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海外への赴任が決まったとき、今まで日本で乗っていた車を海外の赴任先へ持っていくか悩むことがあるのではないでしょうか。今回は、海外赴任の際の車の扱いについて判断できるようになるために、車を現地に持っていくメリットやデメリット、海外の赴任先へ車を輸送する判断基準について紹介します。 海外の赴任先へ車を持っていくメリット 赴任先(現地)に車を持っていくメリットは、日本で乗り慣れていた車を使い続けられることです。長期にわたって滞在する場合は、現地に車を持っていくとよいでしょう。 海外の赴任先へ車を持っていくデメリット 輸送に高額な費用がかかってしまう点は、海外の赴任先に車を持っていくデメリットです。 輸送にかかる費用を気にする場合は、日本で車を売却して現地で新たに車を購入することも視野にいれるとよいでしょう。 また、国や地域によって、ハンドルの位置が逆だったり、右ハンドルの車の輸入が禁止されている場合もあります。 車を持っていく以外の選択肢 ここからは、車を持っていく以外の選択肢について紹介します。 車を日本に置いていく 日本に車を置いていくのも方法の1つです。海外赴任の期間が1年程度と短い場合や家族を日本に残して単身で海外赴任する場合は、車を持っていかない方がよいでしょう。帰国後も車検までの期間が残っていたり、持って行くメリットよりも手続きの手間のほうが大きい可能性があります。 車を売却する 海外での赴任期間が長く、帰国がしばらく先になる場合は、日本で車を売却してから海外へ行くとよいでしょう。 車は、所有しているだけでも維持費がかかります。また、長期間にわたり車を動かさないと、車に不具合が起きる可能性があります。このようなことから、海外に赴任するときは車の売却も選択肢の1つとして覚えておくとよいでしょう。 車を知人に貸す 日本に帰国する予定がわかっている場合や海外での赴任期間が短い場合は、信頼できる友人や知人に車を貸すのも1つの手段です。 あらかじめ、洗車やメンテナンスなども行うことを条件に友人や知人に貸せば、コンディションの維持が可能です。日本に戻ってきたときに車検やメンテナンスなどをしなくても、すぐに運転できるでしょう。ただし、信頼できる人に預けなければ、傷ついたり故障したりする可能性があるため、貸し出す人は慎重に選ぶ必要があります。 海外赴任時の車をどうするのかの判断基準 海外赴任するときに車をどうするか悩んだとき、何を判断基準としたらよいのでしょうか。具体的なポイントを紹介します。 期間 海外への赴任期間が長く、日本に帰国する予定がしばらく先になる場合は、車を売却してから赴任したり、車を現地に持っていったりするとよいでしょう。 海外赴任の期間が短い場合や家族を日本に残して単身で海外に行く場合は、家族や知人に預けることをおすすめします。 費用 車は保有しているだけで、自動車税、メンテナンス費、駐車場代などの費用がかかります。このような費用(維持費)を気にするのであれば、車を売却してから海外に行くほうがよいでしょう。 現地の環境 赴任先の環境によっては、ハンドルの位置が逆になることがあります。また、現地の法基準を満たしていない可能性もあります。そのため、現地の道路環境や交通事情にあわせて、車を持っていくか、日本に置いていくか、売却するか決めましょう。 まとめ 海外へ赴任するときに日本で乗っていた車をどうするかは悩むポイントの1つです。海外の赴任先(現地)に車を持っていくかどうかは、海外赴任の期間や家庭の事情など、総合的に考えて判断しましょう。
海外赴任しているときの車検は、どうすればよいのでしょうか。今回は、海外赴任中の車検について解説します。海外赴任をするときや海外赴任中の方は参考にしてみてください。 海外赴任中に車検を受けたい場合は第三者に依頼する 海外赴任する際に車を日本へ置いていき、その車が車検満了日を迎えたとき、第三者に車検を受けてもらうようお願いする方法があります。 車検は、書類が揃っていれば名義人でなくても受けられます。そのため、日本に置いていった車の車検(継続検査)を家族・知人・友人に依頼すれば、海外赴任から帰国してすぐに車に乗ることが可能です。 海外赴任中に車検切れになったときは? 海外赴任中に日本に置いていった車の車検が切れた(車検満了日を迎えた)場合は、帰国後にディーラー・販売店・整備工場などに相談し、仮ナンバーの発行やレッカー移動をして車検を受ける必要があります。 車検切れの車を公道で運転すると違法とみなされるため注意しましょう。 海外赴任から日本に戻ってきたときは、その車が車検切れになっていないか確認してください。また、海外赴任中に車検満了日を迎える可能性がある場合は、赴任前に売却や一時抹消登録をするなどの対策をしておくことをおすすめします。 車検切れが気になる場合の対応方法 海外赴任中に車の車検切れが心配なときは、海外赴任先に車を持っていく、売却するといった対策をしましょう。ここからは、車検切れが気になる場合の対応方法について紹介します。 海外赴任先に持っていく 海外赴任先に車を持っていくことも1つの方法です。 ただし、赴任先に車を持っていくためには、手続きや輸送費用などがかかります。そのため、長期滞在になるときや帰国がしばらく先になるときにおすすめの方法です。 売却する 海外赴任の前に車を売却をすれば、車検切れや車検費用だけではなく、税金やメンテナンス費など維持費の心配をする必要がなくなります。 日本に車を置いて海外赴任をしても、車の維持費(自動車税、車検・メンテナンス、駐車場代など)はかかります。このような維持費の心配をすることなく海外赴任したいのであれば、車を売却してから海外に赴任するとよいでしょう。 まとめ 海外赴任中に車検満了日を迎える車を保有している場合、あらかじめ車検の対策をしておくことをおすすめします。 具体的な方法としては、家族・友人・知人に依頼するという方法が挙げられます。また、車検費用や維持費の心配もしたくないのであれば、売却してから海外赴任するという方法も有効です。もし、長期にわたり海外赴任するのであれば、車を赴任先に持っていくのもよいでしょう。 海外赴任をする際は、赴任期間や家庭環境などに応じて適切な方法を選択することが大切です。
胸のすく軽快な走りと3ドアハッチバックという独特のスタイリングで、現在でも高い人気を誇るプジョー 205GTI/CTI。デザイン、性能ともに完成度が高く、ライバル車よりも後発ながら、ホットハッチの代表的な1台に挙げられるほどの地位を獲得しました。 発売から30年以上が経過しても、古さを感じさせないプジョー 205GTI/CTIの魅力をたっぷりと紹介します。 後発ながらホットハッチの名車となった プジョー 205GTI/CTIは今でこそホットハッチの名車の1台に数えられますが、同カテゴリーでの地位はライバルに遅れをとっていました。 プジョーのブランドそのものにも大きな影響を与えた、205GTI/CTIの開発背景を振り返ってみましょう。 ライバル車ゴルフ GTIを倒すために開発された205GTI 1984年に登場した205GTI/CTIは、実は1970年代に発売されたゴルフ GTIをベンチマークとして開発されました。なお、「CTI」はカブリオレモデルで、GTIと基本性能は同一ながら、フルオープンの開放感を味わえるモデルです。 