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「鉄仮面」の愛称で今もファンから根強い支持を集めるR30型スカイライン。日産の誇る高い技術力を投入して進化をし続けた結果登場したのが、R30後期型となる「鉄仮面」でした。特徴的なグリルレスデザインに、インタークーラーを備えた高出力ターボエンジンを搭載したR30型スカイライン「鉄仮面」の魅力をご紹介します。 排ガス規制など厳しい時代背景に一発回答したR30型スカイライン 6代目スカイラインとなるR30型スカイラインは、先代スカイラインが埋められなかった動力性能と環境性能のギャップを見事に埋めたモデルです。1970年代後半に一気に高まった環境意識は、高度経済成長を追い風に各メーカーが性能の向上を競っていたなかで突如押し寄せた逆風でした。 スーパーカーブームの名残からユーザーが求めるスカイラインに対する期待と、時代が求める環境性能を両立させたR30型スカイラインを振り返ります。 GT-Rの設定はなかったR30型スカイライン R30型スカイラインが発売された1981年は、石油危機や円相場の急騰などネガティブな要素がいくつも重なったことで高度経済成長期後の日本に暗い影を落とした時代。さらに、大気汚染が問題となり、排ガス規制が一層厳しくなっていきます。 先代となるC210型では、排ガス規制に対応したハイパフォーマンスモデルを作れなかったこともあり、GT-Rの設定はなし。R30型もその流れを引き継き、GT-Rの設定はありませんでした。 ユーザーの期待を裏切らない技術の日産 GT-Rの設定はありませんでしたが、R30型は登場直後に新開発のハイパワーエンジンが投入されます。 直列4気筒DOHCで4バルブを備えたFJ20E型エンジンは、排ガス規制をクリアしつつ150psを発生。GT-R伝統の6気筒ではなかったものの、スカイラインに対するユーザーの期待に日産が技術で応えた形です。 「2000RS」と名付けられたFJ20E 型モデルはその後も進化を続け、1983年にターボモデルの「2000ターボRS」を追加。さらに大幅なマイナーチェンジを経た後期モデルでは、空冷インタクーラーターボを搭載した「2000ターボインタークーラーRS/RS-X」が登場します。 後期モデルのみを「鉄仮面」と呼ぶ スカイラインにつけられる愛称は基本的に1世代につき1つの愛称(愛称自体が複数ある場合もある)ですが、R30型スカイラインは前後期で異なる愛称で呼ばれています。 前期型はCMに俳優のポール・ニューマンが起用されていたことから「ニューマンスカイライン」。そして、後期型は特徴的な外見から「鉄仮面」と呼ばれています。 先鋭的なデザインに加えて国産車で初めて壁を破った「鉄仮面」 登場後も惜しみなく技術を投入し進化をさせ続けたR30型スカイライン。実際に1983年に実施されたマイナーチェンジ前後では、見た目も性能も大きく異なります。 「鉄仮面」という愛称で呼ばれたマイナーチェンジ後のR30型スカイラインは、日産の技術力と意地を感じるモデルです。 グリルレスという先鋭的なデザイン R30型スカイライン後期型最大の特徴はフロント部分のデザイン変更です。ラジエーターグリルレスに薄型のヘッドライト、大型の前後バンパーと前期型から大幅に意匠を変更。とくにスカイライン伝統のフロントグリルを廃した先鋭的なデザインは「鉄仮面」の愛称の由来になりました。 グリルレスに加えて薄型のヘッドライトという当時としては斬新なデザインは、のちのR32型スカイラインにもつながるデザインです。 また、ランバーサポート・パワーステアリング・パワーウインド・カセットコンポを装備した豪華仕様の「2000ターボRS-X」も追加投入。当時の最新かつ豪華な装備を搭載しているあたり、いかに日産がスカイラインという車種を大事にしていたかが分かります。 リッターあたり100psの壁を国産車で初めて破った スカイラインに求める高い動力性能を実現したFJ20E型エンジンは、前期型の販売終了間際にはターボを搭載してFJ20ET型に進化。最高出力は190psまで高められ、「史上最強のスカイライン」と呼ばれました。 そして、後期型登場から半年後には、空冷インタークーラーを装備し205ps到達。2Lエンジンで200ps以上を発生し、ついに国産で初めて1Lあたり100psの壁を打ち破ったのです。 6気筒エンジンでなかったため、「GT-R」の称号は与えられませんでした。しかし、後期型の「2000ターボインタークーラーRS/RS-X」は、ユーザーがスカイラインに求める性能を十分に満足させるモデルでした。 まとめ 1リッターあたり100psを達成したR30型スカイライン後期となる「鉄仮面」は、性能の高さとデザインから現在でも人気車種です。 大手中古車情報サイトを見ると、400万円台後半から500万円台後半の車が複数あります。(2022年4月原稿執筆時) 旧車王での買取価格も「2000ターボRS」で350万円を上限とした買取価格がつくなど、高値で取り引きされていて、不動車でも80万円もの価格がつく事例もあります。 発売から既に40年以上が経過、市場に出回る台数も年々減少していくことは確実です。現在所有している方も、今後あわよくば購入したいと思っている方も、今後さらに高騰する可能性もあるため、鉄仮面の市場価格から目が離せません。 ※価格は2022年4月現在
イギリス生まれの小型大衆車「ミニ」には、さまざまな名称があります。「ローバー ミニ」は、比較的多くの方が認識している呼び名の1つです。しかし、ミニ自体は40年に渡って作り続けられたため、ローバー ミニがどのモデルを指すのか理解があいまいになっている人も少なくありません。 そこで、ローバー ミニとはどのモデルなのか、ミニの歴史を振り返りながら解説します。 オリジナルモデルの最後を飾ったローバー ミニ ローバー ミニは、長年製造されたミニの最後の10年間に販売されていたモデルです。ローバー社が開発したクルマではないものの、オリジナルの個性をしっかりと受け継いでいたために「ローバー ミニ」として広く定着したのでしょう。 まずは、登場からローバー社への引き継ぎまでのミニの歴史を紹介します。 ミニはBMC社が生み出した空前のロングセラーモデル そもそもミニは、イギリスの老舗自動車メーカーBMC(ブリティッシュモーターカンパニー)より1959年に発売された小型大衆車です。その後、ローバー ミニの最終モデルが発売される1999年まで、実に40年間も基本的には同一モデルとして生産され続けました。 販売当初の名前は、「オースチン セブン」と「モーリス ミニマイナー」です。販売網の違いから2つの名称がありましたが、「ミニ」の名称に統一が図られてそれぞれ「オースチン ミニ」「モーリス ミニ」になりました。 