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車好きに人気の映画作品・TAXiシリーズ。フランスの道をプジョー406が暴走するシーンに胸が高鳴った人も多いのではないでしょうか。他にもラリーカーやネオクラシックベンツ、国産スポーツカーも活躍します。この記事では映画TAXiシリーズのなかでも、特にカーアクションが多い作品に登場した名車を紹介します。 映画TAXiとは TAXiはフランスの人気映画監督リュック・ベッソンが脚本・製作を務めたアクション・コメディ映画です。スピード狂のタクシー運転手・ダニエルとダメ刑事・エミリアンが手を組み、大迫力のカーアクションを繰り広げながら事件を解決していく様子が描かれています。1998年に1作目が公開され、世界中でヒットしシリーズ化しました。リュック・ベッソンは1〜5作目までの脚本を手掛けており、車好きにはカーアクションのシーンが多く登場する1〜3作目がおすすめです。 映画TAXiで活躍した名車を紹介 ここからは映画に登場し活躍をした名車を紹介します。 プジョー406 まず紹介するのは、主人公ダニエルが1〜3作目で乗るプジョー406です。作中ではスイッチ操作によって車高が下がりエアロパーツが現れて変身します。普段はどこにでもあるTAXiですが、ダニエルが本気を出す時はレーシングカーのような姿に変形します。さらにシリーズが進むにつれてカスタムの幅は広がり、雪山仕様やニトロの搭載、空中での姿勢制御までできるようになるところも見所です。 ベース車輌のプジョー406はフランスのミドルクラスセダン。エンジンは2.2Lの直4で最高出力は158psと普通な印象ですが、映画で暴走するTAXiにはどのような改造を施したのか気になるところですね。 しかし、TAXiをハイパーカーにしてしまうアイデアには驚嘆した方も多いのではないでしょうか。映画公開後、日本国内では一部にしか知られていなかったプジョーの知名度が一気に高まりました。 メルセデス・ベンツ500E(W124) 次に紹介するクルマは1作目の敵役、強盗団が乗っていたメルセデス・ベンツ500E(W124)です。500EはW124の中でも特別中の特別モデルであり、ポルシェが作ったベンツとして知られています。 1991年〜1995年にかけて製造された500Eでは、ポルシェがベンツから供給されたボディパーツを使って開発・製造を行い、最終的な塗装をベンツの工場で行った後、再度ポルシェでエンジン等を取り付けました。両工場間を行ったり来たりして完成されたコスト度外視のコラボ作品がメルセデス・ベンツ 500Eです。5LのV8エンジンを搭載し、ワイドフェンダーなどの専用装備が施され、異彩を放っています。 ポルシェが開発・製造を手掛けた500Eは別格の人気があり、中古市場では状態のよいもので1,000万円以上のプライスタグがついています。スペック上では最大出力326ps、0-100km/h加速は6.1秒と現代の車と比較するとさほど差はありませんが、車づくりに込められた想いから今でも熱狂的なファンに支持される程の人気を誇っています。 三菱 ランサーエボリューションⅥ シリーズ2作目の敵として登場した暴力団のクルマが、ランサーエボリューション(通称ランエボ)Ⅵです。作中で使用された車輌についていたナンバープレートが千葉ナンバーだったため話題になりました。フランスのオシャレな街中を千葉ナンバーのランエボが駆け抜けるシーンには多くの日本人が歓喜したでしょう。 ランエボシリーズも500E同様に熱狂的なファンが多く存在する車輌の一つであり、人気の理由はなんといってもWRCでの活躍です。5ナンバーサイズの4ドアセダンがベースのハイパフォーマンスカーで、日常での使い勝手の良さもありながら、ラリーでも輝かしい成績を残しています。ラリードライバーの名前を冠した特別仕様車トミーマキネンエディションは、2021年にイギリスで開催されたオークションに出品された際、日本円換算1,500万円以上で落札されました。 プジョー306MAXI 2作目の序盤に登場したのは、プジョーのラリーカー306MAXI。ダニエルの運転するプジョー406がラリーカー306MAXIを煽って追い抜くシーンが印象的です。ダニエルのTAXiが異次元の速度を出すため目立ちませんが、プジョー306MAXIも1998年のモンテカルロラリーを制する程、実は凄まじく速いクルマです。中古市場にレプリカが稀に出回っており、300万円以上の値がつきます。 三菱 ランサーエボリューションVI シリーズ3作目に登場するパトカーにはランサーエボリューション(通称ランエボ)VIが使用されました。高速道路を爆走するダニエルのプジョー406を追尾して一度は追いつくものの、最終的にニトロスイッチを使われて引き離されてしまいました。2作目までのプジョー406なら勝てていたかもしれないといわれるクルマがランエボVIです。 このモデルからランエボ初のATが設定されました。MTモデルより車重が160kg増加(RSグレードとの比較)し最大出力が若干下がり272psと変化しましたが、本格的なラリーカーを手軽に操作できると人気を集めました。 ランエボVIはデビューから20年以上経過しましたが、中古市場では今でも高値で取り引きされています。10万km以上走行した車輌であっても200万円以上の値段がつくものが多く存在しています。
2023年の今、マツダ「ボンゴ」というと、トヨタからのOEMとなる商用車「ボンゴバン(タウンエース)」と「ボンゴブローニィバン(ハイエース)」となりますが、かつてはトヨタ「タウンエースワゴン」や日産「バネットラルゴ」などと同様の(どちらも絶版ネームですが)乗用タイプ1ボックスワゴンでした。 1983年に登場した3代目は、フォード「スペクトロン」としてオートラマ店も販売され、三菱「デリカスターワゴン」にも似た雰囲気のRVテイストで一定の人気を獲得。 しかし、1990年代に入ってもフルモデルチェンジは行われず、古さが目立ってきたものでした。 そんな中、1995年に突如として登場したのが、「ボンゴ フレンディ」です(フォード版「フリーダ」も同時に)。 ▲ボンゴフレンディ シティランナーNAVIエディション(2002年) 完全なワンボックススタイルから、衝突安全性への対応のため短いボンネットがついたセミキャブオーバー(エンジンは運転席下のままだった)となり、昭和の面影が残るスタイルから平成時代のテイストへとチェンジ。 しかし、ボンゴ フレンディの真骨頂は、「屋根」にありました。 「オートフリートップ」です。 ■画期的な車中泊テント標準装備 「オートフリートップ」とは、いわゆるポップアップルーフのことで、車中泊などアウトドアユースを意識したもの。 他社にもこうしたルーフを持つモデルはありましたが、特装車扱いで、通常グレードの中にラインナップされたことが画期的でした。 ▲ボンゴフレンディRFS Aero(2001年) テレビCMや新聞広告でも、このオートフリートップが盛んにアピールされ(ここしかアピールされなかったともいう…?)、「ボンゴ フレンディ=屋根が開くワゴン」というイメージが定着。 乗用ワゴンとしては特殊な仕様ではあったものの、当時、流行っていたオートキャンプブームの波に乗って、多くの台数が売れました。 オートフリートップは電動でルーフがポップアップし、テントが出現。 車内が2階建てになるという仕組み。その広さは、大人2人の就寝スペースとして使えるほどでしたから、なかなかのものです。 ▲オートフリートップ ▲RFS Aeroのインテリア (全高以外は5ナンバーサイズだったけど)スクエアで立派に見るスタイリングも相まって、「家族思いの頼もしいお父さんのクルマ」というイメージが定着し、一定の成功を収めます。 