「GTI」というグレード名も含めてホットハッチの元祖ともいわれるゴルフ GTIは、1976年の初代発売から欧州で絶大な支持を集めていました。当時のプジョーは、ルノーやシトロエンに比べるとマイナーな存在だったこともあり、「打倒・ゴルフ GTI」を至上命題にGTIを投入します。 プジョーのホットハッチへのこだわりはボディバリエーションにも現れており、205のメインモデルに位置づけられたGTIでは5ドアをラインナップから排除。3ドアハッチバックのみの発売という、徹底した「打倒・ゴルフ GTI」戦略をとりました。 プジョーを世界ブランドに押し上げた1台 205GTI/CTIの発売は、プジョーのブランドイメージを世界レベルに押し上げました。高性能モデルという普及モデルではないグレードにも関わらず、GTIの販売台数は30万台を記録。GTIが205全体の人気をけん引し、世界での販売台数はシリーズ累計で527万台にも達しました。 軽量ボディによる高い走行性能だけではなく、ゴルフ GTIにはないプジョー独特の内外装の高いデザイン性も評価されました。1970年代に発売されたゴルフ GTIに対して、1980年代に開発された点も先進性という意味で有利に働いたのかもしれません。 WRCで示した高い実力 ライバル車に対して後発だったプジョーは、デザイン性だけではなく高い性能をアピールする必要もありました。そこで、「205」の名を冠したモデルでのWRC(世界ラリー選手権)勝利を目指します。結果的にプジョーは世界ラリーチャンピオンの称号を手に入れ、高い性能と信頼を世界にアピールすることに成功しました。 WRCに投入された車輌は、205GTIとほぼ同じ外観をもつ「205ターボ16」。ただし、構造や性能は205GTIとは全くの別物で、レース参戦のためにわずか200台だけ生産されたモデルです。 現在でも205GTI/CTIが人気の理由 欧州のコンパクトカーで、旧車として人気を維持し続けている車種はあまり多くありません。しかし、205GTI/CTIは日本への輸入がホットハッチブームと重なった影響もあり、現在でも高い人気を保っています。 205GTI/CTIが人気の理由を探ってみましょう。 ライバルを意識して進化したエンジン 205GTIに搭載されたエンジンは、1.6Lで最高出力105psを発生させます。3ドアで軽量に作られた車体を考えると、当時としては十分な性能でした。しかし、205GTIの発売翌年である1985年に、同じフランスの自動車メーカールノーが1.4Lながらターボを備えて115psを発生する「ルノースーパー5GTターボ」を開発。プジョーは、メーカーとして国内のライバルであるルノーの性能アップにすぐさま反応します。 ルノーのエンジン開発の翌年、205GTIのオプションとして「205 GTI 1.6 115」を追加します。吸排気システムをアップグレードした専用エンジンで対抗しました。 さらに、同年には「205 GTI 1.9」をリリースし、ライバルとのさらなる差別化を図ります。新たに開発された1.9Lエンジンは、最大出力130ps、最大トルク161Nmを発生。重量わずか910kgと1tを切る車重と相まって、最強のホットハッチといえる走りを楽しめるようになりました。 プジョーらしい高いデザイン性 205GTIをさらに魅力的なクルマに押し上げているのは、プジョーらしい内外装の高いデザイン性です。1970年代の開発ということもあり、直線的で無骨なイメージのライバル車ゴルフ GTIに対して、ボンネットの先端部やリアハッチの後端、ボディラインへ適度に曲線を取り入れたおしゃれなデザインは、フランスの自動車メーカーならではの特徴といえるでしょう。 さらにインテリアも秀逸で、スポーティな印象を与える洗練されたダッシュボードは、エアコン吹き出し口やコントロールパネルといった各部が統一感のあるレイアウトで配置されており、現代でも古さを感じさせません。 また、コンパクトカーでありながら、ヘッドクリアランスと足元のスペースがしっかりと確保されるなど、居住性の高さも205GTIがホットハッチとして優れている点です。ホールド性の高いバケットシートも含めて、ロングドライブの疲労を軽減してくれます。 GTIの楽しさをそのままに開放感を味わえるCTI カブリオレモデルの205CTIは、エンジンをアップグレードした1986年に登場しました。高性能車のオープンモデルでは、ボディ剛性の低下といった理由から性能面を犠牲にするケースも少なくありません。しかし、205CTIは、オープンであること以外はほぼ205GTIと同仕様で発売されました。 ボディ剛性の観点でロールバーは追加されているものの、内外装ともに205GTIを踏襲しています。軽快な走りに開放感も加わった205CTIは、205の魅力を最大限に引き出したモデルといえるでしょう。 古さを感じさせない旧車だけに高い人気を維持 プジョー 205GTI/CTIは、洗練された内装や当時としてはワイドに設計されたボディデザインから、現在でもあまり古さを感じません。旧車でありながら普段使いしても全く違和感がないため、旧車ファンのみならず一般の人にまで幅広い層から支持されています。 また、シリーズとしては500万台以上が販売された205ですが、GTI/CTIに限ると生産台数は世界で30万台。発売年からの経過年数が増えるごとに希少性も高まりつつあります。 ただし、いかに見た目が現代的でも、30年以上前の旧車であることは事実です。中古車を購入する際は、しっかりと整備された個体を探しましょう。売却する際は、205GTI/CTIの人気を理解している専門業者への相談をおすすめします。年式や走行距離などの情報だけで査定するような業者に依頼すると、実際の価値よりも低く見積もられてしまうかもしれません。旧車の真の価値を把握している、古いクルマに強い買取業者を選びましょう。
■日本から近い国、異なるニーズと仕様 どんなに世界中でSUVやMPVがファミリーカーの覇権を握る時代が来ようとも、旧車ファンにとってはファミリーカー、オーナーカーとしてのセダンの存在を忘れることは、なかなかできないのではないだろうか。 クルマがやっと一家に一台になったころ、所有することに憧れ続けてきたオーナーの眼差しを叶えるかのごとく、非常に威厳の高いデザインが数多く採用された。 特にアジア地域では、パールホワイトやブラックのボディカラーにボンネットマスコット、大きなメッキのグリルに本革シートなどなど...。 そんな装備を3BOXのセダンが纏えば、パーソナルな高級車像が出来上がってくる。 90年代の序盤ごろ、アジアの多くの地域ではまだまだRV車=商用車やクロカンからの派生モデルといった認識が抜けきらず、ユーザーの趣向は全高のさほど高くないセダンやハードトップモデルを好んでいる流れが多かった。 メーカーもその流れを汲み、バジェットカーからハイエンドまで、ラインナップの多くに細やかなニーズを取り込んだモデルが存在している。 日本のメーカーからは特に、日本国内や米国で生産されているモデルを、ほぼそのまま持ち込んだような車種も多く存在している。 だがよく見ると、装備差は現地法人のリサーチの力を発揮してか、さまざまな差異を見ることができて面白い。 前回の記事(https://www.qsha-oh.com/historia/article/taiwan-asian-three-box-sedan-classics/)でも紹介したが、台湾での日本メーカーと現地法人がもたらしたラインナップはとても興味深く、そのすべてを洗い出すにはかなり大変で奥深い。 