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日本で女性初の首相となった高市早苗氏の愛車「70スープラ」。旧車・名車としての評価も高く、根強い人気を誇ります。 今回はこの「70スープラ(A70型)」について、モデル概要や輸出に関する動向、高価買取のポイントまで詳しく解説していきます。 まず、70スープラは25年ルールの対象車です。 セリカXXから独立した初代スープラとして登場したA70型は、グループA参戦のために生まれたターボA、280馬力を誇る1JZ-GTE搭載モデル、ルーフの開放感が魅力のエアロトップ仕様など、豊富なバリエーションで今なお根強い人気を誇ります。 70スープラ(A70型)が25年ルールで注目される理由 1993年をもって生産を終了した70スープラは、2025年で「25年ルール」の対象となる年式を完全に満たします。これにより、アメリカをはじめとした輸出市場でも登録が可能となり、海外バイヤーからの注目が一層高まっています。 70スープラは、3.0GTターボAや2.5Lツインターボ(1JZ-GTE)など高性能モデルをラインナップし、当時のグループAレースのホモロゲモデルとしての顔も併せ持つ車種です。現在でもファンが多く、特にエアロトップ仕様やリトラクタブルヘッドライトなど、日本の80年代スポーツカーの象徴ともいえるデザインが評価されています。 トヨタ・スープラ(A70型)の概要 セリカXXの後継として1986年に登場したスープラ(A70型)は、トヨタがグローバルで展開するスポーツクーペブランド「スープラ」の第一弾として誕生しました。北米市場ではセリカXX「SUPRA」として販売されていましたが、日本でもこのモデルから正式に「スープラ」を名乗るようになりました。 初期は5ナンバーサイズ(全幅1690mm)でスタートしたものの、1987年には3ナンバー化された3.0GT系が登場しました。さらにエアロトップやリトラクタブルライトなど、スペシャリティカーとしての装備も充実していました。 注目のグレードとスペック 70スープラには、性能面でも特筆すべきグレードが複数存在します。なかでも1988年に登場した「3.0GTターボA」は、グループAレース参戦を見据えたホモロゲーションモデルとして500台限定で生産され、3.0L DOHCターボエンジンにより270馬力を発揮しました。 公道走行が可能な市販車でありながら、当時としては非常に高いパフォーマンスを持っていた点で注目を集めました。 また、1990年から登場した「JZA70型」は、2.5L直列6気筒DOHCツインターボの1JZ-GTEエンジンを搭載し、最高出力280馬力を誇るハイパフォーマンスモデルで、よりスポーツ志向の強い仕様に進化しています。 年式と25年ルールの関係 A70型スープラは1993年まで生産されていたため、すでにほとんどの年式が「25年ルール」をクリアしています。特に、1990〜1993年式のJZA70型はアメリカでも人気が高く、今後さらに輸出価格が高騰する可能性があります。 70スープラの海外人気と相場動向 70スープラは、80スープラや60セリカXXに比べて価格が落ち着いていた時期もありましたが、近年はYouTubeなどの影響もあり再評価が進んでいます。特に北米市場では右ハンドルでも問題なく受け入れられる層が存在し、今後の相場上昇が見込まれています。 すでに国内でも、JZA70型やターボAなどの希少モデルは高額で取引される傾向にあり、コンディションの良い車輌はプレミア価格になるケースもあります。 70スープラは高市氏が所有 トヨタ・スープラ(A70型)は、日本で女性初の首相となった高市早苗氏が所有していたことでも知られています。自身で新車購入後、約22年間にわたって愛用し、その後10年ほど不動車として奈良県内の納屋で保管されていました。2022年にはフルレストアされ、再び美しい姿を取り戻し、奈良市の博物館に保管されています。 旧車王なら70スープラの高価買取が可能 70スープラのような旧車は、一般的な中古車店では価値を適切に評価されにくい場合があります。とくにJZA70やターボAなどの限定モデルや、エアロトップ仕様などは希少性が高いため、旧車専門の買取業者に鑑定を依頼するのが得策です。 「旧車王」では、70スープラをはじめとする1980〜1990年代の国産スポーツカーを数多く取り扱っており、専門スタッフが価値を正当に鑑定します。アメリカ輸出を見据えた高額鑑定にも対応しているため、売却や乗り換えを検討している方は、まずはご相談ください。 まとめ|70スープラは今が手放しどき 70スープラは、リトラクタブルライトやエアロトップなど80年代の名残を色濃く残しながら、1JZ-GTEなどの名機を搭載した名車です。25年ルール解禁によりアメリカへの輸出需要が急増しており、買取価格の高騰が続く可能性があります。 希少なグレードに乗っている方はもちろん、保管状態に不安がある方も、まずは旧車王の無料鑑定を活用して、車輌の価値を知っておくとよいでしょう。
日産フェアレディZは日産自動車を代表する生粋のスポーツカーです。日産のスポーツカーというとGT-Rと思う方も多いと思いますがGT-Rはもともとスポーツセダンであるスカイラインの派生モデルとして誕生したのに対し、フェアレディZはスポーツカーを作ることを念頭に置いて誕生したモデルです。フェアレディZの歴史は長く、初代フェアレディZは1969年から1978年、2代目は1978年から1983年、3代目は1983年から1989年、4代目は1989年から2000年、5代目は2002年から2008年、6代目は2008年から現在(2018年時点)に至ります。この歴史を見てわかることは初代から4代目までは順調にモデルチェンジを重ね脈々とフェアレディZの歴史を繋いできたのに対し、4代目終了から5代目までは2年間のブランクがあります。初代から4代目までどのような歴史をたどり繋がれたのか、そして5代目販売まで2年のブランクで何があったのかフェアレディZの歴史と特徴を交えながら掘り下げていきましょう。 歴史を繋いだZたち フェアレディZの名が与えられたのは1969年からです。以前まではオープンボディのフェアレディだったのに対しフェアレディZはクローズドボディのクーペとして誕生。この初代フェアレディZは「S30」と呼ばれるモデル、そう、漫画「湾岸ミッドナイト」の「悪魔のZ」はこの初代フェアレディZであるS30型なのです。ヨーロッパのGT(グランドツーリングカー)に匹敵するスペックと装備を備えながら価格を抑えたS30型フェアレディZは北米を中心にヒットしました。日本においても漫画の影響でS30型フェアレディZに憧れた人も多いのではないでしょうか。ロングノーズショートデッキのスタイルは典型的ではありますが非常に長い鼻先と丸型ヘッドライトはフェアレディZの個性を主張しています。1972年からは神奈川県警高速機動隊でパトロールカーとしても使われ総走行距離はなんと約37万キロを走行し大活躍しました。1978年まで9年間に渡り販売された初代S30フェアレディZはフルモデルチェンジを行い2代目S130型となりました。 初代のロングノーズショートデッキスタイルを継承しながらも若干ワイドサイズとなった2代目フェアレディZ。2代目も北米を中心にヒットし、登場から1年足らずで生産台数10万台を越え、1983年には初代からの累計販売台数100万台を突破しました。2代目フェアレディZは国産車で初めて「Tバールーフ」仕様を追加。この頃人気のあったテレビドラマ「西部警察」に登場していた「スーパーZ」は2代目S130型フェアレディZです。初めてのTバールーフやテレビドラマでも話題になった2代目ですが1983年にフルモデルチェンジ。3代目Z31型となります。伝統のロングノーズショートデッキスタイルは取り入れつつも空力性能を考慮しエクステリアを大幅にシェイプアップ。この世代から丸型ヘッドライトではなくなり「パラレルライジングヘッドランプ」を採用しています。点灯消灯のたびに上下に動いて開閉するライトは個性的であり、消灯時にもヘッドライトのレンズの一部が露出しているのがポイントです。