1台のクルマに乗り続ける理由。 カーライフは十人十色だが、最愛の1台と長きにわたって過ごしていくカーライフは憧れであり、理想のカーライフというクルマ好きは多い。 今回は、マツダ ポーターバンに乗り続けるオーナー古谷啓通さん(42歳)のカーライフをご紹介しよう。 祖父が社有車として愛用していた個体を、17年前に受け継いだ古谷さん。 古谷さんの祖父は2012年に他界されているが、ポーターバンはその後も手厚いメンテナンスによって「現役」だ。 県外へのイベントも自走で参加。現在の総走行距離は22万キロを超えている。 このクルマにオーナーの古谷さんがどのように接しているか、そしてどんな工夫をしながら愛車を維持しているかを紹介しながら、「家族の一員」ともいえる愛車とのストーリーを紐解いていこう。 ▲「全塗装から10年以上が経過して程よくヤレてきました」と古谷さん。商用車は「使い込まれた道具感」も魅力のひとつ ■「マツダ ポーター」のプロフィール マツダ ポーターは、東洋工業(現マツダ)が生産していた軽商用車だ。それまで生産されていたB360(通称Bバン)のフルモデルチェンジ版として1968年に誕生。 ボディタイプは「バン」と「ボンネットトラック」の2タイプ。 エンジンはDB型4ストローク4気筒OHVを継続採用していたが、1973年のマイナーチェンジにてAA型2ストローク2気筒ロータリーバルブエンジンに換装されて後期型となり、1976年に生産終了した。 この間の1975年には、軽自動車のナンバーが白い小判ナンバー(小板ナンバー)から現在の黄ナンバーとなった。 1976年には軽規格が360㏄から550㏄へと変更されているが、ポーターはマイナーチェンジのみで、規格変更は行わずに継続生産された。 なお、1969年にはキャブオーバー軽トラックとして「ポーターキャブ」が車種追加されているが、こちらは1977年に三菱製のエンジンに換装されるビッグマイナーチェンジを行って550㏄の新規格に対応し、最終的に1989年まで生産された。 ▲ブリヂストンのとある輸出用バイクのエンジンにその源流があるといわれるAA型2ストロークロータリーバルブエンジン。35馬力というパワーは当時の軽商用車部門で最強を誇ったが、排ガス規制の影響で33馬力から32馬力とパワーダウンを余儀なくされた ▲リアゲートはベンチにも!? 背後の「ござ」は古谷さんの祖父の代からの愛用品。工具などの目隠しとして使われていた[写真提供/古谷啓通さん] ■ルーフキャリアはこの個体のアイデンティティ この個体は、古谷さんの祖父が営んでいた「古谷電気商会」の社有車だった。 仕事の相棒として屋号をペイントすることなくオリジナルのまま愛用していた。ボディカラーは「シーライクブルー」と呼ばれる純正色だ。 古谷さん: この「シーライクブルー」という色ですが、最終型の「デラックス」以外、マツダで採用された車種・グレードが今のところわかりません。 2スト以降の「ポーターバンデラックス」のカラーはずっと「マーチブルー」だったのですが、生産自体1年に満たない最終型のために、わざわざ専用色を作るのかな?と考えてしまいます。ポーターの謎のひとつです(笑)。 ▲古谷さんの祖父は1970年から2年おきにポーターバンを買い替え、計4台乗り継いでいた ──この個体の最も大きな特徴は「ルーフキャリア」を取り付けている点だ。古谷さんの祖父が取り付けたもので、ハシゴなどの仕事道具を載せていた。 古谷さん: ルーフキャリアがついていないと「このポーター」ではないんです。祖父が歴代のポーターに付け替えるたび、そのボディカラーに合わせていました。このルーフキャリアを修復する際に塗装を剥がしたとき、代々のボディカラーが層になっていました。 ■物心ついた頃から一緒に過ごしてきた ──古谷さんの生まれる前からポーターバンは家にあり、暮らしに寄り添ってきた。