今回もほんの一部ではあるが、90年代から00年代の日産車について着目していこうと思う。 ■現地にフィットしてデラックスになっていくセダンたち 台湾における日産自動車は、現地法人である「裕隆(ユーロン)日産汽車股份有限公司」といい、そのスタートは1959年からと、歴史あるものだ。 日産車のノックダウン製造や輸入・販売を長らくおこなっていた裕隆だが、1986年からは当時ノックダウン生産をしていたスタンザFXをベースとした、オリジナルモデル“飛羚101”を発表した。 90年代の裕隆は台湾のトヨタと同じく、日本のオリジナルモデルをベースとしながらも独自に開発され、生産されていたケースと、日本やその他の国から輸入されていたケースの2つがある。 例えば日産の末っ子モデルだったマーチには、台湾独自の需要を狙い、幅広く世界中で売られていたなかでも唯一セダンモデルを有していた。 1994年から販売が開始され、後部を300ミリ延長したボディにオリジナルデザインのリアランプが取り付けられる。 ベースとなるマーチのハッチバックと同じように、数多くの特別仕様車やボディカラーが存在し、バリエーションは数多あるようだ。 一つ上のクラスにはセントラ(日本名:サニー)が存在する。 90年代の日産 セントラは、北米仕様のB13型と仕様が似ており、ラグジュアリーというよりはシンプル&スポーティーな仕立てとなっている。 対して次期型のB14型はどちらかというと高級志向。 木目パネルや本革シートが装備されるほか、リアランプの造形などは同社のシーマなどを想起させるような構成となっており、日本や北米とは大きく異なる仕様だ。 外観のうえで日本仕様との差異が大きいのは、B15型のセントラだ。 日本のブルーバード・シルフィをベースとしたモデルへとバトンタッチしており、日本国内でも1.8Lエンジンの搭載や本革シートが装備される“小さな高級車”的な立ち位置だったB15型。 前期型はほぼ同一の外観を持つが、後期型では日本、そしてほかの国々とも異なるフロントフェイスへと一新。 より若々しい性格の高級車像を手に入れている。 B15型のセントラでとても印象的だったのは、街中ですれ違うサンルーフ装着車の多さ。 温暖なお国柄もあるのかもしれないが、コンパクトセダンでも快適性を忘れず“イイクルマ”であることを楽しんでいるようで素晴らしいと感じた。 U13型のブルーバードは、名称すらも米国と同一のアルティマを名乗っている。 当時放映されていたCMも米国のレクサス LS400を髣髴させる内容で、それまでのブルーバードが持っていたスポーティーセダン的な像だけではなく、輸入車らしいクオリティを強調するものとなっている。 街中ですれ違ったアルティマが日本のブルーバードと少し印象が異なるように感じられるのは、きっとサイドマーカーだけではないはずだ。 ■大幅なアップデートが施される独自仕様 日本ではセドリックやシーマ、プレジデントなどといった、ショーファードリブンの取り揃えが数多くあった90年代~00年代の日産。 だが、台湾でトップを飾る車種でY30セドリックの立ち位置を後継したのはY32型のセフィーロだった。 当時、韓国でもルノーサムスンがセフィーロをベースとして販売していたSM5。 韓国におけるモータリゼーションのなかでもそれらは高級車であることをしっかりと印象づけていたが、台湾仕様のセフィーロの豪華さには敵わないのではないかと思う。 台湾のセフィーロは、最上級グレードの名前こそセドリック等と同一の“ブロアム VIP”が冠されるが、その名に恥じない高級装備が奢られる。 後期型は大型のフロントグリルにオリジナルデザインのバンパーを装備。 A33型にモデルチェンジすると、ナビシステムやリアのマッサージ付き電動リクライニング本革シート、フリップダウンモニターまで盛られていた。 ドアサンシェードにリアのエアコン吹き出し口などなど……セドリックどころか、シーマを飛び越えてしまいそうなほどのショーファーカーに仕上がっていたのだ。 そんな台湾だから、街中を歩いていると沢山の3BOXとすれ違うこととなり、セダンが欲しくて欲しくてむずむずしてくる(笑)。 ギラついたボディにはバシっとコーティングが乗り、堂々とした構え(もちろんオーナーの手入れにもよるが...)。 メルセデスもBMWももちろん最高ではあるのだが、“日本のセダン”が輝いて見えたあの道を、筆者は推しまくりたいと感じたのだった。 ちなみに、当記事の写真を撮影したのは2018年ごろで、少し前の時代になる。 今でも現地のSNSを見ると、今回紹介したような車種が取引されているのを見ることができる。 しかし、そのバリエーションは年々減っていっていることもまた事実だ。 日本よりも古いクルマを数多く見かけていた台湾だが、環境対応車などの台数も増えている昨今、これらのクルマを街中で見かける回数はますます少なくなっていくことだろう。 そんなクルマたちを助けるために、ガス検をとって日本へ輸入...といきたいところだが、台湾の場合は欧米とルールが異なり、輸入へのハードルはかなり高いと聞いたことがある。 まずはそれらの存在を目に焼き付けるために、もう一度台湾行きのチケット購入を検討する時期が近づいているのかも...しれない。 筆者の異国の地におけるネオ・クラシックカー探訪は、まだしばらくやめられなさそうにない。 [ライター・撮影 / TUNA]
「パジェロ」や「デリカスターワゴン」のヒットにより、RVブームの先陣を切ってきた1980年代の三菱。 RVが一般に浸透するとともに、高級化や乗用車化が求められるようになります。 そこで三菱は、RVテイストの外観を持つコンパクトなワゴンを誕生させました。 1991年に登場した「RVR」です。 3列シートワゴン「シャリオ」のボディを短縮し、パジェロのような2トーンボディカラーと小さなグリルガードで外観を仕上げたこのモデルは、価格が手頃なこともあり、たちまちヒットモデルとなります。 ▲2代目RVRスポーツギア しかし、今回の1990年代名車&迷車烈伝で取り上げるのは、この初代ではなく、1997年にフルモデルチェンジした2代目のほう。 この2代目、なんとも迷車性が高いのです。 ■乗用車ライクなパジェロ風ワゴン 1991年に登場した初代RVRは、カープラザ店のみの扱いだったにも関わらず(当時はギャラン店とカープラザ店の2系列があった)、他社ユーザーも誘引し、一躍ヒットモデルとなりました。 どこかパジェロを思わせるアクティブな外観と、4,280mmの全長に片側スライドドア、2列シート(しかも主力は4人乗り)というユニークなパッケージングは新しく、楽しく豊かなカーライフを想起させてくれたものです(バックスバニーが登場したCMも楽しさを感じさせてくれた)。 ▲初代RVRスポーツギア さらにRVテイストを強めた「RVRスポーツギア」に加え、「ギャランVR-4」や「ランサーエボリューション」とベースを同じくする4G63ターボエンジンのハイパワーモデル、さらにはオープンルーフ仕様の「RVRオープンギア」を追加するなど、初代RVRのモデルライフは“乗りに乗った”ものでありました。 ■キープコンセプトで登場した2代目はしかし…… 件の2代目RVRは登場するのは、1997年。 大ヒットしたパジェロや「デリカ・スペースギア」が後期型になり、「RAV4」や「CR-V」がヒットしていたころのことです。 