エンジンも従来からあった直列6気筒エンジンだけでなくV6エンジンもラインナップ。欧州向け仕様は最高速度250km/hを記録する大パワーモデルもありました。 1989年にフルモデルチェンジ、4代目Z32型になりエクステリア面で大きな変更がされました。初代からの特徴であったロングノーズショートデッキスタイルを改めてワイドアンドローのスポーツカースタイルを取り入れました。当時のキャッチコピーは「スポーツカーに乗ろうと思う。」コマーシャルにも使われて記憶にある方も多いのではないでしょうか。3代目で特徴的てあったヘッドライトは固定式になり傾斜が緩く、ボディを削ったように配置されている独特なヘッドライトはランボルギーニ・ディアブロやR390にも使われたのは有名な話です。完璧なスポーツカーを目指して作られた4代目はパフォーマンス面でも優れており、日本国産車で初めて280馬力に達しました。海外向けには280馬力を上回る300馬力エンジン搭載モデルが輸出されましたが日本では国の指導により280馬力規制がかけられました。2004年まで続く280馬力規制は4代目Z32フェアレディZがきっかけと言われています。順調に4代目まで歴史を繋いできたフェアレディZはバブル景気の絶頂と崩壊の波に打たれ、追い討ちをかけるように日産自動車の経営が傾き、2000年に生産が終了。1969年から2000年まで約30年4世代にわたり続いたフェアレディZは一度幕を下ろすことになります。 Zの復活 先代である4代目生産終了から2年後の2002年フェアレディZが復活します。この頃、日本経済はバブル崩壊の影響を受け決して景気がよかったわけではなかったものの、カルロス・ゴーン就任後フェアレディZの開発が再開され5代目Z33型の販売が開始。エンジンは3.5L V6自然吸気エンジンを搭載し2シーターのみの設定。歴代モデルに設定されていた2by2は未設定になりました。2シーター化とコンパクトな車体に大排気量自然吸気エンジンを搭載し、初代を彷彿とさせるロングノーズショートデッキスタイルを取り入れファストバック形状となった5代目フェアレディZは日産のイメージリーダー的な存在となりました。Z33型フェアレディZ発表時「Zは毎年進化する」と宣言された通り年次改良が重ねられました。さらに特別仕様車の販売や日産のレース部門でもあるNISMOからコンプリートモデルとして2004年に「S-tune GT」、2007年に「Version NISMO/NISMO350Z」、「Version NISMO Type 380 RS」などを展開。 ビッグレースでも輝かしい成績をおさめている スーパーGTやスーパー耐久といったレースにも積極的に参戦し輝かしい成績をおさめています。2008年にフルモデルチェンジを受け6代目Z34となります。排気量を若干アップしV6 3.7L自然吸気エンジンを搭載しています。先代のZ33よりもホイールベースを100mm短くすることによりフェアレディZの特徴でもあるロングノーズショートデッキスタイルを強調。6世代目となるZ34は開発当初からオープンモデルである「ロードスター」を視野にいれて開発されているためボディのねじり剛性、前後曲げ剛性、横曲げ剛性のアップをしつつ重量増加はアルミニウムを使用したこともありZ33と同等の水準を維持しています。先代Z33と同じように2007年に「Version NISMO」、2013年からはVersion NISMOに代わり「フェアレディZ NISMO」仕様もラインナップ。2016年フェアレディZ NISMOのパトロールカー仕様3台が警視庁高速道路交通警察隊や交通機動隊に寄贈されました。フェアレディZ復活から15年以上が経過した今でもフェアレディZに憧れるのはスポーツカーの典型的なスタイルを継承しつつも確実に絶えず進化し続けているからと憧れるのでしょう。Z34が登場して約10年。そろそろフルモデルチェンジのタイミングが近づいているのではないかという噂もあります。熟成したフェアレディZを購入するのであれば「NISMO」でしょう。高価格にはなりますがNISMO専用装備が多く、心地よい吹けあがりをするチューニングされたエンジンは価格以上の価値があります。GT-Rが話題となる日産のスポーツカーですが今後も歴史あるフェアレディZを絶やさず進化させ続けてもらいたいですね。フェアレディZファンも確実にいるのですから。
日産スカイラインGT-R、一度は聞いたことがある車種名でしょう。クルマ好き、日産ファン、GT-Rファンなど多くのファンに愛され続けている名車のひとつです。初めてスカイラインにGT-Rの名が冠されたのは1969年に登場した3代目スカイライン。当時はスカイラインの高性能バージョンとして誕生しました。時を経て1989年8代目スカイラインから設定されたスカイラインGT-Rはレースでの使用も視野に入れた高性能ハイパフォーマンススポーツカーとして登場。以降、多くのファンを魅了し憧れる日産を代表する日本を代表するスポーツカーに成長しました。現在でもスカイラインGT-Rは日本のみならず世界中で高い人気を維持している名車です。 スカイラインの高性能版からスポーツカーへ 〈直列6気筒S20型エンジン時代〉 「GT-R」「R」などさまざまな愛称で呼ばれるGT-Rの経歴を振り返っていきましょう。1964年日本グランプリでポルシェ904の前を走るプリンス・スカイラインGT。この光景が「スカG伝説」となりスカイラインGT-R誕生のきっかけとなる出来事。その後スカイラインGTは日本グランプリで活躍し輝かしい成績を残しました。1968年、スカイラインが3代目へフルモデルチェンジされすぐにスポーツバージョン「2000GT」も販売されましたが、スカGを知る人たちからすれば物足りないスペックのマシンでした。多くのファンは高性能ハイパフォーマンスエンジンを搭載したスカイラインを待ち望み1969年ついに「日産スカイライン2000GT-R」が誕生します。 直列6気筒DOHC4バルブエンジン「S20型」は当時としてはハイパワーなエンジンでエンジン単体価格は70万円。「スカイライン2000GT-R」の車両本体価格が150万円でしたのでエンジンだけで車両本体価格の半分を占めていました。スポーツモデル日産スカイライン2000GTが当時86万円であったことを考えると相当高価なクルマであり価値のあるエンジンを搭載していた初代スカイラインGT-R。大人しい3ボックススタイルセダンにハイパフォーマンスなエンジンを搭載したスカイライン2000GT-Rはまさに「羊の皮を被った狼」。1972年にスカイラインがフルモデルチェンジを行い「ケンとメリーのスカイライン」のコマーシャルで有名になった通称「ケンメリ」に世代交代。翌年1973年にスカイライン2000GT-Rをラインナップ、エンジンは先代同様S20型直列6気筒エンジンを搭載していますがボディの大型化により重量が増加しサーキットを走ることなく、わずか4ヶ月総生産台数197台で生産が終了となります。ケンメリGT-R生産終了から16年もの間、スカイラインGT-Rは一時的に歴史が途絶えることになります。 〈直列6気筒RB26DETT時代〉 16年の時を経て1989年8代目スカイラインからスカイラインGT-Rが復活。このスカイラインGT-RがR32型GT-Rと呼ばれるスカイラインGT-Rです。全長4,545mm全幅1,755mm全高1,340mmのサイズでヨーロッパ勢のスポーツモデルに勝てるよう開発されたR32型スカイラインGT-Rはハイテクずくし。四輪マルチリンク式サスペンション、前後輪トルクを0:100から50:50まで自動的に無段階で変化させることができる電子制御トルクスプリット4WD「ATTESA E-TS」、四輪操舵システム「HICAS」などの電子デバイスを世界に先駆けいち早く導入。そして忘れてはならないスカイラインGT-Rを支える心臓「RB26DETT」エンジンによってハイパフォーマンス・ハイテクノロジーマシンになったのです。RB26DETTエンジンは2568cc直列6気筒DOHC4バルブセラミックタービンで過吸するツインターボエンジン。