古谷さんのクルマ観や好みにもこのクルマが深く関わっているのではないだろうか。古谷さんの祖父との思い出、そして幼少時代のポーターとのエピソードを伺った。 古谷さん: 祖父の運転免許は360ccの軽自動車限定免許でした。しかも家の車庫への通路は狭く、360ccの軽自動車のボディサイズでないと入れなかったということもあり、このポーターバン以外に乗り換える新車もなく、結果ポーターに特化したドライバーになっていました。 ▲排気量360ccまでの軽自動車が運転可能な軽自動車限定免許。1968年に普通自動車免許に統合された 古谷さん: 「ポーター以外は違和感があって乗れない」というレベルの祖父でしたが、その代わりポーターに乗れば暗闇でも鍵穴を探す事なくキーを差し込んでいましたし、車両感覚もまさに身体の一部であるかのように幅寄せ、すり抜けを行っていました。 免許を返納する頃でも横に乗っていて運転に不安を感じる場面はなかったですね。高齢による反応の衰えをポーターに特化していたことによる「慣れ」がカバーしていたのかもしれません。 ▲古谷さんの祖父が乗っていた頃の1枚。どんな狭い路地も通り抜けていた[写真提供/古谷啓通さん] ──幼い頃の思い出で、とくに印象に残っている出来事は? 古谷さん: 僕は物心ついた頃から、このクルマの助手席に乗っていました。助手席にハンドル付きのチャイルドシートみたいなものを付けてもらって、運転のまねをしながら育ったんです。 我が家はとりわけクルマ好きの家庭ではありませんでしたが、クルマに興味を持った背景はポーターバンの存在が大きかったかもしれません。どこに行くにもこのクルマと一緒でしたね。 僕は幼い頃によく発熱していたんですが、寝込むたびに祖父の運転でポーターバンの後部座席に寝かせられて病院へ連れていってもらっていました。あれは雨の日だったのだと思うのですが、熱でほてった頭に車体のタイヤハウスの車内側の鉄板を当てていると、それがひんやりして気持ち良く、水しぶきの「シャー」という音と共に心地良かったなという記憶があります。 両親がお見合いをした日も、祖父が父親を乗せてお見合い会場まで送迎したという話ものちに聞きました。 ▲マツダのファンイベントにて[写真提供/古谷啓通さん] ──古谷さんが「クルマ好き」としてポーターを意識したのはいつだったのだろうか? 古谷さん: クルマの知識が増えてきた中学生になりたての頃からですね。いてあたりまえの存在なのに、生活圏で同じクルマを見ることがない…。そこから「このクルマはどういうクルマなんだろう?」と興味を持ち始めました。 しかし、ポーターはいわゆる“名車”ではなく“迷車”の類ですから、クルマ雑誌を読んでもなかなか誌面で見かけることはありませんでした。 この個体がマツダ ポーターバンの最終型だと知るまでに随分かかってしまいました。 ▲歴代ポーターの新車注文書を保管。フォグランプや泥除け、バイザーなどのオプション品は今も現車に付いている ▲古谷さんがコツコツと収集してきた当時のカタログ。情報が少ない車種のため、カタログや自動車誌の記事はコレクションとともに貴重な情報源 ■古谷さんの祖父が見つけてきた「弐号機」の存在 ──ポーターバンを受け継ごうと決めたのは、古谷さんの祖父がもう1台のポーターバンを手に入れ、2台体制になったことがきっかけだったという。 古谷さん: 2005年から2006年にかけての話で、祖父もまだまだ現役だった頃です。ポーターバンも現役の仕事車だったのですが、ある日の仕事帰り、走行不能になってしまいました。フロントの足回りの故障でした。 当時、整備に出していた店からは「部品がないので直せません」と宣告されてしまいまして…。