以後、同様のルーフを標準ラインナップの中に持つモデルは、日本メーカーから出ていません。 そういう意味では、唯一無二の「名車」といえます。 ■一世代限りで終わった「そんな時代」 では、「迷車」の要素は? それは、わずか一世代で終わってしまったその存在感にあります。 たしかに、キャブオーバーからFFベースのミニバンへの過渡期にあったセミキャブオーバーというパッケージングは、やや中途半端な存在ではありました。 しかし、それは日産の初代「セレナ」だって同じ。 ▲バネットセレナ(1991年) でも、セレナはFFベースへとパッケージングを改め、“カジュアルなスタイルの5ナンバーミニバン”というキャラクターを変えることなく、生き続けました。 一方のボンゴ フレンディは2006年に生産を終了すると(意外やロングセラーでした)、フルモデルチェンジを行うことなくフェードアウト。 約2年のブランクを経て、マツダはFFベースのミニバンを「ビアンテ」として発売します(これも10年販売されフェードアウトした名車&迷車といえそうです)。 もちろん、オートフリートップの設定はありません。 ▲ビアンテ(2008年) ビアンテを“事実上の後継車”と見る向きもありますが、ボンゴ フレンディの要素はキレイサッパリなくなってしまったのです。 だからといって、マツダの判断が間違っていたとはいいません。 なぜなら、“そんな時代”だったから。 1990年代後半は、ホンダ「オデッセイ」や「ステップワゴン」がヒットし、日産が「エルグランド」で高級ミニバンというジャンルを開拓。 それと相関するように「ハイラックスサーフ」や「パジェロ」といったクロカン4駆の販売が下降し、RVブームが終焉を迎えます。 そして2000年代に入ると「ヴォクシー」や「アルファード」も登場し、3列シート車に求められるものが、1990年代とはまったく異なるものに変わっていくのです。 ■もしも、登場が3年早かったら・・・? 仮に2代目ボンゴ フレンディが2000年代半ばに登場していたところで、オートフリートップ車がたくさん売れる状況にはならなかったでしょう。 事実、ボンゴ フレンディは1999年にエアロパーツ装着グレードを追加し、販売の主力はエアロ仕様に移っていきました。 ▲ボンゴフレンディ シティーランナーIV (2002年) オートフリートップ標準装備のボンゴ フレンディが登場し、10年でモデルライフを終えたのは、まさに“そんな時代”だったからなのです。 ボンゴ フレンディというクルマそのもの、というよりも、惑う時代の中で生まれた結果、その存在感が迷車とさせた。そういったほうが正確かもしれません。 歴史に「もしも」はありませんが、ボンゴ フレンディの誕生が1995年ではなく、オデッセイ発売前夜で、パジェロが飛ぶように売れていた1992年だったら。 あるいはエスティマ誕生と同じ1990年だったら……。 もしかしたら、オートフリートップが爆発的に売れ、マツダやRV車の歴史を変えていたかもしれません。 そう考えると、名車と迷車は紙一重。 だから、こうして「名車&迷車」として書き記しておきたかったのです。 [画像:マツダ、日産自動車/ライター:木谷宗義]
1966年に初代がデビューし、現在販売されているのは2019年登場の12代目という、トヨタの看板車種にして、超ロングセラーモデルでもある「カローラ」。 その累計販売台数は5000万台を超えており、「ハイエース」や「ランドクルーザー」とともに世界で愛されている名車であることは間違いありません。 とはいえ、50年以上、通算12世代という長い歴史の間には当然、さまざまな試行錯誤や紆余曲折があり、中には迷いが見えたモデルも……。 それが、今回「名車&迷車」として取り上げたい、8代目カローラ(E10#型)です。 ▲1995年 8代目カローラ ■コンセプトは「ベストコンパクトカーの創造」 8代目カローラは、1991年から4年にわたって販売されてきたE9#型モデルに代わって1995年に登場しました。 当時のプレスリリースでは、「トータル コスト オブ オーナーシップに配慮した社会との調和をめざすベストコンパクトカー誕生」が掲げられ、次のように説明されています。 「コンパクトカーの本質を追求した『ベストコンパクトカーの創造』を狙いに、ジャストサイズや高い品質を維持しつつ、まず、社会との調和をめざすという観点から、省資源、省エネルギーおよび安全性を追求。 そして、デザインを一新するとともに、走行性能を飛躍させた上で、価格、維持費を抑え、トータル コスト オブ オーナーシップに配慮している」 7代目カローラは、バブル期の波に乗り高級化。しかし、バブルが弾けてコンパクトファミリーセダンたるカローラの存在価値が見直され、「社会との調和」や「価格、維持費を抑え」といった言葉が並んだのです。 参考までに7代目では、「21世紀に向けて、『新時代を見すえた次世代基準の創出』を基本コンセプトに、来るべき“心に響く感動を求める時代”にふさわしい、新しいクォリティをもつグローバルジャストサイズカーをめざして開発した」と謳われていましたから、イケイケなバブル時代から、コストなどを考えざるを得なくなった時代背景が浮かんできます。 実際、7代目カローラは高級化路線に乗って開発され、「セルシオを意識した」とも言われます。内外装の質感も高く、市場でもそれが受け入れられました。 ▲1991年7代目カローラ 一方、フルモデルチェンジにより8代目となったカローラはというと、見るからに質素。 「ぶつけても目立たず、また部分交換で補修も容易に」と配慮され、無塗装ブラックのパーツを装着したバンパーは高級感に欠き、ナンバー位置がバンパーから6代目以前のようにトランクリッドへと移されたリヤは、どこか1980年代的でありコンビランプの形状や配色もあって、安っぽく見られてしまったのです。 ▲1995年8代目カローラのリヤまわり ■ベーシックセダンであるがゆえのジレンマ? カローラというクルマの基本に立ち返り、「カローラってこういうものだよね」とベーシックセダンとしての姿を追求したこと自体はよかったものの、どこかで「カローラってこんなもんだよね」と、ベーシックセダンであるがゆえに上を見ることを忘れてしまったかのようでした。 これまで、「上級化」「高級化」を目指して進化してきたからカローラが、初めてその路線での歩みを止めてしまったのです。 これはもちろん、双子車の「スプリンター」も同様でした。 ▲8代目カローラのインテリア この変化をユーザーは受け入れられず、8代目カローラは迷走。デビュー翌年の1996年には、エクステリアの売りの1つであった無塗装ブラックのバンパーモールをシルバーに塗る仕様変更を行い、1997年のマイナーチェンジではついに別体モールを廃した一体型のフルカラーバンパーに変更されました。 また、インストルメントパネルのソフトパッド化など、インテリアの質感アップも実行。 モデルライフ後半には、すっかり“従来路線”に戻されたのです。 ▲1996年 カローラ 一部改良モデル ▲1997年 カローラ マイナーチェンジモデル ちなみに、最大のライバルであった日産「サニー」も、1993年の8代目はカジュアルで若々しい雰囲気で登場しましたが、こちらもマイナーチェンジでメッキのグリルを採用するなど、カローラと同様の変更が行われました。いずれも、試行錯誤が実らなかったというわけ。 ■マイナーチェンジによる軌道修正が功を奏した カローラの販売台数は、「カローラワゴン」「カローラレビン」「カローラFX」を含めた“シリーズ合算”となるため、セダン単体での台数は不明瞭ながら、1995年に発売された翌年は販売台数を減らし、質感アップのためのマイナーチェンジが行われた1997年は1995年を超えるレベルにまで回復しています。 