最高出力280PS最大トルク36.0kgmを絞り出しますがあくまでも自主規制によるスペック。全日本ツーリング選手権のレギュレーションに対応したRB26DETTエンジンはレース用にチューニングを施すと800PSを越えることもありました。組み合わされるトランスミッションは5速MTでハイパワーを最新テクノロジーで安全に楽しめる新生スカイラインGT-RがR32型だったのです。 1994年まで生産され、1995年にモデルチェンジを行いR33型スカイラインGT-Rになりました。全長4,670mm全幅1,780mm全高1,360mm。エンジンはRB26DETTを継承しましたが最大トルクを37.5kgmへパワーアップ。エクステリアやインテリアデザインを変更し若干のボディサイズをアップしています。1998年にR33型スカイラインGT-Rの生産を終了。1999年からR34型スカイラインGT-Rの販売が開始されます。全長4,600mm全幅1,785mm全高1,360mm。このR34型スカイラインGT-Rが「スカイラインGT-R」として最後のGT-Rになります。R33型で評価が良くなかったデザインとボディサイズを見直しスタイリッシュで存在感のあるデザインへ変わりました。引き続きRB26DETTエンジンを受け継ぎ精度を上げ最大トルクを40.0kgmまで向上。年代と世代を重ねる度に熟成とパワーアップをしたエンジン。それに伴いボディ剛性を高め、エアロパーツの装着、各種メカニズムの更新や強化をしていきました。2002年、ついにR34型スカイラインGT-Rの生産が終了。3世代にわたり13年続いたRB26世代スカイラインGT-Rは幕を閉じました。圧倒的なパフォーマンス、ハイパワー、スタビリティ、電子制御を備えた型式RとつくスカイラインGT-Rは名車となり、ポテンシャルが高く、耐久性のあるRB26DETTエンジンは現在でも名器と呼ばれるエンジンになりました。 名車・名器を手に入れる 大きく世代分けすると2000cc「S20」エンジン搭載時代と2568cc「RB26DETT」エンジン搭載時代に分けられます。S20時代は「スカイライン2000GT-R」モノグレード、RB26DETT時代は「スカイラインGT-R」、「スカイラインGT-R スペックV」、「スカイラインGT-R Mスペック」などさまざまなグレードを展開しています。中古車情報を見てみると最も手に入れやすい個体でも200万円程度、最終型(R34型)もしくはS20エンジンを搭載したモデルは1,500万円を越える価格が掲げられています。幅広い価格帯のスカイラインGT-Rの中でも今回オススメするのは「R34型スカイラインGT-R(ノーマル)」です。中古車市場にはノーマルグレードR34スカイラインGT-Rは2019年1月現在で20台弱出回っている状況で本体価格は約500万円~が一般的な相場のようです。 あえて標準モデルをオススメする理由は、素の状態でポテンシャルの高さを知ることがスカイラインGT-Rと長く付き合うことができるコツだと筆者は考えるからです。素の状態を知ることでエンジンの特徴、トランスミッションの特性、ボディ剛性、サスペンションの懐の深さなどスカイラインGT-Rというクルマ本来の実力を知ってから、もっとエンジン性能を上げたい、もっとコーナリング性能を良くしたいなど自分の好みに合うチューニングをしていくとスカイラインGT-Rに愛着が湧き、カスタマイズの楽しみが増え、チューニング効果を知るためにスカイラインGT-Rとドライブに出かけ、スカイラインGT-Rとの対話をしながら自分オリジナルのスカイラインGT-Rを育てることができるからです。歴史的な名車であるスカイラインGT-R、レース用として使うことを視野に入れた名器と呼ばれるRB26DETTエンジン、これらを手に入れられるのは現在中古車市場に出回っている今しかありません。ぜひこの機会にスカイラインGT-Rを検討してみてはいかがでしょうか。 伝説となるスカイラインGT-R 日本のみならず海外からも評価が高く人気が高いスポーツカー日産スカイラインGT-R。間違いなく日本の宝であり自動車史に残るモデルです。日本の技術、日産の技術力を世界に示したスカイラインGT-Rの功績はスカイラインGT-Rが消えたとしても語り継がれることでしょう。スカイラインGT-Rとしての歴史は2002年に幕を閉じましたがスカイラインから独立したGT-Rは2007年からR35型GT-Rとして今も歴史を刻み続けています。
スバルアルシオーネはスバルが1985年から1991年まで製造販売していた2ドア4シータークーペです。全長4,450mm全幅1,690mm全高1,295mm(6気筒モデルは1,335mm)のミディアムサイズクーペとしてデビューしました。デビュー当初は水平対向1.8Lターボエンジンを搭載した四輪駆動のVRターボと前輪駆動のVSターボの2グレードを展開。1987年のマイナーチェンジにて水平対向6気筒2.7L自然吸気エンジン搭載のVXを追加しています。アルシオーネのキャッチコピーは「4WDアヴァンキャルド」「オトナアヴァンキャルド」でした。この言葉が示すように2ドアクーペに四輪駆動を組み合わせたモデルは当時アルシオーネしかなかったのです。この組み合わせだけでも当時のライバルとは一線を画したスペシャリティモデルでした。アルシオーネが特異な存在であったのはこれだけではありません。 斬新で新鮮味のあるデザインも魅力のひとつ 今見ても斬新で新鮮味のあるデザインも魅力のひとつ。スバル車唯一のリトラクタブルヘッドライト、ウェッジシェイプのフォルム、直線的で空気抵抗を考えられたエクステリアが特徴です。ドアノブ部分の出っ張りをなくしたデザインにも挑戦しているほど作り込まれています。驚きなのはインテリアです。ジャンボジェット機のコックピットのようにドライバーオリエンテッドな室内空間、水平を基調に直線を使って描かれる造形は特別感があります。立体的でテレビゲームのような表示をするメーターと6時15分の位置に配されているステアリングスポーク、スイッチ類を集約したコントロール・ウィングは個性的でスバルらしさをアピールしたデザインといえます。前置きが少し長くなってしまいましたがスバルアルシオーネがなぜ名車と言えるのかということを紐解いていきましょう。 影響を与えた技術の塊だった 名車と呼ばれるクルマは世の中にたくさんあります。誰もが認める名車もあればファンが認める名車などさまざまな定義があります。筆者がスバルアルシオーネを名車だと認める理由は後の自動車業界に大きな影響を及ぼしたと言えるからです。 〈エクステリア・インテリアデザイン〉 まずはデザインです。有名なカーデザイナージウジアーロを彷彿とさせる面で構成されるウェッジシェイプのエクステリアはスバル社内の日本人デザイナーによるものです。直線的で低くなっているボンネットフード、台形型のシルエットを生み出すルーフライン、フラットなトランクフードはダックテールになっています。ヘッドライトはスバル車最初で最後のリトラクタブルヘッドライトを採用、テールライトは一文字に伸びておりライトの厚みは薄くボディサイドまで回り込んでいます。テールライトからフロントタイヤハウス・フロントバンパーまで続くキャラクターラインが力強さと近未来感漂う雰囲気を放っています。インテリアに目を移すとフラットで傾斜のついたダッシュボード、センターコンソールには戦闘機を思わせるガングリップタイプのシフトノブ、整列したオーディオとスイッチ類、真円形ステアリングのスポークは異形の6時15分、ステアリングの奥には左右に張り出しスイッチが並べられたコントロール・ウィングが配置されています。デジタルメーターには自分のマシンが直線レーンを走っているような表示がされ、タコメーターとターボメーターは奥から手前にゲージが進んでくる独自の方式。まるでゲームのモニターのようなレイアウトです。かつての中島飛行機から富士重工業へ変わりスバルになった歴史を感じさせるドライバーオリエンテッドなコックピットはドライバーではなくパイロットと呼べるほどの世界観を持っています。 〈テクノロジー〉 技術面でもアルシオーネは独自の世界観を持っていました。