祖父はポーターしか乗れないし、「引退するしかない」とまで言い出してしまったので、部品取り車のポーターバンを探しに探して、なんとか修理はできました。 ところが…修理をしている間に、部品取り車を見つけた車屋さんで、祖父が別のポーターバンを見つけていたのです。気がつけば、そのポーターバンが車庫に収まっていました(笑)。 祖父によると「仕事の相棒に長く寝込まれたら困るから、これからは2台体制を取ることにした。ワシは主に青いの(マーチブルー)に乗るから、ポーターバンが直って戻ったら、後はお前が保守管理するように!」とのことでした(笑) ▲自宅の車庫に収まるマーチブルーのポーターバン デラックス「弐号機」(右)。看板は当時モノでネットオークションにて入手。[写真提供/古谷啓通さん] ■「初号機」にポーターキャブのエンジンを移植 ──維持と管理をまかされたことで、実質マイカーとなったポーターバン。2台になったことで当時は「初号機」「弐号機」と呼び分けていたという。このとき、古谷家は3台の「ポーター」を所有していたことになる。もともと乗っていた「初号機」、2台目の「弐号機」、そして大型荷物の運搬専用だった軽トラックのポーターキャブ(PC3A型)があった。 古谷さん: 当時、走行距離が16万キロに達していたので、「初号機」のフロント足回りの修理に使った部品取り車のエンジンに載せ換えたんです。 しかしあまり調子が良くなく、祖父との協議の結果、主に冷蔵庫と洗濯機を運ぶ時のみに使用していたポーターキャブのエンジンを移植することにしました。 このポーターキャブも幼い頃、ジャングルジムのように、よじ登って遊んでいた思い入れのあるクルマだったのですが、断腸の思いでした。 ▲断腸の思いでポーターキャブのエンジンへ換装(手前が元々は部品取りのポーターに載っていたエンジン、奥がポーターキャブのエンジン)[写真提供/古谷啓通さん] ──エンジンのあとは、ボディのレストアにも着手した古谷さん。熟練した技術をもつ鈑金職人のもとで、ポーターバンは修復されることとなった。 古谷さん: クルマ仲間のネットワークで、ボディの鈑金塗装が得意な職人さんを紹介してもらいました。職人さんからは「確かに錆びて大穴も開いているけど、肝心な所は風が通っていたから腐ってない。大丈夫、直るよ!」と言っていただき、あの時は本当に嬉しかったです。 ボディは特に、左後部座席の足元フロア部分(リーフサスの付け根が取り付けられている部分)がボロボロに腐食していたので、患部を切除し、新たに鉄板を鈑金加工してフロアを新規作成しています。その他ドアの下部などもほぼ作り直されています。 ▲腐食部分を切除し、鉄板を叩いて新たに作成[写真提供/古谷啓通さん] ▲パーツリスト、取扱説明書、整備解説書は修復時に重要な資料となる。流用部品の手がかりにもなるため、旧車を所有するならできるだけ揃えておきたい ■祖父との別れ。そして「弐号機」の巣立ち ──古谷さんとポーターバンにとって、2011年から2012年にかけては大きな転機となった。古谷さんの祖父が2012年に他界したことにより、手元には形見として2台のポーターバンが遺された。 古谷さん: 2011年に祖父が免許返納したことにより、「弐号機」も僕の名義となりました。2012年に祖父は他界しました。 2台とも「形見」となったわけですが、色や細部に違いはあれど同じポーターバンです。つい「初号機」ばかり乗ってしまい、「弐号機」は気がつけばバッテリー上がりを起こしていることもしばしば。維持していくにもどうしたものかと思案していたところ、知人を介して「ポーターバンを譲って欲しい」と、一人の青年が志願してきたのです。 彼はイベントで、クルマ仲間を介して紹介されました。ポーターバンに乗りたい動機を尋ねてみると、「幼い頃、祖父がこれと同じ黄色ナンバーで青色のポーターバンに乗っていて…」と、どこかで見聞きしたような動機でした(笑)。