RVRは5ナンバーサイズのボディに片側スライドドアという基本パッケージングを変えず、キープコンセプトで作られました(シャリオはこのとき3ナンバーのシャリオグランディスに進化)。 ▲2代目RVR(GDI RVR) ▲シャリオグランディス 標準車(新たにGDI RVRと名乗った)とRVテイストを強めたRVRスポーツギアの2本立てであることも、初代を踏襲。 オーバーフェンダーにより3ナンバーサイズとなるスポーツギアには、新たに2.4リッターGDIエンジンが搭載されました。 では、なぜ迷車となっていったのでしょうか? この連載でたびたびお伝えしている「ヒット車の次の難しさ」がここにあります。 初代RVRは、シンプルなスタイリングがヒットの一因でした(シンプルだからこそスポーツギアも際立った)。 それが、先代よりスポーティに仕立てられた2代目は、凝った造形が裏目に出てやや中途半端な印象に……。 特にモノトーンカラーとした標準車Xは、ホイールベースやトレッドが狭く見え(実際には大きく変わっていないのに)、スポーツギアは衝突安全性の高まりから大型グリルガードを廃止したことで、「らしさ」が薄れてしまったのです。 シャリオグランディスと同形状のインストルメントパネルは、高級感と使い勝手をうまく両立させたデザインである一方、RVRに求められる(今でいう)ギア感に乏しい印象となってしまいました。 ▲2代目RVRスポーツギアのインテリア ■RVも多種多様なカタチに変化 RVブームも一段落し、多様化が進んでいたことも、2代目 RVRを迷車の道へと導いた一因です。 それまでパジェロや「ハイラックスサーフ」を筆頭とする本格的なクロスカントリー4WDがRVの代表格だった時代は終わり、RAV4をはじめとしたライトクロカンや「レガシィグランドワゴン」のような乗用車派生のクロスオーバー、ワンボックスワゴンのドレスアップ仕様など、多種多様なRVが誕生。 RVRも当初は多様化するRVニーズの一翼を担っていたわけですが、キープコンセプトで戦えるほど1990年代後半の「ニーズの多様化」は甘くありませんでした。 同じ三菱の中に「パジェロイオ」や「チャレンジャー」が登場したことも、ニーズの多様化が表れています。 ▲チャレンジャー 同時に、RV一辺倒だったニーズの変化も起きていました。 RVとは真逆のローダウン/エアロパーツというスタイルも、徐々に浸透してきていたのです。 RVライクな乗用車というスタイルを浸透させたのはRVRでしたが、そのスタイルを守ったばかりに時代においていかれる状況となった、ともいえます。 ■RVからエアロ仕様に大胆チェンジ 変わりゆく時代を生き抜くために、2代目RVRはたびたび改良を行います。 1999年にはシャリオグランディスのようなラグジュアリーな仕立ての「スーパーエクシード」を加え、同年のマイナーチェンジでスポーツギアをエアロ仕様に一新。 このマイナーチェンジでは、グレード体系が見直された他、これまで片側のみだったスライドドアが両側に装着されました。 ▲RVRスポーツギアエアロ ▲RVRスーパーエクシード しかし、日産「キューブ」や「エルグランド」、トヨタ「ハリアー」、マツダ「デミオ」など、新しい価値観のクルマが続々と登場するなかで、RVRが再び注目を集めることは叶いませんでした。 以後は大きな改良を受けることなく、2001年に登場した「エアトレック」にバトンを渡すようにして、2002年に生産を終えることとなります。 なお、現在のRVRは2010年に登場した3代目。 約10年のブランクを経ての復活となったモデルです。 とはいえ、こちらもマイナーチェンジを繰り返し、10年以上も生産が続いています。 ▲現行RVR 「ASX」の名で販売されていた欧州仕様は、2022年にフルモデルチェンジし、なんとルノー「キャプチャー」のOEMとなりました。 日本国内で販売される現行RVRは、早くも迷車の匂いがしてきますね……。 ■RVR不遇の時代は今も? 販売面では成功しなかった2代目RVR。 しかし、クルマそのものをよく見てると、実にユニークなキャラクターを持っていることがわかります。 ネオクラシックの入口に差し掛かっている今、乗っていたらオシャレかもしれません……と、中古車情報サイトを見てみると、なんと掲載はわずか3台でした。 2002年まで作られていながら早くも絶滅危惧種とは、迷車度の高い迷車といえそうです。 4G63ターボを搭載するスポーツギアなんて、なかなか良さそうな気がしますけどね。 [ライター・木谷 宗義 / 画像・三菱自動車]
みなさんは、フェラーリがどんな街で生まれたかをご存知ですか? フェラーリの車名、575Mマラネロにも起用されているため、フェラーリの誕生地がマラネッロということは周知されているかもしれませんね。 今回はマラネッロってどんな街?どんなことができるの?という点についてご紹介いたします。 ■フェラーリ博物館は必見!マラネッロへのアクセスは? マラネッロは国際空港があるミラノから南東に約150km、モデナという街からの16kmほどの離れたところに位置しています。 人口は約17,000人で、典型的なイタリアの田舎街という感じです。 マラネッロへは、モデナ駅からバスでアクセスすることが可能です。 ちなみに、ランボルギーニの本社はサンターガタ・ボロニェーゼという街にあり、マラネッロからクルマで約30分の場所に位置しています。 マラネッロでもちろん有名なのはフェラーリ博物館。 その博物館の周りには、以下写真のようにフェラーリや、その他高級車のテストドライビングができる施設などが多く立ち並んでいます。 博物館を訪れた後、そのカッコよさと迫力に感化され、ついつい運転してみたい!という気持ちが高まること間違いありません。 イタリアで高級車のテストドライビングをやってみたい!という方は、日本で国際免許証の取得をお忘れなく! 車種や走行距離にもよりますが、最低でも100ユーロからの費用になるようです。 博物館には観光バスも多く停まっており、結構混み合っていました。 個人的に、他の自動車博物館に比べて展示台数が少ないという印象でしたが、なかなかお目にかかることができない車輌が展示されているので、フェラーリファンの方にはたまらないことでしょう! 私はこの博物館で、初めて触れる距離でF1レースカーを観たのですが、想像の3倍くらいの大きさがあり、そのスケールに超圧巻でした! 写真は博物館入り口です。 ■街中のいたるところで「フェラーリ」が感じられる マラネッロの街を散策するために、博物館から街中へ歩いて移動しました。 街中へと繋がっている参道には、フェラーリの歴史が書かれた看板が約50m間隔ごとに配置されており、それを読みながら進むのも面白かったです。 さて、徒歩10分ほどで街中へ到着しました。 早速ランナバウトの中心にフェラーリのエンブレムの跳ね馬が! その右手には跳ね馬がデザインされた花壇があり、その少し先にはフェラーリのサインが銅像化されているのを発見しました。 さすがフェラーリ一色な街だな、というのが第一印象でした。 そしてこちらのカフェの入り口では、2台のフェラーリがお客さんを出迎えてくれます。 こちらのカフェの裏側にもフェラーリが。 もはや博物館に行かなくても、マラネッロの街を散策するだけで良かったのでは?!と思ってしまうほど、フェラーリがあちこちに点在しています。 (でも限定グッズやお土産も豊富なので、マラネッロへ来たからにはやっぱり博物館はマストです!) カフェのコンセプトはもちろんフェラーリ。 