独特なデザインは空気抵抗の少なさに貢献しており日本車で初めてcd値=0.29を達成しています。アルシオーネがデビューした頃のスペシャリティクーペはFFもしくはFRを採用しているモデルが多かったのに対しアルシオーネは四輪駆動モデルもラインナップ。1985年のデビューでは水平対向4気筒1.8Lターボエンジンを搭載していましたが高級路線へ進路を進めるために2気筒をプラスした水平対向6気筒2.7L自然吸気エンジンを1987年に追加。四輪駆動搭載モデルにはセルフレベリング機能付きエアサスペンションE-PSを装着。さらに先進技術として路面摩擦係数が低い前後輪を基準としてブレーキ制御を行う精度の高いABSシステムを搭載、前後輪にトルク配分を行うトラクションコントロールACT-4、電動パワーステアリングCYBRIDを採用しています。ACT-4とCYBRIDを統合制御することにより車両の異常な動きを未然に防ぎ事故を抑制する安全技術アクティブ・セーフティを他社に先駆けて導入していました。水平対向エンジン、安全技術、四輪駆動システムの3つは現在もスバルのクルマ作りに活かされている技術ですね。アルシオーネをきっかけにスバルという自動車メーカーが世界に知られるようになり先進的な安全技術の提案は自動車業界に影響を与えたといっても過言ではないでしょう。 今でも色褪せない名車に乗りたい! 斬新なデザインと革新的な技術を搭載したアルシオーネはプラザ合意など経済的影響により販売台数が伸びず1985年から1991年の6年間1世代限りで終了してしまいましたが自動車業界に影響を与えた名車です。その名車はまだ現存しているのでしょうか。中古車情報を見てみるとなんと1台見つかりました。ただし、2019年1月時点での情報なのでいつなくなるかはわかりません。ちなみにこの1台は1987年式で走行距離は約138,000kmで本体価格は298万円です。新車販売時アルシオーネは1.8LターボエンジンのVSとVR、2.7LエンジンのVXの3グレードを展開していました。この3グレードの中でオススメは当時としては最新であったテクノロジーを搭載している2.7L水平対向6気筒エンジン搭載のVX。日本の技術力や中島飛行機から続くスバルらしさが光るVXがオススメです。 現在のスバルの礎 水平対向エンジン、統合安全技術、AWD(四輪駆動システム)を取り入れたスペシャリティクーペのアルシオーネ。ライバルとの差別化、統合制御によるアクティブ・セーフティをいち早く導入したアルシオーネはスバルの歴史を変えただけでなく自動車業界に影響を与えたモデルです。現在販売されているスバル車を見てみると水平対向エンジン、アイサイトをはじめとする予防安全を含む統合安全システム、シンメトリカルAWDを搭載したモデルを展開しています。現在スバルの中核を担っている技術の原型と言えるモデルがアルシオーネなのです。現在のスバルがあるのもアルシオーネがあったからこそ存在しているといえるのではないでしょうか。
インプレッサ、フォレスター、レガシィなど4ドアや5ドアモデルが主力のスバル。唯一の2ドアモデルはトヨタとの共同開発により誕生したBRZだけ。純粋にスバルオリジナルの2ドアモデルは現行ラインナップにありませんが、かつてフラッグシップクーペをラインナップしていました。それがアルシオーネSVXです。スバルアルシオーネSVXは1991年に登場したスバルのフラッグシップ2ドア4シータークーペ。6気筒水平対向エンジンを搭載しトルク配分型四輪駆動を採用、トランスミッションは4速ATを組み合わせたグランドツーリングカーです。「遠くへ、美しく」「500 miles a day」のキャッチコピーからもわかるようにロングツーリングを主軸に開発されました。 メインターゲットは北米市場でしたが日本でも販売されました。さまざまな要因から販売台数は伸びず1997年に後継車種が登場することなく生産販売が終了した幻とも言えるグランドツーリングカーがスバルアルシオーネSVXです。今回はスバルアルシオーネSVXの魅力について迫っていきましょう。 タイミングが悪かったグランドツーリングカーアルシオーネSVX 〈時代背景〉 スバルアルシオーネSVXが販売されたのは1991年。アメリカで行われたデトロイトモーターショーでアルシオーネSVX(北米などの海外市場では単にSVXという車名)を発表、後に日本市場でデビューしました。「国際水準の本格グランドツアラー」を目標として開発された2代目アルシオーネSVXは初代アルシオーネよりもサイズをアップ。3ナンバーサイズ化したボディを武器に北米市場をメインターゲットにしたスペシャリティカーとして登場。個性的で特徴があるデザインはあの有名なカーデザイナージウジアーロよってデザインされました。 デザインスケッチの段階では初代と同じようにリトラクタブルヘッドライトがデザインされていましたが空気抵抗の観点から固定式のヘッドライトへ変更されました。ジウジアーロによる美しく流麗なスタイルを手に入れたアルシオーネSVXは魅力的な部分が多くありましたが日本市場で発表されたのはバブル崩壊直後で決して景気が良いとは言えなかった時代だったのです。初代アルシオーネはプラザ合意による経済的な影響を受け、2代目アルシオーネSVXではバブル経済崩壊直後というタイミングの悪いモデルになってしまいました。 〈アルシオーネSVXの魅力的デザイン〉 アルシオーネSVXの魅力といえばやはりデザイン。ジウジアーロが手がけたアルシオーネSVXのデザインは初代の折り目のついたデザインから一新され曲面を使ったデザインへ変更されています。全体的に低く伸びやかで車両の前方から後方にかけて少しずつ上がっていくショルダーライン、薄くボディサイドまで回り込むライト、そして360度ガラス張りのキャビンが最大の特徴です。2019年の今でも斬新と思えるガラスキャビンはスバルの前身である中島飛行機を思わせるデザインでスバルがリクエストしたものです。飛行機のコックピットを覆う円形の蓋のようなキャノピーデザインはAピラーからルーフまでつながり、ルーフからクォーターピラーまでつながっています。 実際には2分割されていますが遠くからの眺めはひとつの弧を描くように見えます。各ピラーはすべて内側に配置され外側はガラス面にすることで360度ガラス張りに見えるのです。ルーフまでつながったガラスを使っているためサイドウィンドウは部分的に開くタイプになっている珍しいレイアウトが採用されています。一方インテリアはドライバーオリエンテッドな空間でセンターコンソールやエアコン吹き出し口は少しドライバー側に向けられておりコックピットという言葉がぴったりな内装。サイドブレーキの形状も飛行機のレバーを思わせる造形です。運転席をはじめ助手席や後席はサポート性を高めつつロングツーリングても疲れにくい形状。上級グレードにはレザーシートが装着されラグジュアリーグランドツーリングカーの素質を備えています。エクステリアとインテリアのデザインだけでもスバルが国際水準を目指していることと新しいグランドツーリングカーの提案をしていることが見てとれます。 〈チャレンジが生み出した安心と愉しさ〉 魅力的なデザインを全長4,625mm全幅1,770mm全高1,300mmにまとめ2ドア4シーターを備えるアルシオーネSVXですがメカニズムも独自の新しいチャレンジをしています。搭載されるエンジンはスバル定番の水平対向エンジン。新開発の3.3L 6気筒自然吸気エンジンは最高出力240PS最大トルク31.5kgmを発生。トランスミッションは4速ATでトルクフルなエンジンとの相性によって快適にロングツーリングを楽しむことができる動力をボンネットに秘めています。駆動方式は前後トルク配分型四輪駆動VTD-AWDシステム。基本設定は前35:後65で後輪駆動寄りのセッティング。FRの要素を残しながら四輪駆動の安定した走行を提供してくれるシステムになっています。 アルシオーネで開発された四輪駆動システムは進化をし続け現在のスバル車に搭載されているAWDシステムのベースになっています。アルシオーネで四輪駆動へのチャレンジがあったからこそ現在スバルは四輪駆動システムを搭載したモデルが存在しているといっても過言ではありません。