年式、グレードまで同じであることも含めて、ぜひとも譲って欲しいとのことでした。 メンテナンス面も、彼と共通のクルマ仲間の協力があれば安心かなと判断して、「弐号機」を彼に託す事に決めました。引き取りの時は、彼の祖父も立ち会い、共通のクルマ仲間たちのサポートを受けながらも自走で隣県に巣立って行きました。 巣立って行く当日はやはり名残惜しくて、途中までポーターバンに乗って見送りましたね。 ▲「弐号機」の新オーナーとは今も交流が続く。「弐号機」も快調だという[写真提供/古谷啓通さん] ■オリジナルを維持するより「公道現役」でいること ──ポーターバンを維持していく上で「フルオリジナルの維持にはこだわらない」という古谷さん。純正、他車種、社外品を流用してのモディファイも施している。 古谷さん: ポーターは商用車なので「実用こそ現役の証」と考えています。なので、モディファイのテーマは「実際の生産終了後ももしポーターバンが継続生産されていたとしたら?」と、「技術者だった祖父がこの改良を良しとするか」です。オリジナルイメージを崩さないことを心がけ、合法の範囲でモディファイしています。 例えば、ステアリングは仲間から譲っていただいた、マツダの限定車「∞(アンフィニ)」用のmomoステアリングに。 車内側のドアノブ等は内装色に合わせて550cc時代のポーターキャブ用に。シートベルトは装着性を考えてELR式に。ハンズフリーフォンにも対応しています。 ▲サバンナRX-7(FC型)やカペラなどの限定車∞(アンフィニ)に純正装着されていたmomo製のステアリング ▲ポーターキャブのドアノブと持ち手を流用。レギュレーターハンドルは流用できなかったため、ブラックの純正品を色を合わせて取り付けている 古谷さん: 最近、丸目ヘッドランプにしました。光軸・光量ともに今の規準にあわせづらく、また、部品供給状況の悪化によって車検対応が厳しくなってきたため、純正のシールドビームをH4のバルブが使える汎用性のあるものにしました。 ただし、旧車らしさを求めて凸レンズにこだわっています。もしポーターが継続生産されていたら、コストダウンの結果、専用品だった純正シールドビームから、丸目の汎用ヘッドランプに替わっていたのではないかと(笑)」 ▲ヘッドランプは、同じマツダ車用のものを流用。もちろんオリジナルにも戻せる ▲12インチホイールはクルマ仲間から譲り受けた。「とあるクルマに付けるために注文された特注品」とのこと ▲ボディ修復時に復刻してもらった「マツダ」のデカール(右テールランプ横)や、商売繁盛を願う、地元稲荷神社の鳥居ステッカー(リヤガラス左上)も、商用車アピールには欠かせない ▲当時マツダ車を新車で買ったら付いていたオーナー名入りの厳島神社の御守も健在。こうした小物が残っているのも家族ワンオーナー車ならでは ■オーナーに合った「乗り方」まで伝授。頼もしい主治医の存在 ──「実用こそ現役の証」にこだわる古谷さん。使い勝手も走りも「実用性重視」の方向にチューニングしている。このようなチューニングをはじめ、部品交換や修理を行う「主治医」が、メカニックの西栄一さんだ。 古谷さん: 西さんとは2006年に参加したイベントで知り合い、以降頼もしい主治医的な存在です。普段と異なる音や匂い等の違和感、不具合、あるいは「こういう事できないかなぁ」という願望が出ると、必ず相談しています。 ポーターバンは西さんのチューニングによって、以前よりエンジン回転数を落としての80km/hでの巡航ができるようになり、遠方へ行きやすくなりました。その代わり登坂はちょっと苦労しますが、普段乗るのに問題はありません。 さらに、運転技術も教わっています。チューニングに適したシフトタイミングや、ABSのないクルマのブレーキング、シートポジションの重要さも教わりました。