マイナーチェンジによる軌道修正は、功を奏したといえるでしょう。 ▲1997年 カローラ マイナーチェンジモデルのリヤまわり その後、8代目カローラは2000年まで生産が続き、NCVカローラと呼ばれた9代目へとバトンタッチします。 NCVには、「New Century Value=新しい世紀の価値」という意味があり、キャッチコピーは「変われるって、ドキドキ。」でした。 ここからも8代目に対するトヨタ社内の評価が見えるような気がします。 ▲9代目 NCVカローラ では、8代目カローラはダメなクルマだったのでしょうか? 販売的には成功しなかったかもしれませんが、そこはトヨタが真面目に考えた世界のカローラです。 実用的な世代としての実力は高く、手堅く作られたクルマだったといえるでしょう。 一部の輸入車好きの中には、軽量な1.3リッターモデルに対し「どこかフランス車のような乗り心地だ」と評する人もいたほど。 あまりに真面目に作りすぎてしまったがゆえに、内外装のコスメティックを間違えてしまった……。これが8代目カローラを迷走へと導いてしまった要因でしょう。 ■昭和的価値観の終わりに でも、仮に8代目カローラが当初から後期型のような内外装で発売されていたとしても、「結果はあまり変わらなかったのではないか」と筆者は見ています。 「名車&迷車烈伝」で何度も触れてきたように、1990年代は激動の時代です。1990年代後半は、日産「キューブ」やマツダ「デミオ」といった実用的でおしゃれなコンパクトカーも生まれてきますし、ファミリーカーは「イプサム」やホンダ「オデッセイ」といった3列シートミニバンに移行していきます。 もうファミリーカーとしてコンパクトなセダンを求める若年層は、いなくなっていたのです。きっと8代目カローラは、どんな形で出ていたとしても、悲運な世代となっていたのではないでしょうか。 [画像:トヨタ/ライター:木谷宗義]
去る4月14日〜16日にかけて、幕張メッセで開催された「オートモビルカウンシル2023」を取材した。 早いもので、今回が8回目の開催となるオートモビルカウンシル。 今回より「Classic Meets Modern」から「Classic Meets Modern and Future」にテーマが改められ、新たなステージを目指したという。 日本車メーカー、インポーター、新世代の自動車メーカーが9社、ヘリテージカー販売店は過去最高となる41社が出展。 トータル166台もの名車が一堂に会することとなった。 ■クルマを「観る」というより「鑑賞」する感覚に近い モータショーでもなければチューニング系のイベントでもない。 国内外の名車が一堂に会するクルマのイベントは意外と少ない。 そしてこれが重要なのだが、オートモビルカウンシルの魅力のひとつに「じっくりと観られる」ことが挙げられる。 「鑑賞」という表現が適切かもしれない。 気になるクルマ、普段なかなか目にする機会がないクルマを心ゆくまで「鑑賞」できるのだ。 もし、目に留まったクルマが販売車輌であれば購入することもできる。 ……かといって「早い者勝ちのバーゲンセール」というわけではない(実際には早い者勝ちなんだけれど)。 また、クルマにまつわるアート作品が数多く展示されており、ギャラリーで美術品を鑑賞している感覚に近いかもしれない。 それだけに、会場内の空気感は独得だ。 また、来場者の年齢層が比較的高めなので、会場内の雰囲気もどこか落ち着いている。 会場内の時間がゆっくりと流れているのが取材をしていても分かる。 もちろん、それなりに来場者がいる……ことはいるのだが、東京モーターショーのようにお目当てのクルマに近づけないということは稀だ。 気になるクルマを撮影したければ、少し待てば「オールクリア」のチャンスがめぐってくる。 撮影したい人がいることを他の来場者も気がついて、自然と「間」を作ってくれるからだ。 そしてある種の慎みというか、マナーの良い方が多い印象だ。 この空気感がしっかりと醸成できている時点で、このイベントは大成功だと思う。 先述のように「ギャラリーで鑑賞している」雰囲気に近いので、この空気感を好む人たちにとっては非常に居心地がいいだと断言できる。 ■国内外の名車を間近で観られる幸せ 最新のモデルであれば、メーカーの広報車を集めて並べばいい(それはそれで大変だけれど)。 メーカーとしても秘蔵コレクションを出品するまたとない機会でもある。 マツダブースに展示されていた「マツダMX-81アリア(レストア済み)」が間近で観られるだけでも、このイベントに足を運んで良かったと思えたほどだ。 しかし、メーカーが保有しているケースは日本車が主で、輸入車ともなればは基本的にはオーナーカー。 つまり、オーナーに声を掛け、車輌を貸し出してもらえないか交渉する必要がある。 喜んで貸してくれるオーナーがいる一方で、難色を示す方も少なからずいる。 それが希少車であればあるほど大変だ。 筆者自身もさまざまなオーナーを取材させていただく機会に恵まれたが「人目に触れず、ひっそりとクルマ趣味を楽しみたい」という方も少なからずいらっしゃることは承知しているつもりだ。 正面突破ではまず断られるけれど「○○さんの紹介なら断れない」と、人のつながりで大切な愛車を貸してくれることも多い。 実際に裏でどのようなやりとりがあったのかは分からないが、テーマ展示でズラリと並べられた 〜ポルシェ 911 60 周年記念企画〜 「初期ナローからカレラ GTまで」および〜エンツォ・フェラーリ生誕125周年企画〜「フェラーリ・スペチャーレ」の展示車をそろえるのはそれなりのご苦労があったのではないかと推察する(まさに眼福でした。関係者の皆さま、ありがとうございました)。 ■日産ブース、攻める 今回、個人的に驚いたのが日産自動車のブースだった。現行モデルはSAKURAのみ。 このクルマを取り囲むようにして、日産シーマ(Y31)、フェアレディZ(Z32)、PAO、そしてハコスカが展示されていたのだ。 日産シーマのオーナーは女優の伊藤かずえさん。 新車ワンオーナーで乗りつづけ、昨年、フルレストアされた個体そのものが展示されていた。 レストア完了後、銀座の日産ギャラリーに展示され、その後は以前と同じように乗りつづけているという。 メーカーに手によってフルレストアされたのだから、そのままガレージにしまいこむこともできたはずだが、これまでと変わらず乗りつづけている姿勢は本当に素敵だと思う。 フェアレディZ(Z32)とPAOのオーナーは日産の若き社員の方の愛車で、伊藤かずえさんとともにトークショーを繰り広げていた。 何を隠そう、純白のZ32は、旧車王ヒストリアの執筆陣のひとりである、Z32専門店「Z-one」代表小村氏のショップ出身の個体だ。 キュートな女性オーナー、丹呉いづみさんを別媒体で取材させていただいたことがあるのだが、この方のZ32愛は半端ではない。 ■国産ネオクラシックカーが近くて遠い存在になったことを実感 かつて、東京モーターショーの会場でお立ち台に載っていたクルマがやがて路上で見掛けるようになり、そしてひっそりと姿を消していく……。 そしてこのように旧車、ヴィンテージカーとしてふたたびスポットライトを浴び、表舞台に姿を見せてくれる。 1980年代、そして1990年代の現代では「ネオクラシックカー」といわれている時代のクルマも、ハコスカやホンダSシリーズのような旧車と呼ばれるカテゴリーに近づきつつあることを実感した。 それはつまり、チューニングやドレスアップのベース車輌ではなく、オリジナルの状態に戻すレストアベースの立ち位置に変わってきていることを意味する。 