また別のカフェではレースの実況を放映しており、地元民であろう方々が盛り上がっていて、やはりフェラーリ愛にあふれた街であることは間違いなさそうです。 ■突然鳴る鐘は何事?!なんと市役所にもフェラーリの秘密が… イタリアでは12時など、きりの良い時間に教会の鐘が鳴るのですが、マラネッロでは何でもない時間帯に鐘が鳴ることがあります。この鐘の正体を近くにいた警備員さんに聞いてみました。 すると、「フェラーリがF1で優勝すると鐘が鳴るんだ」と教えてくれました。 ちょうど立ち寄ったカフェの前に市役所があり、日曜日にも関わらず空いていたので、入ってみることに。 なんと入口がフェラーリのミニ博物館になっていました! 創設者の「エンツォ・フェラーリ」の写真をはじめ、博物館では展示されていないフェラーリの歴史についての展示物がいくつかありましたので、ご紹介したいと思います。 フェラーリファンの方では有名な話かもしれませんが、なぜフェラーリは跳ね馬がエンブレムに選ばれたか、ご存知でしょうか。 まず、下記の写真について説明少し説明させてください。 写真左手がフェラーリが残した跳ね馬について語った羊皮紙、中央の左手ははがきで使われた跳ね馬デザイン、中央右手に現在のフェラーリのエンブレム、写真右手がフランチェスコのお母様(フランチェスコについては下で説明します)、そして中央がフランチェスコ・バラッカの写真です。 フェラーリが残した馬について語った羊皮紙には、下記の文章が書いてあります。 “跳ね馬の物語はシンプルで魅力的なんだ。 この小さな馬は、第一次世界大戦のエース中のエース、モンテッロで墜落した英雄的飛行家フランチェスコ・バラッカの戦闘機の機体に描かれていたものだ。 私が23年にラヴェンナで開催された第1回サヴィオサーキットで優勝したとき、その英雄の父エンリコ・バラッカと母パオリーナにお会いし、知り合うことができた。 そしてある日のこと、彼らが私にこう言ったのだ。 「フェラーリ、息子の跳ね馬をあなたのクルマに乗せてください。それはあなたに幸運をもたらすでしょう」と。 そのエンブレムを私に託してくれたご両親の献辞とともに、私は今でもバラッカの写真を大切に保管している。 小さな馬は昔も今も黒色のままであるが、私はモデナの象徴色である黄色を背景に加えたのだ。” これがフェラーリが残した跳ね馬の物語なんですね。 実際の写真の展示はなかったですが、フランチェスコ・バラッカが乗っていた機体の絵の展示がありました。 確かにフェラーリと同じ跳ね馬が機体に描かれているのがわかります。 市役所は決して展示物が多いわけではありませんが、フェラーリの歴史について触れることができ、面白かったです。 帰り際にはこちらのハガキを好きなだけ持って帰っていいよいってくださり、一枚ずついただいて帰ってきました。 ■おわりに フェラーリが誕生した街は、フェラーリ愛に溢れたのんびりとした街でした。 ぜひフェラーリファンの方、イタリア旅行の際、足を運んでみてはいかがでしょうか? きっと、生誕の地ならではのオーラを感じられるはずです。 [ライター・画像 / PINO]
日本が世界に誇るスーパーカーといえば、真っ先に思い浮かぶのが「日産GT-R」という方も多いのではないだろうか? 日産GT-Rといえば、数々のレースでタイトルを獲得し、過去にはニュルブルクリンクで量産車史上最速タイムを叩き出した、日本を代表するスーパースポーツカーだ。 また、映画「ワイルドスピード」などでも起用されたことから、その名を世界中へと轟かせた。 現行モデルにあたるR35型は、2007年に登場して以来、日本、イギリス、アメリカ、中東など、世界中でカー・オブ・ザ・イヤーを獲得した、もはや伝説となりつつクルマといえる。 今もなお世界中で愛され続けるR35型GT-Rだが、2022年3月に欧州市場から撤退し、15年の歴史に幕を閉じた。 当然、ヨーロッパにもGT-Rファンは多く存在し、今でも度々自動車関連記事に出てくるほど人気のあるモデルだが、なぜ、このクルマが欧州市場から撤退することになったのか。 またドイツではどのように評価されているのか。 今回はドイツから現地調査をおこなった。 ■日産GT-Rは欧州で生産中止 日本が誇るスーパースポーツモデルは長年にわたり、ヨーロッパで多くのファンを獲得してきた。 そのなかの代表的なモデルが日産GT-Rだ。 欧州市場では2008年に発売され、フェラーリやランボルギーニなどと比べると……ではあるが、比較的手頃なスーパーカーとして成功を収めた。 そして、多くのファンがR35の後継モデルを期待していたなか、2022年3月に欧州市場から撤退することとなった。 その理由は、EUとイギリスの間で施行された、騒音をさらに削減することを目的とした通行騒音規制によるものだ。 象徴的なスポーツカーをヨーロッパ向けに改良し、音響規制を施すことはもはや価値がない。 ゆえに、多くのファンが待ち望んでいたR35の後継者を、ヨーロッパで入手することは今後できなくなってしまったのだ。 ■R35の愛称は「ゴジラ」 日産スカイラインGT-R(R34)の生産終了から5年、2007年に開催された第40回東京モーターショーにおいて、生産型のR35型GT-Rが初公開された。 このときから、GT-Rはスカイラインのいちモデルとしてではなく、「日産GT-R」として新たなスタートを切ったのだ。 初めて、日本やイギリスなどの右ハンドル市場だけでなく、左ハンドルの国でも販売された。 怪物級の車輌スペックであることから、海外での愛称は「ゴジラ」と呼ばれている。 欧州市場での販売時は、GT-R(81,800ユーロ)、GT-Rプレミアムエディション(83,500ユーロ)、GT-Rブラックエディション(85,200ユーロ)が用意されていた。 当初のGT-Rは3.8リッターV6エンジン ツインターボを搭載し、最高出力は485馬力を発揮。 現行モデルではさらに改良が加えられ、最高出力570馬力、「ニスモ」バージョンでは600馬力を発揮し、最高速度は315km/h、0〜100km/hはわずか2.8秒という驚異的なスペックを誇っていた。 また、イギリスの自動車雑誌「トップギア」では、485馬力を発揮する初代日産GT-Rが、シリーズ専用テストコースであるダンスフォール飛行場を周回し、シボレー コルベットC6、フォード GT、ポルシェ 911カレラGT、ランボルギーニ ムルシエラゴなどの、並み居る競合車を抑えて最速タイムで周回したと発表した。 ■ドイツでの評価とは? 欧州における日産GT-Rの生産終了というニュースは、ドイツ人にとって衝撃のニュースとなった。 ドイツ国内のサイトでは、度々GT-Rに関する記事が取り上げられており、名実ともスーパーカーとして非常に高い評価を得ている。 この国では、古くからGT-Rファンが存在する。 なぜなら、その歴史は1964年にまで遡る。 当時、日本のグランプリで4ドアの日産2000GTがポルシェ904からリードを奪ったことにより、多くのモータースポーツファンに衝撃を与えた。 1988年のR32型スカイラインGT-Rからは、「ゴジラ」の愛称でトップカテゴリーのスポーツカーとしての地位を確立した。 世界中で長年愛され続けてきたR35型GT-Rが、伝説の名車となるのもそう遠くはないだろう。 [ライター・高岡 ケン / 画像・Dreamstime]
