある。 それはエアコンだ。 エアコンレスのクルマだと、雨の日は窓の内側が曇ってしまう。 雨に濡れるわ、窓ガラスは曇るわ、錆は進行するわ・・・のまさに「三重苦」。 信号待ちのたびにタオルで拭き取ることになるのだが、これがけっこうな「苦行」なのだ。 [ライター・撮影/松村透]
「ハコスカ」の名称で多くのモーターファンに認知されている3代目日産 スカイライン。実はこのスカイラインは、日産にとって節目となる記念すべきモデルでした。プリンスとの合併、レースでの連勝記録、GT-Rの称号の誕生などスカイライン、そして日産の方向性をも決定づけた3代目スカイライン「ハコスカ」の魅力に迫ります。 日産とプリンス合併後初のスカイライン 日産とプリンスの合併後初の新規モデルとして発売されたのが3代目スカイライン、通称ハコスカです。 スカイラインの方向性を決定づけた3代目 3代目スカイラインの登場は1968年。1966年に日産とプリンスが合併したあと、初の新規モデルとして発売されました。 ハコスカの愛称で親しまれた3代目スカイラインは、スカイラインの方向性や日産のスカイラインとしての地位を確立したモデル。とくに発売2ヶ月後に登場したGC10型はスカイライン人気を決定づけたモデルとなりました。 初期型となるC10型に搭載されたエンジンはプリンスが開発したG15型エンジン。一方のGC10型には日産の開発したL20型エンジンが搭載。プリンスのスカイラインから脱却し、日産のスカイラインという地位を確立したのが2000GTとして販売されたGC10型です。 GT-Rもハコスカから始まった 2000GTによって人気を集めたスカイラインはさらに意欲的に新型を投入します。GC10型スカイライン登場の翌年、PGC10型2000GT-Rが追加されました。 2000GT-Rのコンセプトカーは、2000GT発売と同月に開催された第15回東京モーターショーにスカイライン2000GTのレーシング仕様として出品されます。2000GTのエンブレムは赤く塗られ、エンジンには新型のS20型エンジンが採用されました。 レーシング仕様として登場した2000GT-Rは実際にレースシーンを席巻。ツーリングカー50連勝という日本のレース史上不滅の金字塔を打ち立てたのです。 2000GT-R以降、「GT-R」の名はスカイライン最高の走行性能を誇るグレードに冠されるようになります。ちなみに、GT-Rといえば2ドアクーペのイメージですが2000GT-R登場当初は4ドアセダンのみの設定でした。 愛称がつけられたのもハコスカが最初 ハコスカは性能やモデル展開だけではなく、あらゆる面でその後のスカイラインの方向性を決定づけたモデルです。その1つがスカイラインシリーズに名付けられた愛称。スカイラインは「ハコスカ」をはじめ「ケンメリ」「鉄仮面」などさまざまな愛称がつけられています。 初めて愛称がつけられたのが3代目スカイライン「ハコスカ」でした。特徴的な角張ったボディから「箱型のスカイライン」と評されたことが語源です。また、「愛のスカイライン」というCMキャッチコピーから「愛スカ」とも呼ばれました。 4年間で意欲的に新型式を投入した3代目スカイライン 3代目スカイラインに対して、日産がいかに力を入れていたのか。その意気込みが良く分かるポイントは、投入されたモデルの多さです。初期型となるC10型を皮切りに4年間の販売期間で、メインラインだけでも実に4つの型式のモデルが投入されました。 バリエーションの多かったC10型 合併後初の新モデルとなったC10型は、まだプリンスの影響が色濃く残っています。その象徴がエンジンで、プリンス製のG15型1500cc直列4気筒OHCエンジンを搭載していました。 また、展開バリエーションが多かったのもC10型の特徴。ベースとなる4ドアセダン(C10型)をはじめ、エステートのWC10型、バンのVC10型がラインナップされていました。 グレードは「スタンダード」と「デラックス」の2種だったものの、デラックスは「ファミリーデラックス」「ツーリングデラックス」「スポーティデラックス」の3種を展開。さらに、女性仕様の「Lパック」というメーカーオプションまで用意します。当時としてはバリエーションの幅が広く人気を集めました。 日産スカイラインの元祖となったGC10型 C10型発売の2ヶ月後に投入されたGC10型最大の特徴が、日産製エンジンへの変更です。 120psを発生する2,000cc直列6気筒OHCのL20型エンジンが搭載され、大幅に走行性能を向上。エンジンの大型化に伴ってフロントノーズも延伸され、ロングノーズ仕様になります。実は3代目スカイラインはもともと6気筒エンジン搭載を配慮して開発されていたため、ロングノーズ仕様になったことで車全体のバランスが整いました。 モデル名には2000GTの名が冠され、ロングノーズのスタイリングは翌年発売されるGT-Rにもつながります。 記念すべき初代GT-RとなったPGC10型 2000GTのレーシング仕様という位置付けで1969年に発表されたのが、GT-Rの称号が初めて使用されたPGC10型。2000GT-Rと名付けられたPGC10型スカイラインこそが、現在まで続く「GT-R」の初代です。 2000GT-Rはレース車両としての走行性能を追求して開発され、最高出力160psを発生する新開発の2,000cc直列6気筒DOHCエンジンS20型を搭載。サスペンションやステアリングギア比に加えてリアフェンダーの形状までもが変更されたうえ、レースに不要なヒーターやラジオはオプション扱いとされました。 現在まで続くGT-Rの形になったKPGC10型 GT-Rの称号を初めて冠されたのは4ドアセダンのPGC10型スカイラインですが、2ドアクーペという現在まで続くGT-Rの形となったのはKPGC10型です。 登場当初は圧倒的な速さを誇っていた4ドアセダンの2000GT-Rですが、次第にロータリーエンジンを搭載するマツダ車の猛追が始まります。 そこで投入されたのが2ドアクーペのKPGC10型です。KPGC10型スカイラインは従来のPGC10型のホイールベースを短くすることでコーナリング性能を大幅に引き上げ、ライバルの猛追を振り切りました。 また、KPGC10型は。デザイン面で大幅に変更が加えられています。ダッシュパネルなどインテリアに大幅な変更が加えられたことに加えて、フロントグリルや前後バンパーとテールランプなどの外観も随所にデザイン変更が施されました。 まとめ 現在でも日産のスポーツモデルとして続くスカイラインの歴史は、3代目スカイライン「ハコスカ」から始まったと言っても過言ではありません。 また、最高の走行性能を誇るグレードに使用されたGT-Rの称号も3代目スカイラインが元祖。現在では「GT-R」という車名で独立した車種となるほど、3代目スカイラインから使用が始まったGT-Rの名称は日産だけじゃなく日本を代表する大名跡です。 ハコスカは発売からすでに50年以上が経過しました。しかし、すべての起源となったハコスカはスカイラインファンのみならず、多くのモーターファンから今も高い人気を集める車種です。 市場での人気もまさに異次元。高いものでは、1970年式の2000GT-Rが3,000万円以上で販売されていました。さらに旧車王での買取価格は1969年式のPGC10型スカイラインで1,350万円のものもあり、上限1,500万円という高値で取引されています。※価格はいずれも2022年3月現在 [ライター/増田真吾]