ローバー社がミニを引き継ぐ 正確な経緯については確かな情報がありませんが、当時のBLMC社(旧BMC社)からローバー社が分離する際にミニを引き継いだといわれています。そして、1989年にローバー ミニとして販売を開始。 そして、1999年に最終モデルである40周年記念モデルを投入するまで、ローバー ミニとして販売され続けます。つまり、モデル最後の10年間を支え、ミニ40年の歴史を締めくくったのがローバー社(正確には1994年からBMW社傘下)だったのです。 精力的なモデル展開をしたローバー社 1959年に販売開始された当初から、ミニの基本的なデザインは変わっていません。しかし、新技術の開発や時代背景に合わせて、細かなモデルチェンジは行われています。 他社から引き継いだブランドではあったものの、ローバー社は1970年代から低迷していたミニの人気を復活させるべく、積極的な開発を行いました。日本人の声も影響した、ローバー ミニのモデルを紹介します。 日本人の声で名車ミニクーパーが復活 ローバーがミニを引き継いだ際、ラインナップのなかにクーパーはありませんでした。しかし、日本市場からの復活を求める熱烈な声がローバー社に届き、1991年にミニ クーパー1.3として再びラインナップに加わりました。 ミニの長い歴史のなかで、性能の高さを世界にアピールしたモデルが「クーパー」です。クーパーカンパニーというレーシングモデルを手掛ける企業が、オリジナルのミニを改良し、レースカーのベース車輌として、「クーパー」を販売していました。 なお、ローバー社がラインナップに復活させたミニ クーパー1.3のうち、発売年の1991年モデルのみがミニ クーパー唯一のキャブレーター仕様です。1992年以降は、全車インジェクション化されました。 ローバー ミニには多様なモデルが存在 ローバー社が最初に販売したモデルは、1989年に登場したミニ1000と呼ばれるE-99Xです。スペックの面では1.3Lのクーパーに劣るものの、軽快な走りで根強い人気を集めています。 さらに、1991年にはターボを搭載したERAターボというモデルも投入。1.3LエンジンにSUキャブレター+とギャレット製ターボを搭載し、最高出力はクーパー1.3よりも34psも高い95psにまで引き上げられました。 数多く流通しているのは1997年以降の最終モデル 日本国内で巻き起こったミニブーム、1997年の消費税引き上げによる駆け込み需要、さらに自社の残価設定型クレジットの導入によって、ローバー ミニは売上台数を伸ばしました。 その影響は根強く、最終モデルが販売終了して20年以上経過した現在でも、中古車市場に多くのローバー ミニが流通しています。特に流通台数が多いのは、1997年発売の最終モデルです。エアバックの追加やシート形状の変更、メッキメーターベゼルの採用など現代的な装備で人気を博しています。 しかし、比較的入手しやすいとはいえ、ローバー ミニやミニ1000は今から30年以上前に販売されていたモデルです。 売買する際には、古いクルマの価値を正しく理解している業者を介して取引することをおすすめします。特に売却時には、その真価を見極めるスキル・経験をもつ旧車専門の業者に査定を依頼しましょう。
日産のみならず日本が世界に誇るスポーツカー“スカイラインGT-R”。その歴史の最後を締めくくることになったモデルが、R34型スカイラインGT-Rです。今回はそんな伝説的な存在でもあるR34型スカイラインGT-Rを振り返りつつ、最低1000万円以上と言われる脅威の中古車相場の秘密について解説していきます。 歴代最後の「スカイラインGT-R」R34 GT-R 通算10代目となるスカイライン(R34)が登場した1998年5月から8か月遅れとなる1999年1月、R34スカイラインGT-Rは誕生します。2007年に新たなGT-Rが誕生しますが、このR34型がスカイラインの名を持つ最後のGT-Rです。 ややグランツーリスモよりの大柄だった先代R33型から一転、全長75mm、ホイールベースで55mmサイズダウン。前後重量配分が改善したこともあり、コーナリング性能の向上が図られています。 最高出力280馬力、最大トルク40.0kg・mを発生するRB26DETTエンジンや、電子制御4駆のアテーサE-TSを継承しつつ、シリーズ初となるゲドラグ社と共同開発した6速MTを搭載。さらに、R34スカイラインGT-Rを語る上で忘れてはいけないのが、上級グレードであるVスペックに装備されていたアドバンスドエアロボディです。レーシングカーに採用されるような大型ディフューザーを前後に装備し、ボディ下面の空気の流速を高めることでダウンフォースを発生。当時の国産市販車としては、究極の空力パーツを装着していました。 ノーマルグレード以外に、走りを重視したVスペック系のほか、乗り心地を重視したMスペック。そのほか、N1耐久レース参戦用ベースモデルであるN1や限定モデルのNür(ニュル)などが存在します。 R34 GT-Rの中古車価格は新車価格3倍~4倍! タイトルにもあるとおり、R34スカイラインGT-Rの中古車相場は、異常と言っても過言ではない状態が続いています。原稿執筆時(2020年10月)の、大手中古車検索サイトに掲載された価格情報は、最安モデルで車両本体価格980万円!状態は走行距離約10万kmで修復歴ありのノーマルグレード、さらにメーター交換歴あり(走行不明ではない)という、通常ではほとんど商品価値がない状態です。しかし、これほどの価格が付いているというのは、ただただ驚かされます。 需要が需要を呼ぶ特殊な中古車価格 R32スカイラインGT-Rの中古車相場が高騰している理由の一つが、“アメリカの25年ルール”が大きく関係しているといわれています。ですが、1999年から2002年まで販売されていたR34スカイラインGT-Rまだ関係のない話です。ではなぜ高騰しているのかと言えば、「需要が需要を呼んでいる」ということが考えられます。 先述したアメリカの25年ルールによって、80年代後半から90年代前半に販売された国産スポーツカーの価格は急騰しました。その記憶があるからこそ、R34スカイラインGT-Rの初期モデルが25年を迎える2024年以降、間違いなく高騰することは誰にでもわかります。つまり「必ず高くなるから買うなら今のうちに買っとけ!」という心理が働いた結果需要が増え、数年前よりR34スカイラインGT-Rの価格、毎年のように相場は上昇し続けているのです。 R34 GT-Rの中古車を買うなら相応の覚悟を! そんな今やスーパーカー並みの価格帯になっているR34スカイラインGT-Rですが、それでも欲しい!というのであれば、一般的な中古車とは違う相応の覚悟が必要でしょう。 どういうことかと言えば、車の性格上、どうしても走りを楽しんでいた個体が多く、修復歴車の比率も決して低いとは言えません。そのため、必然的に修復歴のない個体の価値は上昇することということにもつながります。 