豊かな動力を自然なフィーリングで生み出しスムーズに回る水平対向6気筒自然吸気エンジン、楽しさと安定を両立させるトルク配分型四輪駆動システムを搭載したことでキャッチコピーにふさわしい1日500マイル(約800km)の走行を実現させることができる能力を身につけることができたアルシオーネSVX。斬新なデザインと最新鋭のシステムによりどんな路面状況でもどんな天候でも安心してロングツーリングを楽しめるフラッグシップクーペへと成長したのです。 スバルアルシオーネSVXに乗りたい 時代背景や経済的な影響により販売台数が思うように伸びなかったアルシオーネSVX。1991年~1997年までおおよそ6年の販売期間で国内販売台数は6,000台未満、後継車種が発表されることなく幕を閉じました。最終型から計算しても2019年現在で20年以上が経過しています。これほど時間が経過していても現在中古車市場には数十台の個体が出回っていることに驚きます。 車両の価格は30万円~600万円程度で状態が良い個体に関しては650万円を越える価格が掲げられています。当時の新車販売価格がおおよそ300万円~400万円だったことを考えると新車価格を越える値段でリセールされていることにも驚きます。数十台出回っている中でもオススメなのは1995年以降の個体。モデル後半で熟成してきた頃でありS4の設定があります。後期のモデルにあたるS4ではトランスミッションが改良されトラブルが減ってきたため後期モデルのS4がオススメです。 時を越えた魅力 スバルがかつてリリースしたフラッグシップクーペアルシオーネSVXは現在でも色褪せない独自のスタイルでスバリストだけでなくスポーツカーファンを魅了し続けています。国内にとどまらず海外にも多くのアルシオーネSVXファンが存在しており20年以上経過した今でも大切に乗り続けられています。360度ガラス張りのグランドツーリングクーペアルシオーネSVXは今後も独自の魅力を放ち続けスバルを代表する名車として語り継がれることでしょう。ぜひアルシオーネSVXに乗っているオーナーは大切に乗り続け後世にスバルのフラッグシップクーペを引き継いでください。
2025年4月11日〜13日にかけて、幕張メッセで開催された「オートモビルカウンシル2025」の模様を取材した。 今回が記念すべき第10回目の開催となるオートモビルカウンシル。今回のテーマは『クルマを超えて、クルマを愉しむ Classic Meets Modern and Future(クラシック ミーツ モダン アンド フューチャー)』だ。 文字にするとサラッと読めてしまうが、これだけ大上段に構えれば、主催者自らが高いハードルを課していることが分かる。・・・と同時に、来場者の期待値だって否が応でも高まる。肩透かしを食らったら来年からは足を運んでもらえないことだってある。イベント主催者のプレッシャーも相当なのものがあったと思う。 ●オートモビルカウンシル 2025出展社一覧(2025年4月9日現在) ・日本車メーカー・インポーター・新世代自動車:9社・スポンサー:10社(うち出展6社)・特別協力スポンサー:2社・協力:1社・サプライヤー:5社・プレミアムライフスタイル:8社・ARTCOUNCIL:8画廊・2輪・3輪:1社・ヘリテージカー販売店(含SUV販売店):37社・自動車関連商品等販売店(マルシェ):39社・オーナーズクラブ:4団体・フード・ドリンク:7店舗 展示車両台数186台、出展者数は過去最多の131社、自動車関連商品等の販売店(マルシェ)が39社、オーナーズクラブが4団体、フード・ドリンクのコーナーが7店舗。そして来場者数も過去最高の44,963人となった。さらに、会場の規模が拡大され、幕張メッセ9-11ホールの3ホールを使用したのも今回が初となる。 イベント初日の特別内覧日というと、来場者は報道関係者が中心で比較的落ち着いているイメージがある。しかし、今年は違った。入場待ちの長い列ができており、例年以上に来場者の熱気と期待が伝わってきた。 ■ジョルジェット・ジウジアーロ氏の来日に合わせ、彼の代表作10台の展示 今回の最大のハイライトといえば、ジョルジェット・ジウジアーロ氏がこのイベントのために来日したことだろう。トークショーは満員御礼。筆者も場内を駆けまわるうちに、気づいたときにはステージのまわりは人だかり。空いている空間を見つけるのも一苦労であったほど。おそらく、本物のジウジアーロ氏をこの目で見たいがために会場へ足を運んだ人も多いはずだ。 筆者の記憶では、ジウジアーロ氏ご本人を観る機会に恵まれたのは、2013年フォルクスワーゲン ゴルフ7のプレス発表会発売でお見掛けしたとき以来だと思う。1938年生まれのジウジアーロ氏は御年86歳。年齢を感じさせないほどエネルギッシュで、どこか少年ぽさを感じさせる笑顔が実に素敵な方だ。 トークショーは4月11日と13日の2回。11日に開催されたトークショーのテーマは「 “A Young Talented Designer was Born” 才気あふれる若きデザイナー誕生」。画家の家系に生まれたジウジアーロ氏の生い立ちから、17歳でフィアットが設立したデザインセンターに入社した経緯。そしてベルトーネ社を経て、1967年に30歳の若さでイタルデザイン社を起こした経緯などを語ってくれた。 当日、会場を訪れた人のなかにはジウジアーロ氏のファンだけでなく、同氏がデザインを手掛けたモデルを愛車にしている人も来場していたのだろう。「ジウジアーロ氏の生の声を聞き、同じ空間に居る」ことへの充足感・満足感に浸っている人も見受けられた。 ■今回も見みどころ満載だった企画展 ジウジアーロ氏の来日にあわせて、Giorgetto Giugiaro展「世界を変えたマエストロ」と題して、同氏が手掛けた10台の名車が展示されたほか、THE GOLDEN AGE OF RALLY IN JAPAN <歴史を飾ったラリーカー展示>のテーマに沿って6台の懐かしいラリーカーがずらりと並ぶ姿は壮観のひとことだ。 ●Giorgetto Giugiaro展「世界を変えたマエストロ」展示車輌 ・アルファ ロメオ ジュリア スプリント GT ・マセラティ メラク SS ・フォルクスワーゲン ゴルフ ・BMW M1 ・いすゞ アアッソ ディ フィオーリ ・ランチア デルタ ・フィアット パンダ ・DMC デロリアン ・イタルデザイン アズテック ・バンディーニ ドーラ ●THE GOLDEN AGE OF RALLY IN JAPAN <歴史を飾ったラリーカー展示> ・フィアット X1/9 アバルト プロトティーポ ・BMC ミニ クーパーS ・ランチア ストラトス HF ・フィアット アバルト 131 ラリー ・ルノー サンク ターボ ・アウディ クワトロ 各国産車メーカーも、トヨタは歴代スープラを中心に、第28回東京モーターショー出展車両として当時注目を集めた「4500GT」を展示。そしてホンダは歴代プレリュードを展示。 またマツダは「MAZDA DESIGN STORY “心を揺さぶる、モノづくりへの追求”」のテーマとともに、若きジウジアーロ氏がベルトーネ社に在籍中に手掛けた初代ルーチェのプロトタイプをはじめ、ユーノス500や過去の東京モーターショーに出展したコンセプトカーを軸に展示。三菱は「時代を切り拓いてきた名車たち」のテーマを掲げ、東京モーターショー出展車「HSR-II」をはじめとする懐かしいモデルを展示した。 そして特別展示として日産はプリンス スカイラインスポーツ(1960年トリノ国際自動車ショー出展車)をはじめ、ダットサンブルーバード 1200 デラックス(スタイリング原案はピニンファリーナ)、ニッサン マーチ コレット(スタイリング原案:イタルデザイン社)、GT-R50 by Italdesign(スタイリング原案:イタルデザイン社)と、蒼々たる顔ぶれとなった。 ヘリテージカー販売も好調だったようで、早々に「商談中」や「成約済」の商品車を見掛けた。なかには自走して会場入りしたクルマもあるだろうが、多くはトランスポーターに積まれてここまで来たのだろう。 