廃車寸前の個体をタダ同然で引き取ってきて、自宅の駐車場でウマを掛けて空き時間に修理する……なんて存在ではなくなりつつあるのかもしれない。 ■会場内を何周もすることで気づくこともきっとある 昨年「追いトップガン」というキーワードが話題になった。 映画トップガンの続編である「トップガンマーヴェリック」を観るために何度も何度も映画館に足を運ぶ熱心なファンのことを指す表現だ。 ちなみに、筆者も地元の映画館まで3回足を運んだ。 1回目、2回目、3回目……と、何度も繰り返して観るうちに新しい発見があるのだ。 「オートモビルカウンシル」は、東京モーターショーや東京オートサロンなどの大型イベントと比較したら会場はグッとコンパクトだ。 それでいて、入場料は先述のイベントよりも高価……ではある。 フロアマップを見る限りでは「すぐに見終わってしまうのではないか?」と懸念しても仕方がない。 しかし、会場全体が見渡せる分、東京モーターショーや東京オートサロンのように駆け足で観る必要もないし、見逃す可能性も低い。 そして「追いトップガン」のごとく、会場内を何周もすることで全体を把握でき、細部にいたるまでじっくり観られるようになる。 これこそが「オートモビルカウンシル」の醍醐味のひとつであるような気がした。 気の合う友人とクルマ談義しながら会場を練り歩けば充実した1日を過ごせるだろう。 もちろん1人でも楽しめる。 自分のペースで、誰に気兼ねすることもなく、文字通り「鑑賞したい」のならおひとりさまの方がいいかもしれない。 すでに来年の開催が決定しているので(2024年4月12日〜4月14日開催)、迷っているうちに行きそびれてしまった方はぜひ会場に足を運んでみてほしい。 そうそう。ひとつ、気をつけた方がいいことがある。 自動車関連グッズの販売が充実しているので、散財する可能性が高い方はクレジットカードを自宅に置いて、財布の中身は現金のみにした方がいいかもしれない。 [ライター・撮影/松村透]
名車「テスタロッサ」の後継車種として1991年に発表されたフェラーリ 512TR。ボディデザインが似ていることから、テスタロッサのマイナーチェンジモデルと思われることも少なくありません。 しかし、512TRは正真正銘の後継モデルです。エンジンからフレーム、そして似ているといわれる外観デザインに至るまでフラッグシップモデルに相応しく徹底的にこだわって作られました。テスタロッサの弱点を補って余りある進化を遂げた512TRの魅力を紹介します。 名車テスタロッサの後継車として開発された512TR 512TRの前身、テスタロッサは実に8年間に渡って大きな変更がないまま販売されました。その間、エンツォ・フェラーリの死去など社内体制が落ち着かなかったこともありますが、もともとそれだけ完成度が高かったということです。 512TRは、名実ともにフラッグシップモデルに君臨していたテスタロッサを超える必要がありました。まずは、前身テスタロッサの概要と512TRの開発背景を振り返ってみましょう。 新たなフラッグシップモデルとして登場したテスタロッサ 512TRの前身の名車「テスタロッサ」は、1984年の秋にモンディアル・ド・ロトモビルで初披露されました。フェラーリの新たなフラッグシップモデルとして、MRレイアウトに180度V型12気筒エンジンを搭載。フェラーリ製の180度 V12として初めて4バルブヘッドが採用され、最高出力は390psを発揮しました。 「テスタロッサ」は「赤い頭」という意味のイタリア語で、1960年代にフェラーリのレースカーとして活躍したシリーズでも同じ名称が使われています。ヘッドカバーが赤く塗られていたことから名付けられました。 1992年に512TRにバトンを渡すまでの8年間で、合計7,177台が製造されました。スーパーカーという特殊なモデルを考えると、大成功といえる生産台数です。 テスタロッサと同じ「赤い頭」を持つ512TR フェラーリ社内が落ち着いてきた、1988年に512TRの開発はスタートします。そして、開発から3年後の1991年秋、ついにテスタロッサの後継「512TR」が発表されました。 テスタロッサの後継であることを示す「TR」の文字が冠された512TR。先代同様の赤色のヘッドカバーを持つ、5L180度V型12気筒エンジンを搭載しています。ちなみにモデル名の「512」は、「5L」「12気筒」を示す数字です。 最高出力428psを誇るエンジンを新設計のシャーシに搭載し、名門フェラーリのフラッグシップモデルらしい進化を遂げました。課題だった重心の高さとボディ剛性を改善するなど、大幅な性能アップを果たしていて、史上最高の「テスタロッサ」と評価されることもあります。 テスタロッサのデザイン的要素を踏襲 512TRのエクステリアデザインは、基本的にテスタロッサを踏襲しています。外観上の特徴であるリトラクタブルヘッドライトはもちろん、ボディサイドのフィンなど多くの点が共通していました。 一方で、フロントバンパーを一体型にしグリルも変更、エンジンフードの形状もシンプルなものに見直すなど、8年の時代変化を取り入れたデザインも随所に見られます。エンジンやシャーシの進化だけではなく、大幅な変更はなかったものの実はエクステリアも正統進化しているのです。 先代の弱点を解消してさらなる進化を遂げた512TR 512TRは、先代テスタロッサの抱えていた課題を徹底的に解消します。しかも、パワーアップをしにくいNAエンジンながら、約10%のパワーアップにも成功しました。 512TRの進化について、一つ一つ紐解いていきましょう。 テスタロッサの課題を徹底解決 先代テスタロッサの課題は、居住性の確保に伴ってエンジン搭載位置が後方よりになったことにより、前後重量配分と重心の高さが失われた点です。また、ハイパワーエンジンを支える車体のボディ剛性の弱さも問題でした。 512TRでは、テスタロッサの弱点を徹底的に解消しました。まず重心の高さの問題は、オイル循環方式をドライサンプに変更、ブラケットの改良などによってエンジンアッセンブリの搭載位置を30mmほど下げることに成功します。 課題のボディ剛性は、各所に補強を施して向上させます。フレームそのものはテスタロッサを踏襲していましたが、ねじ止めだった床を溶接に変更、荷室やエンジンルームとの隔壁にも鉄板を張り込むといった改良でボディ剛性を高めました。 同排気量のまま大幅にパワーアップしたエンジン 512TRに搭載されたのは、先代と同じ5LV型12気筒エンジンです。しかし、最高出力は先代の390psに対して428psを発揮、38psものパワーアップに成功しました。 新形状の吸入ポートの採用、バルブ径の拡大による吸排気効率の向上。さらに圧縮比10.0を達成した新設計ピストンやカムのプロフィール変更といった、細かい改良の積み上げで大幅なパワーアップを達成しました。 テスタロッサの課題だった重量バランスと剛性の改善とあわせて、当時のフェラーリ最強のマシンに仕上がっています。 世界で2,200台あまりの希少車種 512TRはテスタロッサと比べて販売期間が短かったこともあり、世界でわずか2,200台あまりしか生産されなかった希少車種です。大手中古車サイトで検索したところ、わずか1台しかなく、しかも価格は公開されていませんでした。 希少車でも精力的に買い取る旧車王では、1993年式の512TRを1,600万円で買い取りました。512TRの売却を検討している方は是非、旧車王へご相談ください。 ※価格や経過年数は2023年4月記事執筆時