ということは、価格が比較的安い修復歴ありの車両(といっても1000万円)を買うか、修復歴のない高価な車両を狙うしかなく、どちらを選んだにしても、欧州のスーパーカーを購入するような覚悟が必要なのです。 もはや財産!国産中古車では異例のリセールバリュー ここまで読んでいただいた奇特な方であればお分かりのように、R34スカイラインGT-Rのリセールバリューは、一般的な尺度が全く通用しません。当時もっともベーシックなグレードの新車価格は約550万円で、上記でご紹介した修復歴ありの個体の価格は980万円。修復歴なしの2001年式 VスペックIIの無改造車の中古車価格はなんと2500万円で、新車価格632万円のおよそ4倍です。 限定モデルでもない国産車で、これほど価格が高騰している車種はR34スカイラインGT-R以外にありません。これから一大決心をして購入を考えている方は、販売価格はもちろんのこと、品質管理をしっかり行える中古車販売店から購入しましょう。 そして、これからR34スカイラインGT-Rの売却を考えているなら、タイミングによって大きく売却価格が変化する可能性があります。売り時を見極めつつ、しっかりと相場と価値を見極められる旧車専門店に相談しましょう。 [ライター/増田真吾]
オープン2シーターにスポーティなボディデザイン、現代でも通用しそうなスタイリングが魅力のホンダ S360。ホンダが世の中に初めて発表した4輪乗用車です。S360は残念ながら市販には至らなかったものの、Sシリーズはホンダスポーツモデルの象徴として絶大な人気を誇りつつ進化。意欲的に開発され、毎年のようにモデルチェンジが繰り返されました。 S360から市販モデルS500を経て、S800に至るSシリーズのすべてを紹介します。今なお色褪せないホンダ・スピリットの詰まったSシリーズを一緒に振り返ってみましょう。 世界一を目指したホンダ初の4輪乗用車Sシリーズ 2輪での成功を受けて、ホンダはかねてからの目標だった4輪自動車の開発に乗り出します。しかし、初の4輪開発にもかかわらず命題は「世界一」。期待の高まりから開発を急ぐ技術陣に、本田宗一郎氏は「早く出すよりも、世界一のモノにすることに重点を置かなければなりません」と語り、最初から最高のクルマ作りをすることを目指しました。 世界一を目指して作られた、ホンダ4輪の起源「ホンダ スポーツ360」(以下S360)と続くSシリーズの開発について紹介します。 商用車全盛の時代にスポーツカー開発に着手 S360が発表された1962年当時の日本の自動車事情は、商用車が中心的存在でした。しかし、本田宗一郎氏はレースでの活躍も見越して、スポーツカーの開発から着手します。「乗ることが愉快であって、誇りでなければ自動車の価値はない」と、現在にも通じる理念のもとS360は開発されました。 実際には、専務だった藤澤氏の市場を見据えた進言によって、軽トラックT360も同時開発されたものの、初めての4輪開発でいきなりスポーツカーにチャレンジするあたりに、ホンダ・スピリットを感じます。(市販されたのはT360が先) S360が市販されなかった理由 1962年6月、建設途中の鈴鹿サーキットでS360は華々しくお披露目されます。その後、第9回全日本自動車ショー(現東京モーターショー)でも、T360と同時に展示されました。しかし、T360がホンダ初の4輪車として発売された一方、S360は市販には至りませんでした。 理由は諸説ありますが、開発車両バリエーションを軽自動車だけではなく普通車にも広げたかった説が有力です。最終的には廃案になりましたが、1961年に当時の通商産業省が発表した「特定産業振興臨時措置法案」によって、国内自動車メーカーの統廃合が進められる懸念が生じました。軽自動車のみの生産実績では、今後の開発に制限がかかるおそれがあったためです。 また、本田宗一郎氏はすでに世界を見ていて、世界に通用するボディサイズで作ろうと急遽変更されたといった逸話も残っています。いずれにせよ、本田宗一郎氏が迷いなく作り上げたクルマがこの世に送り出されなかったことは、今となっては残念でなりません。 毎年のようにリリースされた歴代Sシリーズ列伝 Sシリーズは他社にはない、特徴的な機構を採用しています。また、ホンダらしい高回転型エンジンは今でもその輝きを失っていません。ここでは歴代Sシリーズのユニークな装備と魅力的なエンジンを紹介します。 超高回転型の4気筒DOHCエンジンを搭載した幻のS360 S360の排気量はわずか354ccながら、4気筒DOHC機構を採用した本格的なスポーツエンジンを搭載していました。最高出力の33psを9,000回転で発生する超高回転型エンジンで、2輪車開発で培ってきたノウハウが活かされています。 また、S360の残した功績は性能面だけではありません。本田宗一郎氏が乗り込んで颯爽と登場したボディカラーの「赤」も、実は時代を切り開いた結果でした。当時日本では、緊急車両との混同の問題から「赤」の使用が法律で規制されていました。しかし、本田宗一郎氏が世論に訴え、担当者が運輸省と度重なる交渉を重ねた結果、ついに赤色の使用を勝ち取ります。 世界を見据えたS500を市場投入 S360発表のわずか1年後の1963年に、ボディとエンジンを拡大したS500をついに発売します。先に販売されていたT360はあくまでも商用車という位置付けのため、S500がホンダ乗用車の幕開けでした。 エンジンは、S360のコンセプトを忠実に踏襲。531cc直列4気筒DOHCエンジンは、最高出力44PS/8,000rpm、リッター当たり約83PSを誇りました。量産車としては当時珍しかったDOHC機構、さらには小排気量ながら4気筒を採用した本格スポーツエンジンは自動車業界を驚かせます。 わずか1年後に正統進化のS600を発売 ホンダ初の乗用車S500の発売からわずか1年後の1964年、後継のS600が発売されます。エンジンは606ccへ排気量アップされ、最高出力は57PS/8,500rpmまで引き上げられました。リッターあたりの出力は94psで、ハイパフォーマンスカーの目安のリッターあたり100psに迫る数値を叩き出しています。 最高速度は約145km/hで、倍以上の排気量を持つ他車種と肩を並べるまでに到達しました。S600は本田宗一郎氏が目指したレースの世界でも、高い実績を残します。発売から2ヶ月後に開催された第2回日本グランプリ GT-1クラスでいきなり優勝。さらに同年、ドイツのニュルブルクリンク500km耐久レースに挑み、1,200cc以下クラスで優勝を飾りました。 モナコ公妃も愛したS800 1966年には、さらに791ccまで排気量アップしたS800がデビュー。この頃には、Sシリーズの半数はヨーロッパやアメリカなどの海外へ輸出されていました。著名人でもS800を選ぶ人が出てきて、特に有名なのはモナコのグレース・ケリー公妃です。アメリカの女優出身でモナコの公妃へ華麗なる転身を遂げた彼女は、アイボリーカラーのS800をこよなく愛したとされています。 本田宗一郎氏が当初目指した「世界に通用するクルマ」を、コンセプトモデル発表からわずか4年で成し遂げました。 50年以上が経過するSシリーズ 「世界のホンダ」「ホンダ・スピリット」を体現したSシリーズ。初の乗用車開発でこれだけ魅力的なクルマを生み出したメーカーは、世界的にみてもあまり例がありません。Sシリーズの基本コンセプトは、現代のS2000やS660にも受け継がれています。 ただし、Sシリーズを中古車で取引する際には注意が必要です。最終型のS800の発売からでも50年以上が経過しているため、車両の状態が万全とは限りません。一方で、残存台数の減少から希少価値は高まる傾向にあるため、売却する際は正しく価値を評価してくれる専門業者への相談をおすすめします。