また、タミヤブースでは「タイレル P34」が展示されており、その場でハンドメイドタイレルを製作した綿引氏といつも取材に同行してくださるI氏にも連絡して、画像と動画を送りまくってしまった。こうしてオリジナルを間近で眺めていると、改めて綿引氏が手掛けたハンドメイドタイレルの再現性に驚かされる。いつか、オリジナルとハンドメイドタイレルを並べた光景を見てみたいと思う。 タイレルP34を追え! https://www.qsha-oh.com/historia/category/tyrellp34/ ■まとめ:仕事を忘れそうになるほど夢中になった クルマ好きの友人知人にもよくいわれるのだが「(こういったイベントに)仕事で行けていいね」とうらやましがられることも少なくない。かつての自分もそうだった。東京モーターショーのプレスパスが初めて発給されたときのうれしさはいまでも忘れられない。 オフィシャルでイベント会場に足を運べる反面、失ったこともある。イベントを楽しむことがまったくできなくなってしまったのだ。ジウジアーロ氏のトークショーのことも忘れてしまうほど「撮れ高」を求めて会場内をひたすら歩く。あとで確認して驚いたのだが、この日の歩数も24,000歩を超えた。 今回、取材に入る前に会場内を練り歩いてみようと思い、各ブースをチェックした。ひととおりサラッと観た時点で仕事を放り投げたくなった。ここまで純粋にこのイベントを楽しみたいと思ったことはいつ以来だろう・・・。はるか昔、高校時代にわざわざ始発電車に乗って行った東京オートサロン以来かもしれない。 名車がずらりと並べられ、懐かしいクルマが商品車として展示されているとはいえ、間近で眺めることができる。普段ならネット上で探しているようなグッズが所狭しと並べられている。仕事ではなく、いちクルマ好きとして心からオートモビルカウンシルを楽しむことができた。こんな感覚は久しぶりだ。 これこそが10年という、短くて長い歳月を掛けて少しずつ熟成を重ねつつあるこのイベントのカラーなのだろう。過去の記事でも書いたような気がするが「鑑賞」という表現がふさわしい。成熟した大人のためのクルマのイベントなのだと思う。 イベント初日の特別内覧日(3000枚限定)の前売りが9,500円、当日券が10,000円。そして一般公開日の前売りが6,500円、当日は7,000円という価格設定は正直いって高い。その代わり、学生(中・高・大・専門)は2,000円に抑えられている(※小学生以下は保護者1名につき1名まで無料)。この高めのチケット価格にも臆することなく、会場へ足を運ぶ人たちの客層がいいのもこのイベントの重要なポイントだと思う。 今回のテーマ『クルマを超えて、クルマを愉しむ Classic Meets Modern and Future(クラシック ミーツ モダン アンド フューチャー)』は伊達ではない。よくぞここまでの名車を集めたものだと思う。そして、日本発のクルマイベントとして世界に誇れる充実したプログラムだと思う。 次回からは新たなステージに足を踏み入れることになるであろうオートモビルカウンシル。次回の日程は、2026年4月10日(金)から12日(日)の3日間の日程で幕張メッセで開催を予定しているとのことだ。 唯一無二であろうこの空気感が、これから先も少しずつ熟成を重ねつつ、日本が世界に誇れるクルマのイベントとなってくれることを願うばかりだ。 [ライター・撮影/松村透]
5ナンバーサイズながら、ワイド&ローなスタイリングに迫力を感じるトヨタ AE92 レビン/トレノ。FFへのレイアウト変更、シリーズ初の過給機エンジン採用など大幅な刷新が図られたモデルです。 多くの若者の心を掴んだAE92の誕生背景と、魅力的な性能をたっぷりと紹介します。 大転換を図ったカローラ レビン/トレノ AE86の成功で地位を確立したレビン/トレノでしたが、AE92へのフルモデルチェンジで歴史的な大転換を図ります。また、「デートカーブーム」を追い風に、スポーツカー好き以外のファン層を切り開きました。 当時の時代背景とともにAE92が誕生した経緯について振り返ってみましょう。 プラットフォームを現代的なFFに刷新 AE92は、5代目レビン/トレノとして1987年に登場しました。最大の変更点は、駆動方式にレビン/トレノ史上で初めてFFが採用された点です。また、3ドアハッチバックが廃止され、ボディタイプは2ドアクーペのみに統一されました。一方で、レビンが固定式角目、トレノがリトラクタブルというヘッドライトの形状は踏襲されています。 スタンダードモデルのエンジンはAE86の4A-GEU型を横置きに搭載し、型式を「4A-GE」と改めました。1.6Lの直列4気筒DOHCエンジンで、最高出力120ps、最大トルク14.5kgを発揮します。また、先代と同様に、1.5Lの廉価版モデルもラインナップされました。型式はAE91で、キャブ仕様の5A-F型とインジェクション仕様の5A-FE型の2種のエンジンが用意されています。 若者のデートカーとして定着 AE92が登場した1980年代後半は、バブル景気を背景に若者の間でデートカーブームが巻き起こっていた時期です。日産 シルビア、ホンダ プレリュードといったスポーティでスタイリッシュなクルマが人気を博します。なかでも、トヨタ 2代目ソアラは、デートカーの代表格として憧れの的になっていました。 クーペタイプに統一されたAE92はソアラを小型化したかのようなスタイリングだったことから、「ミニソアラ」とも呼ばれました。新車時の販売価格が100万円台前半だったAE92は、高額なソアラに手の届かなかった若者の心を掴んだのです。 AE92になって大幅に進化したポイント 駆動方式がFRからFFに変更されたことで、落胆の声を上げるピュアスポーツファンも存在しました。しかし、AE92がテンロクスポーツを牽引するモデルだったことに間違いありません。 続いて、AE92になって進化したエンジン性能、レースでの活躍を紹介します。 最上位グレードのGT-Zはクラス最高峰 最上位グレードのGT-Zには、名機4A-G型エンジンにスーパーチャージャーを搭載した4A-GZE型エンジンが搭載されています。大幅に最高出力が引き上げられ、前期モデルでは145ps、後期型では165psにも達しました。ホンダの誇るVTECを搭載したB16A型エンジンの160ps(当時)を超え、クラス最高峰のパワーを実現しました。 また、足回りの設計も最上位グレードにふさわしく、GT-Z専用設計になっていました。前後のワイドトレッド化やリアアームの延長、ピロボールブッシュの採用など直進安定性を高める工夫が随所に施されています。また、外装面でも、ホイールアーチにモールが追加され、他グレードとの差別化が図られました。 マイナーチェンジで大幅な進化 AE92は、登場から2年後の1989年にマイナーチェンジを行いました。バンパーやグリルといったデザイン面での変更が目立ちますが、最大の違いはエンジン性能です。 実は、AE92登場当時の4A-GE型エンジンは、AE86の130psから120psに出力が絞られていました。しかし、マイナーチェンジによってハイオク仕様になり、最高主力140ps、最大トルク15.0kgmにまで引き上げられています。同型の自然吸気エンジンで、登場時から20ps、AE86最終型から考えても10psも最高出力を引き上げているのは驚異的です。 グループAでのシビックとの死闘と活躍 AE92は、AE86に続いてグループAでのレースに参戦しました。最小排気量クラスはVTECを備えたEF型シビックの独壇場で、事実1987年から1993年までの7年連続でメーカーズタイトルをホンダが獲得しています。 AE92は1988年シーズンの2戦目から投入されましたが、当初はシビックに阻まれて思うような成績は残せませんでした。しかし、富士スピードウェイで開催された最終戦のインターTECで、ついにシビックを打ち破ります。トムスの走らせる「ミノルタカローラレビン」が、クラストップ、総合5位という成績を収めました。 続く1989年も全体としてシビックの優位は変わらなかったものの、つちやエンジニアリングの「ADVANカローラ」が2勝と2度の表彰台を獲得してドライバーズタイトルの座に輝きます。さらに、1990年にもドライバーズタイトルを獲得して2連覇を達成。シビック優勢のなかでのまさに死闘と呼べる戦いでしたが、AE92は確実にその実力を証明しました。 レビトレ史上最も売れたAE92 FRスポーツだったことと、ドリフトドライバーや漫画の影響などからAE86が異常な人気だったため、今振り返るとAE92はやや地味な印象を受けます。しかし、実はAE92は、レビン/トレノ史上で最も売れたモデルです。 バブル景気やデートカーブームといった時代背景の影響もありましたが、クルマとしての高い実力が備わっていたからこその成功でしょう。AE92へのフルモデルチェンジでは、スーパーチャージャーやハイオク仕様による大幅な出力性能の向上、格上のソアラのようなスポーティでスタイリッシュなエクステリアデザインといった点など、しっかりと作り込まれました。マイナー車種と思われがちなAE92ですが、改めてその価値を見直したいところです。