レガシィグランドワゴン――。この名前を知っている人は、よほどのスバル通かRV好き(当時はSUVをこう呼んだ)でしょう。 それもそのはず、たったの3年しか使われなかったモデル名なのですから。 でも、「レガシィグランドワゴン」が、今に続く重要な役割を果たしたモデルであることは間違いありません。 その姿から想像がつく人もいるでしょう。 そう、現在の「アウトバック」の原型となるモデルなのです。 ▲1995年「レガシィグランドワゴン」 ■ハリアーやフォレスターの誕生より前に セダンの「レガシィB4」が国内市場から姿を消した今、スバルのフラッグシップとしての位置づけを担うアウトバック。 先代まではレガシィB4も存在しており、その姿からも“レガシィの派生モデル”であることは、容易に想像がつきます。 では、いつレガシィから派生し、そして独立したモデルへとなっていったのでしょうか。 その起源を辿っていったときに行き着くのが、1995年に誕生したレガシィグランドワゴンです。 レガシィグランドワゴンは、レガシィツーリングワゴンをベースに車高(最低地上高)をあげ、大型フォグランプを埋め込む専用デザインのフロントマスクと2トーンボディカラー、オールシーズンタイヤの装着によりRV仕様としたもの。 エンジンは、レガシィよりも余裕をもたせた2.5リッターを搭載し、「フォレスター」誕生以前のスバルでオフロード色を強めたモデルとして登場しました。 ▲インテリアも専用のシート生地などを採用 1995年という時代は、1980年代後半から巻起こったRVブームの余波が残っていた時代。 前年の1994年にはホンダ「オデッセイ」が誕生し、レガシィツーリングワゴンGTが開拓したステーションワゴンの台頭もあったものの、街中では三菱「パジェロ」やトヨタ「ランドクルーザープラド」、日産「テラノ」、いすず「ビッグホーン」といったRV車が数多く走っていたものです。 レガシィツーリングワゴンGTによって“走りのワゴン”というジャンルを確立したスバルがRVをラインナップに加えたかったことは、想像にかたくありません。 実際に、いすずからビッグホーンのOEM供給をうけ、スバル ビッグホーンとして販売していたこともあります。 ▲スバル「ビッグホーン ハンドリング・バイ・ロータス」 しかし、スバル ビッグホーンは、いすず ビッグホーンのエンブレムを六連星に変えただけのクルマ。 スバルらしさは皆無で、“売れるクルマ”となるわけはなく、1993年に販売を終了します。 グランドワゴンが実質的なビッグホーンの後継者だと言うと少し乱暴ですが、スバルとしては待望の自社製RVだったのです(余談ですが、グランドワゴンと同じ1995年には同じ手法でインプレッサベースのインプレッサグラベルEXを発売しています)。 ■ランカスター、そしてアウトバックへ なぜ、レガシィグランドワゴンを「名車&迷車」として取り上げるのか。 それは、クルマそのもののデキや希少性などではなく、ネーミングにあります。 レガシィグランドワゴンという名称は、わずか3年しか使われなかったのです。 しかも、グランドワゴンからすぐに現在のアウトバックへと改称したわけではなく、なんとマイナーチェンジで名称変更されたのですから、不遇な話。 新名称は、イングランド北部、ランカシャー州北西部の都市名に由来する「レガシィランカスター」となりました(改称後、わずか1年でフルモデルチェンジを実施するので、BG型ランカスターもなかなかの不遇モデルに……)。 ▲わずか1年の販売となったBG型「レガシィランカスター」 とはいえ、レガシィグランドワゴンが残した功績は、小さくありません。 実はアウトバックの名で販売された北米でこのクルマはヒット。 1998年にはボルボが「V70XC」を発売し、1999年にはアウディが「オールロードクワトロ」を投入するなど、多くの追随車を生み出しました。 初代トヨタ「ハリアー」が誕生したのも、グランドワゴン登場以後の1997年です(フォレスターも1997年に登場)。 この流れは現在も続き、今ヨーロッパのワゴンモデルを見てみると、メルセデス・ベンツ「C/Eクラス オールテレーン」にフォルクスワーゲン「ゴルフ/パサート オールトラック」、ボルボ「V60/V90クロスカントリー」と、ステーションワゴンベースのクロスオーバーSUVのラインナップは多岐にわたります。 ▲2023年ボルボ「V60クロスカントリー」 その元祖がレガシィグランドワゴンだったと考えると、存在感は希薄でも残した功績は非常に大きなものだったと言えるのではないでしょうか。 なお、レガシィグランドワゴンはランカスターへと改称後、レガシィシリーズは3代目へとフルモデルチェンジ。そして、次のフルモデルチェンジで4代目となるとともにグローバルネームである「アウトバック」を名乗るようになり、現在へと至ります。 ▲BH型「レガシィランカスター」 ▲BP型「レガシィアウトバック L.L.Bean EDITION」 個人的には、BH型ランカスターに追加された水平対向6気筒エンジン搭載モデル(ランカスター6と名乗った)や、BP型アウトバックに設定された「L.L.Bean EDITION」も気になりますが、レガシィツーリングワゴンのRV仕様であると同時に、2.5リッターエンジン搭載の上級仕様として大人の雰囲気をまとったグランドワゴンに大きな経緯を評したいと思います。 [画像:スバル・Volvo/ライター:木谷宗義]
去る12月11日、西東京は国道20号線沿いにある谷保天満宮にて、クラシックカーが集結し、谷保天満宮旧車祭が開催された。 境内のそこかしこに往年の名車や希少車、スーパーカーが立ち並ぶ。 実に3年ぶりに開催された同イベントに参加した車両は115台に及んだ。 主催はオートモービルクラブジャパン(以下ACJ)。 谷保天満宮は日本のカーイベント発祥地であり、その始まりは明治41年に発足されたオートモービル・クラブ・ジャパンによる国内最初の遠乗会にある。 現在のACJは2011年8月1日このクラブの103周年の記念の日に再結成され、以来20年以上にわたり様々なカーイベントを催してきた。 その意味では、谷保天満宮旧車祭はクラブの中でも本命イベントといえるものだ。 神社を中心に所狭しと並んだ旧車たちに大人は懐かしさや羨望のまなざしを、子供は見たことのないスタイルのクルマ達に目を輝かせていた。 ■象徴たるタクリー号 日本初のツーリングである遠乗会、このイベントに有栖川殿下が自らハンドルを握って参加したのがタクリー号であった。 初の国内産ガソリン自動車、明治40年に国産吉田式自動車としてタクリー号は生まれた。 人力車や馬車、荷車が走る未舗装路をガタクリ、ガタクリと走る様からタクリー号と愛称が付いている。 しかし、残念ながら本物のタクリー号は現存しておらず、画像の車両は2012年4月に発足した実働レプリカ制作プロジェクトにより復刻された車体だ。 こちらは谷保天満宮旧車祭世話人会が中心になり、1930年製のオースチン・セブンをベースに制作された車両になる。 同年8月1日に谷保天満宮本殿にて完成披露が行われ、第1回の熱海ヒストリカGPのひと月まえには天満宮から熱海の梅園まで実際に走っている。ACJの象徴ともいえる車両だ。 ■谷保天満宮とACJ 谷保天満宮は東日本最古の天満宮であり、亀戸天神、湯島天満宮と並び関東産大天神と呼ばれている。 学業の神様である菅原道真を祀っていることからも学業成就や合格祈願、厄除けはじめ、もちろん上記の経緯からもわかるように交通安全祈願の祈祷もおこなっている。 当日も参加車両が神主に祈祷を受けることができるようになっていた。 この後、午後からはパレードランとして国立まで沿道の人々に見送られながら走ることもあり、 多くの参加者が愛車とともに祈祷を受けていた。 ■横道を行く 毎回本会場以外で止まっているイベントに来た車両を見て回るイベントの横道。 