2021年8月1日に新型の発売が決定したトヨタ ランドクルーザー。そんな中、アメリカのオークションにて出品された1994年製造のランドクルーザー(通称80系)が、日本円で約1500万円もの価格で落札されたというニュースがありました。 今回はそんな旧世代モデルながら、今でもなお根強い人気を誇るランクル80系の魅力、中古市場の相場についても紹介していきます。 悪路走破性能を残しつつ乗り心地を改善させた80系 1980年代当時、レジャー用としてますます高まっていく自動車需要もあり、1989年10月に販売開始されたランドクルーザー80系は、オンロードも快適に走れるコンセプトのもと、発売されました。 前身モデルの60系などとは違い、サスペンションも従来までの板バネ式からコイルスプリングを採用。オフロードでの性能は残しつつ、快適性を重視したランドクルーザーとして新たな境地を開拓したモデルといえます。 全長4,970mm×全幅1,930mm×全高1,860mmという大柄なボディには、4.5リッターの自然吸気ガソリンエンジンに加え、4.2リッターディーゼルエンジンの自然吸気とターボモデルをラインナップ。外観的にも曲線を多く取り入れ、都会的な要素を持った新世代SUVの風格を感じさせるものとなっています。 約1,500万円のプライスがついたランクル80系とは? そんなランドクルーザー80系は、2021年6月に行われたアメリカのオークション「BRING A TRAIJER」に出品され、141,000ドル(日本円で約1500万円)という高値で落札されました。 1994年式のその個体は製造から25年以上経っているにも関わらず、走行距離はわずか1005マイル(約1600km)という低走行車であり、外観内観どちらも劣化やキズなどは一切ないという極上車。ダークエメラルドパールのボディに4.5リッターDOHCガソリンエンジンを搭載しており、トランスミッションは4速AT、外観や機関部にはカスタムやチューニングなどは一切されていません。 エンジンの始動はもちろん、走行もまったく問題なく、ランクル80系の人気の高さにくわえ、この個体のコンディションの良さを組み合わせた1500万円という価格は、ランクルファンにとって納得のプライスと言えるかもしれません。 ランクルが古くなっても値崩れしない理由 上の事例のように、ランドクルーザーは製造から年数が経過していても、中古市場では高値で取引される傾向があります。それはオフロード性能が高く、車体も非常に丈夫であるために、世界中から需要があることが最たる理由です。 未舗装路の多い海外では丈夫なオフロード車の人気が高く、特にランドクルーザーが持つ悪路走破性能と信頼性の高さは、世界中から認められています。 日本車であることのメリットも 日本国内では舗装路を走ることが多いため、国内仕様のランクル80系は海外で使用されている個体に比べ故障や劣化が少ないという特徴があります。そのため、たとえ走行距離が10万kmを超えていたとしても、海外ユーザーにとって日本仕様のランドクルーザーは、大枚をはたいてでも手に入れたい車なのです。 特に80系からのモデルは、足回りなどの刷新で居住性が飛躍的に向上し、中古市場が特に値落ちしづらく、現在でも輸出が頻繁に行われています。 中古車相場と旧車王での買取価格は? 大手中古車サイトのランドクルーザーの相場を見てみると、80系の価格帯は約80~600万円(※執筆時点)と、個体によっては新車価格を上回るものも見受けられます。 最高額の600万円の個体は15000kmの低走行かつ、リフトアップというランドクルーザーならではのカスタムがされており、国内でも人気の仕様です。 一方、旧車王での買取価格はVXリミテッドグレード(ガソリン、ディーゼルターボ)が10~160万円、丸目&角目4灯フェイスモデル(ガソリン、ディーゼルターボ)が80~160万円。丸目&角目4灯フェイスというのは、80系の前身にあたる60系を意識した丸目ヘッドライトを装着した仕様で、レトロ感あふれる顔つきが人気のカスタムとなっています。 ヘビーデューティなクロカンから高級SUVへ 最大の強みである悪路走破性を残しつつ、走行安定性や車内での快適性を高めたランドクルーザー80系。その80系の革新的なクオリティに発売当時は「四駆のクラウン」と賞賛されました。ランドクルーザー80系の高級セダン顔負けの品質とクオリティは、のちの後継モデルに続く高級SUVの礎となったのです。 持ち前の頑丈さとともに、それまでの働くクルマとしてのイメージを塗り替えた80系は海外でも絶賛され、走行距離が30万kmを超えても当然のように各国で走り続けています。 そう考えると、今回落札された80系のような新車ともいえる極上品に1500万円という価格がつくのはそれほどおかしいことではなく、きちんとしたランドクルーザー特有の費用対効果を保証してくれるものだと思います。 ランドクルーザーを買い続けて20年以上納得の高価買取ならランド王https://www.qsha-oh.com/landcruiser/ [ライター/増田真吾]