西さんと知り合ってから、ポーターバンが快調になっただけでなく「クルマを守ることは人を守ることに繋がる」ということも学びました。 ▲メカニックの西栄一さんはレーシングドライバーの経歴をもち、整備と走りの経験豊富。自身もマツダ シャンテとホンダ T360を所有し、ストックしておいたシャンテの部品をポーターバンに流用することも ──古谷さんは「西さんから『ご臨終』といわれたときがポーターバンの寿命だと思っている」という。いっぽう西さんは「どんなことがあっても直していきたい」と話す。古谷さんと西さんの間には、深い信頼と絆が構築されている。 ▲取扱説明書にある「推奨速度」を参考にしつつ、「この個体がどうしたら走りやすいか」を走行時の状況をふまえて考え、ポーターバンに適した乗り方を心がけているという ■「このポーターでないと駄目なんです」 ──古谷さんにとってポーターバンは、今はどんな存在なのか、あらためて尋ねてみた。 古谷さん: 祖父の形見であり、乳母車であり…もはや家族の一員なんですよ。「高齢車」なので祖父のように足車とはいきませんが、家にいるのがあたりまえで、乗りたいと思った時に乗って出かけられる、代わりのない存在です。 以前、こんなことがありました。ヘッドライトが車検をクリアできず、そのまま車検切れになってしまい、公道を走れない期間が半年ほどありました。 「そこにあるのに、乗って走れない」 あの状況は、僕にとっては耐え難いことだったと痛感しています。例え他のポーターに乗る機会があったとしても、きっと満足できなかったでしょう。ポーターという車種が好きというより「我が家のこのポーター」でないと駄目なんです。 もし、このクルマに乗れなくなったら次のポーターは探さないでしょうね。祖父はポーターに特化していましたが、僕は「我が家のポーター」に特化しているのですよ、きっと。 ■あたりまえに乗り、クルマを通じた繋がりを大切にしたい ──ポーターバンと今後、どう過ごしていきたいかを尋ねた。 古谷さん: 足回りの予防整備を準備中です。もし部品がない場合は、代用品か加工を考えなくてはなりません。仲間にも情報提供してもらったりネットで調べたりしています。 早めのトラブル対策と日常のメンテナンスで、祖父が乗っていたように、これからも「あたりまえ」に乗っていきたい思いがありますね。 ──維持していくうえで、とくに大切にしていきたいことは? 古谷さん: 人との繋がりです。「旧車の維持はおたがいさま」と思っていて、仲間同士の情報共有は本当に大事です。一人でできることは限られますが、オーナー各々ができることや知識を持ち寄り、なんとかしていけたらなと考えています。どんなクルマでもいつかは旧車になりますから。 ──「クルマも家族の一員」と例えられるが、まさに言葉どおりだ。共に仕事をし、家族の節目に寄り添い、新たな思い出を蓄積しながらポーターバンは唯一無二の存在となった。このさき年齢を重ねても、生活様式が変化しても、古谷さんとポーターバンとの付き合い方は変わらない…そんな気がする。「古谷家のポーター」は、今日も快調に走り続けている。 ▲「海の色」のポーターバンがシーサイドロードを走る ■古谷さんの宝物 ──最後に、古谷さんの宝物を紹介したい。ポーターバンを通じて縁のあった方から贈られた品々を見せていただいた。 ▲マイナーゆえにミニカーが存在しないポーターバン。クルマ仲間に木工やペーパークラフトのミニカーをプレゼントしてもらったそうだ ▲ペーパークラフトは仲間のお子さんの手作り。ちなみにそのお子さんは好青年に成長。現在は、共にクルマを楽しむ仲間となっているという ▲「弐号機」を託したオーナーから結婚祝いの御礼として贈られた美しい水彩画 [取材協力/吉備旧車倶楽部] [ライター・撮影/野鶴美和]