今回はイベント会場であるが、第2会場となったことで本殿に直接行ってしまった方が見過ごしたかもしれない車両群としてスポットを当ててみたい。 第2会場はイタリアンカーを中心に90年代の軽スポーツが並んでいた。 その中で、入って正面の中心にいたのがスバル360ヤングSSだ。 スバル360は1958年、まだまだ庶民にはクルマは高嶺の花として考えられていた時代にサラリーマンでも手に入れられるクルマとしてデビューした。 小さくても大人4人が快適に乗ることができる性能を実現するためのパッケージングや軽量化に挑戦。 当時スバルの持っていた元航空機メーカーとしての技術を余すことなくつぎ込んだモデルだ(スバルオンラインミュージアムより)。 デビューより10年の年月を経て競合他社に対抗するべく送り出したスポーツモデルがヤングSSだ。 その性能はデビュー当時の358㏄16馬力から排気量は変わらずに、36馬力と実に2倍以上のパワー、マニュアル3速から4速モデルへの変更を持って登場した。 外装には専用のボディカラーやボンネットのヤングSSを示すストライプ、タコメーターや革巻きステアリングを装備するなど、スバルのスポーツモデルの原点ともいうべきモデルだ。 会場では同じくRRのフィアット500に挟まれながら、その小さなテントウ虫はしっかりと存在を主張していた。 ■Back to 20世紀 実は今回ほど横道が目移りしたイベントもなかったのではないか?と思えるほどに街のそこかしこに旧車が止まっているイベントであった。 会場である谷保天満宮が基本、参加車両で手いっぱいであったこともあり、当然のことながら見物に来た車両はそうした周辺駐車場にまわる。 そうして会場を中心に見渡すと、コンビニや路地を走るクルマの多くが旧車という事態になっていた。 谷保の町並みは最近改装が目覚しい南部線沿線としては、駅舎も含め昔の雰囲気を比較的に残している。 それも相まってまるで町全体が過去に戻ったかのような気分になれた。 それが良いか悪いかは筆者には答えられない。 しかし、わずか数時間のタイムスリップはとても心地のよい時間をもたらしてくれたと思う。 ■オートモービルクラブジャパンHPhttps://acj1908.com/ ■谷保天満宮HPhttp://www.yabotenmangu.or.jp/ [ライター・撮影/きもだ こよし]
名車といわれるクルマは、たくさんの人に愛されたヒットモデルであることが多いもの。 しかし、そのヒットに至るには多くのトライ&エラーがあり、ときにチャレンジが裏目に出てしまうこともあります。 「フィット」誕生以前にホンダのエントリーカーを担っていた「ロゴ」は、まさにトライ&エラーのなかで数奇な運命をたどったモデルだといえるでしょう。 愚直なまでに実用性を追求した結果、ホンダ車に求められる“おもしろさ”が削られてしまったのです。 ▲ロゴ(前期型) ■トールボーイとスポーティ ロゴを語るためには、まずその前身となる「シティ」を理解しておかなくてはいけません。 シティは、1981年に初代モデルが誕生したホンダのエントリーモデルとなるコンパクトカー。 “ワイド&ロー”がカッコいいクルマの条件であった当時、あえて背を高くした箱型デザイン(トールボーイと呼ばれた)としたユニークなクルマで、高い空間効率とクラスレスな魅力を備えてヒットしました。 ▲初代シティ しかし、1985年のモデルチェンジでコンセプトチェンジ。 1470mmの全高は1335mmまで低められ、室内空間よりも走りを重視したクルマとなりました。 ▲2代目シティ このスタイルチェンジは「シティ ターボII」によるワンメイクレース(その名もシティブルドックレース!)が開催されたことなどもあっての判断でしたが、ユーザーの多くは戸惑いを隠せず、“みんなの楽しいクルマ”から“走りが好きな人のためのクルマ”に。 おりしも1980年代後半から1990年代前半はRV(今でいうSUV)ブームで、背の低いクルマへのニーズは相対的に低くなり、結果としてシティは、この2代目をもって日本国内市場から姿を消すことになります。 1995年のことでした。 そして1996年に今回のテーマ車、ロゴが発売となるわけです。 ■“実用車の鑑”のようなスペックで登場 では、ロゴとはどんなクルマだったのでしょうか。 ひと目でわかるように、全高が高く親しみやすい丸みを帯びたスタイリングを持つ、合理的なパッケージングのコンパクトカーです。 全長3750mm(前期型)×全幅1645mmのサイズは、トヨタ「スターレット」、日産「マーチ」、三菱「ミラージュ」、ダイハツ「シャレード」といったライバルたちと同等ながら、1470mmの全高(初代シティより20mm高い)は他車が1400mm程度であるなかで圧倒的に高く、それだけでも室内空間に余裕を持っていたことが想像できます。 ▲ロゴ3ドア エンジンは、1.3リッターのSOHCで最高出力66ps、最大トルク11.3kgm。ホンダのエンジンといえば「高回転高出力」のイメージが強かったなかで、最高出力や最大トルクの数値を追い求めず、街乗りでの使いやすいさを重視した中低速型のトルク特性を持たせていました。 トランスミッションは5速MT、3速AT、そして「ホンダマルチマチック」と呼ばれたCVTの3種類をラインナップ。 今、多くのコンパクトカーが採用しているCVTは、当時まだ“特別な変速機”という位置づけで、通常のステップATと同時に設定されることも多く、3種ものトランスミッションが選べる設定となっていました。 燃費は10・15モードで5速MTが19.8km/L、3速ATが17.2km/L、ホンダマルチマチックが18.0km/L。 価格は、5速MT車がもっとも安く、3速ATはその5万円高、ホンダマルチマチックは8万円高でしたから、安価で走り味に馴染みのあった3速ATが主力となったことは想像に難くないでしょう。 ▲ロゴ5ドア 価格は3ドア「B」の77万円から5ドア「L」の108万8000円まで(いずれも5速MT価格)。主力となる5ドア「G」でも、94.8万円という手頃な価格が打ち出されていました。 このようにロゴは実直で合理的、さらに経済性も高い“実用車の鑑”のようなスペックを持って登場したのです。当時のプレスリリースでも「オートマチック車で100万円を切る価格設定とするなど、これからの時代に求められるタウンカーを具体化しました」とありました。 ■なぜ“数奇な運命”を辿ってしまったのか スペックやプライスを見れば、ロゴは街乗り用コンパクトカーとして十分に魅力的なクルマです。 それでもロゴは、ライバルに打ち勝つことはできませんでした。 そこには、2つの理由があります。 1つ目は“質感”です。 実直に仕上げたスタイリングはシンプルすぎて大きな特徴がなく、シンプルに使い勝手が追求されたインテリアも、商用車のようなヘッドレスト一体のハイバックシートなどにより、“それなりのクルマ”にしか見られなかったのです。 ▲前期型のインストルメントパネル ▲前期型のシートはハイバックタイプ また、街乗りを重視するあまりスタビライザーを省いたサスペンションが、「安定感に欠ける」と受け取られ、総じて高い評価を得ることができませんでした。 1998年には、衝突安全性の向上を目的とした大掛かりなマイナーチェンジを実施し、同時にフロントまわりのデザインを変更。 さらに、16バルブ化した高出力エンジンにエアロパーツなどを装着したスポーツグレード「TS」と4WD仕様を追加するなど、ラインナップも拡充し、魅力アップを図ります。 ▲中期型で登場したTS さらに2000年にもフロントマスクのデザイン変更をともなうマイナーチェンジを行った他、モデルライフのなかではいくつものお買い得な特別仕様車を設定し、商品力アップや商品性の維持が行われましたが、決定的なヒット要因は生み出せず。 ▲後期型はグリルのあるデザインに ■デミオやキューブの登場でハイトワゴン時代へ 2つ目に“トレンドの変化“という大きな波もありました。 ロゴがデビューした1996年は、初代マツダ「デミオ」が誕生した年でもあります。 デミオは、フォード「フェスティバミニワゴン」という名の兄弟車を持っていたように、小さなワゴンのようなスタイリングを特徴とし、RVやステーションワゴン(筆頭はスバル レガシィ)が売れていた当時の世相にフィット。 瞬く間にヒットモデルとなりました。 ▲初代デミオ また、日産は初代「キューブ」を1998年に発売。 デミオの(1500mm)を超えた1610mmの全高を持ち、室内空間の広さと楽しさ(イチロー出演のCMも)をアピールし、ヒットします。 ▲初代キューブ 考えてみれば、軽自動車市場はスズキ「ワゴンR」とダイハツ「ムーヴ」というハイトワゴン2強の時代。 コンパクトカーにもワゴン的なスタイリングと高い全高による室内空間の広さが求められたのは、当然でした。 トレンドは“トールボーイ”どころではなくなっていたのです。 ホンダはロゴのプラットフォームを大幅に改良してハイトワゴンの「キャパ」(とクロスオーバーのHR-V)を1998年に発売し、ライバルに対抗。 一定の成果は得ますが、一方で1997年に発売した軽ハイトワゴン「ライフ」のヒットや、「CR-V」「S-MX」「ステップワゴン」といったRV&ワゴンのラインナップ拡充によりロゴの存在感が強まることはなく、フェードアウトするように2001年をもって生産終了となりました。 ▲キャパ およそ5年のモデルライフのなかで、ロゴが販売台数でベスト10に入ることはなく、1997年のマイナーチェンジ時に6000台を掲げられていた販売計画台数も、4000台、3000台とマイナーチェンジのたびに減少。 まさに“フェードアウト”といった幕引きでした。 ■名車「フィット」誕生を支えた迷車 Wikipediaによればロゴの「新車登録台数の累計」は、20万2601台。 販売期間は約5年でしたから、年間販売台数を平均すればおよそ4万台です。 1998年の年間販売台数を見ると、キューブとデミオが10万台、マーチとスターレットが9万台を販売していますから、ロゴの窮境がわかります。 しかし、ロゴの苦境を黙って見ているホンダではありませんでした。 ロゴと入れ替わる形で「フィット」を2001年に発売したのです。 ▲初代フィット フィットは、コンパクトなボディに広い室内空間、フットワークのいい足回り、燃費のいいパワートレイン、そして安っぽさを感じないお洒落な内外装を持って、発売するやいなや大ヒット。 わずか1ヶ月で、ロゴの1年分を上回る4万8000台を受注します。 その勢いは衰えず、2002年にはそれまで33年にわたり“不動の1位”であり続けたトヨタ「カローラ」を抜き、年間販売台数ナンバーワンに輝いたのです。 以後、フィットがホンダのコンパクトカーとして定着し、現在4代目が販売中なのはご存知のとおり(N-BOXに押され気味ですが……)。 トールボーイの初代シティ、スポーティな2代目シティ、実直さを追求したロゴと、さまざまなトライ&エラーののちにフィットの大ヒットがあるのだとすれば、ロゴが追い求めた姿も決して無駄ではなかったといえるでしょう。 ホンダの歴史のなかでロゴは“迷車”かもしれませんが、フィットという“名車”を生み出すためにたしかな足跡を残したことは、間違いありません。 [画像:ホンダ/ライター:木谷宗義]
1990年代は「RV」の時代でもありました。RVとは「レクリエーショナル・ヴィークル」の略で、今で言うSUVのこと。 1980年代に登場した「パジェロ」や「ビッグホーン」、「ランドクルーザープラド」などがヒットし、街の至るところで見られました。 まだ「ハリアー」が生まれる前、こうしたオフロード4WDを都会で乗るのが、カッコよかったのです。 パジェロは三菱、ビッグホーンはいすゞ(この話もまたいつか)、プラドはトヨタ。では、日産はどんなRVをラインナップしていたでしょうか? 答えは2つ、「サファリ」と「テラノ」です。 サファリが「ランドクルーザー(当時は80系)」と同等のラージサイズ、テラノがパジェロなどに近いミドルサイズです。 ▲テラノ(ワイドボディ) 販売の主力は、テラノのほう。 アーバンでアメリカンな雰囲気のあるテラノは、そのスタイリングからヒットモデルの1つになりました。 でも、どうしてもライバルには、叶わない決定的な欠点があったのです。 それは、「7人乗り」がないこと。 パジェロもビッグホーンもプラドも、5ドアモデルは3列シートの7人乗りが中心でした。 トヨタには5人乗りRVの「ハイラックスサーフ」あり、こちらもよく売れていましたが、このクラスに7人乗りがないのは、大きな痛手。 そこで日産は1994年、欧州から7人乗りRVの輸入販売を開始します。 それが今回の名車&迷車、「ミストラル」です。 ■Made By Nissan Motor Iberica 近年ではコンパクトカーの「マーチ」がタイからの輸入モデルとなって話題を呼びましたが、ミストラルはスペインからの輸入モデルでした。 生産は、日産の欧州市場向けモデルを担当していた「日産モトール・イベリカ」。 ▲ミストラルType-X イギリスの「NETC(ニッサン・ヨーロピアン・テクノロジー・センター)」で開発された欧州市場のためのモデルで、日本発表時のプレスリリースにも「欧州生まれ、欧州育ちのピュア・ヨーロピアン・オールローダー」であることが謳われていました。 1994年に発売されたのは、テラノと同様の2.7リッターディーゼルターボ(OHVだった)に4速ATが組み合わされた5ドアの7人乗り仕様。 「Type-S」「Type-X」の2グレードで、価格は261万円と279万円(オーテックジャパンのキャンピングカー仕様も発売された)。 ▲ミストラルType-Xのインテリア このクラスに7人乗りを投入した日産の目論見は成功。当初、月販目標1000台だったところ、最初の3カ月で約7000台を受注し、すぐに日本向けミストラルの増産を決定。 生産台数を月2000台としました。 1996年には、2ドアショートボディも導入します(グレード名はType-R!)。 こちらは、モノトーンのボディカラーにブラックのパーツを用いたインテリアでスポーティさを強調。 229万円という戦略的価格で、若者をターゲットとしていました(ライバルはいすゞ・ミュー)。 ピチカート・ファイヴが出演し『2人のベイビィ・ミストラル~♪』と歌ったCMを覚えている人も、いるかもしれません。 ▲ミストラルType-R アメリカンなテラノとヨーロピアンなミストラルは、当時のハイラックスサーフとランドクルーザープラド(今ならハリアーとRAV4)のような関係で、RVニーズを網羅。 ミストラルも、テラノとともに町中でもよく見かける存在となりました。 ■欧州モデルゆえの難しさ ところで当時、絶好調だった日産は、なぜ売れ筋のRVをわざわざスペインから輸入したのでしょうか? ここにミストラルが名車&迷車たる所以があります。 実はミストラルは、もともと「テラノⅡ」として欧州向けに開発されたモデルで、「マーベリック」の名でフォードへもOEM供給。 ランドローバー「ディスカバリー」などに対抗するモデルとして開発された、戦略的モデルだったのです。 実際、欧州ではディスカバリーを超え、クラストップシェアを獲得しています。 では、どうして「名車&迷車」として取り上げたのか。 ▲ランドローバー「ディスカバリー」 それは、1代限りで終わったしまったこと、欧州生まれならではの良さがあった反面、それが裏目に出てしまった“難しさ”があるからです。 