ドイツツーリングカー選手権(以下DTM)で連覇を成し遂げるなど、レース界で輝かしい戦績を残したメルセデス・ベンツ 190E 2.5-16 エボリューションⅡ。500台限定の生産台数で、日本国内にはわずか50台しかないともいわれる希少車です。 インパクトのある見た目と名門コスワースによるチューニングエンジンによる高い性能から、憧れる人が後を絶たない190E 2.5-16 エボリューションⅡの歴史と魅力を振り返ってみましょう。 DTMを席巻した190E 2.5-16 エボリューションⅡ メルセデス・ベンツ 190E 2.5-16 エボリューションIIは、1990年のDTM投入翌年の1991年には、ドライバーズランキングこそ2位だったもののマニュファクチャラーズタイトルを早くも獲得します。さらに、翌年にはマニュファクチャラーズタイトル連覇と念願のドライバーズタイトルも手中に収め、圧倒的な強さを見せつけました。 日本国内でも多くの人に愛されたベース車輌の190Eについて解説するとともに、メルセデス・ベンツのレースにかける思いを詳しく紹介します。 ベース車輌は赤坂サニー ベース車輌の190Eは、特別希少価値の高いクルマではありませんでした。メルセデス最小という位置づけの、どちらかというと大衆向けの車種です。バブル景気を背景に高級車が売れた当時の日本では、「六本木のカローラ」と呼ばれたBMW E30と並んでメルセデス 190Eは「小ベンツ」「赤坂のサニー」と呼ばれるほどよく目にするクルマでした。 一方で、車としての質感はさすがメルセデス・ベンツといった仕上がりで、燃費や油量に加えて時計まで一望できる3連メーターやゲート式シフトレバーなどは上級車種と共通のスタイルを採用。シートをはじめとする内装にも、メルセデス・ベンツ特有の高級感のあるデザインが施されていました。 勝つためだけに製造された限定500台 190E 2.5-16 エボリューションⅡは、わずか500台しか生産されませんでした。当時のDTMに参戦するためのホモロゲーションを取得するために、市販車としての最低生産台数が500台だったためです。つまり、190E 2.5-16 エボリューションⅡは、モデルとしての商業的成功ではなくレースで勝つためだけに販売されました。 また、190E 2.5-16V エボリューションⅡが作られる前に、同じく2.5L 直列4気筒16バルブエンジンをベースに190E 2.5-16 エボリューション(通称:190E 2.5-16 Evo. I)が1989年に製造されていました。エンジンはチューニングされていたものの、外観的にはタイヤを太くしたことに伴うオーバーフェンダーの装着程度でベース車輌とあまり変わらず、レースでも苦戦を強いられます。 そこで翌年の1990年に投入されたのが、エンジンだけでなく外観にも大幅に手を入れた190E 2.5-16 エボリューションⅡです。500台の限定生産を2年続けてクリアしたあたりに、メルセデスがレースにかける思いがいかに強かったのかが伺い知れます。 空力性能を追い求めた迫力の外観 190E 2.5-16 エボリューションⅡの外観で真っ先に目につくのは、大型のリアウィングです。しかも、見た目だけの装備ではありません。重量増を抑えるためにアルミ合金製となっていて、しっかりとダウンフォースを稼ぎます。 また、大きく張り出したオーバーフェンダーやフロントリップスポイラー、サイドスポイラーと迫力のエアロパーツが特徴的です。この時代のベンツらしく角目で直線基調のボディラインということもあって、圧倒的な存在感と迫力を感じます。 突き詰められたチューニングエンジン 190E 2.5-16 エボリューションⅡのエンジンは、イギリスの名門エンジンメーカーコスワースの手によってとことんチューニングされています。カムシャフトやバルブ、ピストンといった各部には専用部品が用意され、クランクシャフトの重量にまでこだわって設計されました。 軽量な190Eには十分過ぎる235psを販売モデルで発揮。さらに、レース用エンジンでは375psまで高められていたようです。 手抜きのないインテリア レース参戦のホモローゲーション取得のために製造された190E 2.5-16 エボリューションⅡですが、内装面でもまったく手抜きはありません。上質で落ち着いたメルセデスらしい質感とともに、各種装備も充実していました。パワーウィンドウやエアコン、エアバッグ等を備え、4人乗りセダンとして普段使いできる仕様に仕上げられています。 整然と並んだメーターパネルや重厚なドアパネルによって、レースカーとは思えないほどの高級感が与えられています。 3,000万円を超える価格が証明する価値 190E 2.5-16 エボリューションⅡは、ほとんど市場に出回ることはありません。しかし、店頭に並ぶとほぼ確実に3,000万円を超える価格がつけられます。すでに30年以上前のモデルにはなりますが、メルセデス・ベンツがこだわって開発したことと希少性から、その評価は今後も衰えることはないでしょう。 一方で、希少性の高い車の価値を正しく見極めるのは大変困難です。ほとんど流通してない車だと、査定の参考になる価格もありません。歴史的な意味合いも含めて、クルマのもつ本当の価値を理解した価格をつけられるのは旧車王のように専門的に取り扱っている業者だけです。
レトロデザインなのに、なぜか新しいかわいらしさを感じる日産 パオ。日産が世界に先駆けて開発に取り組んだパイクカーシリーズの、第2弾としてリリースされました。懐かしい三角窓や独立設置されたバンパーなど、とことんこだわったデザイン性の高さは今も色あせることがありません。 発売から30年以上が経過しても人気の高いパオの魅力をたっぷりと紹介します。 パイクカーシリーズの人気を不動のものにしたパオ パイクカーシリーズ第2弾のパオは第1弾Be-1をわずか2週間で上回る注文を受け、シリーズの人気を不動のものにしました。Be-1に端を発した日産のパイクカーシリーズ。常に最新・最先端を求める車業界の流れに逆行する、レトロ感あふれるデザインが高い人気を得ました。 まずはパイクカーの定義と、パオの発売経緯を振り返ってみましょう。 日産が世界の先駆者だったパイクカー 「パイク」とは「尖った」という意味の英語です。他にない特徴的なスタイリングの、文字通り「尖った」車をパイクカーと呼びます。パイクカー本来の意味では、三岡自動車のオロチのように先鋭的なスタイリングのクルマも含まれますが、全体としてはレトロ調のノスタルジックなデザインの車種が比較的多いです。 日産がパイクカーの開発に乗り出したのは、技術力の向上とともに激化していた性能競争の最中の1980年代です。各社がしのぎを削って、エンジン出力の向上や内外装含め現代的なアプローチの新型車を開発するなか、他社と一線を画すレトロチックなデザインを施したパイクカー第1弾のBe-1を発売。大ヒットを記録し、国内のみならず海外にも衝撃を与えました。 1990年代にビートルやミニといった名車が相次いでリバイバルされましたが、その源流は日産 Be-1の成功ともいわれています。 Be-1に間をあけず発表されたパオ 1987年の東京モーターショーで、第2弾パイクカーとしてパオが発表されました。この年は日産がパイクカーシリーズの第1弾として発表したBe-1の発売年。Be-1の発売中にも関わらず発表するほど、パオに力をいれていたことがわかります。ベース車輌はBe-1と同じK10型マーチでしたが、よりレトロ方向に踏み込んだスタイリングでした。 パオが発売されたのは、東京モーターショーでの発表から2年後の1989年の1月15日。平成元年になって最初に発売された国産車の1台です。