寿司の世界には、握り、巻物、押し、炙り…といった種類(カテゴリー)があり、「まずは中トロの握りで!」と食べる順番すら楽しみであったりする。 冒頭から日本の食文化を語るつもりはないが(汗)、クルマ購入の際、まずはカテゴリーを念頭に置いておくことが第一歩といえ、そのカテゴリーを築いていったパイオニア(開拓者)にスポットを当てるシリーズ企画。 最終回となる3回目は、「コンパクト」カテゴリーを世間へ広く認知させていった、立役者にして開拓者の、ホンダ初代フィットの真の魅力に迫ってみたい。 今振り返っても、まさに「小さなスーパースター」である! ■今や月販1万台を超える超人気車もある「コンパクト」カテゴリー。現行4代目フィットの先祖が広く認知させていく トヨタならヤリスやルーミー、日産はノート、スズキはスイフト。そしてホンダはフィット(上写真。左はフィットクロスター)……など。 2023年現在、手軽に使える&乗れるクルマとして日本のユーザーに浸透したカテゴリーが「コンパクト」。 月販台数が1万台を超える超人気車もあり、ヤリスクロスやヴェゼルなど、コンパクトモデルのプラットフォームをベースに人気のSUVに仕上げたクルマもある。 この「巨大マーケット・カテゴリー」を築いた先駆者が、2001年に登場したホンダ初代フィットと言っていいだろう。 しかし、それ以前、小さなクルマが国産車になかったかといえばそうではない。 トヨタ スターレットや日産 チェリー、日産 マーチ、ホンダ シビック、ホンダ シティ、三菱 ミラージュなど、軽自動車とは一線を画す、登録車としての小さなクルマは人気が高かった。 思えばシビックはホンダのコンパクトカーの代名詞だった。 世代を重ねるたびに少しずつ巨大化し、現行モデルは全長4595mmもあるセダンクーペというカテゴリーに属している。 ……立派な姿になりましたね。 ■「MM思想」を体感できる室内。キャパでやってきたことは間違いではなかった…という証だ 前項で述べたように、少しずつ変化し、巨大化していくシビックに成り代わる、魅力的なコンパクトカーの開発が、ホンダには求められていた。 それを受け、1996年にはロゴ(上の写真)が誕生し、そのプラットフォームを流用したキャパが1998年に誕生。 ……が、いずれも人気を得ることはできず、残念ながら数年期間の販売という短命に終わった。 キャパは「キャパシティ」(許容範囲)という英語から取った名前のとおり、コンパクトサイズなのに室内が広いという部分が自慢だったが、コンパクトカーのわりには値付けがやや高めというマイナス面が行き渡り、販売面は厳しかった……。 が、それら2台の「イマイチな空気感」を断ち切ったのが、2001年登場の初代フィットだ。 ロゴ後継車とされるが、21世紀に入ったばかりのなか、ブランニューモデルの輝きが実に新鮮だった。 なんといっても最大の特色は「室内の広さ」。 ホンダの4輪モデルの根底に流れる「MM思想」(MMとはマンマキシマム・メカニズムミニマムを意味する)がここにあり!というパッケージング。 それは、スペース効率に優れたグローバル・スモールプラットフォームを採用した功績が大きく、コンパクトカーとは思えない広さに専門家も、ユーザーも驚いたものだ。 初代フィットを横から見ると、エンジンルームをできるだけ狭くした分、室内を広くとっていることがわかる。 MM思想の典型といえよう。 当時、筆者も乗り込み、「レジェンドより広いんじゃないの!?」と思ったほど(いや、マジです)。 世間に室内の広さでインパクトを与えたこの事実は、キャパでやってきたことは間違いではなかったということだろう。 ■日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、2002年は年間販売台数で登録車1位という快挙! もちろん、見た目のインパクトも絶大で、それまでのハッチバック・コンパクトカーとはベクトルが違う丸みがあり、どこか親しみが湧くデザイン。 女性ウケもよかった。 燃焼効率を高めた新開発の1.3Lエンジンで燃費もよく、シートアレンジも多彩。 普段の買い物はもちろん遠乗りでもストレスはなし。 「このクルマ、いいね!」 そう感じさせる出来映え。 さらに、筆者的には3連メーターが気に入っている。 デジタルメーター旺盛な今、改めて見ると、どこかスポーティな雰囲気にワクワクしますね! 初代フィット登場前にもトヨタ ヴィッツやマツダ デミオなどのコンパクトカーは多数あったが、フィット人気は絶大。 その2001年、日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞という快挙も成し遂げた。 2002年以降、トヨタ ist (イスト)や日産 マーチの新型が発売されるなど、各メーカーはコンパクトカー・カテゴリーにも重きを置く戦略を敷く。 それでもフィットは売れまくり、2002年の年間国内販売台数は、なんと25万790台。 33年間トップを維持していたトヨタ カローラを抜き、登録車1位になった。 「新しい時代の国民車」といっていい存在となった瞬間である。 ■初代の魅力をしっかり受け継いだ2代目と3代目。「コンパクトカーの顔」となっていくフィット 室内パッケージングに革命をもたらし、年間販売台数1位を記録。 さらに日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞と、数多くの勲章を得た初代フィット。 コンパクトカー・カテゴリーのベンチマーク的存在となり、その後、誕生する日本のコンパクトカーたちに多大なる影響を与えたクルマであったことは間違いない。 まさに「コンパクトカー・カテゴリーの開拓者」である。 そして、ホンダ フィットの2代目(2007年誕生・上写真)は初代のDNAを受け継ぎ、2世代続けて日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、ハイブリッドモデルも追加される。 3代目(2013年誕生・下写真)はグローバル市場でも最量販車となることを目標にしたモデルで、顔つきがシャープに変わったことが話題を呼んだ。 現行4代目(2020年誕生)は、クロスターという時代のニーズに合わせたクロスオーバーモデルも設定するなど、バリエーションの妙が実にユニーク。 目(ヘッドライト)が初代のように丸っこいものに戻ったのもエクステリアの特徴だ。 正直、売れゆきはいまひとつの現行4代目モデルだが、筆者は好きである。 「この室内の広さにはやっぱり驚く!」 初代が生み出した「賜物」は、4代目でもしっかりと体感できる。 [ライター・柴太郎 / 画像・photoAC、Dreamstime、Honda]