イタリアのデザイン会社「I.DE.A」によるスタイリングは、直線的なデザインが多かった日本のライバルたちとは一線を画したものでした。 足回りも欧州テイストのテラノとは異なるもので、さらに日本向けにかなりの部分に手を入れていたようです。 しかし、欧州市場をメインとしていただけに、変わりゆく日本のRV市場に追いつけなかったのも事実。 日本国内ではビッグホーンやパジェロが、200馬力を超えるV6DOHCガソリンエンジン(当時としては超絶ハイパワー!)を搭載するなか、ミストラルは1999年に販売を終了するまで2.7リッターのディーゼルターボのみ。 また、レザーシートを装備するなど高級化が進むなかでも、ミストラルは当初の路線を変えることができず・・・。 そればかりかマイナーチェンジによりメッキパーツの使用が抑えられ、ヘッドライトが丸型4灯となるなど、日本のニーズと逆行するような形になってしまうのです。 ▲ミストラルType-X後期型 このころには月販目標台数も700台まで下降。 実際に、丸型4灯ヘッドライトとなった後期型を見た記憶はあまりなく(特に2ドアは見なかった)、モデル末期にどれだけ売れたかは未知数です。 ■時代が変わりゆくハザマに生まれた「儚さ」 欧州生まれ・欧州テイストのRVミストラルが、クルマとして悪くなかったことは明らか。 しかし、ミストラルが販売された1994~1999年といえば、「オデッセイ」や「ステップワゴン」「イプサム」「グランディス」といったミニバンが誕生し、RVは「CR-V」や「RAV4」など、ラダーフレームを捨てモノコックボディとなった乗用車ライクなモデルに変化。 さらに「キューブ」や「デミオ」といったコンパクトカーの人気が高まった激動の5年間でした。 1980年代に端を発するRVが下火になっていくことは、承知のうえでのミストラル国内導入だったのかもしれません。 国内総販売台数は、4万台あまり。 決して多くはありませんが、1990年代半ばの日産ラインナップのなかで、明確や役割を果たしたことは間違いないでしょう。 こうした「儚さ」こそが、“名車&迷車を愛すべき理由”であると思わずにいられないのです。 [画像:日産自動車、Land Rover/ライター:木谷宗義]
ドイツ人はとにかく国産車(ドイツ車)を愛している。 ドイツ車が世界一だと自負している。 当たり前といえばそれまでだが、ドイツ連邦自動車局(KBA)の調べによると、2020年度ドイツ国内の乗用車新規登録台数はドイツ3大自動車メーカーが圧倒的シェアで上位を占めている。 そんな自動車大国ドイツでも、一目置かれている日本車が存在する。 ほとんどのドイツ人は日本車のことを安価で壊れにくいと考えているが、なかには例外もあり、世界的にも高く評価されたハイパフォーマンスでエキサイティングなクルマがある。 今回は、そんな日本を代表するスポーツカーのなかでも特にドイツ人から一目置かれるクルマを紹介していく。 ■7位.マツダ RX-7(1978年) マツダが開発したスポーツカー。1978年から1985年まで製造された第1世代は、特に米国で成功を収め、ポルシェ924から多くの顧客を奪った。 当時「貧乏人のポルシェ」と呼ばれていたこのクルマは、耐久性ではポルシェに敵わなかったが、総合点で924を凌ぐ性能を誇っていた。 60万台を超えるRX-7がアメリカで販売され、自動車排出ガス規制の影響により2002年に生産を終了した。 ■6位.ホンダ NSX(1990年) フォーミュラ1のレジェンド、アイルトン・セナとホンダのF1チームが開発に関わって作られたスポーツカー。 この事実だけでも魅力的だが、もともと第2期のF1参戦時に「世界に通用するホンダの顔を持ちたい」という思いから誕生した。 開発にあたってはフェラーリのV8モデル「フェラーリ328」を超える走行性能を目指して開発が進められ、ドイツのニュルブルクリンクなどで何度も走行テストが行われた。 車両の生産はすべて手作業で行われ、販売価格は当時のスポーツカーで最高額であったため、日本車で唯一のスーパーカーと評された。 ■5位.トヨタ 2000GT(1967年) トヨタとヤマハが共同開発したスポーツカー。ジェームズ・ボンド主演の映画「007」にて起用されたことからも世界的に有名になった。 2000GTの開発にあたっては全体のレイアウトやデザイン・基本設計などはトヨタ側、エンジンの高性能化と車体・シャシーの細部設計はヤマハ側が担当したとされている。 1967年から1970年にかけて製造された台数は僅か337台。 この希少価値の高さから2013年に行われたとあるオークションにて日本車としては最高額となる1億8,000万円で落札された。 ■4位.日産GT-R(2007年) 日産スポーツカーの象徴であるスカイラインGT-Rの後継モデルとして開発された。 最高出力480馬力・V6ツインターボエンジンを搭載し、最上位グレードのNISMOになると600馬力・0-100km2.8秒という驚異的な記録を持っている。 2022年現在では、日本の自動車メーカーで300km/h以上で走行できる車種はGT-Rのみとなっており、海外では「ゴジラ」と呼ばれている。 ■3位.三菱 ランサーエボリューションVIII(2003年) 世界ラリー選手権に出場するために開発された三菱のスポーツカー。 2003年に発売された8代目となる通称「エボVⅢ」。ダイムラーより移籍したデザイナーのオリビエ・ブーレイによって富士山型のグリルが採用された。 世界ラリー選手権においては数々の好成績を収め、映画「ワイルド・スピード」で起用されたことからもその名を世界に轟かせた。 ■2位.ホンダ シビック タイプR(2016年) FF車両世界最速を目標にホンダが開発を行ったスポーツカー。 シビックをベースにエンジンやサスペンションをチューニングし、最高出力は310馬力・最高速度は270kmを誇る高性能モデルである。 サーキット走行も可能であり、国内外問わず根強いファンが存在する。 2015年にはニュルブルクリンク北コースにてタイム測定を行い、7分50秒63を記録した。 これは2014年にルノー・メガーヌRSが保持していた記録を4秒程上回り、量産FF車におけるニュルブルクリンク北コースの最速記録となった。 ■1位.レクサス LFA(2010年) トヨタが展開する高級車ブランド「レクサス」が2010年から2012年にかけて限定500台を生産・販売したスーパーカー。 レクサスのプレミアムスポーツ「F」シリーズの頂点に君臨し、「世界超一級レベルの運動性能と超一流の感性と官能を持ち合わせるスーパースポーツカー」として開発された。 搭載される4.8 V10エンジンはヤマハと共同開発され、最高出力は560馬力・最高速度は320km/h以上に達するまさに規格外のクルマだ。 当時の新車販売価格は3750万円であったが、近年では海外のオークションにて1億円以上で取引されている。 いまや世界一高価な日本車といっても過言ではない。 ■まとめ:日本人であることを誇りたい名車ばかり スーパーカーといえば、フェラーリやランボルギーニを思い浮かべる人も少なくないだろう。 日本ではスポーツカーは豊富にラインナップされているが、スーパーカーはそれほど多くない。 和製スーパーカーといえば、トヨタ「2000GT」やホンダ「NSX」、日産「GT-R」、レクサス「LFA」が挙げれられるが、日本が世界に誇るスポーツカーは数多く存在する。 自動車の長い歴史のなかで、ドイツ・イタリア・アメリカなどの自動車大国と肩を並べて戦ってきた数々の日本車は、これからも世界中の自動車ファンを魅了し続けるだろう。 [ライター/高岡ケン]