(もう1台も日産車のC33型ローレル)Be-1以上にレトロデザインを全面に押し出したパオが、新しい時代の幕開けとともに登場というのも運命的なものを感じます。 受注期間わずか2週間でBe-1を超える受注 パオは、一定期間の予約受付後に予約分のみを生産するという販売方式をとります。予約期間わずか3ヶ月で、パイクカー第1弾のBe-1を超える5万1,657台もの申し込みを受けました。すべての注文分を納車するのに、1年半を要したというエピソードも残っています。 パオのかわいいレトロデザインは今見ても魅力的 ベース車輌がK10型マーチのパオは、車として特筆すべき性能を備えているわけではありません。それでも、現在でも人気の理由は圧倒的なデザイン性の高さでしょう。 何かを真似して作ったわけではないのに、懐かしさを感じるレトロ感。さらに、冒険というテーマをしっかりと表現していて、すぐにでもどこかに出かけたくなるデザインです。 パオのデザイン上の魅力を内外装それぞれ紹介します。 モチーフはサファリを旅する冒険者の衣類 ノスタルジックなデザインが魅力のパオですが、特定の車を真似したわけではありません。パオのデザインモチーフは、サファリを旅する冒険者の衣類です。ボディと独立した前後バンパーやルーフ部のモール、ボンネットやボディサイドのあしらいなど、レトロ感とアウトドア感溢れるデザインに仕上がっています。 また、むき出しになったドアヒンジやミラーや窓の取り付け部、三角窓に2分割のリアウィンドーと細部までこだわり抜いてデザインされました。当時はすでにパワーウィンドウが一般的でしたが、窓の開閉も手動という徹底っぷりです。パオの世界観を妥協することなく表現したクルマとして、見事に完成しました。。 また、ノーマルルーフに加えて、キャンバストップも用意されました。開放的なキャンバストップを開ければ、心ゆくまで冒険気分を味わえます。 パオの魅力は内装に詰まっている パオの魅力を最大限感じられるのは、外観よりも内装かもしれません。車内に乗り込むと外観は見えませんが、こだわりの内装によって常に特別な車に乗っていることを思い出させてくれます。 パオの特徴的な内装イメージを決定づけているのが、ボディと同色に塗装された鉄板むき出しのダッシュボードです。エアコンのコントロールパネルは現代車のインパネのように埋め込まれておらず、いわゆる「取り付けられた」状態。オーディオもインパネ下部に「取り付け」られていて、本当にオールドカーを感じさせる作りがシンプルで好印象です。 一方で、各種スイッチ類はオーディオユニットに至るまで統一されていて、単にシンプルに仕上げただけでなくデザイン性を追求した結果だとわかります。 コックピットもシンプルでかわいらしくまとめられており、大型の円形メーターパネルを1つだけ備え、白いレトロデザインに仕上げられた2本スポークのハンドルに目を惹かれます。自然とノスタルジックな気持ちに浸ってしまう、パオならではの特別な室内空間です。 すでに旧車として扱われ希少性が高まっているパオ レトロ基調のデザインを現代の車で再現したパイクカーのパオ。発売当時、古いのはあくまでもデザイン上の話でしたが、現在ではパオそのものが旧車にカテゴライズされています。発売からすでに30年以上が経過し、限定販売だった影響もあり状態のいい個体も徐々に減っていく時期です。 パオを売買するのであれば、古いクルマに特化した専門業者を探しましょう。特に売却する際は、単なる中古車として取り扱われないよう旧車の取り扱いが多い業者への査定をおすすめします。
ボルボ 850のスポーツタイプ特別仕様車として、1995年に発表された850 T-5R。日本国内では、T-5Rエステート(ステーションワゴン)とT-5Rセダンの両モデルが限定650台で販売されました。 特に人気を集めたのが、ステーションワゴンタイプのT-5Rエステートです。イギリスではツーリングカー選手権で優勝、日本ではグッドデザイン大賞を受賞するなど輝かしい経歴をもつ、ボルボ 850 T-5Rエステートの魅力を紹介します。 空飛ぶレンガの名にふさわしい850 T-5R エステート ボルボ 850 T-5Rエステートは、レースでの活躍を受けて開発された限定仕様のスポーツモデルです。もともとスポーティさを追求して設計されたボルボ 850は、異例の形でレースに投入されると、高い実力を証明してみせました。かつてレースで活躍した240の呼び名から「空飛ぶレンガの再来」とまで評されます。 ベース車輌の850も含めて、T-5Rの開発背景を振り返ってみましょう。 ステーションワゴンブームの火付け役ボルボ 850 ボルボ 850 T-5R エステートのベース車輌のボルボ 850 エステートは、先行して発売されていたセダンタイプに加わる形で1993年に登場しました。ボルボの新たな主力車種として位置付けられた850は、ボルボ初のFFレイアウトを採用するなど意欲的に開発されたモデルです。 日本にも同時期に正規輸入されると、大ヒットを記録。輸入車にもかかわらず、スバル レガシィとともにステーションワゴンブームの火付け役といわれています。「頑丈で安全なクルマ」という従来のボルボのイメージに、スポーティな要素を新たに加えた850は、日本のステーションワゴンにも大きな影響を与えました。 真の空飛ぶレンガはT-5R エステート ボルボ 850 T-5R エステートが誕生した直接のきっかけは、850でのレースへの参戦です。ボルボはかつて240ターボでレースに参戦し、直線基調のボディスタイルと輝かしい実績を評して「空飛ぶレンガ」と呼ばれました。 「空飛ぶレンガの再来」と話題になった850でのレース参戦ですが、さらにボルボの選んだ参戦車輌が注目を集めます。レースでは不利といわれるステーションワゴン、エステートを選んだのです。ボディ剛性の不足、リア側の重量など決してレース向きとはいえないステーションワゴンでの参戦は異例のことでした。 そして、1994年に英国ツーリングカー選手権(BTCC)で見事入賞を果たします。シリーズ優勝こそ掴めなかったものの、何度かの入賞で高い運動性能を証明。レース成績によって850 エステートに多くの注目が集まったことから、よりスポーティなT-5Rのリリースにつながりました。 なお、850 T-5Rはセダンも投入されますが、レースで結果を残したことを考えると、真の空飛ぶレンガはステーションワゴンのエステートです。 レースをきっかけに生まれたT-5Rエステートは数週間で完売 レースでの成功を受けて開発された850 T-5Rは、レース車輌のイメージを可能な限り投影したモデルに仕上げられます。チューニングが施されたエンジンに、専用のエアロパーツなどファンの心を掴む特別仕様車T-5Rは、限定2,500台が用意されたクリームイエローの完売後には、追加カラーが投入されるほどの人気ぶりでした。 日本国内でもおよそ600万円という高額だったにもかかわらず、限定台数650台(エステート500台、セダン150台)は数週間で完売。