日本最古の国産自動車・山羽(やまば)式蒸気自動車が完成してから、2022年5月7日で118年を迎えた。 山羽式蒸気自動車は、岡山県の電機技師・山羽虎夫によって118年前の1904年(明治37年)に製作された10人乗りの「乗合バス」だ。 地元の資産家だった森房三と楠健太郎の依頼で製作。ふたりは輸入され始めたばかりの自動車を目にして乗合バス事業を思いつき、山羽虎夫に声を掛けた。 輸入されはじめた自動車は、国内ではまだ存在を知らない人のほうが多かった。当時の移動手段は馬車が主流だった。そこで、自分たちの手で自動車をつくってしまおうという背景があった。 完成までは約7カ月を要し、1904年5月7日に試走が行われた。表町から新岡山港近くまでの試走コース約10kmを力走したとされる。 しかし、試走コースを完走したものの、タイヤのトラブルが原因で実用化には至らなかった。 当時は空気の入ったタイヤではなく、ソリッドタイヤ(総ゴムのタイヤ)しかなかった。リムとタイヤをボルト締めした部分が膨張して歪んでしまうことがわかり、対処する術がなかったのである。 この偉業を後世に残すプロジェクトが地元・岡山で立ち上がった 去る2022年5月7日、岡山県で「国産車第一号自動車の試運転」を記念したイベントが行われた。 山羽式蒸気自動車のレプリカ完成のお披露目を兼ねた記念走行だ。 岡山商科大学附属高等学校自動車科の皆さんによって製作されたレプリカをトラックの荷台に載せ、伴走のクラシックカーとともに試走ルートをたどるという内容。 今回は、レプリカ製作のストーリーとパレードランを紹介しつつ、国産自動車誕生の歴史に、あらためて思いを馳せてみたい。 ▲岡山城の堀端にたたずむ山羽虎夫像(左:北区丸の内)と山羽電機工場跡を示す案内板(右:北区表町3丁目) 「山羽式蒸気自動車」レプリカ製作のあらまし このプロジェクトは、地元の放送局RSK山陽放送が、岡山商科大学附属高校自動車科にレプリカの製作を依頼し、同高校の自動車科設置(2018年)と創立110周年の記念事業として実現したもの。 自動車科の蜂谷和久先生は、以前からレプリカを製作したいという思いを抱いていた。 蜂谷先生:「こちらに赴任してきたばかりの頃、地元のクラシックカー愛好会の方々が開催していた『パイオニアラン』というイベントで山羽さんを知り、技術者としての姿に感銘を受けました。そしていつか、この岡山に模型を飾りたい…という思いを抱き続けてきました。この日を迎えられて大変うれしいです」 立ち上がったのは2018年3月だが、コロナ禍によって中断している。3年生の授業や有志によってコツコツと進められ、このたび4年越しのお披露目となった。 製作に参加した3年生は卒業してしまったが、在校生とこの春仲間入りした新入生とともに、蒸気機関などの細部を仕上げ、秋には完成予定だという。 本物の3分の2スケールで、フレームは県産のヒノキ材、荷台の床はヒノキの間伐材を使用。荷台の塗装はベンガラ塗料と墨を調合した塗料で仕上げている 製作に携わった岡山商科大学附属高校自動車科について 製作に携わった岡山商科大学附属高等学校自動車科の皆さんは、未来の自動車スペシャリストになるべく日々学ぶ。 1年から本格的な実習に取り組み、卒業する頃には3級整備士の取得をめざす。部活では「自動車整備研究部」に所属する生徒がほとんどで、ゼロハンカーやソーラーカーを製作してレースにも挑戦している。 自動車整備研究部のメンバーは、(3年)田口智也さん、福本明生さん。(2年)近藤秀星さん、新田匡さん。(1年)藤本晃生さん、髙橋央さん、野頭七登さん、浅越新弥さん、鮫島聡仁さん、中安悠日さん、日髙瑠巳さんの11人だ。 部員の皆さんに好きなクルマやエンジンを尋ねてみると「三菱 ランサーエボリューションⅢの4G63型」、「三菱 ランサーエボリューションⅨの4G63型」、「ランボルギーニ アヴェンタドール」など、好きな車種やエンジンが次々に飛び出していた。 