WRCで今も破られていない金字塔、マニュファクチャラーズタイトル6連覇を成し遂げたランチア デルタHF 4WD。圧倒的な性能もさることながら、ブリスターフェンダーや上品な内装といったデザイン面も人気の理由です。 本記事では、レギュレーションの変更からわずか半年で完成させたといわれる、デルタHFについて詳しく紹介します。 WRCのレギュレーション変更に合わせて登場したデルタHF デルタHFは、WRCで勝つために開発されたクルマです。わずかな開発期間しかないなかで、ファミリーカーだったデルタをWRCで戦えるように仕上げました。 まずは、デルタHFの開発背景と、誕生に欠かせなかったアバルトの存在について紹介します。 開発決定からわずか半年で発表された新モデル デルタHFは、開発の決定からわずか半年で発表されました。開発のきっかけは、WRCが安全上の理由から参加車輌の規定を変更したことです。グループBでは重大事故が多発していたため、1987年からWRCのトップカテゴリーが市販車ベースのグループA規定に変更されました。 1986年半ばに突如発表された規定変更に各メーカーが対応方法を模索するなか、ランチアはシーズン終了前にデルタHF 4WDを発表します。開発を早期に決定し、余裕をもって間に合わせたことが1987年以降の輝かしい成績につながったのかも知れません。 影に徹したアバルトの高い開発力 デルタ HF 4WDを短期間で発表できたのは、同じフィアット傘下だったアバルトの高い開発力があったからこそだといわれています。グループ内のラリーマシン制作を担っていたアバルトは、習得したWRC車制作ノウハウを活かしてごく短期間でデルタ HFを完成させました。 しかも、ちょっとした変更ではなく、レースで勝つための戦闘力を備えたマシンに生まれ変わらせています。もっとも大きな変更点は、駆動方式とエンジンです。アウディ クアトロの登場により4WDでなければ戦えない状況だったため、FFだったデルタをフルタイム4WDに改変。さらに、ロードモデルにも165psを発揮する2Lターボエンジンを搭載し、ベース車輌がファミリーカーだと思えないほどのスペックに仕上げました。一方で、車体にはアバルトのエンブレムや名称の記載はなく、まさに影の立役者といった存在でした。 投入初年度から無類の強さを発揮 グループA初年度の1987年開幕モンテカルロで、ミキ・ビアジオンとユハ・カンクネンがワンツーフィニッシュを決め、デルタHFはいきなり圧倒的な速さをみせつけます。1987年シリーズは、9勝を挙げてドライバーズとマニュファクチュアラーズのダブルタイトルを獲得しました。 翌年以降も勢いは変わらず、1992年まで前人未到のマニュファクチュアラーズタイトル6連覇を成し遂げます。しかし、トヨタを中心にした日本勢の台頭もあり、ランチアは1991年にワークス体制を解消、さらに1993年にはデルタ自体もWRCから姿を消しました。 市販車としての完成度も高かった グループA規定では一定以上の市販車としての販売実績が必要なため、ランチアHFも当然市販されています。また、WRCで勝つために、毎年のように仕様変更されたこともデルタHFの特徴です。 ここからは、市販車としてのデルタHFの魅力を解説します。 アルカンターラを多用した上質な内装 デルタはもともとゴルフに対抗すべく作られたモデルで、大衆車ながら上品な内装が特徴です。デルタHFでも内装面の特徴は引き継がれ、随所に手触りのよいアルカンターラが使用されています。 レースカーとしての高い戦闘力を期待させるブリスターフェンダーを備えた外装と、上品な内装のコントラストもデルタHFの魅力です。 積極的な開発で生まれた3つの代表モデル デルタHFは登場以降、WRCで勝つために毎年のように改良を続けました。1989年には、エンジンを16バルブ化したHFインテグラーレ16Vを投入。前年のインテグラーレでブリスターフェンダー化して拡幅していたところに、高性能エンジンを搭載してさらなるパワーアップを実現しました。大型化したエンジンを搭載するため、盛り上がった形状のボンネットに変更されています。 さらに、1992年にはWRC参戦の最終形HFインテグラーレ エヴォルツィオーネへと進化を遂げます。市販車の最高出力は大台を突破する210psに達し、まさにエボリューションモデルと呼ぶべき存在でした。 最終的に市販モデルは、1993年のHFインテグラーレ エヴォルツィオーネⅡまで作られます。おもに日本市場を意識したモデルで、最後の限定車HFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネⅡコレッツィオーネは限定台数を急遽増やすほどの人気を集めました。 ランチアが導き出したWRCグループAの最適解 フルタイム4WDに2L16バルブDOHCターボエンジン、ボディにブリスターフェンダーというデルタHFの仕様は、6連覇という偉業によりグループAの最適解であることを証明しました。事実、三菱 ランサーエボリューション、スバル インプレッサといった1993年以降に活躍するWRカーに多大な影響を与えています。 デルタHFの買取価格は優に500万円を超え、現在でも高い人気を誇っています。輝かしい成績を残したことだけでなく、WRCの歴史に大きな影響を与えた点も含めて価値が高まっているのでしょう。
滑らかで美しい曲線によるボディラインが特徴的なトヨタ 初代セリカは、スペシャリティカーという新たなカテゴリーを定着させたモデルです。 個性的なスタイリングから「ダルマセリカ」とも呼ばれた初代セリカのなかでも、特に人気の高かったグレードが1600GT。リフトバックの最上位グレードである2000GTと双璧をなしたともいわれています。今回は1600GTを中心に初代セリカの魅力と歴史を解説します。 初代セリカは自動車の新カテゴリーを定着させた 初代セリカは、スペシャリティカーという新カテゴリーを定着させたモデルです。走行性能にこだわりながらも、デザイン性の高さも併せ持っていました。 セリカの個性を際立たせた1600GTを中心に、誕生の歴史を振り返ってみましょう。 スペシャリティという新しい提案 1970年に登場した初代セリカは、カリーナと多くの部分が共通であるものの、それまでの国産車にはあまり存在しなかったスペシャリティカーという新しい位置付けのクルマでした。スペシャリティカーの定義はややあいまいですが、落ち着いたセダンでもなく尖ったスポーツカーでもないスポーティな車種全般がスペシャリティカーと呼ばれています。 シャシーやパワーユニット、ギヤボックスは共通でありながら、ボディタイプは2ドアハードトップクーペのみ(登場時)というカリーナとは明確に方向性の異なる車種でした。 ダルマセリカの愛称で呼ばれた個性的なスタイリング 初代セリカは、その個性的なスタイリングから「ダルマセリカ」という愛称で親しまれました。当時の国産車としては珍しい、滑らかな曲線で構成されたボディラインに由来します。また、正面から見ると、メッキのフロントバンパーがダルマのヒゲのように見えるからだともいわれています。 