よりスポーティな限定仕様車だったことと、850が火をつけたステーションワゴンブームを背景に高い注目を集めました。 R-DESIGNのルーツらしく魅力的だった850 T-5R 現在のボルボのスポーツモデルには、「R」の文字が含まれるモデル名がつけられていて、総称して「R-DESIGN」と呼ばれています。そして、実はスポーツモデルとしてR-DESIGNが確立したルーツは850 T-5Rでした。 特別仕様にふさわしい数々のチューニングが施された、850 T-5R エステートの魅力を紹介します。 コンプリートカー並みの高性能モデル 850 T-5Rには、専用設計の2.3L直列5気筒ターボエンジンを搭載。ベースモデルの2.5Lよりも排気量が小さいものの、最高出力240ps、最大トルク30.6kg・mを発生するまでにチューニングされていました。0→100km/h加速は6.9秒を誇り、鈍重な印象の強いステーションワゴンのイメージを払拭します。 また、しっかりと固められた足回りやホイールなど、コンプリートカーと呼べるほど専用パーツが盛り込まれていました。 クリームイエローが「T-5R」の証 ホンダ シビック タイプRのチャンピオンシップホワイトのように、特別なスポーツモデルには専用カラーが用意されていることが少なくありません。850 T-5Rも例外ではなく、特別色「クリームイエロー」が限定車の証です。 850 T-5Rは、性能面だけではなく外装も専用設計でよりスポーティに仕上げられています。大きな開口部が目をひくフロントバンパー、ステーションワゴンらしからぬ大型リアスポイラーとレーシングカーを強く意識したデザインが印象的です。 ボルボ特有のボクシーなボディデザインとの組み合わせによって、より骨太な特別感あるエクステリアに仕上がっています。 ボルボ 850 T-5Rは即完売の人気車だっただけに慎重に取引したい ボルボ 850 T-5R エステートの発売の翌年には、実は後継車850Rも販売されました。しかし、こちらもT-5R同様即完売したという逸話が残っています。どちらも限定販売で希少性が高いため、つい細かな確認をしないまま取引してしまいがちです。 しかし、発売からすでに30年近くたっている旧車でもあるため、状態の確認はしっかりとしましょう。 また、売却する際に希少性を理解していない一般中古車店に持ち込むと、正しい評価をしてもらえないおそれもあります。ボルボ 850 T-5Rを取引する際は、必ず知識のある旧車専門業者に相談しましょう。
2022年10月に開催された「MINI×Paul Smith in東京」でEVバージョンが展示されたことで、再び脚光を浴びたポールスミス・ミニ。伝統のスタイリングを守りながら、ポール・スミス氏のデザインが随所に光る特別仕様車は、当時はもちろん現在でも人気の高いモデルです。 今回は、オールドファンの心をつかんで離さないミニの誕生秘話と、特別仕様車ポールスミス・ミニの魅力をたっぷりと紹介します。 革新的なコンパクトカー「ミニ」 1950年代に登場したミニは、当時としては画期的なコンパクトカーでした。しかも、40年以上に渡って基本的なスタイリングを一切変えなかった珍しい車種です。 ブリティッシュ・モーター・コーポレーションの技術者、アレック・イシゴニス氏が作り上げたミニの開発背景と魅力を改めて振り返りましょう。 ミニの開発は矛盾した挑戦だった 初代ミニが登場したのは、イギリスが石油危機にさらされていた1959年でした。各社が燃費の改善に躍起になるなか、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が発売したコンパクトカーがミニです。 ミニの開発にあたって、BMCの技術者アレック・イシゴニス氏は、「広々とした4人乗りの座席を確保したままで、車体サイズはできるだけコンパクトにする」というテーマを掲げます。車体サイズを小さくするのに、車内のサイズは変えないという大きな矛盾を抱えた挑戦でした。 しかし、ミニは当時としては画期的な方法で、「ボディサイズの縮小」と「居住空間の確保」という相反する2つの要件を満たします。当時は一般的だった縦置きエンジンのFRではなく、ミニは横置きエンジンのFFレイアウトを採用することで、エンジンルームの大幅な縮小に成功。さらに、当時BMCが生産していたエンジンのなかで最小の850ccクラスのAシリーズエンジンを搭載し、コンパクトサイズでありながら居住空間は広い画期的なミニが生まれました。 ミニの名を世界に知らしめたレース参戦 ミニにはいくつかの呼び名がありますが、「ミニ・クーパー」という名で覚えている方も多いのではないでしょうか。「クーパー」は、正確にはミニのスポーツグレード名で車名ではありません。しかし、ミニの存在を世界に知らしめた存在として「クーパー」とミニは切り離せない歴史があります。 ミニの開発当時、テストドライバーとしてステアリングを握っていたジョン・クーパー氏は、開発者のアレック・イシゴニス氏にレース参戦を持ちかけます。あくまでも経済車として開発を進めていたミニのレース参戦に当初は難色を示していたものの、ミニ発売から2年後の1961年についにレース参戦を決定しました。 そして、レース参戦から3年経過した1964年のモンテカルロラリーで、真っ赤なボディカラーの「ミニ クーパーS」が見事に初優勝を飾ります。レースでの活躍によってミニは一気に注目を集め、初代のMK-1は販売台数100万台超という大成功をおさめました。 ポール・スミス・ミニは英国の最強コラボレーション 1998年に限定1,500台で販売された、ポール・スミス・ミニ。イギリスのファッションデザイナー、ポール・スミス氏がデザインを手がけた特別仕様車です。多くの人から愛されるデザインで、40年の販売実績をもつミニに、ポール・スミス氏のデザインが加わるというイギリス最強のデザインコラボレーションが実現したモデルです。 内外装の至るところにポール・スミス氏の遊び心が光るポール・スミス・ミニは、ベース車両のミニ最終型のなかでも圧倒的な人気を誇りました。 ミニのスタイリングに取り込まれたポール・スミス氏の遊び心 ポールスミス・ミニは、ボディデザインが大幅に変わっているわけではありません。歴代のミニ同様、1959年に登場したスタイリングを忠実に踏襲したモデルです。 一方で、専用カラーの設定やエンブレム、ホイール、内装など多くの箇所にポール・スミス氏のデザインが盛り込まれています。オリジナルの良さをスポイルすることなく、新たなデザインを施したことで一気に人気が高まりました。 ポール・スミス・ミニの特徴をさらに詳しく紹介します。 特別感あふれるインテリア ポールスミス・ミニの内装は、ボディカラーに関係なくブラックレザーで統一されています。