■クイーンの生涯とともに歩むLand Rover 1948年、女王エリザベスは21歳という若さでクイーンとなりました。 あの美しさからは想像できませんが、若いころから冒険家で好奇心旺盛、家のなかより外へ出て活動することを好んでいたそうです。 自らメカニックについて勉強し、クルマの知識も一般人よりはあったといいます。 第二次世界大戦中は、軍用車を運転していたほどです。 クルマ好きのクイーンが所有していた車輌は、アストンマーティンをはじめ、ロールスロイス、ベントレー、ジャガー、GM、フォルクスワーゲンなどさまざまですが、そのなかで彼女にもっとも愛され、生涯乗り続けたクルマが、ランドローバーでした。 21歳のころクイーン憲章を受けたとき、憲章と一緒に父が所有していランドローバーも受け継ぐことになりました。 数々のクイーンを写す映像や写真はいつもランドローバーと一緒で、このクルマに乗ってパレードをしていたこともありました。 クイーンの住むバッキンガムパレスはロンドンにがありますが、ノーフォークという田舎町にも家があり、ほとんどの時間はそこで過ごしていたようです。 王室の仕事以外は、シカを追って銃ハンティングしたり、山でのピクニック、馬の世話と乗馬など、趣味も多岐に渡っていました。 そんな趣味のためにはこのクルマは必須であったようで、彼女にとってフィールドを走るのにランドローバーが最適だったのでしょう。 ■Land Roverと英国皇室の長い歴史 ランドローバーが製造されたのは1948年で、オリジナルのLand Rover社によってこの世に出始めました。 皇室との結びつきは約70年に及び、Land Rover社がクイーンの父ジョージ6世に献上したことから、王室との付き合いが始まりました。 1951年、Land Rover社は王室から勲章を与えられ、王室の特別な自動車ブランドとなったのです。 またクイーンの夫であったエディンバラ公フィリップ王配もランドローバーの大ファンであり、彼もまたアウトドア派であったため、夫婦ともにランドローバーが生活にかかせないものでありました。 王室パレードの際は、必ずといっていいほどランドローバーでのお目見えでしたので、英国民誰もが知っているほど、クイーンとランドローバーの付き合いは深いものでした。 何台かのランドローバーのうち、クイーンが好んで運転していたのは、ランドローバー ディフェンダー110でした。 初代のランドローバーは普通サイズで見た目もかっこよくなく、贅沢さが一切ないオフロード用、すなわち山道やでこぼこ道を走るためのものでした。 しかし1984年にディフェンダーシリーズができ始めてから、ディフェンダー90、その後110、127、130などが製造され、外見や性能なども磨かれていきました。 ■ランドローバーはそもそもオフロード用に製造されたクルマ クイーンや王室にはとっても好かれていたランドローバーですが、その乗り心地はどうなのでしょう。 まず、最初にいわれるのがサスペンション。次に大きくて重ステ、足元は飛行機のエコノミークラスと同じくらい狭い、エンジン音が大きい、外見がかっこよくない、故障しやすわりに簡単に修理ができない、などなど…。 ランドローバーはそもそもオフロード用に製造されたため、農家のクルマなどと呼ばれていたこともありました。 一般の国民にとって日常生活に必須のクルマであれば、あえて農家のクルマなど選択しないでしょう。 逆に少数派ランドローバーファンにとってのこのクルマの魅力は、象徴的なデザインと四駆ならではのパフォーマンスであるといいます。 デコボコの山道を走る際、サスペンションの悪さゆえに体が上下にゆれたり、沼地にはまったときのランドローバーの見せどころなど、これらを楽しむ人もいるのです。 また車体の各パーツは頑丈で、強度の高いもが使用されていたり、クルマのフレームはアルミニウムを使った梯子型に作られており、剛性を増しています。 エンジンは、初期の1948年製は1.6Lガソリンエンジン、1958年には2Lエンジンができ、その後は徐々に大きさを増していって、ディーゼルエンジンも使用されるようになりました。 他にも、4シリンダーエンジンから、さらにV6エンジン搭載となり、馬力も徐々にアップされていきました。 ちなみに、初期のまだそれほど馬力がないオリジナルランドローバーは、第二次世界大戦中にはジープ同様、軍用車としても活躍していたのです。 ■Land Rover は、いまやセレブリティ車 クイーンはランドローバーの他にも、いくつかのクラシックなレンジローバーも所持していました。 特にお気に入りなのは、2004年製レンジローバー ヴォーグでした。 レンジローバーはランドローバー社のラインアップのひとつであり、1970年代からフラッグシップモデルとして認識されています。 2013年にJager Land Rover社に代わってから、莫大な数のレンジローバーを世に売りだしてきました。 ランドローバーの各モデルはオフロード向け、そしてレンジローバーは、もっとゆったり感と贅沢さを加えたSUVという位置付け。 この贅沢なレンジローバーが、一般層にも人気が出てくるようになりました。 それはセレブリティ達が乗るようになってきたからです。 キーンの名曲「Somewhere only we know」をカヴァーしたことでも有名な歌手リリー・アレン、映画「アンブレイカブル」シリーズに出演しているサミュエル・L・ジャクソン、映画「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」で数々の主演女優賞に輝いたリース・ウィザースプーンなどが所有しています。 最近ではランドローバー車全体がブラッシュアップされ、外見もスマートになり、品格を感じさせる方向性へシフトされました。 乗り心地のよい贅沢さや洗練さを追求するために、もちろんサスペンションのコイルも変え、ハンドルを軽くし、もっと静かに、そして車内には広いスペースを確保。 インテリアにもこだわりの素材を使用して、一般人が憧れるクルマへと進化していきました。 現在では、クイーンもよく運転していたディフェンダー110のニューモデルが発売されています。 かなりのお値段ですが、こちらも現代的かつ贅沢さを備えている素敵なクルマです。 70年以上の年月とともに、農家のクルマが贅沢な高級車へと変化してきた理由の根源にあるものは、やはりこのクルマが王室から始まり、クイーンに溺愛されてきたからだと思います。 クイーンが亡くなった今も息子のチャールズ現国王へと受け継がれ、ロイヤルファミリー全員に可愛がられています。 そのためクラシックランドローバーは、今後ますます希少なものとなるでしょう。 もし機会があるのならば、私は「とっても乗り心地が悪い」と指摘されることもある、初期のランドローバーに乗ってみたいと思いました。 [ライター・SANAE / 画像・Land Rover]
前回、旧車界のアイドル「S30型 フェアレディZ」の魅力をお伝えする「基本編」をお送りしました。 今回はその続きとなる「中級編」をお届けしようと思います。 みなさんは初代のフェアレディZというと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか? 近年の旧車ブームから旧車に興味を持った人や、マンガの「悪魔のZ」が好きな人は、ショートノーズのスタイルを想像するでしょう。 その一方で、私のようにスーパーカーブームのころZに出会ったという人や、タミヤなどの模型で知ったという人などは、ノーズ先端が流線型に尖った「Gノーズ」を装着した「240Z」のスタイルを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。 この、どちらがS30型のフェアレディZっぽいのか?というイメージは前述のように人それぞれで、おそらくそのまま好きなZの姿と一致しているのではないかと思います。 ちなみに私は「どちらも好き」です(笑)。 初めて見て心を奪われたのは240Zの流麗な姿でした。 前回お伝えしましたが、スーパーカーブームの時に、大判のスーパーカーの写真集に堂々と載っていたのがマルーン(あずき色)の「240z」でした。 ランボルギーニやフェラーリ、マセラティなどのスーパーカーに魅了されていた同級生達と写真集を囲みながら「おれはカウンタック!」「じゃあボクは512BBもらう!」