レプリカ製作の過程 レプリカの製作で参考にした資料は、現存する当時の写真1枚のみ。その写真を基に時代考証した当時を蜂谷先生は振り返る。 蜂谷先生:「明治27年に輸入されていたのはアメリカのロコモービルくらいしかないようなので、それを参考にしたと思われます。ロコモービルと山羽式蒸気自動車のシャシー構造は酷似しているからです。 石川県自動車博物館に展示されている実物も、夏休みを利用して生徒たちと見に行きました。シンプルな構造で、本校で取り組んできたソーラーカーやゼロハンカー製作のノウハウを生かせると思いました」 ▲鋼材を使って複製したボイラーを塗装する自動車科の製作チーム[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] 当時の技術を尊重しながら製作された 山羽式蒸気自動車は溶接技術や電動工具を使わず、ほぼ手作りされている。 そんな時代背景を考慮して当時の技術で製作を考えていたが、“現代っ子”には到底無理だとわかり、溶接や電動工具をフル活用することにした。 電動工具がほぼない時代に創意工夫を凝らして、よくこれだけの自動車を完成させたものだと、技術者としてのすごさや執念を肌で感じる時間でもあったという。 木製フレームは釘などをできるだけ使わず「ほぞ」と呼ばれる木組みでつくられている。木工の技術はネットの情報で学び、事前に練習を重ねて臨んだ。 シャシーフレームは、鋼管やバイクの部品を流用して製作されている。リーフスプリングもボートトレーラー用のものを組み合わせるよう、ばねメーカーに加工を依頼した。 駆動方式は「FR」とされているが? 山羽式蒸気自動車の駆動方式はFR、デフ付きのチェーン駆動といわれているが、実際に製作してみて蜂谷先生はこう振り返る。 蜂谷先生:「山羽式は『蒸気機関』のためフロントに蒸気ボイラーがあり、動力を生み出すシリンダー(ピストン)は車体下に設置されています。 現在のエンジンとは違い、ボイラーとシリンダーが分離しているため、何をもってエンジンとするか不明です。動力をつくり出すシリンダーをエンジンとするなら、FRよりMRが適切ではないかと思います。山羽式の場合は、解釈のしかたで何とでも言える気がします」 ▲本来はケヤキ材だがレプリカは県産のヒノキ材を使用[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] ▲記念走行の当日、伴走車オーナーの皆さんが「面取りも丁寧で、手ざわり抜群!」と驚いていた ▲ボートトレーラーのリーフスプリング(上)と加工後(下)[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] ▲鋼管を使って部品を製作[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] ▲シャシー構造はアメリカのロコモービルを参考にしたといわれる ▲ソリッドタイヤは弾力がないのが特徴。レプリカでは自転車のチューブを使用 「あの日」を追体験、試走ルート記念走行 記念走行は、午前10時半に山羽電機工場跡地(新西大寺町商店街)を出発。 三蟠(さんばん)港跡記念碑前までの試走ルートをパレードラン。1904年の試走日とほぼ同じ時間帯に走行した。 山羽式蒸気自動車のレプリカを荷台に載せ、先頭を走るのは日産 ホーマー。 今春公開された映画「とんび」で登場している個体そのものだ。オーナーの樋口純一さんはイベント以外にも実用車としているそうで、農機具を運ぶこともあると話す。 ▲今も現役!1973年式なのでプリンス自動車が日産と合併後のモデルだ 新西大寺町商店街の山羽電機工場跡へ 山羽虎夫の工場が建っていた、表町3丁目の「新西大寺町商店街」を自動車科の皆さんに押されて進む山羽式蒸気自動車のレプリカ。 すれ違う通行人が何事かと振り返る。当時、沿道が大勢のギャラリーで埋め尽くされていたと伝わっている。こんなふうに注目を浴びていたのだろう。 ▲試走当日もこのように工場を出発したのだろうか ▲山羽電機工場跡地をめざしてゆっくりと進む山羽式蒸気自動車のレプリカ ▲工場跡地に到着 118年前と同じ道を名車たちとともに走る 西大寺町商店街を出発し、京橋から旭川の土手道を走ってゴールとなる三蟠港跡記念碑前までのパレードランが行われた。 レプリカを載せたホーマーを先頭に、昭和を中心とした四輪・二輪の名車たちが伴走した。 ●今回伴走した名車およびオーナー 富士重工 ラビット S301(二輪)(1968年式): 齋藤孝志さん 富士重工 ラビット S301 B2(二輪)(1965年式):松永知行さん 富士重工 ラビット S72(二輪)(1958年式):岡雅宏 さん スズキ キャリィ: 森下泰伸さん スバル 360 SUPER DX(1969年式): 長町征一さん ホンダ Z(1974年式): 多児直宏さん マツダ シャンテ(1972年式): 西栄一さん マツダ ポーター バン(1976年式): 古谷啓通さん 目黒製作所 Z-7(二輪)(1958年式): 岩田龍雲さん 目黒製作所 メグロジュニア S-8(1958年式): 嵯峨涼太さん ▲山羽虎夫の銅像前を通過する[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] ▲伴走する四輪の名車たち。(右から)ホンダ Z、マツダ シャンテ、マツダ ポーター バン[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] ▲伴走する二輪の名車たち。山羽虎夫は自動車の経験を生かし、のちに自動二輪車をつくりあげている 118年前の面影を残す、旭川土手沿い パレードランのハイライトとなるのが、旭川沿い土手にさしかかったころ。 この辺りの風景が、118年前の面影をもっとも感じられるポイントではないだろうか。土手沿いを伸びる道は砂利道で、山羽式蒸気自動車のソリッドタイヤを一層痛めつけたことだろう。 ▲旭川の土手沿いに伸びる道。118年前は砂利道だった ▲三蟠港跡に到着するホンダ Zとスバル 360[写真提供:岡山商科大学附属高等学校] 三蟠軽便鉄道の歴史と国産自動車第一号の歴史を深める 出発から約20分で、ゴール地点の三蟠港跡記念碑前に到着。近隣に住む方々から熱烈な歓迎を受けた。 ここはかつて、大正から昭和初期にかけて旭川に沿って通っていた「三蟠軽便鉄道」の起点でもある。駅舎でもあった釣具店には、三蟠軽便鉄道を今に伝える資料館が併設されている。 山羽式蒸気自動車の歴史、三蟠軽便鉄道の歴史を深める貴重なひとときとなった。 ▲「五月晴れの下、山羽さんと対話ができた気がします」と蜂谷先生 ▲明治天皇が三蟠港から岡山入りをしたことを記念した「明治天皇上陸記念碑」前で、二輪の名車たちとパチリ 取材後記 118年前の「あの日」を追体験できた気がした。 プロジェクトに携わった皆さんの「熱い想い」を感じた。技術や道具が乏しい時代に29歳の若さで自動車をつくりあげ、走らせた情熱を受け継いでおられた。 名車が後世に伝えられるように、この偉業も伝えていかなければと、あらためて強く思った。 そしてこの媒体“第一号”の記事が「国産車第一号」の話題ということにシンクロニシティを感じる。ウェブ自動車マガジン「旧車王ヒストリア」を執筆陣のひとりとして、精一杯盛り上げていきたい。 [取材協力]・岡山商科大学附属高等学校・伴走車オーナーの皆様 [ライター・撮影/野鶴美和]