ドアの内張りといったボディ側だけではなく、シートまでブラックレザーで高級感ある仕上がりです。 一方で、インストゥルメントパネルはボディカラーと同色でペイント。気に入ったボディカラーを選んでも運転をしていると見ることができません。しかし、インテリアにボディカラーを取り入れることで内外装の統一感をもたせるとともに、ドライバーの満足度も向上します。 また、さすがイギリスを代表する有名デザイナーであるがゆえの細部に渡るこだわりも見逃せません。たとえば、グローブボックス内にも塗装が施され、車載ジャッキをいれる工具袋はジーンズ生地で作られるなど遊び心あふれるデザインです。 キラリと光る外装デザイン ポールスミス・ミニのボディ全体のデザインは、歴代のミニと大きくは変わりません。しかし、随所にポール・スミス氏のデザインが光ります。基本的なスタイリングを守っていたことも、オールドファンからの人気を集めた理由かもしれません。 外装面でもっとも大きなポイントは、専用カラー「ポールスミス・ブルー」の設定です。標準車にはないカラーリングを楽しめます。また、チャコールブラックの8本スポークホイールも足回りを引き締め、外観上の印象に大きく影響を与えるポイントです。 一方で、遠目に見ても大きく印象がかわらないものの、エンブレム類には強いこだわりがみられます。ボンネットエンブレムは、ポール・スミス氏が手がけたデザインを宝石職人が七宝焼きで仕上げたものを採用。グリルにはグレート・ブリテン島をかたどったエンブレムもあしらわれています。 リアエンブレムもグレートブリテン島をテーマにしたものを使用。極め付けはリアウィンドウに洋服のタグを思わせるポール・スミスのロゴが施されています。 現在でも色褪せないポール・スミス・ミニ ポールスミス・ミニは、最終型がベースだったとはいえ登場からすでに25年が経過しています。しかし、クラシックミニのスタイリングとともに当時の人気は今も変わらず続いているようです。 ただし、設計の古いミニを中古車で売買する場合は注意が必要です。車輌状態の確認など、専門業者でないと正しく判断ができません。とくに1,500台という限定販売だったポールスミス・ミニは希少車で、正しい査定をするためにはベース車両以上の知識が必要です。 ポールスミス・ミニの売却を検討する際は、名車・希少車・旧車の専門業者に一度ご相談ください。
どっしりとしたスタイリングと大型グリルガードが演出するワイルドな風貌が印象的な、日産 Y60型サファリ。販売台数こそトヨタ ランドクルーザーに及ばなかったものの、ラダーフレームによる頑丈な作りと、高い悪路走破性は本格クロカン車として引けをとりません。 Y60型 サファリの本格クロカンとしてのこだわりを、歴代モデルも交えながら振り返ってみましょう。 軍用から民間用へ変化をとげたクロカン車 日産 Y60型サファリは、屈強な四輪駆動車として君臨しました。どんなに厳しいロード環境でも難なく切り抜けるそのタフさは、かつて自衛隊車両として製作された「パトロール」譲りといえます。 パトロールからサファリへ変化をとげたクロスカントリー車の歴史と開発背景を紐解いていきます。 サファリの起源は軍用車輌として開発された4W60 サファリの起源は1950年に登場した4W60です。開発されたきっかけは、日産が警察予備隊(現在の自衛隊)から車輌納品の要請を受けたことです。最終的に採用されたのは三菱 ジープでしたが、サファリはランドクルーザーと並んで国家警察(現在の警視庁)に納車されました。 日産は培ってきたトラック生産の経験に加え、ジープやダッジの下請け修理から学んだ経験をいかし、4W60を独自開発。「パトロール」の愛称で呼ばれた4W60は国家警察に納品後も改良を重ね、消防や医療、建設といった業務用車両として販路を拡大しました。 初代サファリを大きく刷新して地位を確立した2代目Y60型 パトロールと呼ばれた4W60は、業務用車輌としては高い信頼性を得ましたが、個人用としてはランドクルーザーに大きく遅れをとっていました。そこで日産は、国内の一般ユーザー向けにパトロールを一新することを決断。1980年に初代サファリ160型が誕生しました。 サファリの地位を確立したのは、1987年に登場した2代目Y60型です。シャシーと足回りを刷新し、新設計のエンジンも搭載。さらに、現代的な曲線を取り入れた、迫力のあるスタイリングに生まれ変わりました。 骨太設計が光るY60型サファリ ライバル、ランドクルーザーがSUV路線へと舵を切るなか、2代目サファリはあくまでもクロカン車としての性能を追求します。 クロカンとして高い性能を誇っていたY60型サファリの魅力を紹介します。 足回りを中心に悪路走破性を飛躍的に向上 Y60型でのもっとも大きな進化は足回りです。歴代のリーフリジッドサスペンションから、スタビライザー解除装置付きコイルリジッドへ変更。ストロークの長いコイルリジットによって、オフロードでの走破性を格段に向上させました。 さらに、タイヤの動きを制限しないタイヤハウス、障害物の影響を受けにくいボディ形状、頑強なラダーフレームを採用し、徹底的に悪路走破性を追求しました。本格クロカンとして最高の性能を備えたモデルといえるでしょう。 悪路で実力を発揮する大排気量エンジン Y60型の標準モデルに搭載されたエンジンは、TD42型4.2L直列6気筒ディーゼルエンジンです。最高出力135ps、最大トルク28.5kgm・fを発生しました。また、吸気方式をNAとしたことで扱いやすいエンジンに仕上がっています。 さらに1991年には、輸出モデルのみに搭載されていた最高出力175ps最大トルク32.6kgm・fを発揮するTB42E型4.2L直列6気筒ガソリンエンジンを国内向けモデルに追加しました。ライバル車にも引けを取らないスペックを誇るモデルです。 個人ユーザーも強く意識したモデル展開 Y60型サファリは、歴代で初めて4速ATを1988年に追加したモデルです。ほかにも、1991年には3ナンバーサイズのワゴンを追加するなど、ヘビーデューティ目的の特定ユーザーだけではなく個人ユーザーの幅広いニーズにこたえるモデルを展開しました。 ロングボディ、ショートボディ、欧州仕様のディーゼルターボの投入といったバリエーションが多彩にある点もY60サファリの魅力です。 中古車の売買は旧車専門業者に相談が全体条件 本格クロカンとしてさまざまな場面で酷使されやすいY60型サファリ。購入後の思わぬ故障やトラブルを避けるためにも専門業者からの購入をおすすめします。 また、売却する場合も注意が必要です。Y60サファリの本当の価値を評価してもらえない買取業者に査定を依頼すると、経年劣化やヘビーデューティによる傷みから過小評価される恐れもあります。 Y60型サファリは販売台数こそランドクルーザーに及ばなかったものの、高い悪路走破性と風格のあるボディデザインが魅力のクルマです。購入時も売却時もぜひ専門店に相談しましょう。