なんてワイワイいい合っていたなか、それらのイタリアン・スーパーカーに後ろ髪を引かれつつ、「日本のフェアレディZもかっこいいよ!」と言った私に対して、周囲の反応は真っ二つに分かれたのを覚えています。 赤や黄色など華やかなボディカラーをまとった、いかにもエキセントリックな形のスーパーカー達に比べると、わりと身近な感じがするZのデザインとマルーンの地味なカラーは、少年達の心を奪うにはいささか物足りなかったのかもしれません。 ただその当時、そんな友達といっしょに自転車で走っているときにZとすれ違えば、やっぱり他の乗用車とは異なる存在感と、走る姿のカッコ良さに、しばらくみんなで見とれていたシーンも忘れられません(淡い記憶では、白の240Zだったと思います)。 そして時が経ち、オトナになってから改めて出会ったZは、ショートノーズでした。 オトナになった私の、子供時代からのZに対する印象をガラッと塗り替えてしまった車輌は、ゼロヨンのコースで現行車に負けない迫力の走りを見せつけていました。 その迫力と共に、ノーズの短いスッキリとしたスタイルリングが、私の心にしっかりその存在感を刻みつけたのでした。 ■Gノーズ装着の「240Z」の誕生と根強い人気のワケ 「240Z」はS30系・フェアレディZの派生モデルの一つで、流線型のノーズカウルとリヤゲート後端のスポイラー、そしてリベット止めのオーバーフェンダーが装着された性能上位モデルとして、初期の発表から2年後にラインナップされました。 旧車ファンの間では「240(ニーヨンマル)」または「240Z」といえばGノーズ装着のモデルを指しますが、正式名は「フェアレディ240Z-G」となります。 さらにいうとこの「240Z」の元祖は、北米輸出仕様の「ダットサン240Z」です。 排気量が大きく広い土地を突っ走るアメリカ車の市場に食い込むため、1,998ccのL20型エンジンのボア&ストロークをアップして、2,393ccに拡大したL24型エンジンを搭載した左ハンドル仕様の車です。 意外と知らない人もいるかもしれませんが、「240Z-G」と同じ時期に、「ダットサン240Z」を逆輸入したようなショートノーズの「フェアレディ240Z」も併売されていました。 このGノーズは見掛けだけのものではなく、れっきとした空力パーツとして開発されたものです。 「240Z」同士でショートノーズの車両と最高速度(カタログ値)を比べると、ショートノーズ車の205km/hに対して、「240Z-G」は210km/hと5km/hアップしています。 参考までに、L20型搭載の初代フェアレディZの最高速は185km/hです。 当時は、カタログや雑誌で発表される最高速の数値を見てはスポーツカーのファン達が一喜一憂していた時代なので、この5km/hの差はけっこう大きいものでしたが、近年の300km/hオーバーが当たり前の時代では誤差のような数値でしかありません。 しかし、今の旧車ファンの心を捉えている要素はもはやそこではなく、やっぱりあの流麗なシルエットに惹かれて憧れたという人が多いのではないでしょうか。 ■もうひとつの派生モデル「Z432」がいかに特別だったのか 当時の日産が力を入れていたのがレースで勝利することでした。 日本でもツーリングカーレースの観覧席が毎回満席になるほどの盛り上がりを見せていた時代で、フェアレディZのイメージアップのためにレースで勝つという目的で高性能モデルの「Z432」を投入しました。 レースで勝つための最大のポイントとなるエンジンは、当時合併したばかりのプリンス自動車が開発した、レース用エンジンとほぼ同じ設計である「S20型」が搭載されました。 「432」の由来は4バルブ・3キャブレター・2カムシャフトという意味で、今風に言うとDOHCの高性能設計エンジンに、競技用のスポーツ・キャブレターを装着、という感じです。 当時の国産車で4バルブ機構を持つエンジンは他に無く、160馬力というパワーは2000ccクラスのエンジンとしてはぶっちぎりの性能でした。 そのため、市販車を改造した車輌にもかかわらず、ほぼレース専用設計の車輌(ポルシェ908やフォードGT40など)とレースで互角に渡り合い、狙った以上のイメージアップを達成しました。 実物の「Z432」を見掛ける機会が何度かありましたが、そんな素性にもかかわらず、低回転での排気音は意外なほど静かで、「さすがに市販車はいろいろ規制されているんだな」と思いました。 しかし、エンジンの回転を上げたときにその印象はガラッと変わり、精密な部品が高回転でキレイに作動したときに生まれるキレイな高音を響かせていたのが印象に残っています。 ■当時と今では人気の度合いがまるで逆!?4シーターの「2by2」 初代の発売から4年後に施行された「48年排出ガス規制」によって、高出力なモデルが直撃を受け、「240z」や「Z432」がカタログから姿を消していきました。 そんななかで追加されたのが、ボディ中程を延長して4シーターにした「2by2」です。 イメージリーダーだった高性能モデルが無くなり、活気が削がれた感のある販売状況でしたが、この「2by2」がカンフル剤として効き、フェアレディZの売り上げをV字回復させました。 当時のフェアレディZは2シーターだたっため、一部の限られた層にしか需要がありませんでしたが、この4シーター化によってファミリー層にも需要が広がったのです。 その結果、S30系全体で最も多くの販売台数を記録したモデルとなったそうです。 しかしこの人気は近年の旧車ブームになると真逆といって良い状況になってしまいます。 美しいフォルムを持つ昔のスポーツカーというイメージで見たときに、「2by2」の長いフォルムが野暮ったく受け取られ、一転して不人気車扱いになってしまったのです。 昨今に目を向けると、フェラーリやポルシェの4シーターモデルがひとつのジャンルを確立している状況もありますが、趣味のクルマとしてのS30系・フェアレディZはやっぱりカッコ良さが第一、ということなのでしょう。 ちなみに、ここ数年の旧車ブームの様子を見ていると、徐々に「2by2」の人気が上向いてきた気配を感じます。 運転席に収まってしまえば2シーターのZと何ら景色は変わりませんし、趣味と実用性を兼ねて1台持ち、というスタイルの旧車ファンが「2by2」を求めるようになってきたようです。 ■おわりに この後は、昭和51(1978)年に施行され、さらに基準が厳しくなった「51年排出ガス規制」に対応させるため、キャブレターだった燃料供給装置がインジェクションに置き換わったり、触媒の装着など排気ガス規制対策デバイスが追加されました。 さらにパワーウインドウの導入などの電動化が始まったりと、細部に変更が加えられましたが、昭和53年に次期モデルの「S130系」にバトンタッチされ、生産が終了となりました。 世界全体では55万台もの数が生産されて、歴代のZの中でもトップと言われるS30系・フェアレディZですが、現存する台数は見る影もありません。 昨今は、手に入らないといわれていた外装パーツのリビルド品も増えてきたようで、ダメージを受けても修理が容易になってきたようです。 とはいえ、まだまだ替えが効かないパーツも多くあります。 ドライブに出掛けた後は水分を飛ばしてやるなど、できるだけケアをおこない、末永く一緒に過ごせるように目を掛けてあげてください。 次回はフェアレディZの系譜とその魅力【S30系・マニアック編】をお届けする予定です。 お楽しみに。 [ライター・往 機人 / 画像・日産]