肉厚で重厚感のある個性的なデザインは、スペシャリティカーという新たなカテゴリーのクルマとして多くの人から愛されました。 最上位グレードの1600GT スペシャリティカーという初代セリカのアイデンティティを最も感じられるグレードといえば、走りにこだわった1600GTです。ヤマハ製のDOHCエンジン2T-Gを搭載し、内外装も専用パーツが用意されていました。 初代セリカは、内外装をはじめ、エンジンやトランスミッションまで好みのものを選べる、フルチョイスシステムと呼ばれる販売形態をとっていました。しかし、最上位グレードとしてこだわり抜かれた1600GTに関しては、フルチョイスシステムの対象外でした。 すべてが特別だった1600GT スペシャリティという言葉のとおりセリカは特別なクルマであり、なかでも1600GTは性能、デザインともに、当時としては先進的なモデルです。海外のレースでも多くの活躍を見せ、その実力を世界に示しました。 ここから1600GTの魅力をさらに詳しくみていきましょう。 名機2T-Gと専用設計の内外装 1600GTの最大の特徴は、トヨタのDOHCエンジンの先駆け的存在だった名機2T-Gを搭載していたことです。2T-GはDOHCの1.6L 4気筒エンジンで、115psもの最高出力を発揮します。最高速度は、スポーツカーにも劣らない190km/hに達しました。 また、内外装の多くの部分が1600GT専用に設計されています。ハニカム構造のフロントグリルとサイドストライプには、専用の「GT」の文字があしらわれていました。内装も1600GT専用のデザインで仕上げられています。 世界的なレースでも活躍 1600GTは、世界のレースでも実力を見せつけます。まず、1972年のRACラリーにワークスとして本格参戦し、クラス優勝を果たしました。さらに、翌年の1973年には、世界の名門レースで連続して素晴らしい結果を残します。 ニュルブルクリンク6時間レースでクラス優勝を飾ると、スパ24時間レースでも同じくクラス優勝。性能と信頼性の高さを世界的なレースで証明しました。 後発の2000GTと甲乙つけ難い人気 初代セリカのなかでも人気の高かったモデルは、1973年に投入された2000GTリフトバックです。2.0Lの18R-G型直列4気筒DOHCエンジンは、1600GTを大きく上回る最高出力145psを発揮しました。 しかし、絶対的なパワーでは劣るものの、軽快でスポーティな走りに関しては1600GTに軍配が上がります。また、スペシャリティカーという新カテゴリーを切り開いたという意味においても、1600GTは唯一無二のモデルです。1975年の排ガス規制によって惜しまれつつ生産が終了しましたが、現在でも1600GTは2000GTと甲乙つけがたい人気を誇っています。
ドイツツーリングカー選手権(以下DTM)で連覇を成し遂げるなど、レース界で輝かしい戦績を残したメルセデス・ベンツ 190E 2.5-16 エボリューションⅡ。500台限定の生産台数で、日本国内にはわずか50台しかないともいわれる希少車です。 インパクトのある見た目と名門コスワースによるチューニングエンジンによる高い性能から、憧れる人が後を絶たない190E 2.5-16 エボリューションⅡの歴史と魅力を振り返ってみましょう。 DTMを席巻した190E 2.5-16 エボリューションⅡ メルセデス・ベンツ 190E 2.5-16 エボリューションIIは、1990年のDTM投入翌年の1991年には、ドライバーズランキングこそ2位だったもののマニュファクチャラーズタイトルを早くも獲得します。さらに、翌年にはマニュファクチャラーズタイトル連覇と念願のドライバーズタイトルも手中に収め、圧倒的な強さを見せつけました。 日本国内でも多くの人に愛されたベース車輌の190Eについて解説するとともに、メルセデス・ベンツのレースにかける思いを詳しく紹介します。 ベース車輌は赤坂サニー ベース車輌の190Eは、特別希少価値の高いクルマではありませんでした。メルセデス最小という位置づけの、どちらかというと大衆向けの車種です。バブル景気を背景に高級車が売れた当時の日本では、「六本木のカローラ」と呼ばれたBMW E30と並んでメルセデス 190Eは「小ベンツ」「赤坂のサニー」と呼ばれるほどよく目にするクルマでした。 一方で、車としての質感はさすがメルセデス・ベンツといった仕上がりで、燃費や油量に加えて時計まで一望できる3連メーターやゲート式シフトレバーなどは上級車種と共通のスタイルを採用。シートをはじめとする内装にも、メルセデス・ベンツ特有の高級感のあるデザインが施されていました。 勝つためだけに製造された限定500台 190E 2.5-16 エボリューションⅡは、わずか500台しか生産されませんでした。当時のDTMに参戦するためのホモロゲーションを取得するために、市販車としての最低生産台数が500台だったためです。つまり、190E 2.5-16 エボリューションⅡは、モデルとしての商業的成功ではなくレースで勝つためだけに販売されました。 また、190E 2.5-16V エボリューションⅡが作られる前に、同じく2.5L 直列4気筒16バルブエンジンをベースに190E 2.5-16 エボリューション(通称:190E 2.5-16 Evo. I)が1989年に製造されていました。エンジンはチューニングされていたものの、外観的にはタイヤを太くしたことに伴うオーバーフェンダーの装着程度でベース車輌とあまり変わらず、レースでも苦戦を強いられます。 そこで翌年の1990年に投入されたのが、エンジンだけでなく外観にも大幅に手を入れた190E 2.5-16 エボリューションⅡです。500台の限定生産を2年続けてクリアしたあたりに、メルセデスがレースにかける思いがいかに強かったのかが伺い知れます。 空力性能を追い求めた迫力の外観 190E 2.5-16 エボリューションⅡの外観で真っ先に目につくのは、大型のリアウィングです。しかも、見た目だけの装備ではありません。重量増を抑えるためにアルミ合金製となっていて、しっかりとダウンフォースを稼ぎます。 また、大きく張り出したオーバーフェンダーやフロントリップスポイラー、サイドスポイラーと迫力のエアロパーツが特徴的です。この時代のベンツらしく角目で直線基調のボディラインということもあって、圧倒的な存在感と迫力を感じます。 突き詰められたチューニングエンジン 190E 2.5-16 エボリューションⅡのエンジンは、イギリスの名門エンジンメーカーコスワースの手によってとことんチューニングされています。カムシャフトやバルブ、ピストンといった各部には専用部品が用意され、クランクシャフトの重量にまでこだわって設計されました。 軽量な190Eには十分過ぎる235psを販売モデルで発揮。さらに、レース用エンジンでは375psまで高められていたようです。 手抜きのないインテリア レース参戦のホモローゲーション取得のために製造された190E 2.5-16 エボリューションⅡですが、内装面でもまったく手抜きはありません。上質で落ち着いたメルセデスらしい質感とともに、各種装備も充実していました。パワーウィンドウやエアコン、エアバッグ等を備え、4人乗りセダンとして普段使いできる仕様に仕上げられています。 整然と並んだメーターパネルや重厚なドアパネルによって、レースカーとは思えないほどの高級感が与えられています。 3,000万円を超える価格が証明する価値 190E 2.5-16 エボリューションⅡは、ほとんど市場に出回ることはありません。しかし、店頭に並ぶとほぼ確実に3,000万円を超える価格がつけられます。すでに30年以上前のモデルにはなりますが、メルセデス・ベンツがこだわって開発したことと希少性から、その評価は今後も衰えることはないでしょう。 一方で、希少性の高い車の価値を正しく見極めるのは大変困難です。ほとんど流通してない車だと、査定の参考になる価格もありません。歴史的な意味合いも含めて、クルマのもつ本当の価値を理解した価格をつけられるのは旧車王のように専門的に取り扱っている業者だけです。